Tale-02 『私を怖がって』
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NCO-217-JP関連Tale-02
『私を怖がって』
一
サイト83地下医療区画、夢界管理病棟。
正式な名称が決まる以前、職員たちはその場所を「眠れない病棟」と呼んでいた。
病棟には窓がない。
昼夜の区別は照明によって再現され、午前七時になると暖色の光が点灯し、午後九時には徐々に暗くなる。廊下の壁には時計が等間隔に設置され、患者が現実の時間を確認できるようになっていた。
時計には秒針がない。
眠っている患者の一部が、秒針の音を「夢の奥から聞こえる足音」と誤認したためだった。
夜凪睡眠医療センターから移送された十一名の患者と、十二人目の感染者となった看護師、藤崎奈緒は、それぞれ個室へ収容されていた。
昏睡した四名は集中管理室。
覚醒している患者は、交代で短時間の睡眠を取る。
すべての睡眠は監視され、心拍数と脳波に異常が現れた場合、直ちに覚醒処置が実施された。
移送から九日。
患者たちは誰一人として、十分な睡眠を取っていなかった。
「眠らせないことが、治療なんですか」
奈緒は面談室の机を挟み、久世冬馬主任研究員へ尋ねた。
彼女の目の下には濃い隈ができている。夜凪睡眠医療センターの白衣ではなく、サイト83から支給された灰色の患者衣を着ていた。
「治療ではありません」
久世は答えた。
「では、何ですか」
「調査が終わるまでの緊急措置です」
「いつ終わりますか」
「分かりません」
奈緒は視線を落とした。
机の上には、感染者十二名の睡眠記録が並んでいた。
通常の睡眠時間。
欠損した十三分前後の記録。
出現した怪物の姿。
夢の中で発見された下り階段や白い扉。
ナイトメアに捕まった患者は覚醒する。
ナイトメアが現れなかった患者は、穏やかな表情のまま昏睡する。
現時点で判明している事実は、それだけだった。
「小田切さんは、昨夜も眠れませんでした」
奈緒が言った。
「睡眠そのものを怖がっています。目を閉じるたびに、また学校へ戻るんじゃないかと言っています」
「今夜、彼女には管理下で睡眠を取ってもらいます」
「眠らせるんですか」
「七十二時間以上の覚醒状態は危険です」
「また、あの怪物が出てきたら?」
「夢界潜入員が同行します」
「怪物を捕まえるんですか」
「可能であれば」
奈緒の表情が固くなる。
「捕まえた後は?」
「調査します」
「消すつもりですか」
久世はすぐに答えなかった。
「それを判断するための調査です」
奈緒は肩へ手を置いた。
患者となった夜、死んだ弟の姿をした怪物に噛まれた場所。現実に残っていた歯形は薄くなっているが、完全には消えていない。
「私は、あれに助けられたのかもしれません」
「分かっています」
「なら、どうして捕まえるんです」
「藤崎さん」
久世は記録端末を閉じた。
「あなたは、弟さんの姿をした存在に襲われた。肩を噛まれ、夢から強制的に覚醒させられた。結果として、白い扉へ入らずに済んだ」
「はい」
「ですが、あれが意図的にあなたを助けたとは限りません」
「偶然だと?」
「捕食者が獲物を奪い合っただけかもしれない」
奈緒は黙った。
「白い扉の向こうにいたものも、弟さんの姿をした存在も、我々には理解できていません。どちらか一方を味方だと決めるには、情報が足りない」
久世は穏やかな口調だった。
だが、その目には疲労が見えた。
患者だけではない。
研究員も医療職員も、この九日間まともに眠っていない。
感染者が夢の中で知人を明確に想起した場合、その人物へ異常が伝播する可能性があった。患者のそばで働く職員は、いつ自分が夢の中へ呼ばれるか分からない。
