第六◯話 架け橋
同日、秦良玉は沈雲英と会っていた。二人もまた、今を逃せば暫く会えないということを知っていたのだ。
雲英は自分が指揮官となりその苦労を知った上で、同性でそれをこなす良玉を尊敬していたのだ。
良玉は、兄が戦死したあとに自分を受け入れてくれた恩人の沈至緒に「娘の先生として手本になって欲しい」と頼まれたため、義理を果たそうとしていた。
良玉は人を育てる基本であるアメとムチを用いて彼女を育てようとした。それは思春期の雲英にかなり影響を与えていて、彼女が周りと同様に劉へ降伏を促したのも、彼女の影響だった。
自信がなくやさぐれる彼女に、良玉は持ち前の知識で精一杯褒めた。
「指揮官なんて、本当にウチで良いのかって今でも不安になる。ウチは、今までの人生を頑張ってこなかった。頑張ってるって思ってたけど、全部違ったって今ではわかる」
雲英は憔悴に近いヘコみ具合だった。
「パパやママ、周りのみんなに甘えてたもん。頭もよくないし、なんか人より際立つ能力があったワケでもない。なんでウチなんだろう……」
「雲英さんはこの言葉をご存知ですか? 『人之賢不肖は、譬えれば鼠の如し、自から在る所に耳』」
雲英は当然知る由もない言葉に、内心溜め息をついた。しかし良玉の穏やかさ、そして彼女のこういう知的で少々めんどくさい性格を知っていたので、彼女は心構えができていた。
「これは初めて我ら漢民族の統一国家を築いた「秦国」の丞相、李斯の言葉です。意味はこうです。『人が賢明かどうか等は、あくまでその場所での評価。つまり、その人の良し悪しは環境次第で変わる』ということです」
雲英は拍子抜けした。お堅いことを言われるのかと思っていたら、とてもわかりやすいことを言われたからだ。彼女は「めっちゃ良い事言うやん」と、アホで子供らしく、そして純粋な感想を抱いた。
それから彼女は、自分が唖然とするほどの衝撃を受けている事に気づいた。恋やエロとは違うタイプの、初体験の衝撃だ。彼女は「感銘を受ける」という言葉の意味を、生まれて初めて理解した。
こんな経験をさせてくれた良玉に感謝した。そして「秦国」という聞いたこともない古の国家と、その丞相というよく知らない役職らしきものを務める「李斯」という人間を忘れないようにしようと、そう心に誓った。
それから彼女は、一息つくために飲み物を口に含んだ。手のひらの硝子の器は青玉のように青く光輝き、まるで工芸品のようだった。似た様な器を、彼女は癇癪を起こして、衝動に身を任せて幾度となく破壊して来た。
夜はむしゃくしゃする。だが今はまったくそんな気は起きず、ただ改めて見つめたその硝子の器に見惚れた。美しさは心境次第で変わるのだとそう思った。そのくらい、今の彼女は穏やかで落ち着いていた。
神妙な気持ちにさえなったが、しかし口に含んだ梅を舌の上で転がしていると、気分は穏やかさを保ったまま現実に戻ってきた気がした。今まで通りの彼女らしさを取り戻したのだ。
「雲英さんは、自分に能力がないとか頑張ってないとか嘆いていますが、それはあくまでこれまでの話。今となっては、周りの人々や起きる出来事も違う。こんな今の状況で、あなたは必死でお父様を継いで働かれた。そして見事に役目を果たしたのですよ?」
そういうと良玉は微笑みこう言った。
「どうして頑張っていないと言えるのか、どうして能力がないと言えるのか、それは『一重』に自信がないからだと思いますよ」
「『一重』に、自信がないから……。確かに二重じゃないけどうちは奥二重……ってそうじゃないか」
それから彼女は梅を飲み込み、緊張感をもって彼女に答えた。そこにあったのは卑屈さではなく、謙虚さだった。
「それは違うよ良玉さん。ウチは周りに支えられただけだよ。だって殆ど、配下が指揮してたし」
「なら、嘆かなくてもいいですね。配下が勝手に指揮してくれるなら、あなたは堂々と構えていればそれだけでいいのです」
彼女は雲英が会話への集中力をなくしたのだと思い、長すぎたのかと反省した。そして表情を崩して、そう言った。それから紅玉のように光輝く硝子の器を手に取り、麗らかな雰囲気で中身を飲み干した。
その様子を見た雲英は、肩の荷を下ろした。緊張感を持たなくても良いのだと安心して、笑顔になった。
「構えていればそれだけでいいとか、冗談はやめてもろて」
「冗談じゃありませんよ。あなたの存在が言わば扇子の要のように、周りを纏めているのですから」
