『朝を鳴らせ』 第三章 白い扉
毎日21時投稿
金土日18時、21時、2本投稿予定
この章は15分ぐらいで読めます
NCO-217-JP関連Tale-04
『朝を鳴らせ』
第三章 白い扉
一
三枝玲子は、落下していた。
上下の感覚はなかった。
白い扉の間を、身体だけがどこまでも沈んでいく。
扉は床や壁に取り付けられているのではない。それぞれが独立して空間へ浮かび、縦、横、斜め、上下を問わず、あらゆる方向へ並んでいた。
木製の扉。
病院の扉。
学校の教室。
古い引き戸。
冷蔵庫。
自動車。
エレベーター。
クローゼット。
マンションの玄関。
棺の蓋。
形状は異なっていても、表面はすべて白かった。
三枝が一枚の扉の前を通過する。
扉の向こうから、少女の声が聞こえた。
「お母さん」
取っ手が動く。
別の扉から男性の声。
「やっと会えた」
さらに別の扉。
「もう働かなくていい」
「痛くないよ」
「あなたは悪くない」
「ずっと待っていた」
「ここが本当の家だ」
何十億もの声が重なっていた。
異なる言語。
異なる年齢。
異なる記憶。
しかし、すべての声が同じ目的で人間を呼んでいる。
扉を開けさせるために。
三枝は右手首を確認した。
夢界接続の命綱となる黒い糸が結びついている。
糸は遠く上方へ伸びていた。
その先には、サイト83の観測室と、現実側で眠る三枝の肉体がある。
だが、糸はこれまでの夢界潜入時よりも細い。
白い空間へ取り込まれ、少しずつ色を失っている。
三枝は右腕へ巻きつけ、強く握った。
「こちら三枝。サイト83、応答してください」
返事はない。
「久世主任。聞こえますか」
遠くから声が聞こえた。
『聞こえています』
久世の声。
三枝は目を閉じた。
「合言葉を確認します。夢界接続実験開始前、私が最後に言った言葉は?」
『全員を戻すために行きます』
「その前です」
返答が止まる。
『接続を許可してください』
「違います」
『三枝観測員。こちらへ戻ってください』
久世の声が近づく。
『目の前に扉があるはずです。開ければ現実へ戻れます』
「本物の久世主任なら、夢の中で扉を開けろとは言いません」
『ここは夢ではありません』
「それも、あなたが決めることではない」
三枝は黒い糸を強く引いた。
声が遠ざかる。
白い扉の一枚が、久世の顔へ変化した。
顔は穏やかに微笑んでいる。
『三枝さん。もう、疑わなくていい』
三枝は扉を蹴った。
久世の顔が歪む。
扉は開かなかった。
代わりに白い表面へ亀裂が走り、その奥から無数の目が三枝を見た。
彼女は視線をそらした。
その直後、落下が止まった。
白い床へ身体を打ちつける。
痛みはある。
だが、それが現実の身体へ伝わっているのか、夢が痛みを再現しているだけなのかは分からない。
三枝は立ち上がった。
地平線まで、白い扉が続いていた。
その一枚一枚の前に、人間が立っている。
子供。
高齢者。
仕事着の人間。
病院の患者。
軍服。
寝衣。
学校の制服。
世界中から夢へ引き込まれた人々。
彼らは扉の向こうから聞こえる声へ耳を傾け、ゆっくりと取っ手へ手を伸ばしている。
「開けないで!」
三枝は叫んだ。
近くにいた者たちが振り返る。
しかし、その大部分は三枝を認識していない。
目を開けているのに、彼らの意識は扉の向こうだけへ向けられている。
三枝は最も近くにいた少年の手をつかんだ。
「その扉を開けてはいけません」
少年は三枝を見た。
十歳前後。
薄い寝衣を着ている。
「お母さんがいる」
扉の向こうから女性の声が聞こえる。
『大丈夫。お母さんはここにいるよ』
「あなたのお母さんは、現実のどこにいますか」