すでに三名の職員が、患者と似た夢を見たと報告している。
「今夜の潜入には、私も立ち会います」
奈緒が言った。
「許可できません」
「小田切さんは、私がいなければ眠りません」
「あなた自身が感染者です」
「だから、夢の中で何が起きるか知っています」
久世は反対しようとした。
しかし、面談室の扉が開き、職員が顔を覗かせた。
「主任。クレイン博士が到着しました」
久世は時計を見る。
「分かりました。第二観測室へ案内してください」
奈緒が尋ねる。
「クレイン博士?」
「患者の思考を、外側から確認できる職員です」
「眠っている人の考えが読めるんですか」
「それを今夜、確認します」
二
クレイン博士は、サイト83の管理者であると同時に、思考読取能力を持つ異常研究員だった。
外見だけを見れば、どこにでもいる研究職員と大きな違いはない。
白衣。
整えられた髪。
薄い眼鏡。
しかし、面談室へ入った瞬間、奈緒は自分の頭の中を覗かれたような感覚を覚えた。
クレイン博士は空いている椅子へ座り、奈緒を見た。
「安心してください。許可なく深く読むつもりはありません」
奈緒は思わず顔をこわばらせた。
「今、私が考えたことも分かるんですか」
「表面に強く出たものだけです」
「なら、何を考えたか言ってみてください」
「私の眼鏡が思っていたより普通だ、と」
奈緒は口を閉じた。
クレイン博士はわずかに笑った。
「よく言われます」
久世が睡眠記録を手渡す。
「今回確認してほしいのは、患者の睡眠中に発生する十三分前後の記録欠損です」
クレイン博士は資料を読む。
「この時間だけ、脳波が睡眠にも覚醒にも分類できない」
「はい。映像上、患者は眠り続けています。生理機能も正常です」
「思考活動だけが記録されていない」
「記録装置の問題か、意識が異常な領域へ移動しているのかを判断したい」
クレイン博士は昏睡患者の一人がいる集中管理室へ移動した。
ガラスの向こうで、二十代の男性患者が眠っている。
表情は穏やかだった。
クレイン博士はベッド脇へ座り、患者の手首に触れた。
数秒間、何も起きない。
博士の表情がわずかに変わった。
「何が聞こえますか」
久世が尋ねる。
「通常の思考はありません。ただし、完全な無反応ではない」
クレイン博士は目を閉じた。
「何かを数えています」
「患者が?」
「分かりません」
「数字は?」
「十一から始まりました。十二、十三……増え続けています」
「何を数えているのでしょう」
クレイン博士は患者の手を離した。
「人間ではありません」
「では、何を?」
「夢です」
室内が静かになった。
「なぜ、そう分かるんですか」
奈緒が尋ねる。
「数字の間に、眠っている人間の顔が見えました」
クレイン博士は自分の指先を見た。
「あなたの顔も含まれていました」
奈緒は息を止めた。
「私の夢が、この人の中にあるんですか」
「そうではありません。夢そのものが一か所へ集められているように感じました」
「患者の意識はどこに?」
「さらに奥です」
クレイン博士は再び患者へ触れた。
今度は、長く接続を維持した。
一分。
二分。
患者の心拍数に変化はない。
三分を超えたところで、クレイン博士の呼吸が乱れ始めた。
「博士」
久世が呼びかける。
返事はない。
患者の口元が動く。
「数えている」
患者自身の声だった。
しかし、同時にクレイン博士の口からも同じ言葉が発せられた。
「数えている」
二人の声が重なる。
奈緒はベッドから距離を取った。
久世がクレイン博士の肩へ手を伸ばす。
「接続を切ってください」
博士は反応しない。
「クレイン博士」
久世が強く肩を引いた。
接触が切れた瞬間、クレイン博士は大きく息を吸った。
眼鏡が床へ落ちる。
