↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/84

『朝を鳴らせ』 第四章 私だけでは止められない

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は15分ぐらいで読めます


NCO-217-JP関連Tale-04


『朝を鳴らせ』



第四章 私だけでは止められない



一


午前零時七分十九秒。


MDE統括管理局は、世界睡眠分断手順MORNING BELLの緊急実施を承認した。


承認条件は三つ。


第一に、睡眠者の夢へ送信する情報には、特定の人物、民族、国家、宗教または組織への敵意を誘発する内容を使用しないこと。


第二に、対象者を自傷、他害または現実空間における危険行動へ誘導しないこと。


第三に、Ω級夢界侵食シナリオ「永眠夜」の成立が回避された場合、直ちに送信を停止すること。


久世冬馬は承認書を最後まで読まなかった。


「深層意識位相接続機を起動準備へ」


サイト83の技術職員が封印保管庫へ向かう。


「世界各地のMDE施設へMORNING BELL第一段階の開始を通達。通信、防災放送、携帯端末、医療設備、公共表示装置を可能な限り確保してください」


職員の一人が尋ねる。


「通常の通信設備で、夢の中へ情報を送れるんですか」


「通常なら不可能です」


久世は、白い扉の前にいる何十億人もの人間を映した夢界観測画面を見た。


「今は、向こうが世界中の夢を一つにつないでいる」


「その接続を利用する?」


「感染者第十二例へ恐怖刺激を送り込みます。NCO-217-JP-Cが彼女を介して全人類の夢を接続しているなら、こちらから送る刺激も同じ経路を通る」


「接続先を選別できません」


「選別する必要はありません」


「世界中の睡眠者全員へ送信されます」


「そのための手順です」


技術職員は一瞬だけ久世を見た。


「本当に、全員を怖がらせるんですか」


久世は答えた。


「全員を起こします」


管制室中央の画面には、「永眠夜」成立までの予測時間が表示されている。


00:10:41


数字が一秒ずつ減っていく。


午前零時七分三十二秒。


MORNING BELL第一段階が開始された。


各国のMDE施設が、使用可能な通信網の確保を始める。


しかし、世界各地では通信事業者の職員も次々と睡眠状態へ移行していた。


電力を失った基地局。


無人化した放送局。


操作員が眠ったまま稼働を続けるデータセンター。


自動制御へ移行した衛星通信設備。


利用できる経路は、時間とともに減少している。


異常睡眠率、四十三・二%。


白い扉へ入った人間の数、推定一億一千万人。


現実空間から消失した人間の数、算出不能。


「深層意識位相接続機を搬入します!」


防護服を着た職員たちが、大型装置を管制室へ運び込んだ。


直径約二メートルの三重金属環。


中央に配置された黒い座席。


座席の周囲には、人間の脳波を模した細い配線が数千本取り付けられている。


外装に製造番号はない。


企業名も削り取られていた。


だが、装置の起動画面には、消去できなかった表示が残っている。


東雲重工業株式会社。



二


深層意識位相接続機は、MDEが東雲重工業の放棄施設から回収した試作装置だった。


本来の用途は不明。


回収時に残されていた資料によれば、特定の人間の意識を夢界へ接続し、複数人で共有することを目的としていたらしい。


夢を利用した会議。


技能の共有。


記憶の転送。


敵対者の精神情報の収集。


資料ごとに用途が異なり、どの機能が実際に完成していたのかは判明していない。


ただし、一つだけ明確な特徴があった。


この装置は、接続対象の人数が増えるほど出力を上昇させる。


通常の通信装置とは逆だった。


一人へ送るより、十人。


十人より、千人。


千人より、一億人。


接続された意識が多いほど、個々の夢が装置の一部として動作する。


現在、NCO-217-JP-Cは世界中の夢を接続している。


深層意識位相接続機にとって、これ以上ない理想的な稼働環境だった。


「電源接続」


金属環が回転を始める。


装置の画面に警告が表示された。


『接続対象数が推奨値を超過しています』


技術職員が操作する。


推奨最大接続数、百二十八名。


現在の推定接続数、三十四億名以上。


「制限を解除してください」


久世が命じる。


「解除コードが必要です」


「解析できませんか」


「最短でも二時間」


