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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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Tale-03『白い部屋』

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます


NCO-217-JP関連Tale-03


『白い部屋』



一


「毎晩、父に殺される夢を見ます」


感染者第八例、北村亮介は、面談室の椅子に座ったまま久世冬馬を見ていた。


三十一歳。職業は自動車整備士。夜凪睡眠医療センターへ入院する半年前から、死亡した父親に追われる夢を見るようになった。


夢の中で父親は、死亡時と同じ姿をしている。


陥没した額。


不自然な方向へ曲がった首。


割れた眼鏡。


衣服には乾くことのない血が染み込んでいる。


父親は亮介を見つけると、「お前が殺した」と繰り返しながら追跡する。逃げ切れたことは一度もない。捕まると首を絞められ、息ができなくなったところで覚醒する。


夢の中でつけられた指の痕は、覚醒後も首へ残っていた。


「昨夜は何時に眠りましたか」


久世が尋ねる。


「午前一時です」


「覚醒時刻は」


「一時四十分」


「夢の内容に変化は?」


「ありません」


亮介は首元を隠すように患者衣の襟へ触れた。


「家の廊下を逃げて、父に捕まって、首を絞められました」


「白い扉は見ましたか」


「見ていません」


「下へ続く階段や、地下室は?」


「地下室の扉ならあります。でも、父がいつもその前に立っています」


「扉へ近づいたことは?」


亮介は首を横に振った。


「近づく前に、父に捕まるから」


「扉の向こうから声が聞こえたことはありますか」


亮介はしばらく黙った。


「昨日、初めて聞きました」


「誰の声でしたか」


「父です」


久世は記録端末から顔を上げた。


「夢の中に現れるNCO-217-JP-Bも、お父様の姿をしているはずです」


「声が違った」


亮介の指がわずかに震えている。


「追ってくる父は、事故の後の声です。喉が潰れて、息が漏れるような声で喋る。でも、地下室から聞こえたのは、事故に遭う前の父の声だった」


「何と言っていましたか」


亮介は唇を噛んだ。


「お前のせいじゃない。もう逃げなくていい」


久世は記録へ入力した。


「その言葉を聞いて、どう感じましたか」


「安心しました」


亮介は笑おうとした。


だが、表情は崩れた。


「父が死んだ日の朝、喧嘩をしたんです」


久世は黙って続きを待った。


「父の車を借りる約束をしていた。でも、急に仕事で使うと言われて、腹が立った。出ていく父に、事故にでも遭えばいいと言いました」


父親はその日の夕方、対向車線を越えてきた大型車と衝突した。


亮介の言葉と事故に因果関係はない。


警察の調査でも、父親に過失はないと結論づけられている。


それでも亮介は、最後に投げかけた言葉を忘れられなかった。


「夢の父は、毎晩それを言うんです」


「事故に遭えばいいと?」


「お前が言ったから死んだ。お前が殺したって」


「それは事実ではありません」


「分かっています」


亮介は両手で顔を覆った。


「起きている間は分かる。でも、眠ったら信じてしまう」


久世は机の上に置かれた実験同意書を見た。


NCO-217-JP-B認識切断実験。


夢界内でナイトメアを患者の認識から切り離し、出現不能にする。成功すれば、亮介は父親の姿をした怪物に追われることなく眠れる。


失敗した場合の危険は、説明を受けている。


白い扉へ到達する可能性。


覚醒不能となる可能性。


夢を介してほかの感染者と接続される可能性。


それでも、亮介は実験を希望した。


「北村さん」


久世は同意書に触れた。


