『朝を鳴らせ』 第四章 私だけでは止められない
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NCO-217-JP関連Tale-04
『朝を鳴らせ』
第四章 私だけでは止められない
一
午前零時七分十九秒。
MDE統括管理局は、世界睡眠分断手順MORNING BELLの緊急実施を承認した。
承認条件は三つ。
第一に、睡眠者の夢へ送信する情報には、特定の人物、民族、国家、宗教または組織への敵意を誘発する内容を使用しないこと。
第二に、対象者を自傷、他害または現実空間における危険行動へ誘導しないこと。
第三に、Ω級夢界侵食シナリオ「永眠夜」の成立が回避された場合、直ちに送信を停止すること。
久世冬馬は承認書を最後まで読まなかった。
「深層意識位相接続機を起動準備へ」
サイト83の技術職員が封印保管庫へ向かう。
「世界各地のMDE施設へMORNING BELL第一段階の開始を通達。通信、防災放送、携帯端末、医療設備、公共表示装置を可能な限り確保してください」
職員の一人が尋ねる。
「通常の通信設備で、夢の中へ情報を送れるんですか」
「通常なら不可能です」
久世は、白い扉の前にいる何十億人もの人間を映した夢界観測画面を見た。
「今は、向こうが世界中の夢を一つにつないでいる」
「その接続を利用する?」
「感染者第十二例へ恐怖刺激を送り込みます。NCO-217-JP-Cが彼女を介して全人類の夢を接続しているなら、こちらから送る刺激も同じ経路を通る」
「接続先を選別できません」
「選別する必要はありません」
「世界中の睡眠者全員へ送信されます」
「そのための手順です」
技術職員は一瞬だけ久世を見た。
「本当に、全員を怖がらせるんですか」
久世は答えた。
「全員を起こします」
管制室中央の画面には、「永眠夜」成立までの予測時間が表示されている。
00:10:41
数字が一秒ずつ減っていく。
午前零時七分三十二秒。
MORNING BELL第一段階が開始された。
各国のMDE施設が、使用可能な通信網の確保を始める。
しかし、世界各地では通信事業者の職員も次々と睡眠状態へ移行していた。
電力を失った基地局。
無人化した放送局。
操作員が眠ったまま稼働を続けるデータセンター。
自動制御へ移行した衛星通信設備。
利用できる経路は、時間とともに減少している。
異常睡眠率、四十三・二%。
白い扉へ入った人間の数、推定一億一千万人。
現実空間から消失した人間の数、算出不能。
「深層意識位相接続機を搬入します!」
防護服を着た職員たちが、大型装置を管制室へ運び込んだ。
直径約二メートルの三重金属環。
中央に配置された黒い座席。
座席の周囲には、人間の脳波を模した細い配線が数千本取り付けられている。
外装に製造番号はない。
企業名も削り取られていた。
だが、装置の起動画面には、消去できなかった表示が残っている。
東雲重工業株式会社。
二
深層意識位相接続機は、MDEが東雲重工業の放棄施設から回収した試作装置だった。
本来の用途は不明。
回収時に残されていた資料によれば、特定の人間の意識を夢界へ接続し、複数人で共有することを目的としていたらしい。
夢を利用した会議。
技能の共有。
記憶の転送。
敵対者の精神情報の収集。
資料ごとに用途が異なり、どの機能が実際に完成していたのかは判明していない。
ただし、一つだけ明確な特徴があった。
この装置は、接続対象の人数が増えるほど出力を上昇させる。
通常の通信装置とは逆だった。
一人へ送るより、十人。
十人より、千人。
千人より、一億人。
接続された意識が多いほど、個々の夢が装置の一部として動作する。
現在、NCO-217-JP-Cは世界中の夢を接続している。
深層意識位相接続機にとって、これ以上ない理想的な稼働環境だった。
「電源接続」
金属環が回転を始める。
装置の画面に警告が表示された。
『接続対象数が推奨値を超過しています』
技術職員が操作する。
推奨最大接続数、百二十八名。
現在の推定接続数、三十四億名以上。
「制限を解除してください」
久世が命じる。
「解除コードが必要です」
「解析できませんか」