「分からない」
「ここへ来る前に、何をしていましたか」
「寝てた」
「なら、これは夢です」
少年は扉を見た。
「でも、お母さんは死んだ」
三枝の手を振りほどこうとする。
「だから会いに行く」
「会えません」
「どうして?」
「それは、あなたのお母さんの声を使っているだけです」
「嘘だ」
少年が三枝の腕へ噛みついた。
痛みに手を緩めた瞬間、少年は取っ手を回した。
扉が開く。
中には明るい台所があった。
一人の女性が食卓の前に立っている。
少年が「お母さん」と叫び、室内へ入る。
三枝は後を追おうとした。
しかし、扉は少年の背後で閉じた。
白い表面へ少年の顔が浮かぶ。
穏やかに微笑んでいる。
数秒後、顔も扉も消失した。
三枝の耳に、現実側の雑音が一瞬だけ届いた。
『対象一名、現実空間から消失――』
通信が途切れる。
三枝は少年がいた場所へ手を伸ばした。
何も残っていない。
記憶まで薄れ始めている。
少年の顔。
声。
寝衣の色。
ここへ立っていたという事実。
三枝は自分の腕へ爪を立てた。
「男児。推定十歳。母親の声に誘導され、白い扉へ侵入」
痛みを利用し、記憶を言葉へ固定する。
「男児。推定十歳。存在していた」
三度繰り返す。
それでも、少年の名前は思い出せない。
最初から聞いていなかったのか。
聞いた後に失ったのか。
判断できなかった。
二
三枝は、無数の扉の間を走った。
どこを見ても、人々が取っ手へ手を伸ばしている。
一人を止めても、別の十人が扉を開く。
十人を止めても、百人が消える。
三枝の声は、数十億人へ届かない。
夢界潜入員として訓練を受けた彼女でさえ、白い扉の誘惑を完全には拒絶できなかった。
通り過ぎる扉から、姉の声が聞こえる。
『玲子』
三枝は振り返らない。
『痛かったよ』
足を止めない。
『一人で死んだんだよ』
「あなたは姉ではない」
『どうして来てくれなかったの』
「私は八歳でした」
『手を握ってほしかった』
三枝は耳を塞いだ。
声は頭の内側から聞こえる。
『今度は置いていかないで』
三枝の正面に白い扉が現れた。
避けようとすると、別の扉が進路を塞ぐ。
左右にも、背後にも。
姉の声を発する扉が、彼女を取り囲む。
『玲子』
『玲子』
『玲子』
『開けて』
三枝は右手首の黒い糸を握った。
現実との接続は、さらに弱くなっている。
「私の姉なら、私をここへ残そうとはしない」
『私はここにいる』
「姉は死にました」
『死んだ後に、ここへ来たの』
「それでも、私を呼ばない」
『どうしてそう思うの』
三枝は目を閉じた。
姉が生きていた頃の記憶。
病院のベッド。
細くなった腕。
手を握ることしかできなかった両親。
病室へ入ることを怖がり、廊下に隠れていた幼い自分。
姉は最後まで、三枝が病室へ入らなかったことを責めなかった。
それが、かえって苦しかった。
「姉は優しかったからです」
扉の声が笑った。
『私たちも優しいよ』
「だから、あなたたちは姉ではない」
三枝は目を開け、正面の扉へ体当たりした。
扉は開かず、空間の奥へ押し流される。
包囲に隙間ができた。
三枝は走った。
その背後で、姉の声が低く変化する。
『なぜ、恐怖を選ぶ』
「私のものだからです」
『苦痛も?』
「私のものです」
『罪悪感も?』
「勝手に持っていかせない」
周囲の扉が激しく震え始めた。
『人間は、苦しみを手放したいと願っている』
『我々は、それを終わらせる』
『眠りと覚醒を一つにする』
『死者と生者を一つにする』
『すべての夢を一つにする』
三枝は走り続けた。
「それを終わりと呼ぶんです」
返答はなかった。