「もう一度確認します。実験を中止することもできます」


「中止したら、今夜も父に殺される」


「NCO-217-JP-Bがお父様本人であるという証拠はありません」


「分かっています」


「あなたを白い扉から守っている可能性があります」


「それも聞きました」


「それでも、消去を希望しますか」


亮介は久世を見た。


「先生。あれが私を助けているとしても、毎晩殺される側にとっては関係ありません」


久世は答えられなかった。


「悪夢を見続ければ安全です。だから一生、父親に首を絞められてください。それがあなたたちの治療ですか」


「治療だとは考えていません」


「でも、ほかに方法はない」


「現在、探しています」


「見つかるまで、何年かかりますか」


久世は沈黙した。


亮介は同意書へ署名した。


「私は、普通に眠りたいだけです」


その言葉を前に、久世は実験を拒否できなかった。



二


実験には、三枝玲子と伊吹崇の二名が夢界潜入員として参加した。


三枝は前回の潜入で、NCO-217-JP-Bが感染者を白い扉から遠ざけていることを確認している。


伊吹は夢界研究部門に所属する三十四歳の潜入員で、他者の記憶を基礎に形成された夢へ入る任務を専門としていた。


「反対なら、今からでも言ってください」


準備室で、伊吹が三枝へ尋ねた。


「言いました」


三枝は認識固定具を右腕へ装着した。


「倫理審査部門にも、久世主任にも、対象者本人にも」


「それでも実施される」


「北村さんが望んでいるから」


「それなら、我々の仕事は成功させることです」


伊吹は認識切断装置を確認した。


細長い金属棒と円形の発振器を組み合わせた装置。対象の姿、名称、存在理由を夢の中から切り離し、夢を見ている人物が対象を認識できなくする。


対象を破壊するのではない。


夢の中に存在するための接続を断つ。


理論上はそう説明されていた。


「本当に消えると思いますか」


三枝が尋ねる。


「対象は感染者の恐怖を利用して形成されています。恐怖との接続を断てば、形を保てない」


「前回、あれは自分の意思で話しました」


「夢の登場人物が会話することは珍しくありません」


「『この者から、ほかの夢を守っている』と」


「患者の無意識が、我々の質問に合わせて答えを作った可能性があります」


三枝は伊吹を見た。


「本当にそう思っている?」


伊吹は切断装置の電源を落とした。


「思っていません」


「なら、どうして参加するんです」


「患者の前では言えませんが、私はあなたの意見に近い。あれは自分で考えている」


「だったら――」


「だからこそ、消せるか確認する必要がある」


伊吹は装置を専用ケースへ収めた。


「我々が一体を消せば、白い扉の向こうにいるものがどう動くか分かる」


「患者を餌にして?」


「本人が同意しています」


「危険性を本当に理解していると思う?」


「理解している人間なんて、このサイトに一人もいません」


伊吹は準備室の扉を開けた。


「久世主任も、あなたも、私もです。それでも誰かが最初に扉へ近づかなければ、我々は一生、扉の前に立つ怪物だけを見続ける」


三枝は返事をしなかった。


観測室では、亮介が睡眠用ベッドに横たわっている。


久世が最終説明を行っていた。


藤崎奈緒の姿もあった。


彼女は感染者であるため正式な実験要員ではない。それでも亮介の希望により、覚醒時の補助担当として立ち会うことになった。


「怖くありませんか」


奈緒が尋ねる。


亮介は天井を見たまま答えた。


「怖いです」


「なら、中止してもいいんですよ」


「怖いから消してほしいんです」


「違います」


奈緒は亮介の手に触れた。


「怖いから、戻ってこられるのかもしれません」


亮介は彼女を見た。


「藤崎さんは、弟さんの姿をした怪物を残したいんですか」


「分かりません」


「毎晩、弟さんに襲われ続けても?」


奈緒は答えられなかった。