「何を見ました」
久世が尋ねる。
クレイン博士はすぐには答えなかった。
震える手で眼鏡を拾い、かけ直す。
「聞こえないのではありません」
「何がですか」
「患者の思考です」
博士は眠っている患者を見た。
「思考が途中で切れています」
久世が記録端末を開く。
「忘却ですか」
「いいえ。忘却なら、何かがあった痕跡は残ります」
「では、欠損時間に何が起きている?」
クレイン博士は額の汗を拭った。
「考えたことそのものを、持ち去られています」
奈緒は夜凪睡眠医療センターで聞いた咀嚼音を思い出した。
「誰に?」
「分かりません」
クレイン博士は少し間を置いた。
「ただし、持ち去っているものと、白い扉の向こうから患者を呼んでいるものは、別かもしれません」
久世が顔を上げる。
「根拠は」
「患者の思考が失われる直前、何かが扉を閉じようとしていました」
「ナイトメアが?」
「姿は見えませんでした」
クレイン博士は眠る患者から一歩離れた。
「ですが、何度も同じ言葉を考えていた」
「何と?」
「一人では終わらない」
三
小田切沙耶の夢への潜入は、同日午後十一時に開始された。
第二観測室の中央には、二台の医療用ベッドが並んでいる。
一台には沙耶。
もう一台には三枝玲子観測員が横たわっていた。
三枝はサイト83夢界研究部門に所属する潜入員であり、異常技術を用いて他者の夢へ侵入する訓練を受けている。
三枝の頭部には複数の電極が装着され、右手には緊急切断装置が握られていた。
「夢の中で違和感を覚えた場合、直ちに接続を切ってください」
久世が確認する。
三枝は目を閉じたまま答えた。
「夢の中では、全部が違和感みたいなものです」
「冗談を言っている場合ではありません」
「緊張しているんですよ」
「あなたが?」
「主任が」
三枝は少し笑った。
観測室の外側には、久世、クレイン博士、医療職員、技術職員が待機している。
奈緒も、沙耶の希望により観測室への立ち会いを許可されていた。
ただし、夢界接続は行わない。
沙耶のベッド脇へ座り、彼女の手を握っている。
「眠りたくない」
沙耶が小さな声で言った。
「大丈夫です。三枝さんが一緒に行きます」
「先生を捕まえるの?」
奈緒は答えに迷った。
「お話をするだけです」
「怒ると思う」
「どうして?」
「先生は、私とほかの人が話すのを嫌がるから」
三枝が目を開けた。
「夢の先生と話したことがあるの?」
沙耶は首を横に振った。
「いつも逃げてる。でも、先生が来る前に誰かと話していると、すぐに見つかる」
「夢の中に、ほかの人がいる?」
「ときどき」
沙耶は奈緒の手を強く握った。
「知らない人。でも、顔を見たら知ってる気がする」
「その人たちは何をしていますか」
「下へ行こうとしてる」
三枝と久世が視線を交わす。
「私は、その人たちについていこうとする。でも先生が来て、全部いなくなる」
「先生が追い払う?」
「食べられる前に」
沙耶はその言葉を口にした直後、自分でも意味が分からないという表情を見せた。
「誰が食べるの?」
奈緒が尋ねる。
「分からない」
沙耶の瞼が重くなる。
「夢の中で、誰かがそう言ってた」
鎮静剤は使用していない。
それでも沙耶は急速に睡眠状態へ移行していった。
三枝も目を閉じる。
「接続開始」
技術職員が装置を作動させた。
二人の脳波が徐々に同期する。
観測モニターに、最初は不鮮明な映像が現れた。
暗い廊下。
学校の教室。
並べられた机。
天井の蛍光灯はすべて消えている。
三枝の音声が入った。
『接続成功。対象者を確認しました』
映像の中央に、沙耶が立っていた。
病院の患者衣ではなく、小学生用の制服を着ている。外見年齢も十歳前後まで低下していた。