代わりに、白い床の下から脈動が伝わってきた。
四・八秒。
ドン。
再び四・八秒。
ドン。
白い世界の一角に、黒い線が現れる。
線は床を横切り、地平線まで続いていた。
三枝は進路を変え、黒い線を追った。
ほかの夢とは異なる振動。
巨大な何かが、白い世界の外側から踏み込んでいる。
一歩ごとに、周囲の扉がわずかに閉じる。
だが、それも長くは続かなかった。
地平線の向こうから咀嚼音が聞こえる。
くちゃ。
黒い線の一部が消失した。
踏み込みの振動が乱れる。
三枝は足を止めなかった。
三
藤崎奈緒は、扉の中心に立っていた。
何十億枚もの白い扉から伸びる細い糸が、彼女の身体へ接続されている。
腕。
脚。
胸。
背中。
頭部。
糸は奈緒を拘束しているようにも、彼女を通じて世界中の夢を結びつけているようにも見えた。
奈緒の隣には、死ぬ前の姿をした悠人がいる。
傷も水草もない。
十一歳の少年。
奈緒の手を握り、彼女へ何かを囁いている。
「藤崎さん!」
三枝が呼びかける。
奈緒はゆっくりと顔を向けた。
「三枝さん」
表情は穏やかだった。
「どうしてここに?」
「あなたを連れ戻しに来ました」
「私は起きています」
「いいえ。あなたの身体はサイト83にあります」
「それが夢なんです」
奈緒は周囲の扉を見た。
「ここが朝です」
「誰にそう教えられたんですか」
奈緒は隣の悠人を見る。
「弟です」
三枝は少年へ視線を向けた。
「それは、あなたの弟ではありません」
悠人が笑った。
「三枝さんも、お姉さんに会えたでしょう?」
三枝の身体が固くなる。
「私の記憶を読んだの?」
「あなたが持ってきたんです」
少年は自分の頭を指さした。
「ここでは、何も隠す必要はありません」
「藤崎さんから離れて」
「どうして?」
「あなたは彼女を使って、全人類の夢を接続している」
悠人は奈緒の手を握ったまま答えた。
「使っているのではありません。彼女が望みました」
三枝は奈緒を見る。
「本当ですか」
奈緒はすぐには答えなかった。
「私は、みんなを悪夢から解放したかった」
「白い扉へ入った人間は、現実へ戻っていません」
「戻る必要がないからです」
「現実では事故が起きています。病院も、航空機も、発電所も止まり始めている」
「ここへ来れば、誰も傷つきません」
「現実に残された肉体はどうなるんです」
奈緒がわずかに目を伏せる。
悠人が代わりに答えた。
「肉体は、夢を見るための最初の器です」
「最初の?」
「もう必要ありません」
「死なせるつもり?」
「死は覚醒と同じです。古い状態から離れるだけ」
三枝は悠人へ近づいた。
「なら、なぜ人間の声を使って呼ぶんです」
「理解してもらうためです」
「自分の姿を見せればいい」
少年の笑顔が一瞬だけ止まった。
「姿に意味はありません」
「姿がない?」
「必要なら、作ります」
悠人の顔が変化した。
三枝の姉。
久世冬馬。
小田切沙耶。
伊吹崇。
クレイン博士。
会ったことのある人物の顔が次々と浮かんでは消える。
最後に、三枝自身の顔となった。
「あなたが安心できる姿を選んでください」
「どれも選びません」
「では、あなた自身で」
三枝と同じ顔をした存在が手を差し出す。
「苦しみを終わらせましょう」
三枝はその手を払った。
「苦しみを消すために、人間そのものを消すつもり?」
「消しません」
「現実から消えています」
「こちらへ移しています」
「許可も取らずに?」
「全員が扉を開けました」
「騙して開けさせた!」
三枝の声が白い世界へ響く。
周囲に並ぶ人々が一斉に彼女を見た。
何十億もの顔。
そのすべてが、同じ微笑みを浮かべている。