亮介は天井へ視線を戻した。


「やっぱり、誰にも分からないんですよ」


午後十一時、夢界接続が開始された。



三


夢の中には雨が降っていた。


三枝と伊吹が出現したのは、夜の住宅街だった。


道路脇には古い民家が並び、街灯はすべて消えている。雨水は道路を流れているが、水音はしなかった。


正面に一軒だけ、照明のついた家がある。


北村亮介が父親と暮らしていた家だった。


「対象者を確認」


三枝が報告する。


亮介は家の玄関前に立っていた。


現実と同じ三十一歳の姿。


右手に鍵を持っているが、扉を開けようとしない。


「父は中にいます」


亮介が言った。


家の内部から、何かが壁へぶつかる音がした。


ドン。


廊下を引きずる足音。


かすれた呼吸。


玄関扉の向こうから、父親の声が聞こえる。


『亮介』


亮介の身体が震えた。


『お前が殺した』


玄関扉が内側から激しく叩かれる。


三枝が亮介の前へ立った。


「私たちが対応します。あなたは家から離れてください」


「離れても追ってきます」


「今夜は逃げる必要はありません」


伊吹が認識切断装置を起動する。


円形発振器の内部に白い光が灯った。


玄関扉が破裂するように開く。


NCO-217-JP-Bが現れた。


事故死した北村の父親。


額の左側が陥没し、首が右へ折れている。割れた眼鏡の奥にある片目が、亮介だけを見ていた。


『お前が殺した』


怪物が玄関を越える。


三枝が認識固定具を発動。


帯状の光がNCO-217-JP-Bの両腕と胴体を拘束した。


怪物が抵抗する。


『亮介』


「固定を確認」


三枝が報告する。


伊吹が切断装置を構えた。


「北村さん。最後に確認します」


亮介は怪物を見た。


事故に遭う前の父親とは似ても似つかない姿。


それでも、自分の名前を呼ぶ声だけは父親のものだった。


『亮介』


「実施してください」


伊吹が装置を作動させる。


白い光がNCO-217-JP-Bの頭部を覆った。


怪物の輪郭が揺らぐ。


衣服の色が失われる。


血に染まった顔が、古い映像のように不鮮明になる。


『やめろ』


三枝は固定具を維持した。


怪物の右手が拘束帯をつかむ。


指先から少しずつ消えていく。


『扉が開く』


「どの扉?」


三枝が尋ねる。


『亮介を起こせ』


「あなたを消した後、私たちが覚醒させます」


『お前たちでは遅い』


「何が来るの?」


怪物の顔から、残っていた片目が消えた。


『来るのではない』


認識切断装置の出力が最大値へ達する。


怪物の身体が白い粒子へ変わっていく。


『もう、食べている』


伊吹が装置を振り下ろした。


光が怪物の全身を通過する。


NCO-217-JP-Bは完全に消失した。


最後に残った声が、雨の中へ響いた。


『何をした』



四


雨が止んだ。


雲が消え、住宅街に朝日が差し込む。


それまで音のなかった世界に、鳥の声が戻った。


亮介は玄関前に立ち尽くしていた。


「終わったんですか」


伊吹が切断装置を確認する。


「対象反応、消失」


「父はもう来ない?」


「あなたの夢から、対象との認識接続を切りました」


亮介の両目から涙が流れた。


彼は顔を覆い、その場へ座り込んだ。


「終わった」


三枝は周囲を警戒していた。


住宅街。


朝日。


鳥の声。


雨上がりの匂い。


すべてが自然すぎる。


夢であることを忘れさせるほど、穏やかだった。


「北村さん」


三枝が呼びかける。


「覚醒処置へ移ります」


亮介は顔を上げた。


家の中から、食器の触れ合う音が聞こえる。


「父さん?」


亮介が立ち上がる。


三枝は彼の腕をつかんだ。


「家へ入らないでください」


「でも、父が」


「NCO-217-JP-Bは消失しました」


玄関の奥に、一人の男性が立っていた。


事故に遭う前の父親。


