『朝を鳴らせ』 第一章 悪夢が消えた夜
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NCO-217-JP関連Tale-04
『朝を鳴らせ』
第一章 悪夢が消えた夜
一
藤崎奈緒が弟に殺される夢を見るようになってから、八か月が経過していた。
夢の始まりは毎晩同じだった。
幼少期に暮らしていた家。
天井近くまで満たされた濁った水。
暗い窓の外を流れる川。
水中を漂う家具の間から、十六年前に死亡した弟、悠人が現れる。
死亡時と同じ十一歳の姿。
白く膨らんだ皮膚。
髪や衣服に絡んだ水草。
瞳のない両目。
口から黒い水を流しながら、奈緒の名前を呼ぶ。
奈緒が逃げると、悠人は追ってくる。
廊下を走る。
階段を上る。
どれほど逃げても、最後には必ず捕まる。
悠人は奈緒の背中へ爪を立て、肩へ噛みつき、彼女を濁った水の中へ引き倒す。
奈緒が恐怖と苦痛に耐えられなくなった瞬間、夢の中に朝の光が差し込む。
そして、彼女はサイト83のベッドで目を覚ます。
最初の一か月間、奈緒は眠ることを拒否した。
二か月目には、睡眠時間が近づくたびに嘔吐した。
三か月目には、夢の中で聞こえる弟の足音だけで失神するようになった。
それでも、四か月を過ぎた頃から変化が現れた。
恐怖に慣れ始めた。
悠人がどこから現れるのか。
どの廊下を通るのか。
どこで振り返れば姿が見えるのか。
どれだけ逃げれば捕まるのか。
夢の規則を覚えると、奈緒は以前ほど驚かなくなった。
サイト83の心理研究部門は、NCO-217-JP-Bによる覚醒効果が低下していると判断した。
夢の舞台が変更された。
水没した自宅から、弟が死亡した川岸へ。
川岸から、遺体安置室へ。
遺体安置室から、葬儀場へ。
悠人の外見も変化した。
水死体。
膨張した巨大な人型存在。
手足が異常に長い少年。
奈緒と同じ顔をした弟。
奈緒自身の遺体を背負った姿。
いずれも、奈緒の記憶と恐怖反応を基礎として形成されていた。
夢は変化するたびに恐ろしさを取り戻した。
だが、それも長くは続かなかった。
どれほど外見が変わっても、中にいるものが悠人であると分かってしまったからだった。
怪物が自分を傷つけるたび、奈緒は白い扉から遠ざけられる。
痛みの先には、必ず朝がある。
そう理解した時点から、恐怖は少しずつ別の感情へ変わっていった。
悲しみ。
罪悪感。
そして、感謝。
ナイトメアを信頼してはいけないと、久世冬馬は何度も警告した。
あれらが本当に人間を守ろうとしているのかは分からない。
元の人間の意識を残しているとしても、それが本人と同一である保証はない。
ナイトメアがNCO-217-JP-Cとは異なる目的で感染者を利用している可能性も残されている。
それでも奈緒は、夢に現れる悠人を完全な怪物とは思えなくなっていた。
二
午後二時、奈緒は定期面談のため久世の執務室を訪れた。
机の上には、感染者十七名分の恐怖反応記録が積まれている。
夜凪睡眠医療センターから移送された十二名に加え、二次感染したMDE職員と民間人が新たに収容されていた。
その中には、夢界潜入中に昏睡した伊吹崇も含まれている。
伊吹の肉体は今も医療区画で眠り続けていた。
一方、彼の姿をしたNCO-217-JP-Bは複数の感染者の夢に現れ、白い扉へ近づく者を追跡している。
人間として眠りながら、怪物として他人を起こしている。
現在のMDEにも、その状態を説明する言葉はなかった。
「昨夜の夢について教えてください」
久世が尋ねた。
「いつもと同じです」
奈緒は答えた。
「自宅の廊下を逃げて、悠人に捕まりました」
「悠人、という呼び方を記録に残しても?」
「構いません」
「NCO-217-JP-Bの外見は」
「十一歳。死亡時の姿でした」
「何か変化は?」