残り時間、九分三十二秒。


久世は東雲重工業に関する緊急連絡資料を開いた。


公式の連絡先ではない。


過去の監視作戦で把握した、未登録規格調査室の暗号通信回線。


接続を試みる。


一度目、応答なし。


二度目、回線が開いた。


画面に真壁征司が映った。


背後では、東雲重工業の職員たちが施設から資料と機材を運び出している。


「サイト83の久世です」


『所属を名乗る必要はない。回線へ侵入した時点で把握している』


「深層意識位相接続機の解除コードが必要です」


真壁は画面外へ視線を向けた。


『試作何型だ』


「外装の識別番号は削除されています。三重環式、黒色座席、意識配線約二千四百本」


『試作四型』


「世界規模の夢界接続が発生しています。装置を使って覚醒刺激を送信します」


『想定外の用途だ』


「分かっています」


『設計上の最大接続人数は百二十八名だ』


「現在の対象は三十四億人以上です」


真壁が初めて久世を正面から見た。


『もう一度言え』


「三十四億人です。増加中」


『使用するな』


「ほかに方法がありません」


『過負荷で装置が破損するという意味ではない』


「では、何が起きるんです」


『接続先の意識が、装置を通じて現実側へ流入する』


「NCO-217-JP-Cが出てくる?」


『それだけなら、まだ対処できる』


真壁は端末を操作し、試作四型の資料を表示した。


『夢界には、接続した意識以外のものも存在する。装置は、それらを区別しない』


久世は、三枝から伝えられた言葉を思い出した。


白い部屋の外側。


夢を食べている、さらに大きなもの。


「時間がありません」


『世界が終わるまで、どれくらいだ』


「八分五十四秒」


真壁は数秒間黙った。


『解除コードを送る』


久世の端末へ暗号列が届いた。


「協力に感謝します」


『礼は不要だ』


「東雲重工業の社員も睡眠状態へ移行しているからですか」


『会社は社員を保護する』


「人類ではなく?」


『社員の大部分は人類に含まれる』


真壁は画面外の職員へ指示を出した。


『試作四型は一方向通信装置ではない。夢へ刺激を送れば、夢の中にいるものもこちらを認識する』


「承知しました」


『していない』


真壁の声が強くなる。


『理解しているなら、三十四億人の夢へ接続しようとは考えない』


「それでも実行します」


『そう言うと思った』


真壁は通信を切る直前、最後の情報を送信した。


『緊急停止は物理切断のみ。出力が逆流した場合、制御装置では止められない』


「物理切断の方法は」


『中心座席を破壊しろ』


「座席に人間がいる場合は?」


『人間ごとだ』


通信が終了した。


技術職員が解除コードを入力する。


画面に新たな警告が表示された。


『接続制限を解除しますか』


久世は実行を選択した。


装置の三重環が高速回転を始める。


画面に東雲重工業の企業ロゴが現れる。


続いて、機械音声が流れた。


『警告。本製品は大規模起床用途を想定しておりません』



三


MORNING BELLの準備には、覚醒刺激として使用する「恐怖」が必要だった。


単純な恐怖映像では不十分だった。


巨大な怪物。


大量の血液。


落下。


炎。


死体。


それらを恐れる人間もいれば、何も感じない人間もいる。


文化や経験によって意味も異なる。


特定の映像を世界中へ送信しても、全員を覚醒させることはできない。


必要なのは、対象者自身が持つ恐怖だった。


幼少期の記憶。


事故。


喪失。


病気。


暗闇。


孤独。


水。


火。


閉鎖空間。


高所。


誰かを失うこと。


忘れられること。


自分が自分ではなくなること。


NCO-217-JP-Bは、感染者一人一人の記憶から、最も強い恐怖を持つ姿を選んでいた。


MORNING BELLも、同じことを行わなければならない。


「個人の恐怖情報を、どうやって取得しますか」


技術職員が尋ねる。


「こちらから取得する必要はありません」


久世は深層意識位相接続機を見た。


「すでに、夢の中にあります」


「装置に、接続者の恐怖を検索させる?」


「検索ではない」


クレイン博士から送られてきた思考解析記録を表示する。


白い部屋は、接続した人間の記憶を読み取り、最も信頼する人物の声と姿を使っている。


つまり、NCO-217-JP-C自身が、全接続者の深層記憶へ到達する経路を開いている。