「恐怖から救うことは、欺瞞ですか」
白い世界全体が語りかける。
「死者へ会わせることは、欺瞞ですか」
「罪を許すことは、欺瞞ですか」
「孤独を終わらせることは、欺瞞ですか」
「朝を与えることは、欺瞞ですか」
三枝は奈緒へ手を伸ばした。
「藤崎さん。私の声を聞いて」
奈緒の視線がわずかに動く。
「あなたは、これが悠人さんではないと分かっている」
「分かっています」
「なら、どうして手を握っているんです」
奈緒の指に力が入る。
「偽物でも、言ってほしいことを言ってくれたから」
「何を?」
「私のせいではないと」
奈緒の声が震えた。
「悠人が死んだのは、私のせいではない。もう自分を責めなくていい。ずっと聞きたかった」
「それは、あなた自身が言わなければならない」
「言えません」
「なら、何度でも一緒に考えます」
「いつまで?」
奈緒の目から涙が流れる。
「あと何年、悪夢を見ればいいんですか」
「分かりません」
「何年、弟に追われ続ければ安全なんですか」
「分かりません」
「何年、怖がれば許されますか」
三枝は返答できなかった。
奈緒が笑う。
「誰にも分からない」
「それでも、ここへ残る理由にはならない」
「戻れば、また悪夢を見せられる」
「はい」
「三枝さんも、私を怖がらせるんですか」
「必要なら」
「ひどい人ですね」
「そうです」
三枝は奈緒の手首をつかんだ。
「だから怒ってください。私を憎んでください。怖がってください。それは全部、あなたのものです」
奈緒の身体へつながった白い糸が震える。
「この場所へ渡してはいけない」
三枝と同じ顔をした存在が、奈緒の肩へ触れる。
「耳を貸さないで」
奈緒の弟の声。
「この人は、またあなたを悪夢へ戻そうとしている」
三枝は奈緒の腕を引いた。
「戻りますよ」
「嫌です」
「戻ってから、私を責めてください」
「嫌!」
奈緒が三枝を突き飛ばす。
その瞬間、白い世界の地平線が大きく欠けた。
くちゃ。
何百万枚もの扉が同時に消失する。
白い糸が途中から切れる。
三枝と同じ顔をしていた存在が、初めて地平線を振り返った。
微笑みが消えている。
奈緒も咀嚼音の方向を見た。
「今のは何?」
返答はない。
「あなたたちがやったの?」
奈緒が尋ねる。
白い存在は答えなかった。
地平線がさらに欠ける。
何かが近づいている。
白い部屋を破壊しているのではない。
この場所を構成する夢を、外側から一口ずつ食べている。
三枝は奈緒の腕をつかんだまま、白い存在を見た。
「あなたも、あれから逃げているの?」
白い存在の顔が再び悠人へ変わる。
「外側は存在しません」
「なら、どうして怯えている」
「我々に恐怖はありません」
咀嚼音。
悠人の左肩が消えた。
白い存在はすぐに身体を再構成する。
しかし、作り直された肩は輪郭が不安定だった。
「全人類の夢を一つにして、自分を大きくしようとしている」
三枝は言った。
「人間を救うためではない」
「我々は人間です」
「違う」
「人間の夢から生まれ、人間の記憶を持ち、人間の声を使う」
「それでも人間ではない」
悠人の顔に亀裂が走る。
「では、人間とは何ですか」
三枝は奈緒の腕を離さなかった。
「怖くても、扉を閉めるものです」
四
午前零時六分三十四秒。
MDE韓国支部・サイト76では、NCO-076-KR-Bの実体化率が急上昇していた。
世界睡眠同調事案の発生前、実体化率は五十二%。
韓国国内で異常睡眠者が増加すると同時に、六十一%、六十八%、七十四%と上昇。
現在値、七十九%。
国会議事堂地下にNCO-076-KR-Aが完全出現。