奈緒は少し考えた。
「左手の指がありませんでした」
久世が顔を上げる。
「以前から?」
「昨夜が初めてです」
「どのように失われていましたか」
「切断されたようには見えませんでした。最初から指がなかったみたいに」
久世は内容を記録する。
「ほかに欠損は?」
「左耳もなかったと思います」
「曖昧ですか」
「顔をよく見なかったので」
それは嘘だった。
奈緒は夢の中で、悠人の顔を正面から見ていた。
左耳だけではない。
頬の一部も欠けていた。
傷口も断面もなく、その場所だけが認識できなかった。
視線を向けても、直後にはどこが欠けていたのか思い出せなくなる。
夜凪睡眠医療センターで見た白い部屋の欠損と同じだった。
それを正直に報告すれば、睡眠時の刺激が強化される。
別の恐怖記憶を基礎に、ナイトメアの姿を変えられるかもしれない。
再び悠人の遺体安置室を夢に見せられるかもしれない。
奈緒は、これ以上弟の姿を作り変えられたくなかった。
「恐怖反応は維持されていますか」
久世が尋ねる。
「はい」
「昨夜の最大心拍数は、これまでの平均を下回っています」
「夢に慣れてきたのかもしれません」
「それは安全な状態ではありません」
「分かっています」
久世は奈緒の目を見た。
「本当に?」
彼女は答えなかった。
久世は端末を閉じた。
「藤崎さん。この管理手順が苦痛を与えていることは理解しています」
「なら、やめてください」
「できません」
「分かっています」
奈緒は同じ言葉を返した。
「ナイトメアを怖がらなくなったら、もっと怖い夢を見せる。私がそれにも慣れたら、また次を用意する。それが私たちを守るために必要なんでしょう」
「現在は、それ以外の方法がありません」
「いつかはありますか」
「探しています」
「八か月前にも、同じことを言いました」
久世は否定しなかった。
「あなたたちは、私たちを眠らせたいのか、眠らせたくないのか、どちらなんです」
「眠って、戻ってきてほしい」
「そのために、悪夢を見せる」
「はい」
奈緒は乾いた笑いを漏らした。
「本当に、ひどい治療ですね」
「治療ではありません」
「知っています」
久世は恐怖反応記録を机の端へ寄せた。
「今夜の睡眠には、刺激調整を行いません」
奈緒は意外そうに彼を見た。
「いいんですか」
「NCO-217-JP-B自体に欠損が発生している可能性があります。外部から刺激を加えず、自然な状態を観測します」
「悠人が消えかけているんですか」
「まだ判断できません」
「消えたらどうなります」
久世は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「今夜、眠りたくありません」
奈緒が言った。
「拒否は認められません」
「悠人がいないかもしれないのに?」
「だからこそ、監視下で確認する必要があります」
「私を使って?」
「はい」
久世は目をそらさなかった。
「危険が確認された場合、直ちに覚醒処置を行います」
「失敗したら?」
「失敗させません」
「夜凪睡眠医療センターでも、患者を起こせなかった」
「今回は設備も職員も違います」
「白い部屋にとっても?」
久世は答えられなかった。
奈緒は椅子から立ち上がった。
「午後十一時でしたね」
「はい」
「眠る前に、小田切さんと話をしても?」
「許可します」
奈緒が扉へ向かう。
「藤崎さん」
久世が呼び止めた。
「何ですか」
「昨夜、本当に怖かったですか」
奈緒は少しだけ振り返った。
「はい」
もう一度、嘘をついた。
三
小田切沙耶は、夢界管理病棟の共同休憩室で絵を描いていた。
黒い廊下。
白い扉。
口しかない巨大な教員。
以前なら、怪物は沙耶を追いかける姿で描かれていた。
今日の絵では、怪物は白い扉の前に座っている。
長い腕を床へ垂らし、背中を丸めていた。