身体に傷はなく、首も曲がっていない。眼鏡をかけ、普段着の上に台所用のエプロンを着けている。


『亮介。朝飯ができてるぞ』


亮介が息を呑んだ。


『冷める前に食べろ』


「父さん」


『いつまで外にいるんだ』


亮介は玄関へ向かう。


三枝が再び止めた。


「それはお父様ではありません」


「分かってる」


「なら、近づかないで」


「一度だけ」


「北村さん」


「一度だけでいいから、話をさせてください」


父親が微笑む。


『昨日のこと、まだ気にしてるのか』


亮介の表情が崩れる。


『お前のせいじゃない』


「父さん」


『事故に遭ったのは、お前の言葉のせいじゃない』


亮介は三枝の手を振りほどいた。


家の中へ入る。


伊吹が追う。


「北村さん、停止してください」


三人が玄関を越えた瞬間、背後の扉が消えた。


住宅街も朝日もなくなる。


家の内部だけが残される。


父親は廊下の奥に立ち、地下室の扉を開けていた。


扉の向こうから、白い光が漏れている。


『こっちへ来い』


亮介が歩き出す。


三枝は緊急切断装置を作動させた。


反応しない。


「接続が固定されました」


伊吹が切断装置を構える。


「もう一度、対象を切断します」


「待って」


三枝は白い扉を見た。


扉の周囲に、細い欠損が広がっている。


壁が崩れているのではない。


扉に近い部分から、夢としての情報が失われている。


壁紙の模様。


床板の傷。


家の記憶。


亮介が幼い頃、廊下を走った事実。


すべてが一口ずつ消えていく。


くちゃ。


咀嚼音がした。


白い扉が開く。


父親が室内へ入る。


亮介が続く。


三枝と伊吹も、彼を追って白い部屋へ踏み込んだ。



五


部屋には奥行きがなかった。


広いとも狭いとも判断できない。


床、壁、天井はすべて白い。


光源は存在しない。それでも影はなく、互いの姿をはっきり見ることができた。


三枝は背後を振り返った。


入ってきた扉が消えている。


「現実側との通信は」


伊吹が端末を確認する。


「接続不能」


「北村さんは?」


二人は周囲を見回した。


少し離れた場所に亮介が立っている。


正面には父親。


二人は何かを話していた。


だが、声は聞こえない。


距離は十メートルほどしか離れていないはずなのに、近づいても位置が変わらなかった。


三枝は床へ目を向けた。


白い表面に、複数の線が走っている。


夢同士をつなぐ糸。


それぞれの先に、人間の記憶が見えた。


沙耶の学校。


奈緒の水没した家。


サイト83の夢界管理病棟。


名前も知らない人々の自宅。


まだ感染していない人間の夢まで、細い糸で白い部屋へ引き寄せられている。


「切断装置を停止してください」


三枝が言った。


「すでに停止しています」


「違う。装置そのものを捨てて」


伊吹が持っていた認識切断装置を見る。


金属製だった外装が白く変色していた。


装置の中央に、小さな取っ手が形成されている。


切断装置が、扉になろうとしている。


伊吹は装置を床へ投げた。


着地する前に消失する。


咀嚼音が近づいた。


くちゃ。


白い部屋の一部が失われる。


欠けた場所へ目を向けても、何があるのか認識できない。


穴ではない。


暗闇でもない。


何かが存在しないのではなく、存在しないという状態さえ食べられている。


伊吹が後退した。


「ここから出ます」


「出口がありません」


「作ればいい」


彼は夢界形成装置を使用し、自分の記憶を基礎にした扉を作ろうとした。


白い床に黒い線が現れる。


一般的な病院の扉。


サイト83の観測室へ接続する想定だった。


だが、形成されたのは別の扉だった。


白くない。


灰色の金属製。


表面には黄色と黒の警告線が描かれている。


上部に、日本語とハングルで表示があった。


「第七整備通路」