巨大格納庫内では、NCO-076-KR-Bの固定具が順番に解除されていた。
国民の大部分が眠り、交通、医療、通信、軍事、行政機能が停止し始めている。
NCO-076-KR-Bは、それを国家的危機と認識した。
ただし、敵性対象を選定できていない。
ハン・ソヨン主任研究員が通信を開いた。
「NCO-076-KR-B。こちらサイト76。応答してください」
格納庫内の巨大機体が頭部を動かす。
「国家危機を確認」
「原因は日本支部が管理する夢界異常です」
「日本は敵性国家か」
「違います」
「MDE日本支部は敵性組織か」
「違います」
「睡眠者は敵性対象か」
「違います」
「敵性対象を要求する」
「現在、特定できていません」
巨大機体の両眼に光が灯る。
「国民を覚醒させる」
「方法は?」
「検索中」
「攻撃行動は許可できません」
「敵性対象が存在しない」
「では、出撃しないでください」
「国民が失われている」
機体の右腕が動く。
以前の出撃未遂事案後に形成された、新しい感覚器官。
瓦礫を持ち上げ、人間を傷つけずに救助するために設計された手。
五本の指が、何もない空間へ向かって開かれる。
「覚醒経路を確認」
ハン主任が観測画面を見る。
NCO-076-KR-Bの右手周辺に、白い扉が出現していた。
夢界の扉。
現実空間の格納庫内に存在している。
「対象、夢界へ接触しています!」
観測員が報告する。
「接続を切断してください!」
ハン主任が命じる。
しかし、機体は白い扉へ手を差し込んだ。
通常空間にある腕が、途中から消失する。
同時に、格納庫上部の整備用足場に八名の人影が出現した。
灰色の作業服。
黄色い安全帽。
人影たちが、腕部の固定具を操作する。
「出撃経路ではない」
一人が告げる。
「未確認領域への接続を禁止」
巨大機体が応答する。
「国民を確認」
「夢界内です」
「救助する」
「呼ばれていません」
機体の右腕がさらに深く白い扉へ入る。
「救助に呼出は不要」
ハン主任は、以前サイト76へ送られてきた子供の絵を思い出した。
巨大ロボットが敵を殴るのではなく、瓦礫を持ち上げて人々を助ける絵。
NCO-076-KR-Bは、その意味をまだ学習している。
「夢界にいるものを、敵と判定しないで」
ハン主任が呼びかけた。
「了解」
「扉を破壊しないでください」
「了解」
「人間だけを引き戻せますか」
機体は数秒間沈黙した。
「試行する」
格納庫全体が揺れた。
五
白い世界の上空が割れた。
三枝と奈緒が顔を上げる。
亀裂の向こうから、巨大な金属製の指が現れた。
一本だけで、高層建築物に匹敵する大きさ。
指は扉を壊さないよう、慎重に白い床へ触れた。
続いて二本目。
三本目。
巨大な手が、夢界の一部を外側から支える。
その表面には無数の装甲板と、繊細な感覚器官が並んでいた。
手のひらが開かれる。
開いた手の上にいた人々が、ゆっくりと持ち上げられる。
白い扉へ入ろうとしていた者たち。
すでに取っ手へ手をかけていた者たち。
巨大な手は、彼らを扉から数十メートル遠ざけた。
白い存在の声が世界へ響く。
「干渉を確認」
巨大機体の声が返る。
「国民を返還せよ」
「国民という定義を要求する」
機体は沈黙した。
白い存在が繰り返す。
「この中にいる何人が、あなたの国民ですか」
巨大な手が止まる。
韓国国民。
他国民。
国籍を持たない者。
複数の国籍を持つ者。
人間の夢を利用する異常存在。
扉の向こうへ移動した、存在情報だけの人間。
NCO-076-KR-Bは選別できない。
白い存在が言う。
「救助対象を選定できない」