「疲れているんですか」
奈緒が尋ねる。
沙耶は色鉛筆を置いた。
「最近、走るのが遅いの」
「先生が?」
「うん」
「夢の中で、何か言っていましたか」
「まだ走れるって」
「ほかには?」
「もう一人必要だって」
奈緒は沙耶の隣へ座った。
「何に、もう一人必要なの?」
「分からない」
沙耶は絵の怪物へ、黄色い色鉛筆で何かを描き加えた。
安全帽だった。
「先生がこれをかぶってたの?」
「知らない人がかぶってた」
「夢に、ほかの人が出てきた?」
「灰色の服の人」
奈緒はNCO-076-KRに関する資料を知らない。
第七整備通路も、議事堂地下の人影についても聞かされていなかった。
「その人は何をしていたの?」
「大きい人を起こそうとしてた」
「大きい人?」
沙耶は画用紙の隅に、黒い頭部を描いた。
人間に似た機械の顔。
両目は閉じている。
「でも、まだ呼ばれてないから起きちゃだめだって」
「誰が言ったの?」
「大きい人」
奈緒は絵を見つめた。
「その大きい人は、何を待っているの?」
「みんなが怖いって言うのを待ってる」
「怖いと起きるの?」
「分からない」
沙耶は新しい紙を取り出した。
「でも、昨日は大きい人も夢を見てた」
「どんな夢?」
「白い扉がいっぱいある夢」
奈緒は何も言えなかった。
沙耶が奈緒を見る。
「看護師さんの弟も、疲れてる?」
「どうしてそう思うの?」
「顔が少しずつなくなってるから」
奈緒の身体が固くなる。
「私の夢を見たの?」
「違うよ」
沙耶は自分の頭を指さした。
「私の先生が教えてくれたの」
「何て?」
「次は、みんなで走るって」
「いつ?」
沙耶は壁の時計を見た。
午後三時十七分。
「今夜」
四
午後十時五十分。
奈緒は夢界管理病棟第四睡眠室のベッドに横たわっていた。
頭部、胸部、両腕に観測機器が取り付けられている。
右手には緊急覚醒用の圧力端子。
左手首には、非言語刺激装置。
心拍、呼吸、脳波、体温、眼球運動、夢界深度が、隣接する管制室へ送信されている。
ガラスの向こうには久世、三枝玲子、医療職員、夢界技術員が待機していた。
クレイン博士は別の感染者の監視を担当しており、管制室にはいない。
「聞こえますか」
天井のスピーカーから久世の声がした。
「聞こえています」
「異常を感じた場合は、左手を二回握ってください」
「夢の中でもできますか」
「身体側に反応が出ます」
「できなかったら?」
「こちらで判断します」
「判断を間違えたら?」
スピーカーが短く沈黙した。
「そのときは、私が責任を負います」
奈緒は天井を見た。
「私が戻ってこなくても?」
久世は答えなかった。
奈緒は目を閉じた。
睡眠導入剤は使用されていない。
それでも、数分もしないうちに強い眠気が訪れた。
呼吸が遅くなる。
手足の感覚が薄れる。
最後に聞こえたのは、管制室の職員が読み上げる時刻だった。
「午後十一時四十八分。対象、レム睡眠へ移行」
五
奈緒は川岸に立っていた。
十六年前と同じ夏の日。
空には夕焼けが広がり、川の水面を赤く染めている。
少し離れた場所に、悠人の青い靴が置かれていた。
靴の隣には、白い扉が立っている。
壁も建物もない。
河原の中央に、扉だけが存在していた。
奈緒は扉から目をそらした。
「悠人」
返事はない。
いつもなら、川の中から水音が聞こえる。
濡れた足跡が河原へ現れ、弟が奈緒を追い始める。
今夜は何も起きなかった。
「悠人!」
奈緒は大きな声で呼んだ。
夕焼けが少しずつ暗くなる。
川の流れが止まる。
水面が平らになり、鏡のように空を映した。
白い扉の向こうから声が聞こえる。
「奈緒姉ちゃん」
奈緒は扉を見た。
「開けない」
「もう大丈夫だよ」
「あなたは悠人じゃない」
「知ってる」
扉の向こうの声が笑う。