「白い部屋が使っている情報を、そのまま反転させます」


「安心させる記憶を、恐怖へ変える?」


「違います」


久世は首を横に振った。


「安心を与える人物ではなく、その人間が最も逃げたいものを呼び出す」


「二十三億人分のナイトメアを生成することになります」


「可能ですか」


「理論上は」


技術職員は言葉を選んだ。


「一時的な夢界存在を作るだけなら」


「実体化は必要ありません」


「しかし、NCO-217-JP-Bと同じ行動を取る保証はない。対象者を覚醒させず、夢の中で殺す可能性もあります」


「殺される直前には、通常覚醒します」


「通常の夢なら」


「今は通常ではない」


「だから危険なんです」


久世は分かっていた。


MORNING BELLは、世界を救う手順ではない。


成功する可能性のある、世界規模の実験だった。


失敗すれば、人類は白い部屋の中で終わる。


成功しても、何十億人もの人間が一生消えない悪夢を抱える可能性がある。


夢から目覚めた瞬間に錯乱し、事故を起こす者もいる。


心臓発作。


自傷。


他害。


パニック。


二次被害の規模は予測できない。


「ナイトメアへ、覚醒させるという目的を与えられますか」


久世が尋ねる。


「夢界側に、命令を受け取る存在が必要です」


「三枝観測員は?」


「接続は維持されています。しかし、通信は一方向です。こちらから音声を送っても、NCO-217-JP-Cに置き換えられます」


「恐怖だけなら届く?」


「恐怖は言語ではありません」


技術職員が三枝の脳波を表示する。


「彼女自身の恐怖反応を増幅し、夢界全体へ流すことはできます」


「三枝観測員一人の恐怖では、個人差に対応できない」


「彼女を起点に、接続者自身の恐怖を呼び起こします」


「三枝さんへの負荷は?」


技術職員は答えなかった。


「数字で」


「装置が正常に動作した場合でも、脳活動が耐えられるのは最長九十秒です」


「それ以上は」


「不可逆的な脳損傷」


「夢界から戻れない可能性は」


「極めて高い」


久世は眠っている三枝を見た。


彼女の右腕には、夢の中で伊吹に噛まれた傷がある。


黒い液体で描かれたMORNING BELLの文字は、まだ消えていない。


三枝自身が、この手順を求めている。


しかし、本人へ危険性を説明することも、同意を確認することもできない。


「ほかの起点は使用できますか」


「感染者第十二例なら、接続の中心にいます」


「藤崎さんへ、これ以上負荷を集中させることはできません」


「では、三枝観測員しかいません」


久世は目を閉じた。


患者の同意。


職員の同意。


世界を救うためという言葉。


北村亮介を白い部屋へ残した実験と、何が違うのか。


時間がないという点以外、何も違わないように思えた。


「主任」


技術職員が呼びかける。


残り時間。


00:07:23


「接続者の選択を」


久世は目を開けた。


「三枝玲子観測員を、MORNING BELL送信起点として登録します」



四


白い世界では、ナイトメアたちが敗れ始めていた。


一体が一人を覚醒させる。


その間に、千人が扉を開く。


一体が十人を追い返す。


別の場所で、一万人が白い部屋へ入る。


怪物たちは休まない。


腕を失っても。


脚を食べられても。


顔が消えても。


残された身体で人々を追い、捕まえ、自分の口を通じて夢の浅い場所へ送り返す。


それでも数が足りなかった。


「もう一人」


伊吹の姿をしたナイトメアが、白い扉へ向かう女性を捕まえた。


女性が悲鳴を上げる。


怪物は彼女を口の中へ押し込み、夢界接続を切断する。


続いて別の人間へ向かおうとしたところで、左脚が消えた。


伊吹は床へ倒れる。


三枝が身体を支えた。


「食べられている」


「止まるな」


「あなたが先に消えます」


「役割は残る」


「誰に?」


伊吹は答えず、遠くにいる怪物を指さした。


小田切沙耶を追っていた、顔に口しかない教員。


その身体はほとんど失われ、口だけが白い空間へ浮いている。


それでも、扉へ近づく人間へ噛みつき、恐怖を与えている。


「人間だった記憶が消えても、起こすという役割は残る」


「それでいいんですか」


「よくない」


伊吹は即答した。


「戻りたい」


三枝の胸が痛んだ。


「人間に?」


「起きたい」


「なら、消えないでください」


「だから、急げ」


伊吹は残された腕で三枝の右手首をつかんだ。