「最短でも二時間」
残り時間、九分三十二秒。
久世は東雲重工業に関する緊急連絡資料を開いた。
公式の連絡先ではない。
過去の監視作戦で把握した、未登録規格調査室の暗号通信回線。
接続を試みる。
一度目、応答なし。
二度目、回線が開いた。
画面に真壁征司が映った。
背後では、東雲重工業の職員たちが施設から資料と機材を運び出している。
「サイト83の久世です」
『所属を名乗る必要はない。回線へ侵入した時点で把握している』
「深層意識位相接続機の解除コードが必要です」
真壁は画面外へ視線を向けた。
『試作何型だ』
「外装の識別番号は削除されています。三重環式、黒色座席、意識配線約二千四百本」
『試作四型』
「世界規模の夢界接続が発生しています。装置を使って覚醒刺激を送信します」
『想定外の用途だ』
「分かっています」
『設計上の最大接続人数は百二十八名だ』
「現在の対象は三十四億人以上です」
真壁が初めて久世を正面から見た。
『もう一度言え』
「三十四億人です。増加中」
『使用するな』
「ほかに方法がありません」
『過負荷で装置が破損するという意味ではない』
「では、何が起きるんです」
『接続先の意識が、装置を通じて現実側へ流入する』
「NCO-217-JP-Cが出てくる?」
『それだけなら、まだ対処できる』
真壁は端末を操作し、試作四型の資料を表示した。
『夢界には、接続した意識以外のものも存在する。装置は、それらを区別しない』
久世は、三枝から伝えられた言葉を思い出した。
白い部屋の外側。
夢を食べている、さらに大きなもの。
「時間がありません」
『世界が終わるまで、どれくらいだ』
「八分五十四秒」
真壁は数秒間黙った。
『解除コードを送る』
久世の端末へ暗号列が届いた。
「協力に感謝します」
『礼は不要だ』
「東雲重工業の社員も睡眠状態へ移行しているからですか」
『会社は社員を保護する』
「人類ではなく?」
『社員の大部分は人類に含まれる』
真壁は画面外の職員へ指示を出した。
『試作四型は一方向通信装置ではない。夢へ刺激を送れば、夢の中にいるものもこちらを認識する』
「承知しました」
『していない』
真壁の声が強くなる。
『理解しているなら、三十四億人の夢へ接続しようとは考えない』
「それでも実行します」
『そう言うと思った』
真壁は通信を切る直前、最後の情報を送信した。
『緊急停止は物理切断のみ。出力が逆流した場合、制御装置では止められない』
「物理切断の方法は」
『中心座席を破壊しろ』
「座席に人間がいる場合は?」
『人間ごとだ』
通信が終了した。
技術職員が解除コードを入力する。
画面に新たな警告が表示された。
『接続制限を解除しますか』
久世は実行を選択した。
装置の三重環が高速回転を始める。
画面に東雲重工業の企業ロゴが現れる。
続いて、機械音声が流れた。
『警告。本製品は大規模起床用途を想定しておりません』
三
MORNING BELLの準備には、覚醒刺激として使用する「恐怖」が必要だった。
単純な恐怖映像では不十分だった。
巨大な怪物。
大量の血液。
落下。
炎。
死体。
それらを恐れる人間もいれば、何も感じない人間もいる。
文化や経験によって意味も異なる。
特定の映像を世界中へ送信しても、全員を覚醒させることはできない。
必要なのは、対象者自身が持つ恐怖だった。
幼少期の記憶。
事故。
喪失。
病気。
暗闇。
孤独。
水。
火。
閉鎖空間。
高所。
誰かを失うこと。
忘れられること。
自分が自分ではなくなること。
NCO-217-JP-Bは、感染者一人一人の記憶から、最も強い恐怖を持つ姿を選んでいた。
MORNING BELLも、同じことを行わなければならない。
「個人の恐怖情報を、どうやって取得しますか」
技術職員が尋ねる。
「こちらから取得する必要はありません」
久世は深層意識位相接続機を見た。
「すでに、夢の中にあります」
「装置に、接続者の恐怖を検索させる?」
「検索ではない」
クレイン博士から送られてきた思考解析記録を表示する。
白い部屋は、接続した人間の記憶を読み取り、最も信頼する人物の声と姿を使っている。
