Tale-01 『悪夢のない夜』
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NCO-217-JP関連Tale-01
『悪夢のない夜』
一
午前三時十二分、第三病室から悲鳴が聞こえた。
藤崎奈緒はナースステーションの椅子から立ち上がり、机の上に置いていた記録端末をつかんだ。廊下へ出ると、白い床を非常灯の青白い光が照らしていた。
夜凪睡眠医療センターは、関東地方の郊外に建てられた小規模な専門病院だった。慢性的な不眠症、睡眠麻痺、夜驚症、悪夢障害を専門に扱っている。入院病棟には十一名の患者がおり、その全員が、原因不明の反復性悪夢を訴えていた。
第三病室の前には、すでに当直の森川医師が立っていた。
室内では二十三歳の女性患者、小田切沙耶がベッドの上で身体を丸めている。心拍数は一分間に百四十八回。寝衣は汗で濡れ、両腕には自分の爪でつけた傷があった。
「沙耶さん、藤崎です。ここは病院です。もう起きていますよ」
奈緒はベッド脇へ座り、患者の肩へ毛布をかけた。
沙耶は何度も呼吸を繰り返した後、奈緒の白衣をつかんだ。
「先生を入れないで」
「先生?」
「学校の先生。廊下にいるから」
病室の扉は開いている。その向こうには誰もいない。
「ここにはいませんよ」
「違う。夢の廊下にいるの」
沙耶は震えながら、扉の外を見た。
「顔に口しかない先生。手が床まで伸びていて、いつも私を追いかけてくる」
「今夜も同じ夢だったんですね」
沙耶はうなずいた。
この病院へ入院してから七日間、彼女は毎晩同じ怪物に追われていた。
夢の舞台は、小学生時代に通っていた学校。照明の消えた校舎を逃げ続け、捕まる直前に目を覚ます。夢の中に現れる教員は、沙耶が子供の頃に恐れていた担任教師に似ていた。
ただし、身長は三メートル近くあり、顔には目も鼻もなく、大きな口だけがある。
「また捕まりましたか」
奈緒が尋ねると、沙耶は白衣を握る手に力を込めた。
「うん」
「何をされました?」
「後ろから抱き締められた」
奈緒は沙耶の身体を確認した。
肩甲骨の周囲に、赤い爪痕が残されている。睡眠中に自分でつけられる位置ではなかった。
「捕まった後、どうなりましたか」
「目が覚めた」
沙耶は涙を拭いながら答えた。
「いつも、捕まると目が覚めるの」
「なら、怪物から逃げ切れれば、もう少し眠れるかもしれませんね」
安心させるつもりで言った言葉だった。
だが、沙耶の表情が変わった。
「違う」
「何がですか」
「あれに捕まらないと、下へ行っちゃう」
「下?」
「学校の地下。夢の中には、ずっと地下へ続く階段があるの。先生が来なかった日は、誰かが下から呼んでくる」
「誰が呼ぶんですか」
沙耶は答えなかった。
代わりに、病室の入口へ目を向けた。
廊下のさらに奥。
照明の届かない場所。
誰もいないはずの暗闇を見つめている。
「今も聞こえますか」
奈緒が尋ねる。
沙耶は小さく首を振った。
「起きている間は聞こえない」
しばらくして呼吸が安定すると、沙耶は再び横になった。しかし、目は閉じようとしなかった。
「朝まで、ここにいてくれますか」
「いますよ」
奈緒はベッド脇の椅子へ座った。
「眠らなくていいんですか」
「今夜は無理」
沙耶は毛布を顔の近くまで引き上げた。
「でも、明日からは大丈夫だって先生が言ってた。悪夢を見なくする新しい治療を始めるから」
奈緒は森川医師を見た。
医師は患者に見えない位置で、静かにうなずいた。
十一名の患者を対象とした、新しいレム睡眠抑制治療。
翌日から始まる予定だった。
二
治療に使用されたのは、枕元へ設置する小型の睡眠制御装置だった。
脳波と眼球運動を監視し、患者がレム睡眠へ移行する直前に、微弱な音と電気刺激を与える。患者を完全には覚醒させず、夢を見ない睡眠段階へ誘導する仕組みである。
動物実験と短期間の臨床試験は終了していた。
森川医師は、治療開始前の説明会で安全性を強調した。
「悪夢の内容へ干渉するのではありません。悪夢が発生する睡眠段階を減らします。患者さんによっては軽い疲労感や眠気が残る可能性がありますが、現在のように毎晩強制的に覚醒するよりも、身体への負担は小さくなると考えられます」
十一名の患者全員が治療に同意した。
奈緒も反対しなかった。
沙耶を含めた患者たちは、長期間にわたり悪夢に苦しめられている。睡眠薬、心理療法、認知行動療法のどれも十分な効果を上げていなかった。
怪物に追われる夢を見なくなる。
それで患者が眠れるのなら、試す価値はあると思った。
治療初日の夜、病棟は不自然なほど静かだった。
普段なら午前零時を過ぎる頃から、患者の寝言、すすり泣き、ナースコールが断続的に聞こえてくる。だが、その夜は誰一人として目を覚まさなかった。
午前二時。
午前三時。
午前四時。
十一名全員が眠り続けた。
奈緒は各病室を回り、患者の状態を確認した。
沙耶は穏やかな表情で眠っている。
心拍、呼吸、脳波に異常はない。
肩や腕に新しい傷も見られない。
奈緒は安堵しながら、彼女の毛布を整えた。
そのとき、沙耶の口元がわずかに動いた。
「開けないで」
非常に小さな声だった。
奈緒は顔を近づけた。
「沙耶さん?」
返事はない。
「何を開けてはいけないんですか」
沙耶は眠ったまま、眉間にしわを寄せた。