『沙耶さん、私が分かりますか』
三枝が尋ねる。
沙耶はうなずいた。
『先生が来る前に逃げないと』
『どこへ逃げるの?』
『上』
沙耶は階段を指さした。
校舎の案内表示では、二階へ続く階段のはずだった。
しかし、階段は下方向へ伸びている。
段数を数えることはできない。
暗闇の奥から、女性の声が聞こえた。
『沙耶』
沙耶が階段へ近づく。
『お母さんが呼んでる』
三枝が彼女の肩をつかんだ。
『待って。下へ行ってはいけない』
『でも、迎えに来たって』
『あなたのお母さんは、今どこにいますか』
『家にいる』
『なら、下から呼んでいるのは誰?』
沙耶の足が止まった。
廊下の奥で、何かを引きずる音がした。
ザリ。
ザリ。
三枝が振り返る。
闇の中から、長い腕が現れた。
床へ届くほど伸びた指。
続いて三メートル近い身体。
顔には、大きく開いた口だけがある。
NCO-217-JP-B。
沙耶が悲鳴を上げ、階段とは反対方向へ走り出す。
NCO-217-JP-Bが追跡を始めた。
『対象出現』
三枝が報告する。
観測室で久世が指示を出す。
「追跡してください。攻撃を受けた場合のみ認識固定具を使用」
『了解』
三枝は沙耶とNCO-217-JP-Bを追って廊下を走った。
NCO-217-JP-Bは、沙耶を捕まえられる距離まで接近しても、すぐには手を伸ばさない。
階段へ近づくと速度を上げる。
階段から離れると速度を落とす。
三枝がその規則性に気づいた。
『主任。対象は沙耶さんを一定方向へ誘導しています』
「どこへ?」
『上階です。下り階段から遠ざけている』
沙耶が廊下の角を曲がる。
その先には行き止まりがあった。
NCO-217-JP-Bが背後から迫る。
沙耶は壁際で頭を抱えた。
三枝は二人の間へ入り、腕に装着した認識固定具を作動させた。
白い帯状の光がNCO-217-JP-Bを取り囲む。
怪物の動きが止まった。
長い腕が固定具の内側を叩く。
『対象を拘束しました』
「状態を維持してください」
『沙耶さんを覚醒させますか』
久世が答えようとしたとき、沙耶が顔を上げた。
行き止まりだったはずの壁に、扉が現れている。
白い扉。
沙耶は立ち上がった。
『お母さん』
扉の向こうから、女性の声が聞こえる。
『もう大丈夫。怖い先生は捕まったよ』
拘束されたNCO-217-JP-Bが激しく暴れ始めた。
固定具の帯が一本ずつ切れる。
三枝が出力を上げる。
『止まって!』
NCO-217-JP-Bの口が開いた。
『離せ』
初めて、明確な言葉を発した。
三枝は固定具を維持した。
『あなたは沙耶さんを傷つけている』
『起こす』
『なぜ?』
『下へ行く』
『白い扉の向こうに、何がいるの?』
『見るな』
沙耶が扉の取っ手へ手を伸ばす。
NCO-217-JP-Bが固定具の中で叫ぶ。
『離せ!』
『あなたを自由にすれば、また沙耶さんを襲う』
『そうしなければ、一人では終わらない』
三枝の動きが止まった。
『どういう意味?』
NCO-217-JP-Bは沙耶ではなく、観測している三枝を見た。
口しかない顔。
それでも、何かに怯えていると分かった。
『この者から、ほかの夢を守っている』
『沙耶さんが危険なの?』
『つながる』
『何と?』
『すべてと』
沙耶の指が扉の取っ手に触れた。
四
現実側の観測室で、すべての警報が同時に鳴った。
沙耶と三枝の脳波から、複数の新しい信号が分岐している。
感染者第十二例、藤崎奈緒。
集中管理室の昏睡患者四名。
別室で待機していた医療職員。
サイト83内で仮眠を取っていた警備員。
夢界接続に参加していない者たちの脳波が、次々と同じ周期へ同期し始めていた。
「接続対象、現在十九名!」
技術職員が報告する。