三枝は扉へ近づいた。


「サイト83の設備ではありません」


伊吹が取っ手に触れる。


扉が内側から開いた。


向こう側には、巨大な工業施設が広がっていた。


天井の見えない格納庫。


細い足場。


灰色の作業服と黄色い安全帽を身につけた人影が、扉の前に立っている。


人影の顔は見えない。


その背後に、巨大な黒い壁があった。


壁ではない。


何かの胸部装甲だった。


三枝たちのいる白い部屋よりも大きな人型構造物が、暗闇の中に立っている。


人影が三枝を見た。


「ここは出撃経路ではない」


「ここから現実へ戻れますか」


三枝が尋ねる。


人影は答えず、白い部屋の欠損部分を見た。


その奥で、巨大な咀嚼音が響く。


人影は一歩後退した。


「それを、こちらへ入れるな」


「それとは何ですか」


「まだ名称がない」


格納庫の奥から、低い機械音声が聞こえた。


「まだ呼ばれていない」


人影が扉を閉めようとする。


三枝が手を伸ばした。


「待って!」


「この通路は、あなたたちの夢につながっていない」


扉が閉じる。


灰色の扉は白い壁へ溶けるように消失した。


伊吹が呟く。


「今のは何だったんです」


「分かりません」


「ほかの夢界存在?」


「今は北村さんを探します」


三枝は亮介がいた方向を見た。


姿が消えている。


父親もいない。


代わりに、白い部屋の中央へ新しい扉が現れていた。


扉の表面に、亮介の顔が浮かんでいる。


目を閉じ、穏やかに微笑んでいる。


「北村さん」


三枝が近づこうとする。


伊吹が腕をつかんだ。


「見ないでください」


扉に浮かんだ亮介の目が開いた。


「三枝さん」


亮介の声。


「ここには父がいる」


「そこから離れてください」


「父は、私を許してくれた」


「それはあなたのお父様ではありません」


「分かっています」


亮介の顔が笑う。


「でも、私が聞きたかった言葉を知っていた」


扉が開き始める。


その向こうに、白い部屋が続いている。


同じ部屋。


同じ扉。


同じ亮介の顔。


何重にも繰り返されている。


「こっちへ来てください」


奥にいる亮介たちが同時に言った。


「悪夢は、もう見なくていい」


三枝は視線をそらした。


伊吹が動かなかった。


「伊吹さん」


彼は扉の奥を見つめている。


瞳孔が大きく開いていた。


「分かりました」


「何が?」


「これが何なのか」


伊吹は笑った。


現実側で昏睡した患者たちと同じ、穏やかな笑顔だった。


「何も怖がる必要はなかった」


三枝が彼の頬を叩く。


「見てはいけません!」


伊吹は反応しない。


「私たちの方が、夢だったんです」


扉の向こうにいる亮介たちが、伊吹へ手を伸ばす。


伊吹も手を伸ばした。


三枝は彼の身体を引き戻そうとした。


その瞬間、白い部屋全体が揺れた。


くちゃ。


巨大な咀嚼音。


亮介の顔が浮かんだ扉の半分が消失する。


扉の向こうにいた亮介たちも、身体の一部を失った。


それでも笑い続けている。


伊吹が初めて恐怖を見せた。


「今のは、あれじゃない」


「何が?」


「扉の向こうにいるものじゃない」


白い部屋の外側で、何かがさらに大きく口を開いた。


姿は見えない。


見えないまま、近づいていることだけが分かる。


「三枝さん」


伊吹の声が震える。


「あれが、これを食べている」


白い部屋が大きく欠けた。


伊吹の身体が消失部分へ引き寄せられる。


三枝は彼の腕をつかんだ。


「離しません!」


「外側へ行くんじゃない」


伊吹の右腕が肘から先を失う。


血は出ない。


そこに腕があったという記憶だけが消えていく。


「ここが、向こうの中へ入っている」


「何を言っているんです!」


伊吹は残った左手で、三枝の夢界接続端子をつかんだ。


「私ごと切ってください」


「できません」


「一人なら戻れる」