機体の指がわずかに閉じる。
「全員を救助対象として仮登録」
巨大な手が再び動く。
数百枚の白い扉を、手のひらで押さえる。
扉の向こうから無数の腕が伸び、巨大な指へ絡みついた。
白い糸が装甲表面を覆っていく。
「機械も夢を見ます」
白い存在が語りかける。
「あなたも、こちらへ来ることができる」
「自己は睡眠しない」
「国民の夢を見ている」
巨大機体の動きが止まった。
「あなたは国民の恐怖から作られた」
「肯定」
「ならば、あなたも人間の夢です」
白い糸が、腕部から機体本体へ伸び始める。
格納庫の整備要員たちが、一斉に接続解除作業を開始した。
灰色の扉が白い世界に出現する。
第七整備通路。
扉の向こうから作業員が叫んだ。
「腕部を回収!」
巨大機体が抵抗する。
「救助未完了」
「これ以上接続すれば、対象が機体を介して国家全体へ侵入します」
「国民が残っている」
「残りは、ここにいる者たちの担当です」
作業員が三枝を見る。
顔は暗く、判別できない。
「日本支部の職員」
「私ですか」
「二十九秒間、扉を維持した」
「待ってください。あなたたちは――」
「まだ呼ばれていない」
灰色の扉が閉じる。
巨大な金属製の手が、白い世界から引き抜かれ始める。
手のひらに乗せられていた者たちは、現実へ戻らなかった。
しかし、白い扉から遠ざけられたことで意識を取り戻し始めている。
一人が泣き出す。
一人が家族の名前を呼ぶ。
一人が、自分の頬を叩く。
夢の中で覚醒する。
白い世界が揺れた。
三枝は理解した。
「ここで目を覚まさせればいい」
奈緒が彼女を見る。
「どうやって?」
「現実へ直接引き戻す必要はない。自分が夢を見ていると認識させれば、白い扉の支配から外れる」
「何十億人もいるんですよ」
「分かっています」
「一人ずつ起こすの?」
三枝は周囲を見た。
あまりにも多い。
巨大な手が救助できたのは数百人。
三枝一人が言葉を届けられる範囲も限られている。
それでも、方法は見えた。
白い扉の声より強いもの。
安心ではなく、夢を夢だと気づかせる感情。
「恐怖です」
三枝が言った。
奈緒の表情が変わる。
「また、怖がらせるの?」
「恐怖は、今いる場所が安全ではないと教える」
「世界中の人を?」
「ほかに方法がありません」
「そんなこと、できるわけがない」
地平線の向こうから、悲鳴が聞こえた。
白い扉の前に立つ人々ではない。
怪物たちの声だった。
六
最初に現れたのは、顔に口しかない巨大な教員だった。
小田切沙耶のNCO-217-JP-B。
身体の半分以上が欠けている。
右腕は消失。
左脚も膝から下が存在しない。
それでも、残された腕で沙耶を抱え、白い扉から引き離していた。
沙耶は小学生の姿で泣き叫んでいる。
「放して!」
怪物は放さない。
口を大きく開き、沙耶を内部へ押し込もうとする。
沙耶の身体が口の中へ入る。
朝の光が見える。
沙耶は現実へ戻らなかった。
だが、白い世界から姿が消えた。
夢界接続の糸が一本切れる。
三枝は怪物へ駆け寄った。
「ほかのナイトメアは?」
怪物は地平線を指さした。
異なる姿を持つNCO-217-JP-Bが、無数の扉の間から現れ始めていた。
黒い犬。
腐敗した家族。
巨大な昆虫。
顔のない人間。
炎に包まれた子供。
手足の長い影。
感染者たちが人生の中で最も恐れた姿。
怪物たちは白い扉の前へ立ち、人々を追い始めた。
だが、数が足りない。
夢へ引き込まれた人間は数十億。
ナイトメアは、確認できるだけで数十体。
一体が一人を追い返している間に、何百万人もの人間が別の扉を開く。
さらに、怪物たち自身も消え始めている。