「でも、奈緒姉ちゃんが聞きたい声は、これでしょう?」
奈緒は後退した。
その背中へ、冷たい手が触れた。
振り返る。
悠人が立っていた。
水死体の姿。
だが、身体の一部が失われている。
左手の指。
左耳。
頬。
右肩。
胸部の半分。
欠損部分に傷口はない。
そこに何かがあったと認識することすら難しい。
奈緒が視線を外すと、どこが消えていたのか思い出せなくなる。
「悠人」
怪物は奈緒を追わなかった。
立っているだけで、身体が少しずつ崩れていく。
白い粒子になるのではない。
暗闇へ消えるのでもない。
一口ずつ、存在しなかったことにされている。
くちゃ。
川の向こうから咀嚼音が聞こえた。
くちゃ。
悠人の右腕の一部が消える。
奈緒は怪物へ近づいた。
「逃げて」
悠人が言った。
「どこへ?」
「上へ」
「ここには、上へ行く場所なんてない」
「起きて」
「どうすればいい?」
悠人は残った腕を持ち上げようとした。
奈緒を傷つけ、恐怖によって覚醒させるために。
しかし、腕は途中から欠けている。
爪もない。
奈緒は、その姿を見ても恐怖を感じなかった。
「もう、私を怖がらせられないの?」
悠人の口から黒い水が流れた。
「怖がって」
奈緒は首を横に振った。
「無理よ」
「怖がれ」
「あなたが私を助けてくれたと知ってる」
「違う」
「毎晩、白い扉から遠ざけた」
「違う」
「私を起こしてくれた」
「違う!」
悠人の声が河原へ響いた。
川の水面に亀裂が走る。
鏡のようだった表面が割れ、その下から白い光が漏れる。
無数の白い扉が、水中に沈んでいた。
「俺を信じるな」
悠人が言った。
「どうして?」
「信じたら、怖がれない」
「怖がらなかったら、どうなるの?」
「お前を起こせない」
白い扉の取っ手が動いた。
奈緒は後退しようとした。
足が動かない。
河原の砂が白く変わり、足首を覆っている。
「今夜、何が起きるの」
悠人は川の向こうを見た。
咀嚼音が近づく。
「食べ終わる」
「何を?」
「ここを守るものを」
「あなたたちを?」
悠人は答えなかった。
白い扉が少し開く。
死ぬ前の悠人が、その向こうに立っている。
濡れていない。
傷もない。
青い半袖シャツ。
川へ遊びに行った日の姿。
「奈緒姉ちゃん」
優しい悠人が手を差し出した。
「今度は一緒に来て」
水死体の悠人が、その間へ入ろうとする。
咀嚼音。
左脚が消える。
怪物はその場へ倒れた。
奈緒は駆け寄り、身体を支えようとした。
触れることができない。
指先が、欠損した部分を通過する。
「悠人!」
「逃げろ」
「一緒に行こう」
「俺は起きられない」
「なら、私も残る」
怪物が奈緒を見た。
瞳のない顔。
それでも、怒っていると分かった。
「お前が残れば、ほかの夢とつながる」
「ほかの感染者?」
「それだけじゃない」
「では、誰と?」
悠人の口が動いた。
音が出る前に、喉が消失した。
くちゃ。
顔の下半分が欠ける。
奈緒は叫んだ。
怪物の残された右目に、初めて瞳が現れた。
人間だった頃の、悠人の目。
「怖がって」
声は聞こえなかった。
それでも、そう言ったのだと分かった。
奈緒は泣いていた。
だが、恐怖ではなかった。
弟を二度失う悲しみだった。
白い扉の向こうにいる悠人が、彼女の肩へ手を置いた。
暖かい。
「もう怖がらなくていい」
奈緒は振り返った。
優しい弟が笑っている。
「ずっと苦しかったでしょう?」
奈緒は答えなかった。
「もう、誰にも怖い夢を見せなくていいんだよ」
「みんなも?」
「うん」
「小田切さんも、ほかの患者も?」
「全員」
「伊吹さんも?」
「全員、起こしてあげる」
「本当に?」
「朝にしてあげる」
白い扉の向こうから、暖かい光が差している。
奈緒は扉の前に立った。
倒れたナイトメアが、残された指で地面を引っかく。
奈緒の足首へ届こうとしている。