「一緒に戻ります!」


「切れ!」


伊吹が接続端子を引き抜いた。


三枝の視界が暗転する。


最後に、白い部屋の中で伊吹が振り返った。


その背後には、無数の扉。


扉の一つ一つに、眠っている人間の顔が浮かんでいる。


伊吹はそれらを守るように両腕を広げた。


消えたはずの右腕が、異常に長く伸びていく。


顔の中央に大きな口が開く。


人間だった姿が、怪物へ変わり始める。


「走れ」


伊吹は三枝へ告げた。


「次に会ったら、俺を怖がれ」



六


三枝は観測用ベッドで覚醒した。


夢界接続装置の警報が鳴っている。


久世と医療職員が彼女の身体を押さえていた。


三枝は激しく抵抗し、何度も伊吹の名前を叫んだ。


隣のベッドでは、伊吹が眠っている。


心拍、呼吸、脳波は維持されている。


しかし、いかなる刺激にも反応しなかった。


北村亮介も同様だった。


二人とも穏やかな表情で微笑んでいた。


「接続を戻してください」


三枝はベッドから降りようとした。


久世が止める。


「できません」


「伊吹さんが残っています」


「接続経路が消失しました」


「白い部屋にいるんです!」


「分かっています」


「なら、戻してください!」


「戻す場所が存在しない!」


久世の声が観測室に響いた。


三枝の動きが止まる。


技術職員が、何度も夢界座標を検索している。


北村の夢も、伊吹の意識も、観測網から消えていた。


死亡したわけではない。


存在はしている。


しかし、どこにいるのかを示す座標がない。


「私が切断装置の使用を止めていれば」


三枝が呟く。


「実験を承認したのは私です」


久世が答えた。


「私は止められた」


「私も止められました」


「あなたの責任ではありません」


「なら、誰の責任ですか」


久世は答えなかった。


観測室のガラス越しに、藤崎奈緒が亮介を見ていた。


彼女は昏睡患者の表情に気づいていた。


「笑っています」


奈緒が言った。


亮介の口元。


伊吹の口元。


二人とも、同じ角度で微笑んでいる。


「白い部屋に入った患者と同じです」


クレイン博士が二人の思考を確認した。


接触は数秒で終了した。


「どうですか」


久世が尋ねる。


「北村さんの思考は、ほとんど残っていません」


「伊吹観測員は?」


「聞こえます」


三枝が顔を上げた。


「何を考えていますか」


クレイン博士は伊吹を見た。


「走っている」


「どこを?」


「暗い廊下です」


「誰かに追われている?」


「違います」


クレイン博士の表情が変わる。


「彼が、誰かを追っています」


伊吹の心拍数が一時的に上昇した。


眠ったまま、指先が動く。


走る動作のように、左右の脚がわずかに震えた。


「何と言っていますか」


三枝が尋ねる。


クレイン博士は答えた。


「振り返るな、と」



七


実験から六日後、感染者第六例の夢に新しいNCO-217-JP-Bが出現した。


患者は、夜の病院内を歩いていた。


夢の中で自分が眠っている病室を見つけ、ベッドへ近づこうとしたところ、廊下の奥から人影が現れた。


人影はMDE夢界潜入員の装備を身につけていた。


顔は伊吹崇と一致。


ただし、右腕は床へ届くほど伸び、顔の中央には大きな口が形成されていた。


NCO-217-JP-Bは患者を発見すると追跡を開始した。


患者は病院内を逃走。


地下へ続くエレベーターに乗ろうとしたところで捕獲され、強制的に覚醒した。


夢界記録を確認した三枝は、映像の再調査を申し出た。


久世は危険性を理由に反対した。


しかし、その夜、三枝自身の夢に伊吹の姿をしたNCO-217-JP-Bが現れた。


夢の舞台はサイト83の廊下だった。


三枝は逃げなかった。


怪物となった伊吹へ向かって歩いた。


「伊吹さん」


NCO-217-JP-Bが口を開く。


「走れ」


「あなたなんですか」