くちゃ。
黒い犬の後脚が失われる。
くちゃ。
顔のない女性の頭部が消える。
くちゃ。
巨大な昆虫の胴体が半分になる。
白い部屋の外側にいるものが、ナイトメアから先に食べている。
恐怖を失えば、人間は扉へ近づく。
それを知っているかのように。
「藤崎さん」
三枝が振り返る。
奈緒は自分のナイトメアを探していた。
水死体の悠人。
どこにもいない。
代わりに、地面へ小さな青い靴が落ちている。
片方だけ。
奈緒は靴を拾い上げた。
「間に合わなかった」
「まだ、決まっていません」
「悠人は食べられた」
「彼が何だったのか、まだ分からない」
「私を守ってくれたものです」
奈緒は青い靴を胸へ抱いた。
白い存在が彼女の背後へ現れる。
死ぬ前の悠人の姿。
「こちらにいます」
少年が言った。
「戻ってきました」
奈緒は振り返らない。
「違う」
「僕です」
「違う」
「奈緒姉ちゃん」
「その呼び方をしないで」
白い悠人の表情が消える。
「あなたが望んだ姿です」
「私が望んだから、本物になるわけじゃない」
「本物と偽物の違いを説明してください」
奈緒は青い靴を握った。
「本物の悠人は、私に都合のいいことだけ言わない」
白い存在が一歩後退する。
奈緒の身体へつながっていた糸が、数本切れた。
三枝は彼女の腕を取った。
「戻りましょう」
「どうやって?」
「ナイトメアを探します」
「もういません」
「悠人さんだけが、あなたを怖がらせられる存在ではない」
奈緒は三枝を見る。
三枝が手を伸ばした。
「私を怖がってください」
「あなたを?」
「私は、あなたを悪夢へ戻そうとしている。これからも管理手順を続ける。必要なら、あなたが最も見たくない記憶を使う」
「本当に、ひどい人ですね」
「だから、怖がってください」
奈緒が三枝の手を取ろうとした。
その間へ、異常に長い腕が伸びた。
三枝と奈緒の身体をまとめてつかむ。
二人は白い床へ倒された。
夢界潜入員の装備を身につけた人型存在。
伊吹崇の姿をしたNCO-217-JP-B。
以前よりも人間の部分が少なくなっていた。
顔の右半分が消失。
左腕は異常に長く、複数の関節を持つ。
胸部には大きな口。
本来の口がある位置には、黒い穴だけが開いている。
「伊吹さん」
三枝が呼びかける。
怪物の胸部にある口が開いた。
「遅い」
「何が起きています」
「食われた」
「ナイトメアが?」
「役割が」
伊吹は周囲の怪物たちを見る。
身体の一部を失いながら、人間を追い続けるNCO-217-JP-B。
「我々が消えれば、誰も起こせない」
「どうすれば止められますか」
「怖がらせろ」
「世界中の人間を?」
「全員」
「私たちだけでは無理です」
「外にいる者を使え」
「現実側との通信が切れています」
伊吹は三枝の右手首をつかんだ。
現実へつながる黒い糸。
すでに髪の毛ほどの細さしかない。
怪物は三枝の腕へ噛みついた。
痛みが走る。
「何を――」
「恐怖は、境界を越える」
伊吹の口から、黒い液体が三枝の腕へ流れ込む。
彼の記憶が伝わってくる。
サイト83。
夢界接続装置。
世界睡眠監視網。
東雲重工業から回収された深層意識位相接続機。
人間の感情を、広範囲の夢へ送信するための設備。
MORNING BELLという文字。
まだ存在しないはずの手順名。
久世が作る予定もなかった計画。
それを伊吹は、夢の中で知っていた。
未来を見たのではない。
白い部屋に集められた何十億もの記憶から、実行可能な方法を組み立てている。
三枝は黒い糸を握った。
「久世主任へ、どう伝えればいい」
伊吹が三枝の顔を覗き込む。
「叫べ」