現実へつながる黒い糸は、消失寸前だった。


「外側が動いた」


白い世界の地平線から、巨大な音が響く。


くちゃ。


地平線の一部が大きく失われた。


そこに並んでいた何百万枚もの扉も消える。


白い部屋の存在が動揺する。


それまで穏やかだった声が、初めて命令口調へ変化した。


「扉を開けなさい」


世界中の人間が一斉に取っ手へ手を伸ばす。


「こちらへ来なさい」


「一つになりなさい」


「外側を見てはいけない」


三枝は白い世界の欠損を見た。


欠けた場所の向こうには、何もない。


暗闇さえ存在しない。


それでも、そのさらに外側から食べる音が聞こえる。


「NCO-217-JP-Cは、人間を壁にしている」


三枝が言った。


「全人類の夢を集めて、外側にいるものから自分を守ろうとしている」


伊吹が起き上がろうとする。


「扉を開かせるな」


「分かっています」


「まだ分かっていない」


怪物は三枝の頭部をつかんだ。


「白い部屋が食われれば、接続された人間も一緒に食われる」


「夢が消えるだけでは?」


「夢を見た人間の記憶も、夢を見たという事実も、その人間自身も消える」


三枝は、白い扉へ入った少年を思い出した。


顔も、声も、名前も思い出せない。


存在していたという記憶さえ、痛みを使わなければ維持できなかった。


「MORNING BELLは、まだですか」


「外が準備している」


「分かるんですか」


「お前の身体が怖がっている」


三枝の胸の奥へ、冷たい感覚が流れ込む。


現実側の肉体。


頭部へ接続された装置。


高速で回転する金属環。


久世の声は聞こえない。


それでも、何かが始まろうとしていることは分かった。


「何をすればいい?」


「恐怖を受け入れろ」


「私一人の恐怖では足りません」


「お前から、全員へ返す」


「何を?」


「奪われたものを」


伊吹は、白い扉の前に立つ人々を見た。


「自分の悪夢を」



五


藤崎奈緒は、青い靴を胸へ抱いたまま動けずにいた。


死ぬ前の姿をした悠人が、何度も手を差し出している。


「奈緒姉ちゃん」


「その声を使わないで」


「どうして?」


「あなたは悠人じゃない」


「悠人の記憶を持っています」


「私の記憶でしょう」


「同じことです」


「違う」


奈緒は青い靴を見る。


十六年前、川岸に残されていた弟の靴。


あの日、片方は見つかった。


もう片方は、最後まで見つからなかった。


奈緒が夢の中で持っているのは、見つからなかった方の靴だった。


自分の記憶からは作れないはずのもの。


「これは、どこから持ってきたの」


白い悠人が答える。


「あなたが覚えていたものです」


「私は、この靴を見ていない」


「想像した」


「靴底の傷まで?」


奈緒は靴の裏側を見た。


小さく削れたゴム。


油性ペンで書かれた、母親の文字。


悠人の名前。


発見されなかった靴に、どのような傷や文字があったのか、奈緒は知らない。


「本物の悠人の記憶が、ここにある」


白い存在は微笑む。


「だから、私は悠人です」


「違う」


「なぜ?」


「悠人は、あなたの中にいるんじゃない」


奈緒は地平線で消えていくナイトメアたちを見た。


「私を追っていた方にいた」


「怪物に?」


「怪物になる前は、違ったのかもしれない」


「あなたを傷つけた」


「起こすために」


「毎晩、殺そうとした」


「私が怖がらなければ、起こせなかった」


白い悠人が首を傾ける。


「苦しめる存在を、弟だと思いたいのですか」


「あなたを弟だと思うよりは」


奈緒は青い靴を白い床へ置いた。


「都合のいい言葉だけをくれるものは、信用しない」


白い悠人の笑顔が消えた。


「あなたは苦しみを選ぶ」


「選ばせたのは、あなたです」


「こちらへ来れば終わります」


「私だけなら、迷ったかもしれない」


奈緒は周囲の人々を見る。


家族へ会おうとする者。


許しを求める者。


疲れ果てた者。


孤独から逃れようとする者。


「でも、あなたは全員を勝手に連れてきた」


奈緒は自分の身体へつながった白い糸をつかんだ。


「私を入口にして」


糸を引きちぎろうとする。


指が白く染まる。


身体の内側から、何十億人もの声が流れ込んだ。


会いたい。


眠りたい。


忘れたい。


許されたい。


消えたい。


もう頑張りたくない。


それらは、すべて本物の感情だった。


白い存在が作ったものではない。