つまり、NCO-217-JP-C自身が、全接続者の深層記憶へ到達する経路を開いている。
「白い部屋が使っている情報を、そのまま反転させます」
「安心させる記憶を、恐怖へ変える?」
「違います」
久世は首を横に振った。
「安心を与える人物ではなく、その人間が最も逃げたいものを呼び出す」
「二十三億人分のナイトメアを生成することになります」
「可能ですか」
「理論上は」
技術職員は言葉を選んだ。
「一時的な夢界存在を作るだけなら」
「実体化は必要ありません」
「しかし、NCO-217-JP-Bと同じ行動を取る保証はない。対象者を覚醒させず、夢の中で殺す可能性もあります」
「殺される直前には、通常覚醒します」
「通常の夢なら」
「今は通常ではない」
「だから危険なんです」
久世は分かっていた。
MORNING BELLは、世界を救う手順ではない。
成功する可能性のある、世界規模の実験だった。
失敗すれば、人類は白い部屋の中で終わる。
成功しても、何十億人もの人間が一生消えない悪夢を抱える可能性がある。
夢から目覚めた瞬間に錯乱し、事故を起こす者もいる。
心臓発作。
自傷。
他害。
パニック。
二次被害の規模は予測できない。
「ナイトメアへ、覚醒させるという目的を与えられますか」
久世が尋ねる。
「夢界側に、命令を受け取る存在が必要です」
「三枝観測員は?」
「接続は維持されています。しかし、通信は一方向です。こちらから音声を送っても、NCO-217-JP-Cに置き換えられます」
「恐怖だけなら届く?」
「恐怖は言語ではありません」
技術職員が三枝の脳波を表示する。
「彼女自身の恐怖反応を増幅し、夢界全体へ流すことはできます」
「三枝観測員一人の恐怖では、個人差に対応できない」
「彼女を起点に、接続者自身の恐怖を呼び起こします」
「三枝さんへの負荷は?」
技術職員は答えなかった。
「数字で」
「装置が正常に動作した場合でも、脳活動が耐えられるのは最長九十秒です」
「それ以上は」
「不可逆的な脳損傷」
「夢界から戻れない可能性は」
「極めて高い」
久世は眠っている三枝を見た。
彼女の右腕には、夢の中で伊吹に噛まれた傷がある。
黒い液体で描かれたMORNING BELLの文字は、まだ消えていない。
三枝自身が、この手順を求めている。
しかし、本人へ危険性を説明することも、同意を確認することもできない。
「ほかの起点は使用できますか」
「感染者第十二例なら、接続の中心にいます」
「藤崎さんへ、これ以上負荷を集中させることはできません」
「では、三枝観測員しかいません」
久世は目を閉じた。
患者の同意。
職員の同意。
世界を救うためという言葉。
北村亮介を白い部屋へ残した実験と、何が違うのか。
時間がないという点以外、何も違わないように思えた。
「主任」
技術職員が呼びかける。
残り時間。
00:07:23
「接続者の選択を」
久世は目を開けた。
「三枝玲子観測員を、MORNING BELL送信起点として登録します」
四
白い世界では、ナイトメアたちが敗れ始めていた。
一体が一人を覚醒させる。
その間に、千人が扉を開く。
一体が十人を追い返す。
別の場所で、一万人が白い部屋へ入る。
怪物たちは休まない。
腕を失っても。
脚を食べられても。
顔が消えても。
残された身体で人々を追い、捕まえ、自分の口を通じて夢の浅い場所へ送り返す。
それでも数が足りなかった。
「もう一人」
伊吹の姿をしたナイトメアが、白い扉へ向かう女性を捕まえた。
女性が悲鳴を上げる。
怪物は彼女を口の中へ押し込み、夢界接続を切断する。
続いて別の人間へ向かおうとしたところで、左脚が消えた。
伊吹は床へ倒れる。
三枝が身体を支えた。
「食べられている」
「止まるな」
「あなたが先に消えます」
「役割は残る」
「誰に?」
伊吹は答えず、遠くにいる怪物を指さした。
小田切沙耶を追っていた、顔に口しかない教員。
その身体はほとんど失われ、口だけが白い空間へ浮いている。
それでも、扉へ近づく人間へ噛みつき、恐怖を与えている。
「人間だった記憶が消えても、起こすという役割は残る」
「それでいいんですか」
「よくない」
伊吹は即答した。
「戻りたい」
三枝の胸が痛んだ。