「増加しています。二十一、二十三――」
久世がモニターを見る。
沙耶の夢の中にあった学校の廊下が、急速に拡張していた。
存在しない教室が増える。
教室の窓には、サイト83の別区画で眠っている職員たちの夢が映っている。
病院。
自宅。
電車。
森。
道路。
すべての夢が、同じ学校へ接続され始めている。
クレイン博士が奈緒の手首をつかんだ。
奈緒は観測室で起きている。
それでも目の焦点が定まっていない。
「藤崎さん、私の声が聞こえますか」
奈緒は返事をしなかった。
「博士、何が起きています」
久世が尋ねる。
クレイン博士は奈緒から流れ込む思考を読み取った。
水に沈んだ家。
濡れた弟。
学校の廊下。
白い扉。
互いに無関係だった夢が、沙耶を中心に一つへ集まり始めている。
「患者一人の夢ではありません」
クレイン博士が言った。
「小田切さんが白い扉へ触れたことで、周囲の人間の夢が接続されています」
「感染者だけですか」
「違います。この部屋にいる我々も含まれています」
久世が自分の頭部へ触れる。
意識は明瞭だった。
「我々は起きています」
「身体は起きています」
クレイン博士は観測室の壁を見た。
そこには存在しないはずの細い亀裂が形成されていた。
亀裂の向こうから、学校の廊下が見える。
「夢の方が、こちらへ接続しようとしています」
奈緒の口が動く。
「悠人」
彼女の背後に、水滴が落ちる。
観測室の床が濡れ始めた。
クレイン博士は奈緒の思考をさらに深く読む。
濡れた少年が、夢の廊下を走っている。
沙耶へ向かっているのではない。
白い扉へ向かっている。
その背後から、思考が一つずつ失われていく。
弟の顔。
川の記憶。
奈緒の罪悪感。
何者かが、夢の外側から少しずつ食べている。
クレイン博士は奈緒の手を離した。
「何が見えました」
久世が尋ねる。
「彼女のナイトメアが、夢の欠損を止めようとしています」
「止められるのですか」
「分かりません」
クレイン博士は息を整えた。
「ですが、ナイトメアが消えれば、彼女の夢だけでは済まない」
観測モニター上で、NCO-217-JP-Bを拘束していた固定具に亀裂が入った。
沙耶が白い扉を開こうとしている。
久世はマイクを取った。
「三枝観測員。対象の拘束を解除してください」
『本気ですか』
「解除してください!」
三枝が固定具を停止する。
白い帯が消えた。
NCO-217-JP-Bが床を蹴る。
長い腕を伸ばし、沙耶の身体を背後からつかんだ。
沙耶が絶叫する。
現実側で沙耶の心拍数が急上昇。
NCO-217-JP-Bは、白い扉から沙耶を引き離す。
扉の向こうから、母親の声が響く。
『沙耶を放して』
NCO-217-JP-Bは従わない。
『その子は疲れているの』
怪物の長い腕へ、白い部屋から何かが触れた。
接触した部分が消える。
切断されたのではない。
腕の中央部分だけが、最初から存在しなかったように欠ける。
それでもNCO-217-JP-Bは沙耶を放さない。
残された片腕で彼女を抱え、自らの口へ押し込もうとする。
沙耶が泣き叫ぶ。
『食べられる!』
三枝が止めようとする。
だが、久世が叫んだ。
「待ってください!」
NCO-217-JP-Bの口の内部には、歯も舌もない。
代わりに、朝の光が見えた。
病室の天井。
覚醒した現実。
NCO-217-JP-Bは沙耶を食べようとしているのではない。
自分の身体を、現実へ戻るための出口にしている。
沙耶の身体が口の中へ引き込まれる。
現実側で、沙耶が目を開けた。
夢の中から姿が消える。
夢界接続数が二十三名から十六名へ低下した。
白い扉の開口部が狭くなる。
NCO-217-JP-Bは、今度は三枝へ顔を向けた。
『次は、お前だ』
