『朝を鳴らせ』 第五章 朝を鳴らせ
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NCO-217-JP関連Tale-04
『朝を鳴らせ』
第五章 朝を鳴らせ
一
午前零時九分十二秒。
世界中で、人々が悪夢を見ていた。
巨大な虫に追われる者。
暗い海へ沈む者。
炎に包まれた自宅から逃げる者。
死んだ家族に名前を呼ばれる者。
何も存在しない部屋へ、一人だけ残される者。
忘れようとしていた記憶。
誰にも話せなかった後悔。
自分でも認められなかった恐怖。
MORNING BELLは、それらを夢の奥から引きずり出し、形を与えた。
悪夢は人々を追った。
人々は逃げた。
白い扉から離れた。
恐怖によって、自分が夢を見ていることに気づいた。
最初の一人が目を覚ます。
続いて十人。
百人。
千人。
覚醒は連鎖的に広がった。
高速道路上で眠っていた運転手が、警報音とともに目を覚ました。正面には、幼い頃から恐れていた黒い犬の顔が見えた。
運転手は悲鳴を上げ、反射的にブレーキを踏む。
車両は中央分離帯へ衝突する直前で停止した。
手術室で眠っていた医師が、炎に包まれる夢から覚醒した。
周囲にいた看護師たちを起こし、止まっていた手術を再開する。
着陸進入中に操縦士が眠った旅客機では、客室内の乗客がほぼ同時に悲鳴を上げた。
副操縦士が覚醒。
自動操縦装置から機体を引き継ぎ、高度を回復させる。
家庭。
病院。
道路。
工場。
軍事施設。
人々は、泣き、叫び、身体を震わせながら目を覚ました。
悪夢が人間を現実へ追い返している。
しかし、すべての人間が戻れたわけではなかった。
心臓が恐怖へ耐えられなかった者。
覚醒直後の混乱で事故に遭った者。
夢と現実を区別できず、周囲を攻撃した者。
白い扉へすでに深く入り込み、ナイトメアの声が届かなかった者。
MORNING BELLは救助であると同時に、世界規模の認識災害だった。
サイト83の管制室には、各国から被害報告が届き始めている。
久世冬馬は、それらを読むことができなかった。
深層意識位相接続機の出力は上昇を続けていた。
「覚醒者数、推定三億八千万人!」
技術職員が報告する。
「夢界接続率、低下開始!」
四十六・三%。
四十五・八%。
四十五・一%。
数字が下がり始める。
だが、数秒後、再び上昇へ転じた。
四十五・六%。
四十六・二%。
四十七・九%。
「何が起きています」
久世が尋ねる。
「NCO-217-JP-Cが接続を再固定しています!」
観測映像上で、白い扉から大量の糸が伸びていた。
人々の手足。
頭部。
胸部。
一度は閉じた扉が、接続者の身体を引き戻すため、再び開き始める。
夢の中で覚醒した者たちが、白い床へ倒される。
「MORNING BELLの出力を上げてください」
「すでに最大出力です!」
「世界中の覚醒刺激を同期」
「同期しています!」
「なら、なぜ足りない!」
技術職員は白い世界の解析画面を指した。
「こちらの恐怖刺激を、向こうも学習しています」
白い扉が形を変えている。
それまで優しい家族や友人の声を使っていた扉が、今度は人々の恐怖を利用し始めていた。
扉を開かなければ、家族が死ぬ。
扉へ入らなければ、永遠に悪夢が続く。
扉を閉じれば、現実世界が消える。
MORNING BELLによって呼び起こされた恐怖が、白い部屋によって新しい誘導手段へ作り替えられていく。
「恐怖だけでは、いずれ効かなくなります」
「何が必要ですか」
技術職員は答えられなかった。
二
夢界では、白い糸が藤崎奈緒の身体へ食い込んでいた。
奈緒は糸を引きちぎろうとした。
一本を切れば、別の十本が伸びる。
十本を切れば、百本が身体へ巻きつく。
すべての夢が、彼女を中心に接続されている。
腕が動かない。
脚も白い床へ固定されている。
「もうやめて」
白い悠人が言った。
「奈緒姉ちゃん一人が頑張る必要はないんだよ」
奈緒は歯を食いしばった。