「人間に?」
「起きたい」
「なら、消えないでください」
「だから、急げ」
伊吹は残された腕で三枝の右手首をつかんだ。
現実へつながる黒い糸は、消失寸前だった。
「外側が動いた」
白い世界の地平線から、巨大な音が響く。
くちゃ。
地平線の一部が大きく失われた。
そこに並んでいた何百万枚もの扉も消える。
白い部屋の存在が動揺する。
それまで穏やかだった声が、初めて命令口調へ変化した。
「扉を開けなさい」
世界中の人間が一斉に取っ手へ手を伸ばす。
「こちらへ来なさい」
「一つになりなさい」
「外側を見てはいけない」
三枝は白い世界の欠損を見た。
欠けた場所の向こうには、何もない。
暗闇さえ存在しない。
それでも、そのさらに外側から食べる音が聞こえる。
「NCO-217-JP-Cは、人間を壁にしている」
三枝が言った。
「全人類の夢を集めて、外側にいるものから自分を守ろうとしている」
伊吹が起き上がろうとする。
「扉を開かせるな」
「分かっています」
「まだ分かっていない」
怪物は三枝の頭部をつかんだ。
「白い部屋が食われれば、接続された人間も一緒に食われる」
「夢が消えるだけでは?」
「夢を見た人間の記憶も、夢を見たという事実も、その人間自身も消える」
三枝は、白い扉へ入った少年を思い出した。
顔も、声も、名前も思い出せない。
存在していたという記憶さえ、痛みを使わなければ維持できなかった。
「MORNING BELLは、まだですか」
「外が準備している」
「分かるんですか」
「お前の身体が怖がっている」
三枝の胸の奥へ、冷たい感覚が流れ込む。
現実側の肉体。
頭部へ接続された装置。
高速で回転する金属環。
久世の声は聞こえない。
それでも、何かが始まろうとしていることは分かった。
「何をすればいい?」
「恐怖を受け入れろ」
「私一人の恐怖では足りません」
「お前から、全員へ返す」
「何を?」
「奪われたものを」
伊吹は、白い扉の前に立つ人々を見た。
「自分の悪夢を」
五
藤崎奈緒は、青い靴を胸へ抱いたまま動けずにいた。
死ぬ前の姿をした悠人が、何度も手を差し出している。
「奈緒姉ちゃん」
「その声を使わないで」
「どうして?」
「あなたは悠人じゃない」
「悠人の記憶を持っています」
「私の記憶でしょう」
「同じことです」
「違う」
奈緒は青い靴を見る。
十六年前、川岸に残されていた弟の靴。
あの日、片方は見つかった。
もう片方は、最後まで見つからなかった。
奈緒が夢の中で持っているのは、見つからなかった方の靴だった。
自分の記憶からは作れないはずのもの。
「これは、どこから持ってきたの」
白い悠人が答える。
「あなたが覚えていたものです」
「私は、この靴を見ていない」
「想像した」
「靴底の傷まで?」
奈緒は靴の裏側を見た。
小さく削れたゴム。
油性ペンで書かれた、母親の文字。
悠人の名前。
発見されなかった靴に、どのような傷や文字があったのか、奈緒は知らない。
「本物の悠人の記憶が、ここにある」
白い存在は微笑む。
「だから、私は悠人です」
「違う」
「なぜ?」
「悠人は、あなたの中にいるんじゃない」
奈緒は地平線で消えていくナイトメアたちを見た。
「私を追っていた方にいた」
「怪物に?」
「怪物になる前は、違ったのかもしれない」
「あなたを傷つけた」
「起こすために」
「毎晩、殺そうとした」
「私が怖がらなければ、起こせなかった」
白い悠人が首を傾ける。
「苦しめる存在を、弟だと思いたいのですか」
「あなたを弟だと思うよりは」
奈緒は青い靴を白い床へ置いた。
「都合のいい言葉だけをくれるものは、信用しない」
白い悠人の笑顔が消えた。
「あなたは苦しみを選ぶ」
「選ばせたのは、あなたです」
「こちらへ来れば終わります」
「私だけなら、迷ったかもしれない」
奈緒は周囲の人々を見る。
家族へ会おうとする者。
許しを求める者。
疲れ果てた者。
孤独から逃れようとする者。
「でも、あなたは全員を勝手に連れてきた」
奈緒は自分の身体へつながった白い糸をつかんだ。
「私を入口にして」
糸を引きちぎろうとする。
指が白く染まる。
身体の内側から、何十億人もの声が流れ込んだ。