五
三枝は後退した。
「沙耶さんは覚醒しました。私も接続を切ります」
彼女は右手に握っていた緊急切断装置を作動させた。
反応しない。
夢界側から接続が固定されている。
現実側で技術職員が操作を繰り返す。
「切断不能! 夢界接続が装置を経由していません!」
久世が尋ねる。
「どういう意味です」
「三枝観測員の方が、こちらの装置を夢の中へ取り込んでいます!」
夢の中で、緊急切断装置の表面が白く変色した。
取っ手のない、小さな扉へ形を変える。
三枝は装置を投げ捨てた。
NCO-217-JP-Bが接近する。
口しかない顔。
欠けた腕。
身体の輪郭も、少しずつ失われている。
「待って」
三枝は両手を上げた。
「あなたと話がしたい」
NCO-217-JP-Bは止まらない。
「沙耶さんは起きた。もう追う必要はないでしょう」
『お前が残っている』
「私も白い扉へ入ると思っているの?」
『見られた』
「何に?」
怪物は答えない。
三枝の背後に、白い扉が現れた。
扉の向こうから、久世の声が聞こえる。
『三枝観測員。こちらへ来てください』
三枝は正面の観測映像を見た。
現実側の久世はマイクを持っていない。
「主任の声を使わないで」
白い扉の向こうの声が続く。
『接続を切断します。扉を開けてください』
「本物の主任なら、夢の中の扉を開けろとは言わない」
『三枝さん』
声が変わった。
今度は、三枝の姉の声だった。
幼少期に病死した、三歳年上の姉。
『玲子、こっちへおいで』
三枝の呼吸が止まる。
『ずっと待ってたの』
白い扉が少し開く。
暖かい光。
姉が好きだった石鹸の匂い。
三枝は一歩近づいた。
NCO-217-JP-Bが床を踏み鳴らす。
廊下全体が揺れた。
三枝は我に返る。
「私を起こせるの?」
『怖がれ』
「あなたを?」
『私を見ろ』
NCO-217-JP-Bが口を大きく開く。
三枝は訓練を受けている。
夢界内の恐怖反応を制御し、異常存在に遭遇しても冷静に行動できる。
恐怖に支配されないことが、生還のために必要だと教えられてきた。
しかし、今は逆だった。
恐怖が必要だった。
「怖くない」
三枝は正直に言った。
「あなたが私を助けようとしていると分かってしまった」
NCO-217-JP-Bの動きが止まる。
白い扉がさらに開く。
姉の姿が見える。
怪物は三枝を怖がらせるため、自分の身体を変形させようとした。
口が裂ける。
腕が伸びる。
沙耶の記憶にある教員の姿。
だが、三枝はそれが仮面だと知っている。
「それでは怖がれない」
NCO-217-JP-Bが三枝の前まで接近した。
『なら、見せる』
長い指が、三枝の額へ触れる。
視界が変わった。
三枝は白い部屋に立っていた。
無数の扉が並んでいる。
それぞれの扉の向こうに、人間が眠っていた。
サイト83の患者。
職員。
その家族。
互いに会ったことのない人々。
夢の中で誰かを思い出し、その人間がまた別の誰かを思い出す。
細い糸のようなつながりが、扉から扉へ伸びている。
数十。
数百。
数千。
どこまでも増えていく。
白い部屋のさらに外側で、何かが動いた。
姿は見えない。
巨大すぎて、一つの存在として認識できない。
ただ、それが動くたび、夢の一部が消えた。
扉が一つ、音もなく失われる。
その向こうで眠っていた人間の記憶も消える。
別の扉。
別の夢。
別の人間。
消失は少しずつ、三枝へ近づいている。
くちゃ。
咀嚼音が響いた。
三枝は初めて、本当の恐怖を感じた。
白い部屋の外にいるものは、人間を探しているのではない。
一つ一つの夢を見てもいない。
つながった夢全体を、一つの餌として認識している。
「これが、あなたの恐れているもの?」