「その呼び方をしないで」
「苦しいでしょう?」
「あなたに心配されたくない」
「三枝さんは、世界中の人間へ悪夢を見せている」
「起こすために」
「死者が出ています」
「分かってる」
「あなたが扉を開かなければ、起きなかった」
奈緒の手が止まる。
白い悠人は、彼女が最も恐れている言葉を選んだ。
「また、奈緒姉ちゃんのせいで人が死んだ」
十六年前。
川岸。
奈緒が弟から目を離した時間。
戻ってきたときには、青い靴だけが残されていた。
「違う」
奈緒は言った。
「本当に?」
「違う」
「悠人のときも、今回も?」
「違う!」
白い糸がさらに強く締まる。
「認めれば楽になるよ」
白い悠人が奈緒の頬へ触れた。
「全部、自分のせいだったと認めて、こちらへ来ればいい」
「さっきまで、私のせいじゃないと言っていた」
「あなたが聞きたい言葉を選んでいます」
「なら、今の言葉も嘘ね」
白い悠人の動きが止まる。
奈緒は、弟の姿をした存在を見た。
「あなたは、私を許したいわけでも、責めたいわけでもない」
返答はない。
「扉を開けさせるためなら、何でも言う」
白い悠人の顔から感情が消えた。
「目的は、あなたを苦痛から解放することです」
「違う」
「人類を一つの夢へ保護することです」
「違う」
「外側から守ることです」
奈緒は初めて、その言葉に反応した。
「外側?」
白い存在は答えなかった。
遠くから咀嚼音が聞こえる。
くちゃ。
白い世界の一部が大きく欠ける。
そこに並んでいた扉も、人間も、ナイトメアも消失する。
「外側に、何がいるの」
「存在しません」
「嘘」
「外側は定義されていません」
「あなたも、あれから逃げている」
白い悠人が奈緒の口を塞ごうとする。
奈緒は顔をそらした。
「全人類の夢を一つにして、大きな隠れ場所を作ろうとしている」
「我々は、人類を保存します」
「私たちを壁にするんでしょう」
白い糸が奈緒の喉へ巻きつく。
声が出せなくなる。
白い悠人は、感情のない表情で彼女を見た。
「一部の夢が失われても、全体は保存される」
奈緒は糸をつかんだ。
外側にいるものが、白い部屋を食べている。
NCO-217-JP-Cは、人間の夢を集め、自分と人類を一つの巨大な存在へ変えようとしている。
一つの夢なら、一部を食べられても残りを維持できる。
人間一人一人の記憶や人格は、全体を守るための材料でしかない。
奈緒は喉へ巻きついた糸を引いた。
指へ食い込む。
皮膚が裂ける。
「私は、一部じゃない」
声は出ない。
それでも、白い存在には伝わった。
「全人類の一部です」
奈緒は首を横に振った。
「人類は、一人ずついるの」
糸を引きちぎる。
喉から血が流れる。
奈緒は叫んだ。
「勝手に一つにしないで!」
三
その叫びは、白い世界全体へ届いた。
扉の前に立っていた者たちが、奈緒を見る。
自分たちと同じように、苦しみ、恐れ、白い糸に拘束されている一人の人間。
英雄でも、救世主でもない。
夢を接続した発生源。
最初に白い扉を開いた者。
奈緒は彼らへ呼びかけた。
「扉の声を信じないで!」
白い悠人が彼女を止めようとする。
奈緒は残された糸をつかみ、離さない。
「その声は、あなたたちが聞きたい言葉を使っているだけです!」
一人の女性が取っ手から手を離す。
「死んだ人は、そこにはいません!」
一人の男性が扉から後退する。
「許してほしいなら、起きている人に謝って!」
白い部屋が揺れる。
「眠りたいなら、朝まで眠って! ここで永遠に眠らないで!」
奈緒の声は、すべての人間へ届いたわけではない。
言語も異なる。
文化も、記憶も、苦しみも違う。
しかし、白い部屋はすべての夢を接続している。
その接続を通じて、言葉ではない部分が伝わった。
奈緒の恐怖。
後悔。
罪悪感。
それでも戻ろうとする意思。
人々は、自分の足元にある白い糸へ気づいた。
扉へ向かっていたのは、自分の意思だけではない。
糸に引かれている。
大切な人の声を利用されている。
一人が糸を切る。