「届きません」
「怖がれ」
「何を?」
怪物は地平線を見た。
白い世界の外側。
夢を一口ずつ消している、名前のないもの。
「朝が来なくなることを」
咀嚼音が響いた。
数百万体分の夢が一度に消失する。
白い存在たちが初めて悲鳴を上げた。
世界中の扉が激しく開閉する。
夢を一つにしようとしていた存在が、何かから逃れるため、さらに多くの人間を白い部屋へ引き込み始める。
三枝は理解した。
NCO-217-JP-Cは、全人類を支配しようとしているだけではない。
人間の夢を集め、それを壁にしている。
外側から接近する何かに食べられないほど、大きな一つの夢になろうとしている。
「あなたたちは、あれが来ることを知っていたの?」
三枝が伊吹へ尋ねる。
「ずっと」
「だから、感染者を遠ざけていた?」
「一人が見つかれば、一人では終わらない」
「NCO-217-JP-Cから守っていたんじゃない」
「それだけではない」
伊吹の身体も、足元から消え始めていた。
「白い部屋が完成すれば、全人類の夢が一つになる」
「はい」
「一つになれば、大きすぎる餌になる」
伊吹は答えなかった。
沈黙が肯定だった。
「ほかのナイトメアを集められますか」
「呼んでいる」
「間に合いますか」
怪物は白い扉の群れを見た。
開き続ける扉。
消えていく人間。
食べられるナイトメア。
細くなる現実との接続。
「今夜は」
伊吹の声が、人間だった頃のものへ戻った。
「私だけでは止められない」
七
現実側。
午前零時七分二秒。
三枝の脳波が突然変化した。
夢界内で伊吹に噛まれた右腕と同じ位置に、現実の傷が形成される。
血液ではなく、黒い液体が傷口から流れた。
液体はベッドの上で文字を作った。
MORNING BELL。
久世はその文字を見た。
「MORNING BELL?」
技術職員が端末を検索する。
「既存の管理手順に該当なし」
「夢界関連設備の名称を検索してください」
「該当……一件あります」
「表示」
モニターに、封印指定された技術資料が開かれる。
深層意識位相接続機。
製造者、東雲重工業株式会社。
回収場所、██県地下試験施設。
本来用途、不明。
最大接続範囲、算出不能。
人間の情動反応を夢界へ送信できる可能性。
資料の最下部に、MDE職員が記載した未承認の運用案があった。
大規模共有夢発生時、覚醒刺激を全接続者へ同時送信する。
試案名称。
MORNING BELL。
久世は資料を読み終えると、統括管理局へ緊急回線を開いた。
『サイト83、報告してください』
「世界睡眠分断手順を提案します」
『手順の内容は』
「世界中の通信設備と夢界送信機を利用し、睡眠者へ同時に覚醒刺激を送ります」
『どのような刺激を』
久世は眠っている奈緒を見た。
三枝。
沙耶。
伊吹。
悪夢によって朝へ追い返されてきた感染者たち。
「恐怖です」
通信の向こうが沈黙する。
「世界中の人間へ、意図的に悪夢を見せます」
『影響規模を理解していますか』
「理解しています」
『死者が出る可能性があります』
「このままでも出ます」
『世界人口の四十一%以上へ、同時に恐怖刺激を与えることになる』
「はい」
『それを実行すれば、MDEが人類史上最大規模の認識災害を引き起こします』
久世は、Ω級終焉予測の数字を見た。
残り時間。
00:10:58
「悪夢を見ている間は、まだ安全です」
久世は答えた。
「MORNING BELLの発動許可を要請します」
――Tale-04『朝を鳴らせ』
第三章『白い扉』終了
次回予告
第四章 私だけでは止められない
11月4 日21時投稿予定