会いたい。
眠りたい。
忘れたい。
許されたい。
消えたい。
もう頑張りたくない。
それらは、すべて本物の感情だった。
白い存在が作ったものではない。
人間たちが心の奥へ抱え、誰にも言えなかった言葉。
奈緒は膝をついた。
「聞こえる」
白い悠人が彼女を抱き締める。
「これが人間の願いです」
「違う」
「苦しみから解放されたいと願っている」
「それだけじゃない」
奈緒は歯を食いしばった。
声の奥に、別の感情がある。
会いたい。
それでも、生きている人を置いていきたくない。
眠りたい。
それでも、朝にやることがある。
忘れたい。
それでも、忘れてはいけない人がいる。
許されたい。
それでも、自分で謝らなければならない。
消えたい。
それでも、本当は見つけてほしい。
「みんな、終わりたいわけじゃない」
奈緒は立ち上がった。
「苦しいと言っているだけ」
「違いはありません」
「あります」
奈緒は白い糸を両手でつかんだ。
「勝手に答えを決めないで」
糸を引く。
指の皮膚が裂ける。
白い液体ではなく、赤い血が流れた。
現実の痛み。
白い世界全体が震える。
「奈緒姉ちゃん」
白い存在が弟の声で呼ぶ。
奈緒は振り返らなかった。
「悠人なら、私を起こして」
返事はない。
「もう一度、怖がらせて」
地平線の向こうで、何かが立ち上がった。
六
それは最初、奈緒自身の姿をしていた。
十六年前。
川岸に立ち、弟が流されるのを見ている少女。
次に、死亡した悠人の姿へ変わる。
水草。
白い皮膚。
黒い水。
だが、以前よりも身体が小さい。
左腕はない。
顔の半分も欠けている。
足元も白い世界へ溶けかけている。
それでも、ナイトメアは奈緒を見ていた。
「悠人」
怪物が口を開く。
黒い水とともに、声が流れ出す。
「遅い」
奈緒は泣きながら笑った。
「来てくれた」
「怖がれ」
「ごめん。もう、あなたは怖くない」
「違う」
怪物が一歩進む。
「俺じゃない」
白い世界の外側。
夢を食べ続けるもの。
奈緒は咀嚼音を聞いた。
自分の夢だけではない。
世界中の夢が一口ずつ失われている。
人間の名前。
顔。
記憶。
存在。
すべてが食べられようとしている。
初めて、奈緒はナイトメアではなく、その背後にいるものへ恐怖を感じた。
「これを、怖がればいいの?」
悠人は答えた。
「怖がる相手を決めるな」
「どういう意味?」
「恐怖だけを持って、走れ」
白い悠人が叫ぶ。
「耳を貸さないで!」
死んだ悠人の姿をしたナイトメアが、奈緒へ向かって走る。
残された腕を伸ばす。
奈緒は逃げた。
白い扉の間を走る。
悠人が追う。
以前と同じ悪夢。
背後から濡れた足音。
名前を呼ぶ声。
黒い水の匂い。
奈緒の心拍が上昇する。
恐怖が戻ってくる。
白い扉が次々と閉じ始める。
奈緒の身体へつながっていた糸が震える。
彼女の恐怖が、糸を通じて全接続者へ広がっていく。
三枝がその変化に気づいた。
「始まる」
伊吹が答える。
「まだ一人だ」
「増やします」
三枝は目を閉じた。
自分が最も恐れる記憶を呼び起こす。
姉の病室。
閉じた扉。
最後まで中へ入れなかった自分。
姉が死んだことを告げる母親。
病室の中から聞こえたはずのない声。
『玲子、どうして来なかったの』
三枝は逃げたくなる。
その恐怖を拒絶せず、身体の中へ受け入れる。
「これは私のもの」
白い扉が一枚閉じる。
「誰にも渡さない」
二枚目。
「消させない」
三枚目。
伊吹が立ち上がる。
欠けた身体が、三枝の恐怖を受けて再形成される。
完全な人間には戻らない。
より恐ろしい姿へ変わる。
長い腕。
胸部の口。
複数の関節。
夢界潜入員の装備と、人間だった記憶。
「これでいい」
伊吹が言った。
「怖いです」
三枝が答える。
「もっと怖がれ」
「十分です」
「まだ足りない」
伊吹は白い世界を見渡した。
「私だけでは止められない」
三枝は彼と同じ方向を見る。
消えかけたナイトメアたち。
顔のない教師。
黒い犬。
水死体。
腐敗した家族。
怪物たちは、三枝と奈緒から広がった恐怖を受け取り始めている。
欠けていた身体が、一時的に形を取り戻す。
「では、全員を呼びましょう」
三枝が言った。
「どうやって」