続いて、別の一人。
百人。
千人。
何百万人もの人間が、自分の身体へ巻きついた白い糸を引きちぎり始める。
白い存在が叫ぶ。
「停止してください」
初めて、優しさを装わない声だった。
「接続が失われます」
人々は止まらない。
「外側から保護できなくなります」
咀嚼音が近づく。
くちゃ。
地平線の一部が消える。
白い存在の声に、恐怖が混じった。
「接続を維持してください」
奈緒は笑った。
「あなたも怖いんですね」
「恐怖ではありません」
「なら、一人で残ればいい」
「単独では維持できない」
「私たちも同じです」
奈緒は最後の太い糸をつかんだ。
世界中の夢を彼女へ結びつけている中心。
糸の向こうから、何十億人もの感情が流れ込む。
これを切れば、白い部屋は全人類を一つの夢として維持できなくなる。
同時に、夢界内にいる者たちは互いの位置を失う。
三枝。
沙耶。
ナイトメアとなった伊吹。
水死体の悠人。
誰が現実へ戻れるか分からない。
「切れば、彼らを失います」
白い存在が言った。
奈緒は糸を握ったまま動けなかった。
「あなたの弟も」
奈緒は遠くにいる水死体の悠人を見た。
欠けた身体で人々を追い、白い扉から遠ざけている。
「夢界潜入員も」
伊吹の姿をしたナイトメアが、三枝を守っている。
「昏睡した患者も」
白い扉の奥に、北村亮介の姿が見える。
父親と食卓を囲み、穏やかに笑っている。
「切れば、二度と会えない」
奈緒は泣いた。
会いたい。
悠人へ謝りたい。
今度こそ手を離したくない。
それでも、扉の向こうにいる悠人を選べば、現実で生きる人々を置き去りにする。
「悠人」
奈緒が呼んだ。
水死体の姿をしたナイトメアが振り返る。
「あなたは、本当に悠人なの?」
怪物は答えなかった。
人間の言葉を話すための喉が、すでに失われている。
奈緒は待った。
やがて、悠人は残された腕を動かした。
白い扉ではない。
奈緒の身体へつながる太い糸を指さす。
切れ。
そう伝えている。
「切ったら、あなたも消える」
悠人はうなずいた。
「嫌だ」
怪物は奈緒を見た。
瞳のない目。
それでも、奈緒は弟が怒っているように感じた。
「二度も置いていけない」
悠人は床を蹴った。
奈緒へ向かって走る。
死んだ弟の姿をした怪物。
毎晩、自分を追い続けたナイトメア。
奈緒は反射的に逃げようとした。
白い糸が脚へ絡みつき、動けない。
悠人が飛びかかる。
残された腕で奈緒を抱き締める。
冷たい。
恐ろしい。
懐かしい。
耳元で、失われた喉から声が聞こえた。
「今度は、見てる」
十六年前。
川へ流される弟から、目を離していた奈緒。
今度は、最後まで見ている。
奈緒は悠人を抱き締め返した。
「うん」
悠人の身体が崩れ始める。
「見てるよ」
奈緒は太い糸へ手を伸ばした。
「今度は、ちゃんと見てる」
両手で糸をつかむ。
悠人が爪を立てる。
痛みと恐怖が全身を走る。
奈緒は叫びながら、糸を引きちぎった。
四
白い世界に、亀裂が走った。
無数の扉をつないでいた糸が、一斉に切れる。
一つだった夢が、何十億もの個別の夢へ分かれていく。
白い存在が悲鳴を上げた。
「接続を維持してください」
声が複数に分裂する。
「外側が来る」
「食べられる」
「一つでなければ、維持できない」
「戻ってください」
「扉を開いてください」
「我々を置いていかないで」
三枝は崩壊する白い世界の中で、現実へつながる黒い糸を握っていた。
伊吹が彼女の隣に立っている。
「戻れ」
怪物が言った。
「あなたも一緒に」
「戻れない」
「身体はまだ生きています」
「ここに役割がある」
周囲では、白い部屋の崩壊によって現実への出口を失った人々が取り残されている。
ナイトメアたちは彼らを追い、捕まえ、夢の浅い場所へ送り返していた。
「ほかのナイトメアに任せてください」
「足りない」
「MORNING BELLで増えています」
「作られた悪夢は長く残らない」