「走れ」


「北村さんはどこにいますか」


「奥にいる」


「助けられますか」


NCO-217-JP-Bは答えなかった。


三枝がさらに近づく。


「あなたは、ほかの患者を守っているんですか」


「起こしている」


「なぜ?」


「つながるから」


「白い部屋と?」


「違う」


怪物は三枝の背後を見た。


サイト83の廊下に、白い扉が現れている。


「扉の向こうにいるものと?」


「それだけではない」


「では、何がいるの」


NCO-217-JP-Bの身体が震えた。


恐怖している。


三枝は、人間だった伊吹が怯える姿を見たことがなかった。


「白い部屋が夢を見る」


「夢の中の場所が、夢を見るの?」


「あれが、私たちを見る」


「NCO-217-JP-C?」


「名前をつけるな」


「なぜ?」


「名前は形になる。形は見つかる」


白い扉が少し開いた。


暖かい光が漏れる。


伊吹の姿をしたナイトメアが、三枝と扉の間へ立った。


「もっと大きなものが食べに来る」


「何を食べるの?」


怪物は三枝ではなく、周囲に広がる夢を指さした。


「ここにつながっている全員を」


白い扉の向こうで、何かが三枝の名前を呼んだ。


三枝は振り返らなかった。


「ナイトメアになったの?」


彼女は伊吹へ尋ねた。


「違う」


「では、今のあなたは何?」


伊吹の口だけが笑った。


「役割になった」


「人間へ戻れますか」


「分からない」


「どうすれば、あなたを助けられる?」


「眠れ」


「あなたに会うために?」


「違う」


伊吹は長い右腕を持ち上げた。


鋭い爪が三枝へ向けられる。


「起きるために」


怪物が襲いかかる。


三枝は反射的に逃げた。


背後から伊吹が追ってくる。


病院の廊下が伸びる。


白い扉の声が遠ざかる。


三枝は恐怖を感じていた。


悲しみもあった。


それ以上に、安堵していた。


伊吹は戻ってこなかった。


それでも、消えてはいない。


人間ではなくなったとしても、誰かを朝へ追い返すために走り続けている。


長い右腕が、三枝の背中をつかんだ。


激痛が走る。


伊吹の口が大きく開く。


口の奥に、サイト83の観測室が見えた。


「私を怖がれ」


三枝は目を閉じた。


「怖いです」


「もっと」


「あなたが怖い」


怪物の爪が肩へ食い込む。


「白い扉より、あなたの方が怖い」


伊吹は三枝を口の中へ投げ込んだ。



八


三枝は自室のベッドで目を覚ました。


午前四時八分。


背中には新しい爪痕が残されていた。


ベッド脇の机に、一枚の職員証が置かれている。


伊吹崇のものだった。


現実では、伊吹の職員証は医療区画の保管庫に収容されている。後の確認でも、保管庫から持ち出された形跡はなかった。


三枝は職員証を持ち、久世の執務室へ向かった。


久世は眠らずに、NCO-217-JP-B認識切断実験の報告書を書いていた。


三枝は職員証を机へ置いた。


「伊吹さんに会いました」


久世の手が止まる。


「夢の中で?」


「ナイトメアになっていました」


三枝は会話の内容を説明した。


白い部屋が夢を見ること。


名前を与えれば形になること。


さらに大きなものが、つながった夢を食べに来ること。


久世は途中で質問を挟まず、最後まで聞いた。


「私は、実験を止めるべきでした」


彼は言った。


「私もです」


「違います。実施を承認したのは私です」


「北村さんが望んだことです」


「それでも、我々は危険性を理解していなかった」


久世は机の上にある報告書を閉じた。


「NCO-217-JP-Bの排除実験を永久に禁止します」


「それだけですか」


「ほかに何をすればいい」


「感染者がナイトメアを怖がらなくなったら?」


「出現形態を調整する」


「患者に、もっと恐ろしい悪夢を見せる?」


「必要なら」