NCO-217-JP-Bの声が背後から聞こえた。
『見るな』
三枝は振り返った。
怪物がいた。
口しかない巨大な顔が、すぐ目の前にある。
その姿を見た瞬間、三枝は安堵した。
白い部屋の外側にいるものより、この怪物の方がはるかに理解できる。
NCO-217-JP-Bが三枝をつかんだ。
鋭い爪が肩へ食い込む。
痛みと恐怖が全身を走った。
『私を怖がれ』
怪物が叫ぶ。
『私だけを怖がれ』
視界が暗転した。
六
三枝は観測用ベッドの上で目を覚ました。
身体を起こし、大きく息を吸う。
心拍数は一分間に百七十を超えていた。
右肩に鋭い痛みがある。
患者衣をずらすと、五本の爪痕が残っていた。
「三枝さん」
久世がベッド脇へ来る。
「ここがどこか分かりますか」
「サイト83、第二観測室」
「現在時刻は」
三枝は壁の時計を見る。
「午後十一時三十八分」
夢界接続時間は二十六分。
体感時間は数時間に及んでいた。
沙耶も隣のベッドで覚醒している。
奈緒に抱き締められ、泣いていた。
クレイン博士は観測装置に残された記録を確認している。
「夢の中で何を見ました」
久世が尋ねる。
三枝は白い部屋を思い出そうとした。
無数の扉。
夢をつなぐ糸。
外側で動く巨大なもの。
だが、姿は思い出せない。
「NCO-217-JP-Bは、患者一人を守っているのではありません」
三枝は答えた。
「患者を夢の奥へ行かせないことで、ほかの人間の夢が接続されるのを防いでいます」
「白い扉の向こうにいる存在が、夢を接続している?」
「それだけではありません」
「ほかに何がいたんです」
三枝は答えようとした。
耳の奥で、咀嚼音が聞こえる。
くちゃ。
記憶の一部が欠ける。
「分かりません」
彼女は額を押さえた。
「夢を食べていました」
「白い扉の存在が?」
「違うと思います」
「では、何が?」
「分からない。大きすぎて、一つの存在として見えなかった」
クレイン博士が記録端末から顔を上げた。
「三枝観測員の思考にも、患者と同じ欠損があります」
「持ち去られた?」
久世が尋ねる。
「一部だけです。ただし、欠損は拡大していません」
クレイン博士は夢界映像を停止した。
画面には、三枝を捕獲するNCO-217-JP-Bが映っている。
怪物は三枝を攻撃しているように見える。
その口は大きく開き、長い指が肩へ食い込んでいる。
だが、映像を一フレームずつ確認すると、別のものが見えた。
NCO-217-JP-Bの背中。
怪物の身体には、無数の欠損があった。
何者かに少しずつ食い取られている。
それでも三枝と白い扉の間に立ち続けていた。
「どうして、ここまでするんでしょう」
奈緒が画面を見ながら言った。
誰も答えられなかった。
久世は沙耶へ近づいた。
「小田切さん。夢の先生は、何か言っていましたか」
沙耶は涙を拭った。
「起きろって」
「ほかには?」
「分からない」
「ゆっくりでいいんです」
沙耶はしばらく考えた。
「怒ってた」
「あなたに?」
「違う」
「では、誰に?」
沙耶は自分の胸へ手を置いた。
「私の夢を使って、ほかの人を呼ぼうとしたものに」
久世はその言葉を記録した。
沙耶が続ける。
「先生は怖いけど、下にいるものは怖くなかった」
「なぜですか」
「優しかったから」
沙耶は久世を見た。
「だから、先生は怖い姿をしてるんだと思う」
「どういう意味です」
「先生まで優しくなったら、どっちについていけばいいか分からなくなるから」
七
実験終了後、久世は単独で夢界記録を確認していた。
時刻は午前二時を過ぎている。
観測室には彼以外誰もいない。
NCO-217-JP-Bの拘束。
白い扉の出現。
沙耶の覚醒。
三枝を追跡する怪物。