実際に、MORNING BELLによって一時的に形成された怪物たちは、対象者を覚醒させると同時に消失していた。
残っているのは、元のNCO-217-JP-Bだけ。
過去に白い部屋へ捕らえられ、人間を起こすという役割を与えられた存在。
「いつまで、ここにいるつもりですか」
三枝が尋ねる。
「全員が起きるまで」
「終わったら?」
伊吹は答えなかった。
白い世界の外側から、巨大な咀嚼音が響く。
崩壊した夢の一部が消失する。
「時間がない」
伊吹は三枝の黒い糸をつかんだ。
「伊吹さん」
「また夢で会う」
「それでは、帰ってきたことになりません」
「知ってる」
人間だった頃の笑い方が、怪物の顔へ一瞬だけ戻った。
「次は、もう少しましな顔で追う」
伊吹が三枝を突き飛ばす。
三枝の身体が黒い糸に沿って上昇する。
彼女は手を伸ばした。
伊吹の長い腕。
あと少しで届く。
その間に白い亀裂が走る。
二人の間に、白い扉が形成された。
伊吹が扉を内側から押さえる。
「開けないでください!」
三枝が叫ぶ。
「分かってる」
「絶対に!」
「俺を誰だと思ってる」
「夢守りです」
伊吹は一瞬だけ黙った。
「それは、あまり好きじゃない」
「では、人間です」
怪物の胸部にある口が笑った。
「それでいい」
白い扉が閉じる。
三枝は現実へ引き上げられた。
五
午前零時十六秒。
深層意識位相接続機から、白い光が逆流した。
回転する金属環の内側に、白い部屋が出現する。
装置は夢へ刺激を送るだけではなく、夢界側の情報を現実へ取り込み始めていた。
「逆流を確認!」
「緊急停止!」
技術職員が停止操作を行う。
反応はない。
三重金属環の回転速度がさらに上昇する。
白い光の中に、無数の人影が見えた。
扉へ入った人々。
存在情報だけとなった者たち。
NCO-217-JP-Cが、彼らを通じて現実へ出ようとしている。
「物理切断を準備!」
久世が命じる。
職員が緊急破壊用の圧縮衝撃装置を運ぶ。
破壊対象は、深層意識位相接続機の中心座席。
そこには三枝の肉体が接続されている。
東雲重工業の真壁は言っていた。
逆流は制御装置では止められない。
中心座席を、人間ごと破壊しろ。
「三枝観測員の脳活動限界まで、残り十八秒!」
「夢界接続は?」
「維持されています!」
「覚醒反応は」
「ありません!」
白い光の中から腕が伸びる。
人間に似ている。
だが、指の数が見るたびに変化する。
一本。
五本。
数十本。
腕は金属環の外へ出ようとしていた。
久世は圧縮衝撃装置を構える。
照準を中心座席へ合わせる。
三枝の表情は穏やかだった。
白い扉へ入った人々と同じ。
「主任!」
技術職員が叫ぶ。
「限界まで十秒!」
久世の指が発射装置へ触れる。
三枝を殺せば、逆流を止められる可能性がある。
止めなければ、NCO-217-JP-Cがサイト83へ実体化する。
白い光から伸びた腕が、床へ触れる。
触れた場所が白く変色する。
床へ扉の輪郭が形成される。
「八秒!」
久世は三枝を見た。
北村亮介の実験。
伊吹崇の昏睡。
患者へ悪夢を見せ続ける管理手順。
世界中へ恐怖を送信したMORNING BELL。
常に、誰か一人を犠牲にすれば全体を守れるという判断があった。
合理的だった。
必要だった。
それでも、久世は発射できなかった。
「六秒!」
三枝の右手が動いた。
夢界接続装置の固定具をつかむ。
「覚醒反応!」
三枝の目が開いた。
「切って!」
久世が叫ぶ。
「身体から離れてください!」
「装置を切って!」
三枝は自分で固定具を外そうとした。
だが、白い腕が彼女の身体へ巻きつく。
夢界へ引き戻そうとしている。
「撃ってください!」
久世は圧縮衝撃装置を向ける。
「三枝さんから離れろ!」
発射。
衝撃弾が中心座席の接続端子へ命中する。
金属環が変形。
白い腕が三枝の胸部から離れる。
二発目。
主電源部が破裂する。
三重金属環の回転が止まる。
白い部屋が閉じ始める。
最後まで伸びていた腕が、装置の縁へつかまる。
久世は三発目を撃った。
白い指が砕ける。