久世は、その言葉を自分で口にした後、長く沈黙した。


「患者を助けるために、患者の恐怖を維持する」


「はい」


「伊吹さんのようになった人間を、怪物として利用する」


「はい」


「それを管理手順にする」


三枝は伊吹の職員証を見た。


「白い扉へ入るよりはいい」


「患者がそう思わなかったら?」


「それでも、扉へ行かせない」


「本人の意思に反して?」


「本人が戻れなくなれば、ほかの人間の夢までつながる」


三枝は久世を見た。


「一人の悪夢では終わらないんです」


久世は新しい管理手順を作成した。


NCO-217-JP-Bへの攻撃、拘束、消去および夢界からの隔離を禁止。


感染者へ定期的なレム睡眠を取らせる。


ナイトメアが感染者を強制的に覚醒させられる程度の恐怖反応を維持する。


感染者が「もう怖くない」と発言した場合、警戒状態へ移行する。


最後に、久世は責任者欄へ署名した。


「この管理手順に名前が必要です」


三枝が言った。


久世は少し考えた。


机の上に、伊吹の職員証がある。


人間だった男。


白い部屋に残り、誰かを救うための怪物になった男。


「悪夢を見ている間は安全です」


久世は言った。


「それを、正式名称にするんですか」


「患者にとっては、説明であり、警告です」


「ずいぶん残酷な名前ですね」


「ええ」


久世は管理手順を保存した。


「ですが、嘘ではありません」



九


同日午前六時。


伊吹崇の職員証が変化した。


顔写真から伊吹の姿が消失。


氏名、所属、職員番号も判読不能となった。


代わりに、裏面へ一文が刻まれていた。


「夢守り・一名追加」


三枝が文字へ触れると、職員証から低い音声が再生された。


伊吹の声だった。


『白い部屋を見つけても、入るな』


短い雑音。


『扉が開いていても、閉めるな』


再び雑音。


『向こう側にいるものを、こちら側へ押し込めることになる』


三枝は再生を続けた。


『ナイトメアが追ってきたら、逃げろ』


『捕まったら、抵抗するな』


『痛くても、目を閉じろ』


最後に長い雑音が入る。


その奥から、何かを噛む音が聞こえた。


くちゃ。


くちゃ。


伊吹の声が、非常に小さく続いた。


『あれは、扉の向こうにはいない』


『扉の向こう側ごと食べている』


音声が終了した。


同時刻、夢界管理病棟に収容されていた感染者全員が、起きたまま同じ方向を見た。


病棟の床。


その下にある、さらに深い場所。


藤崎奈緒が呟いた。


「お腹が空いている」


久世が彼女へ近づく。


「何がですか」


奈緒は床から視線を離さなかった。


「分かりません」


病棟全体が一度だけ揺れた。


地震計に振動は記録されていない。


代わりに、世界各地の睡眠観測施設で、同時刻に十三分間の記録欠損が発生した。


欠損範囲は、それまでの感染者周辺に限定されていなかった。


日本。


韓国。


中国。


ヨーロッパ。


北米。


南米。


アフリカ。


人間が眠っているあらゆる地域で、ごく少数の夢が記録から消失した。


サイト83は、この現象をNCO-217-JPの一時的な影響拡大として処理した。


夢を食べている存在がいるという三枝の証言は、裏付けのない夢界内認識として補遺へ収録された。


この時点では、誰も理解していなかった。


白い部屋の奥にいるものが、最大の脅威ではないことを。


ナイトメアが人間を遠ざけていたのは、白い扉へ入らせないためだけではないことを。


そして、世界各地から失われた十三分間が、攻撃でも侵食でもなかったことを。


それは、まだ眠っている何かが行った、最初の味見だった。



――Tale-03『白い部屋』終了

次回予告


Tale-04


『朝を鳴らせ』



第一章 悪夢が消えた夜


10月31日21時投稿予定

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