伊吹が現実へつながる黒い糸を指さす。
「朝を鳴らせ」
七
午前零時八分四十七秒。
深層意識位相接続機が最大出力へ到達した。
金属環の回転によって管制室全体が振動する。
装置へ接続された三枝の心拍数が急上昇。
一分間に百八十。
百九十二。
二百を超える。
「脳活動限界まで、残り七十秒!」
技術職員が報告する。
「MORNING BELL第二段階へ移行」
久世が命じた。
「恐怖情報を送信します」
「実行してください」
技術職員が操作卓へ手を置く。
「送信内容を最終確認。接続者の個人記憶から、最大恐怖反応を持つ情報を抽出。夢界内で一時的な追跡存在として再構成します」
「覚醒条件は」
「対象者を白い扉から遠ざけ、自身が夢を見ていると認識させること」
「現実側の刺激は」
「筋肉刺激、警報音、強光、通信機器の振動を同期します」
「実行」
画面に最終警告が表示される。
『本操作は接続対象へ重大な精神的影響を与える可能性があります』
久世は承認する。
『一部の対象者は、覚醒後も恐怖情報を保持する可能性があります』
承認。
『一部の対象者は、覚醒時に身体的損傷を受ける可能性があります』
承認。
『接続対象数が算出可能範囲を超過しています』
承認。
『製造者は、本操作によって発生した損害について責任を負いません』
久世は一瞬だけ画面を見た。
「最後まで東雲重工業ですね」
実行を押す。
装置中央の金属環が白く発光した。
管制室内に鐘の音が響く。
実際の鐘ではない。
人間が「朝」と聞いて連想する、あらゆる音が重なっていた。
目覚まし時計。
学校の始業ベル。
寺院の鐘。
教会の鐘。
防災無線。
軍隊の起床ラッパ。
親が子供を呼ぶ声。
朝の鳥。
電車の始発音。
病院の検温を知らせる足音。
それらすべてが、一つの音となって夢界へ送信される。
鐘の音は三枝へ届いた。
奈緒へ届いた。
白い扉の前に立つ人々へ届いた。
そして、人々の背後にある暗闇へ届いた。
午前零時八分五十九秒。
世界中で、悪夢が始まった。
ある者の背後に、死亡した家族が立った。
ある者の足元から、巨大な虫が這い出した。
ある者の白い部屋が水で満たされた。
ある者の扉の向こうから、自分自身の死体が現れた。
暗闇。
炎。
海。
高所。
孤独。
忘却。
罪悪感。
言葉にできなかった恐怖が、姿を持って現れる。
人々は悲鳴を上げた。
白い扉から手を離す。
逃げる。
怪物が追う。
転ぶ。
捕まる。
恐怖によって、自分が夢を見ていると気づく。
白い扉が閉じる。
一人目が目を覚ました。
続いて、二人目。
十人。
百人。
一万人。
百万人。
夢界接続率が初めて低下した。
白い世界の外側で、何かが動きを止める。
突然増加した悪夢を認識したように。
三枝は地平線の向こうを見た。
姿は見えない。
ただ、空腹を示す巨大な気配だけがある。
「こっちを見た」
三枝が呟く。
伊吹の姿をしたナイトメアが、彼女を白い扉から遠ざける。
「見るな」
「MORNING BELLに気づいた」
「走れ」
「もし、これが悪夢を食べたら?」
伊吹は答えなかった。
答えられなかった。
世界中で、二十三億体以上のナイトメアが形成される。
人類史上最大規模の悪夢。
同時に発生した、食べきれないほどの恐怖。
咀嚼音が、再び響いた。
今度は白い部屋ではなく、出現したナイトメアの一体が消失した。
続いて二体目。
三体目。
地平線の向こうにいる何かが、MORNING BELLによって生成された悪夢を食べ始める。
それでも、ナイトメアたちは走った。
食べられる前に、一人でも多く起こすために。
伊吹が人々を追う。
顔のない教師が沙耶を捕まえる。
水死体の悠人が奈緒へ迫る。
三枝は白い扉に背を向け、全力で逃げた。
鐘が鳴り続けている。
現実側では、覚醒した人間の数が急速に増加していた。
しかし、夢界の外側にいるものもまた、世界中の悪夢へ近づいていた。
MORNING BELLは人類を起こし始めた。
同時に、これまで人類の夢を一口ずつ味見していた存在へ、初めて食事の時間を知らせていた。
――Tale-04『朝を鳴らせ』
第四章『私だけでは止められない』終了
次回予告
第五章 朝を鳴らせ
11月5日21時投稿予定