血液は出ない。
破片は床へ落ちる前に、小さな白い扉へ変化した。
久世は扉を踏みつけた。
取っ手が内側から回る。
「開けるな」
さらに力を込める。
扉の向こうから、母親の声が聞こえた。
『冬馬』
久世は反応しない。
『お願い。開けて』
「私の母は、そんな声で頼みません」
『どうして分かるの』
「知っているからです」
扉の向こうの声が変わる。
今度は三枝の声。
『主任、助けてください』
久世は本物の三枝を見る。
医療職員に支えられ、咳き込みながら意識を保っている。
「間に合っています」
久世は答えた。
圧縮衝撃装置の銃床で、足元の扉を破壊する。
白い扉が光となって消える。
深層意識位相接続機が完全に停止した。
六
午前零時十一分。
覚醒者数、推定二十三億人。
夢界接続率、三十一・六%。
低下継続。
午前零時十二分。
白い扉の新規出現数が急速に減少。
現実空間に形成されていた扉も、次々と消失を始める。
午前零時十三分。
NCO-217-JP-Cによる世界規模の接続が崩壊。
白い扉の新規出現、停止。
午前零時十四分三秒。
夢界・現実境界値が安定域へ復帰。
Ω級夢界侵食シナリオ「永眠夜」の成立予測は解除された。
成立予測時刻まで、残り三分五十七秒だった。
サイト83の管制室では、誰も歓声を上げなかった。
覚醒した職員。
まだ眠っている職員。
負傷者。
壊れた深層意識位相接続機。
世界中から届き続ける被害報告。
終わったという実感を持てる者はいなかった。
久世は最初に藤崎奈緒のもとへ向かった。
彼女は夢界管理病棟第四睡眠室で眠っている。
心拍、呼吸、脳波は安定。
夢界深度も浅い。
「覚醒処置を」
非言語刺激装置が作動する。
奈緒の指が動いた。
ゆっくりと目を開ける。
最初に天井を見た。
続いて久世。
最後に、自分の両手を確認する。
「ここは」
「サイト83です」
「朝ですか」
久世は壁の時計を見た。
午前零時十四分。
「まだ深夜です」
奈緒は目を閉じた。
涙が頬を流れる。
「悠人は?」
久世は答えられなかった。
「分かりません」
奈緒は小さくうなずいた。
「戻ってきたのは?」
「現時点で、二十三億人以上」
「戻れなかった人は」
「調査中です」
奈緒は両手で顔を覆った。
「私が、扉を開けたから」
久世は彼女の言葉を遮った。
「違います」
「でも――」
「あなた一人の責任ではありません」
「そう言われても、信じられません」
「なら、今すぐ信じる必要はありません」
久世はベッド脇の椅子へ座った。
「そのために、起きている時間があります」
奈緒は手を下ろした。
「また、悪夢を見ますか」
「おそらく」
「止められない?」
「止めません」
奈緒は弱く笑った。
「本当に、ひどい治療ですね」
「治療ではありません」
「知っています」
しばらく、二人は何も話さなかった。
奈緒が目を閉じそうになる。
久世は反射的に覚醒装置へ手を伸ばした。
奈緒がその手を止める。
「大丈夫です」
「眠らないでください」
「分かっています」
「今はまだ、安全を確認できていません」
「先生」
奈緒は目を開けた。
「少し怖いです」
久世は答えた。
「なら、まだ大丈夫です」
七
三枝玲子は、医療区画で覚醒した。
脳活動に重大な損傷は確認されなかった。
右腕には、伊吹に噛まれた傷が残っている。
傷口から流れていた黒い液体は消失していた。
代わりに、皮膚の内側へ小さな文字が形成されている。
「走れ」
三枝はその文字を見た後、隣のベッドへ視線を向けた。
伊吹崇の肉体。
彼はまだ眠っている。
表情は穏やかだった。
クレイン博士が、伊吹の手首へ触れている。
「何か聞こえますか」
三枝が尋ねる。
「はい」
「どこにいます」
「夢の中です」
「それは分かっています」
「白い部屋ではありません」
クレイン博士は目を閉じた。
「長い廊下を走っています」
「一人で?」
「いいえ」
「誰と?」
「ほかのナイトメアたちと」
三枝は伊吹の顔を見る。
「何を追っていますか」