人間たちが心の奥へ抱え、誰にも言えなかった言葉。


奈緒は膝をついた。


「聞こえる」


白い悠人が彼女を抱き締める。


「これが人間の願いです」


「違う」


「苦しみから解放されたいと願っている」


「それだけじゃない」


奈緒は歯を食いしばった。


声の奥に、別の感情がある。


会いたい。


それでも、生きている人を置いていきたくない。


眠りたい。


それでも、朝にやることがある。


忘れたい。


それでも、忘れてはいけない人がいる。


許されたい。


それでも、自分で謝らなければならない。


消えたい。


それでも、本当は見つけてほしい。


「みんな、終わりたいわけじゃない」


奈緒は立ち上がった。


「苦しいと言っているだけ」


「違いはありません」


「あります」


奈緒は白い糸を両手でつかんだ。


「勝手に答えを決めないで」


糸を引く。


指の皮膚が裂ける。


白い液体ではなく、赤い血が流れた。


現実の痛み。


白い世界全体が震える。


「奈緒姉ちゃん」


白い存在が弟の声で呼ぶ。


奈緒は振り返らなかった。


「悠人なら、私を起こして」


返事はない。


「もう一度、怖がらせて」


地平線の向こうで、何かが立ち上がった。



六


それは最初、奈緒自身の姿をしていた。


十六年前。


川岸に立ち、弟が流されるのを見ている少女。


次に、死亡した悠人の姿へ変わる。


水草。


白い皮膚。


黒い水。


だが、以前よりも身体が小さい。


左腕はない。


顔の半分も欠けている。


足元も白い世界へ溶けかけている。


それでも、ナイトメアは奈緒を見ていた。


「悠人」


怪物が口を開く。


黒い水とともに、声が流れ出す。


「遅い」


奈緒は泣きながら笑った。


「来てくれた」


「怖がれ」


「ごめん。もう、あなたは怖くない」


「違う」


怪物が一歩進む。


「俺じゃない」


白い世界の外側。


夢を食べ続けるもの。


奈緒は咀嚼音を聞いた。


自分の夢だけではない。


世界中の夢が一口ずつ失われている。


人間の名前。


顔。


記憶。


存在。


すべてが食べられようとしている。


初めて、奈緒はナイトメアではなく、その背後にいるものへ恐怖を感じた。


「これを、怖がればいいの?」


悠人は答えた。


「怖がる相手を決めるな」


「どういう意味?」


「恐怖だけを持って、走れ」


白い悠人が叫ぶ。


「耳を貸さないで!」


死んだ悠人の姿をしたナイトメアが、奈緒へ向かって走る。


残された腕を伸ばす。


奈緒は逃げた。


白い扉の間を走る。


悠人が追う。


以前と同じ悪夢。


背後から濡れた足音。


名前を呼ぶ声。


黒い水の匂い。


奈緒の心拍が上昇する。


恐怖が戻ってくる。


白い扉が次々と閉じ始める。


奈緒の身体へつながっていた糸が震える。


彼女の恐怖が、糸を通じて全接続者へ広がっていく。


三枝がその変化に気づいた。


「始まる」


伊吹が答える。


「まだ一人だ」


「増やします」


三枝は目を閉じた。


自分が最も恐れる記憶を呼び起こす。


姉の病室。


閉じた扉。


最後まで中へ入れなかった自分。


姉が死んだことを告げる母親。


病室の中から聞こえたはずのない声。


『玲子、どうして来なかったの』


三枝は逃げたくなる。


その恐怖を拒絶せず、身体の中へ受け入れる。


「これは私のもの」


白い扉が一枚閉じる。


「誰にも渡さない」


二枚目。


「消させない」


三枚目。


伊吹が立ち上がる。


欠けた身体が、三枝の恐怖を受けて再形成される。


完全な人間には戻らない。


より恐ろしい姿へ変わる。


長い腕。


胸部の口。


複数の関節。


夢界潜入員の装備と、人間だった記憶。


「これでいい」


伊吹が言った。


「怖いです」


三枝が答える。


「もっと怖がれ」


「十分です」


「まだ足りない」


伊吹は白い世界を見渡した。


「私だけでは止められない」


三枝は彼と同じ方向を見る。


消えかけたナイトメアたち。


顔のない教師。


黒い犬。


水死体。


腐敗した家族。


怪物たちは、三枝と奈緒から広がった恐怖を受け取り始めている。


欠けていた身体が、一時的に形を取り戻す。


「では、全員を呼びましょう」


三枝が言った。


「どうやって」


伊吹が現実へつながる黒い糸を指さす。


「朝を鳴らせ」



七


午前零時八分四十七秒。