何度見直しても、外見だけならNCO-217-JP-Bは敵性存在にしか見えなかった。
患者を追い、傷つけ、恐怖を与える。
それが患者を救うための行動だと証明する資料は、まだ少ない。
捕食者が獲物をほかの存在から守っているだけという可能性も残っている。
久世は記録を停止した。
モニターの黒い画面に、自分の顔が映る。
その背後に、白い扉が立っていた。
久世は振り返る。
観測室の壁には何もない。
再び画面を見ると、扉は消えていた。
代わりに、NCO-217-JP-Bの顔が映っている。
再生を停止しているにもかかわらず、怪物の口が動いた。
『久世冬馬』
久世は椅子から立ち上がった。
「誰だ」
『眠れ』
「お前はNCO-217-JP-Bか」
『眠れ』
「なぜ私を呼ぶ」
『見せる』
画面に、夢界管理病棟の映像が表示された。
感染者たちが各病室で眠っている。
実際には全員が起きているはずだった。
久世は館内監視映像を確認した。
現実の病室では、患者たちは読書や会話をしている。
モニターの中だけで、全員が眠っていた。
十二名の患者。
そのベッド脇に、それぞれ異なるNCO-217-JP-Bが立っている。
顔のない教師。
濡れた少年。
黒い犬。
事故死した父親。
長い髪で全身を覆った女性。
怪物たちは患者を見ていなかった。
全員が病室の床を見ている。
床の下に、何かがいる。
『眠れ』
怪物の声が重なる。
「私を夢へ呼ぶつもりか」
『回答を要求する』
「何の?」
『排除するか』
久世は答えなかった。
NCO-217-JP-Bを管理対象として隔離する。
必要なら消去する。
それが調査開始時の方針だった。
「まだ判断できない」
『判断する』
「情報が足りない」
『次は間に合わない』
画面の中で、患者たちのベッドの下に白い亀裂が走る。
亀裂の奥から、咀嚼音が聞こえた。
『排除するか』
久世は怪物を見た。
「今夜はしない」
『明日は』
「分からない」
『次の夢では』
久世は目を閉じた。
「分からない」
画面の怪物が近づく。
口の奥に、朝の光が見える。
『なら、見ろ』
久世の意識が一瞬だけ途切れた。
気づくと、彼は観測室の床に倒れていた。
時計は午前二時十三分。
意識を失っていた時間は、十三分間。
机の上に、一枚の紙が置かれていた。
久世が作成した記憶はない。
紙には、手書きで文章が記されている。
NCO-217-JP-Bを排除してはならない。
その下に、別の筆跡で追記があった。
一人が奥へ行けば、一人では終わらない。
さらに、紙の最下部。
爪で引っかいたような文字が刻まれている。
私を怖がっている間は、まだ安全だ。
久世は紙を耐改変保管袋へ入れた。
翌朝、NCO-217-JP-Bへの攻撃および消去実験を一時凍結する命令を出した。
ただし、その命令は長く続かなかった。
MDE内部には、恐怖を収容手段として認めることへ反対する職員が多かった。
患者へ毎晩悪夢を見せ続ける。
精神的苦痛を維持し、それを治療と呼ぶ。
そんな管理方針を永久に続けることはできない。
三日後、NCO-217-JP-Bを夢界から完全に切り離すための新たな実験計画が、倫理審査部門へ提出された。
対象者は感染者第八例。
計画書を読んだ久世は、承認欄へ署名しなかった。
反対欄にも署名できなかった。
机の上に置かれた書類を前に、彼は長い時間動かなかった。
その夜、感染者第八例の夢に現れたNCO-217-JP-Bは、追跡を行わなかった。
怪物は暗い廊下の中央に立ち、夢の外側にいる久世へ顔を向けた。
そして、誰にも聞こえないはずの声で告げた。
『次は、あなたが扉を開ける』
――Tale-02『私を怖がって』終了
次回予告
Tale-03『白い部屋』
10月30日21時投稿予定