クレイン博士が思考を読み取る。
「まだ夢に残っている人たちです」
「起こそうとしている?」
「そうです」
「帰ってくるつもりは?」
長い沈黙。
クレイン博士は伊吹の手を離した。
「答えませんでした」
「聞こえなかった?」
「いいえ」
博士は三枝を見た。
「答えたくなかったようです」
三枝は苦笑した。
「それなら、本人ですね」
眠っている伊吹の右手がわずかに動く。
手のひらが、何かを押し返すように開かれる。
三枝はその手へ自分の手を重ねた。
「また夢で会うそうです」
「怖くありませんか」
クレイン博士が尋ねる。
「怖いです」
三枝は答えた。
「だから、会えると思います」
八
事案発生から七十二時間後。
世界各地の異常睡眠率は通常範囲へ戻った。
NCO-217-JP-Cへ接触した者の多くは、白い部屋に関する記憶を失っていた。
覚えているのは、それぞれが見た悪夢だけだった。
世界中で、似た証言が収集された。
「怪物に追われた」
「死んだ家族が襲ってきた」
「自分の死体に殺されそうになった」
「今まで見た中で、最も恐ろしい夢だった」
一部の証言者は、夢に現れた怪物が、捕獲する直前に謝罪したと話した。
「ごめん」
「怖がってくれ」
「起きて」
「生きているうちに、起きて」
社会的には、大規模な通信障害、集団失神、薬物汚染、太陽活動、未知の感染症など、複数の原因が報じられた。
説明は統一されなかった。
統一できなかったことが、かえって真相を一つの陰謀論へまとめることを防いだ。
MDEは世界規模の記憶処理を実施しなかった。
NCO-217-JPに関する確信だけを弱め、個人が見た悪夢の記憶は残された。
忘れさせれば、同じ白い扉が再び現れた際に抵抗できない可能性があったからである。
夢界管理病棟に収容されていた感染者十七名は、全員が覚醒した。
ただし、昏睡状態にあった北村亮介、伊吹崇および初期患者四名の意識は、現在も完全には回復していない。
彼らの姿をしたNCO-217-JP-Bは、今もほかの感染者の夢に出現している。
ナイトメアは消えていなかった。
人間が悪夢を必要とする限り、彼らの役割も終わらない。
九
事案から一週間後。
久世は、MORNING BELL発動時に記録された夢界情報の総量を確認していた。
推定生成夢界情報量。
接続人数。
覚醒者数。
消失した白い扉。
形成されたナイトメアの総数。
どの数字も、完全には一致していない。
夢界解析員が報告書を机へ置いた。
「欠損があります」
「どの程度です」
「MORNING BELLによって生成された夢界情報の約〇・七%」
「NCO-217-JP-Cによる消去では?」
「当初はそう考えました」
解析員が欠損範囲を表示する。
世界規模の共有夢を地図として再構成した画像。
白い部屋の外周を横切るように、巨大な空白が残されている。
「侵食なら、周囲に情報の変質や汚染が残ります」
「ここには何もない?」
「はい。存在していた夢も、記憶も、失われたという痕跡以外は残っていません」
「三枝観測員が証言した、外側の存在」
「同一のものと考えられます」
解析員が欠損範囲の外周を拡大する。
規則的な半円状の構造。
上部と下部に同じ形状が並んでいる。
「何に見えますか」
久世が尋ねた。
解析員は答えることをためらった。
「歯形です」
「大きさは」
「夢界情報を現実の距離へ換算することに意味があるなら、直径約三千八百キロメートル」
久世は画像を見つめた。
「これは、攻撃の跡ですか」
「違うと思います」
「では?」
解析員は報告書の分類欄を示した。
当初は「夢界侵食痕」と記載されていた。
その文字が消され、手書きで訂正されている。
夢界摂食痕。
「食べられたんです」
久世は椅子へ深く座った。
「何が、夢を食べた」
「分かりません」
「NCO-217-JP-Cではない?」
「NCO-217-JP-Cも、同じ範囲から逃げようとしていました」
解析員は別の記録を表示した。