どうやら冗談ではなかったらしい。ほんの一瞬だけ、上司というより友達に近い感情を抱いたが、どうやらそれは勘違いだったようだ。
雲英は、一切ノリが合わなかった良玉に対して、内心「マジ草」と呟いた。しかしそれは彼女の性格であって、決して馬鹿にした訳ではなかった。
雲英は時々、戦いのあとに良玉と会っていた。彼女が自由時間を謳歌しているあいだも、良玉はいつも難しい書き物を読み耽り、勉学に励んでいた。
いつも違う内容のものを読んでいたので、彼女の学習欲の高さやその幅の広さに、雲英はいつも驚いていた。教養は大切なものだが、良玉ほどの熱意をもつ者も少ないだろう。
雲英はその姿を見て、少し勉学に興味を抱いた。
良玉がそこまで熱中するのはなぜか、もしかして見方を変えれば魅力的なものに化けるのか、彼女はそういった関心を寄せていった。
これは良玉が予想した通りだった。自身が楽しむ姿が必ず人の興味を引くのだと、彼女は知っていたのだ。だがそれを抜きにしても、彼女はただ単に勉学が好きだった。
良玉にとってそれは、娯楽や自己肯定感を高める安心材料とも同義であった。なぜならそれは、彼女が彼女自身に課した彼女のすべきこと、あるべき姿だからだ。
ある日、雲英は良玉が読んでいる書き物の内容を盗み見たことがあった。するとそれはどこかファンタジーのような内容だった。
難しい顔をして娯楽を堪能しているのだと思った雲英は、良玉のギャップに惹かれて、それまで感じていた壁を越える親しみを覚えるようになった。
それから二人は、流行りのファンタジーのゲームを楽しむなどして、親交を深めたりもしていた。しかし、それもしばらくはできなくなる。そのことを二人は少し寂しく思った。
そして二人は別れ、その足で雲英は楊羽と会った。
この二人も、もしかすれば離ればなれになるかもしれない……。そういう思いで会った。二人は雑談をした。
「指揮官」と呼ばれるようになっても、彼女自身はなにも変わらない。いつも通り「エロけりゃモテる」とか、「高身長イケメンに抱かれたい」「ウチは可愛い? 大丈夫そ?」とか、そういう下世話な話をして楊羽を困らせた。
いつも通りの下世話な会話に彼女の心は、この戦時中という熾烈な時代にあることを忘れ穏やかになれた。
しかしその言葉を盗み聞きした世話役は「まったく、貞操観念のない卑しい獣めが……」と陰口を叩いていた。
韓はそんな風に行ったりきたりしてる雲英を見かけた。雲英は韓に気づくと、ぎこちない敬礼をし、去っていった。それを微笑ましく思った彼は、天を見上げて呟いた。
「沈殿、ご息女は立派に成長しておられるぞ……。今や、競争ばかりだった我ら軍閥内のあらゆる部隊を繋ぐ、架け橋のようになっておる」
死した仲間の娘が成長したことを、まるで自分のことのように誇らしく思い、黄昏ていた。「西」から照らす「夕陽」は去り行く仲間の「最後の光」で、「東」の「夜空」は去り行く「後ろ姿」に思えた。彼は心穏やかに、その死した仲間の冥福を祈った。
するとそれを聞き付けた彼女が突然、半笑いで声をかけてきた。
「いや韓さん誰に話しかけてるん」
亡き沈至緒に話しかけているなど、理解されるはずもない。「半信半疑ながらこの声が届けば良いと思って言葉にしたのだ」等と、そんなロマンチックなことは言えはしない。
韓は彼と競争を越えて、熾烈な功績の奪い合いをする関係だった。軍を編成する際にその二人の関係をしった劉は、反発されては困るので一方は前線で一方は劉本軍の側で敵の牽制役にした程だった。
だが、今となってはそれも良い思い出だった。だからこそ、その娘である雲英に敬語を使われずとも、腹も立たず、親心に近い感覚を抱いていた。
「この娘は大器になる。私が守ってやろう」
韓はそう思った。
雲英が声をかけてから数秒間、沈黙が続いた。その側の近衛兵士らから見れば、韓はムードをぶち壊されて恥をかいており、とても気まずい感じがあった。
雲英はわざらしく「あ、なんかすみません」と妙に丁寧に謝罪し足早に立ち去ろうとしたが、韓に引き留められた。
彼女はそこでさっき恥をかかせたことを省みずに、ニヤニヤしながら嘘のように饒舌になり、叱責の可能性から逃れた。
「西側」に立つ韓は「恥ずかしさ」から「赤く」なっているようで、「東側」に立つ雲英は、その「狡猾さ」や「意地の悪さ」が現れているようだった。