だが、触れられない。
身体の大部分が失われている。
「ごめんね」
奈緒は怪物へ言った。
「今まで、ありがとう」
ナイトメアの右目が大きく開いた。
奈緒は白い扉の取っ手へ手をかけた。
六
現実側の管制室で、警報が鳴った。
「対象心拍数、低下!」
医療職員が叫ぶ。
「表情筋に変化。対象が微笑んでいます!」
久世は監視映像を見る。
奈緒はベッドの上で穏やかに眠っている。
白い扉へ到達した感染者と同じ表情。
「CRADLE-REDを開始!」
非言語覚醒刺激が作動する。
左手首への電気刺激。
強光。
冷水噴射。
筋肉刺激。
奈緒の身体は反応しない。
「夢界深度、上昇!」
「刺激を最大出力へ!」
「反応ありません!」
三枝が夢界潜入装置へ向かった。
「私が入ります」
久世が止める。
「接続経路が不安定です」
「このままでは扉を開けます!」
「分かっています!」
「なら、行かせてください!」
久世が返答するより先に、別の警報が加わった。
「第二睡眠室、感染者が睡眠状態へ移行!」
「睡眠予定ではありません!」
「第三、第五、第七睡眠室でもレム睡眠を確認!」
病棟内の監視映像が切り替わる。
読書をしていた患者が椅子の上で眠っている。
医療職員と話していた感染者が、その場へ倒れる。
食事中だった患者も、手にスプーンを持ったまま目を閉じている。
「全感染者が同時にレム睡眠へ移行しています!」
「時刻は」
「午後十一時五十分!」
久世は奈緒のベッドへ近づいた。
「名前で呼ばないでください!」
三枝が叫ぶ。
NCO-217-JP-Cは、呼びかけを通じて感染者の自己認識を固定する可能性がある。
久世は奈緒の名前を飲み込んだ。
代わりに、ベッド脇の金属柵を強く叩く。
反応はない。
奈緒の右手が動いた。
夢の中で扉を開くように、指がゆっくりと回転する。
「覚醒刺激、出力限界です!」
「夢界深度、測定不能!」
「MORPHEUS監視網に異常!」
世界各地の睡眠観測データが管制室へ流れ込む。
日本国内の複数地点。
韓国。
中国。
ロシア。
ヨーロッパ。
北米。
南米。
通常なら互いに無関係な人間の脳波が、同じ周期へ近づき始めている。
四・八秒。
すべての脳波が、同時に上下する。
サイト83の照明が消えた。
非常電源が作動する。
赤い照明の中で、病棟の患者たちが同時に微笑んだ。
地下保管区画では、電源へ接続されていない「ぐっすり!おやすみドリームシアター」が作動した。
映像内のわくわく博士は、笑っていなかった。
暗い画面の中央に立ち、何度も同じ言葉を繰り返している。
『起こして』
『みんなを起こして』
『夢が、一つになっちゃう』
職員が保管容器を確認したとき、博士の背後に白い扉が現れた。
扉が内側へ開く。
映像が消失した。
同じ瞬間、奈緒の心拍が一度だけ停止した。
夢の中で、白い扉が開いた。
扉の向こうには朝があった。
奈緒が一歩踏み出す。
その足元から、白い床が世界中へ広がっていく。
サイト83。
ソウル。
北京。
モスクワ。
ロンドン。
ニューヨーク。
まだ眠っている人間。
起きている人間。
夢を見ている者。
夢を忘れた者。
互いに会ったことのない何十億人もの足元に、同じ白い床が形成される。
世界中の夢の中へ、一枚ずつ扉が現れた。
扉の向こうから、それぞれが最も信頼する人物の声が聞こえる。
「もう怖がらなくていい」
奈緒は白い部屋の中央に立っていた。
周囲には、数え切れないほどの扉が並んでいる。
扉の数は、今も増え続けていた。
彼女の背後で、何かが最後のナイトメアを噛み砕いた。
くちゃ。
咀嚼音が止まる。
世界から、悪夢が消えた。
――Tale-04『朝を鳴らせ』
第一章『悪夢が消えた夜』終了
次回予告
『朝を鳴らせ』
第二章 世界が眠り始める
11月1日21時投稿予定