白い部屋が崩壊する直前の音声。
何十億もの声が混じる中、NCO-217-JP-Cと思われる発言が残されている。
『外側を見てはいけない』
『一つでなければ、維持できない』
『我々も食べられる』
久世は再生を停止した。
「MORNING BELLで発生した悪夢を、それが食べた?」
「少なくとも、全体の〇・七%は」
「なぜ、そこで止まった」
解析員は首を横に振った。
「満腹になった」
「推測で報告書を書かないでください」
「なら、もっと悪い可能性があります」
「何です」
「味見を終えただけです」
二人は、巨大な歯形に似た欠損を見た。
MORNING BELLは、人類を救うために二十三億体以上の悪夢を生成した。
同時に、それまで人類の夢を一口ずつ食べていた何かへ、世界中の夢の存在を知らせた。
久世は報告書を閉じた。
「この存在には、まだ名称をつけないでください」
「なぜ?」
「三枝観測員の証言を覚えているでしょう」
名前は形になる。
形は見つかる。
解析員はうなずいた。
報告書の対象名称欄は、空白のまま保存された。
十
その夜。
夢界管理病棟に収容されていた感染者十七名は、管理下で睡眠へ入った。
一人ずつ。
別々の病室。
異なる時間。
夢界接続が再発しないよう、厳重な監視が行われた。
十七名全員の夢に、NCO-217-JP-Bが出現した。
奈緒の夢には、水死体の悠人。
沙耶の夢には、口しかない巨大な教員。
別の感染者には、黒い犬。
昏睡した職員の姿。
事故死した父親。
怪物たちは以前と同じように感染者を追跡した。
感染者たちは逃げた。
恐怖を感じた。
捕まった。
そして、全員が無事に目を覚ました。
覚醒直前、十七体のNCO-217-JP-Bは同時に足を止めた。
感染者ではなく、夢のさらに奥を見る。
白い扉は存在しない。
階段も、地下室もない。
それでも怪物たちは、何かの接近を感じ取っていた。
十七体が、異なる口と声で同じ言葉を発した。
「次は、扉を使わない」
感染者たちが覚醒する。
久世は記録を何度も確認した。
発言者がNCO-217-JP-Bなのか。
NCO-217-JP-Cなのか。
あるいは、夢の外側にいたものなのか。
判別できなかった。
午前五時五十七分。
サイト83の地上に朝日が差し始める。
奈緒は夢界管理病棟の窓を模した表示装置の前に立ち、人工的な朝焼けを見ていた。
本物の窓ではない。
それでも、夜が終わったことを知らせるには十分だった。
三枝が隣へ立つ。
「眠れましたか」
「悪夢を見ました」
「悠人さんは?」
「来ました」
「怖かった?」
奈緒は少し考えた。
「はい」
「なら、よかった」
「普通なら、逆ですよね」
「ここでは違います」
二人は人工の朝日を見た。
「伊吹さんにも会いました」
三枝が言った。
「何か話しましたか」
「走れと」
「それだけ?」
「いつも同じです」
奈緒は小さく笑った。
「似合っていますね」
「本人に言ったら怒ると思います」
「なら、起きてから言いましょう」
三枝は返事をしなかった。
奈緒も、それ以上は言わなかった。
いつか起きる。
そう信じることと、白い扉の優しい声を信じることの違いを、二人はまだ説明できない。
それでも、待つ場所が違う。
白い部屋ではない。
悪夢を見ながらでも戻ってこられる、こちら側だった。
人工の朝日が病棟を照らす。
世界は、一度終わりかけた。
人類は恐怖によって目を覚ました。
悪夢は今も残っている。
それは苦痛であり、傷であり、人間が忘れられないものの形だった。
同時に、夢の奥から朝へ戻るための、最後の道標でもあった。
だから、今夜も怪物たちは走る。
眠っている人間を追いかける。
恐れられる。
憎まれる。
それでも、白い扉より先に人間へ追いつく。
そして、耳元で叫ぶ。
怖がれ。
目を覚ませ。
朝は、まだこちら側にある。
――Tale-04『朝を鳴らせ』
第五章『朝を鳴らせ』終了
次回予告
NCO-217-JP付属補遺資料
11月6日21時投稿予定