深層意識位相接続機が最大出力へ到達した。


金属環の回転によって管制室全体が振動する。


装置へ接続された三枝の心拍数が急上昇。


一分間に百八十。


百九十二。


二百を超える。


「脳活動限界まで、残り七十秒!」


技術職員が報告する。


「MORNING BELL第二段階へ移行」


久世が命じた。


「恐怖情報を送信します」


「実行してください」


技術職員が操作卓へ手を置く。


「送信内容を最終確認。接続者の個人記憶から、最大恐怖反応を持つ情報を抽出。夢界内で一時的な追跡存在として再構成します」


「覚醒条件は」


「対象者を白い扉から遠ざけ、自身が夢を見ていると認識させること」


「現実側の刺激は」


「筋肉刺激、警報音、強光、通信機器の振動を同期します」


「実行」


画面に最終警告が表示される。


『本操作は接続対象へ重大な精神的影響を与える可能性があります』


久世は承認する。


『一部の対象者は、覚醒後も恐怖情報を保持する可能性があります』


承認。


『一部の対象者は、覚醒時に身体的損傷を受ける可能性があります』


承認。


『接続対象数が算出可能範囲を超過しています』


承認。


『製造者は、本操作によって発生した損害について責任を負いません』


久世は一瞬だけ画面を見た。


「最後まで東雲重工業ですね」


実行を押す。


装置中央の金属環が白く発光した。


管制室内に鐘の音が響く。


実際の鐘ではない。


人間が「朝」と聞いて連想する、あらゆる音が重なっていた。


目覚まし時計。


学校の始業ベル。


寺院の鐘。


教会の鐘。


防災無線。


軍隊の起床ラッパ。


親が子供を呼ぶ声。


朝の鳥。


電車の始発音。


病院の検温を知らせる足音。


それらすべてが、一つの音となって夢界へ送信される。


鐘の音は三枝へ届いた。


奈緒へ届いた。


白い扉の前に立つ人々へ届いた。


そして、人々の背後にある暗闇へ届いた。


午前零時八分五十九秒。


世界中で、悪夢が始まった。


ある者の背後に、死亡した家族が立った。


ある者の足元から、巨大な虫が這い出した。


ある者の白い部屋が水で満たされた。


ある者の扉の向こうから、自分自身の死体が現れた。


暗闇。


炎。


海。


高所。


孤独。


忘却。


罪悪感。


言葉にできなかった恐怖が、姿を持って現れる。


人々は悲鳴を上げた。


白い扉から手を離す。


逃げる。


怪物が追う。


転ぶ。


捕まる。


恐怖によって、自分が夢を見ていると気づく。


白い扉が閉じる。


一人目が目を覚ました。


続いて、二人目。


十人。


百人。


一万人。


百万人。


夢界接続率が初めて低下した。


白い世界の外側で、何かが動きを止める。


突然増加した悪夢を認識したように。


三枝は地平線の向こうを見た。


姿は見えない。


ただ、空腹を示す巨大な気配だけがある。


「こっちを見た」


三枝が呟く。


伊吹の姿をしたナイトメアが、彼女を白い扉から遠ざける。


「見るな」


「MORNING BELLに気づいた」


「走れ」


「もし、これが悪夢を食べたら?」


伊吹は答えなかった。


答えられなかった。


世界中で、二十三億体以上のナイトメアが形成される。


人類史上最大規模の悪夢。


同時に発生した、食べきれないほどの恐怖。


咀嚼音が、再び響いた。


今度は白い部屋ではなく、出現したナイトメアの一体が消失した。


続いて二体目。


三体目。


地平線の向こうにいる何かが、MORNING BELLによって生成された悪夢を食べ始める。


それでも、ナイトメアたちは走った。


食べられる前に、一人でも多く起こすために。


伊吹が人々を追う。


顔のない教師が沙耶を捕まえる。


水死体の悠人が奈緒へ迫る。


三枝は白い扉に背を向け、全力で逃げた。


鐘が鳴り続けている。


現実側では、覚醒した人間の数が急速に増加していた。


しかし、夢界の外側にいるものもまた、世界中の悪夢へ近づいていた。


MORNING BELLは人類を起こし始めた。


同時に、これまで人類の夢を一口ずつ味見していた存在へ、初めて食事の時間を知らせていた。



――Tale-04『朝を鳴らせ』

第四章『私だけでは止められない』終了

次回予告


第五章 朝を鳴らせ


11月5日21時投稿予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。