「白い扉」
呼吸が一度止まる。
すぐに正常へ戻った。
奈緒は睡眠制御装置を確認した。レム睡眠は正常に抑制されている。夢を見ていることを示す反応もない。
それでも沙耶は、何かを見ている。
奈緒は記録端末へ発言を入力した。
病室を出た直後、背後から別の音が聞こえた。
くちゃ。
湿ったものを噛むような音。
奈緒は振り返った。
沙耶は変わらず眠っている。
枕元の装置も正常に作動していた。
くちゃ。
今度は、ベッドの下から聞こえた。
奈緒は屈み、床を確認した。
何もない。
音は止まっていた。
廊下へ戻ると、小児用待合室の扉が開いていた。
昼間、子供の患者が家族と過ごすための部屋だ。壁には動物の絵が貼られ、床には玩具と絵本が並んでいる。
部屋の中央で、小型映像投影機が作動していた。
丸みを帯びた黄色い本体に、白衣を着た髭面の人物が描かれている。
「わくわく博士の、ぐっすり!おやすみドリームシアター」
子供向けの睡眠導入玩具だった。
天井へ星空や動物の映像を投影し、穏やかな音楽と短い物語を流す。病院へ寄付されたもので、昼間は小児患者がよく使用していた。
誰もいない待合室の天井に、笑顔のわくわく博士が映っている。
『さあ、よい子のみんな。お布団に入る時間だよ』
明るい音声が流れる。
奈緒は投影機へ近づいた。
タイマーは切れている。本来なら作動しないはずだった。
『目を閉じて、ゆっくり眠ろう』
わくわく博士の顔が画面いっぱいに広がる。
『夢の中には、楽しいお友達がいっぱいだよ』
映像が一瞬乱れた。
笑顔だった博士の口が、不自然に真っすぐ閉じる。
『でも、今日は眠っちゃだめだよ』
奈緒は動きを止めた。
映像内の博士が、画面の外にいる奈緒へ顔を向けた。
『夢の奥のお友達は、まだ起きてないからね』
投影が消えた。
部屋が暗くなる。
奈緒は本体の電源を確認した。
電池は入っていなかった。
三
治療開始から三日間、患者の状態は目に見えて改善した。
悪夢による覚醒は一度も起きなかった。
沙耶は食欲を取り戻し、ほかの患者と話すようになった。目の下にあった濃い隈も薄くなっている。
「昨日は夢を見ましたか」
朝の検温時、奈緒が尋ねた。
「何も見なかった」
沙耶は笑って答えた。
「本当に何も。目を閉じたと思ったら、朝だった」
「よく眠れたんですね」
「こんなの、何年ぶりだろう」
沙耶は自分の両腕を見た。
新しい傷はない。
「先生も来なかった」
口しかない巨大な教員。
沙耶を捕まえ、毎晩無理やり目覚めさせていた怪物。
「寂しいですか」
奈緒が冗談めかして尋ねる。
「まさか」
沙耶は笑った。
だが、その笑顔が途中で止まった。
「ただ……」
「何ですか」
「寝る直前に、音が聞こえるの」
奈緒は記録端末を開いた。
「どのような音ですか」
沙耶は説明しようとして、何度か口を動かした。
「誰かが食べてるみたいな音」
奈緒の指が止まった。
「何を食べているんですか」
「分からない。暗いから」
「その音を聞いた後に、夢を見ますか」
「見ない。でも――」
沙耶は病室の床へ視線を落とした。
「毎晩、音が少し近くなってる」
同じ訴えは、ほかの患者からも聞かれた。
何かを噛む音。
硬いものを砕く音。
大量の水をすする音。
誰かが口の中で名前を繰り返す音。
十一名のうち七名が、入眠直前に似た音を聞いていた。
森川医師は、治療に伴う入眠時幻覚だと判断した。
「悪夢の記憶が残っているんでしょう。脳が夢を見ない状態に適応するまで、多少の幻覚が起きることはあります」
「七人が同じような音を聞いています」
奈緒が言った。
「互いに話した可能性は?」
「病室は分かれています。最初に訴えた患者の記録も公開していません」
「音の表現は完全には一致していない」
森川医師は記録を閉じた。
「噛む音、砕く音、すする音。共通しているように見えて、実際にはそれぞれ違う」
「でも、何かが食べているという部分は同じです」
「藤崎さん」
森川医師は眼鏡を外し、目元を押さえた。
「三日間、誰も悲鳴を上げていない。自傷も、夜間の過呼吸も、睡眠中の心停止も起きていない。患者たちは回復している」
「分かっています」
「なら、経過を見よう」
奈緒はそれ以上反論しなかった。
だが、治療記録には別の異常も現れていた。
患者たちの睡眠時間と、記録された睡眠段階の合計が一致しない。
たとえば沙耶は、前夜に六時間三十二分眠っていた。
しかし、浅い睡眠、深い睡眠、覚醒反応を合計すると、六時間十九分にしかならない。
十三分が不足している。
ほかの患者でも、十一分から十四分の欠損が確認された。
装置の時計は正常。
記録媒体にも停止や破損はない。
映像を見る限り、患者はその間もベッドで眠っている。
ただ、脳波上では、睡眠にも覚醒にも分類できない。
まるでその時間だけ、患者の意識が記録から切り取られているようだった。
奈緒は欠損時間の音声記録を再生した。
最初は、患者の呼吸音しか聞こえない。
再生から一分ほど経ったところで、小さな音が入った。
くちゃ。
数秒後。
くちゃ。
音量を上げる。
何かが、ゆっくりと咀嚼している。
奈緒はヘッドホンを外した。
音声は止まらなかった。
くちゃ。
今度は、ナースステーションの机の下から聞こえている。
奈緒は椅子を引き、足元を確認した。
何もない。
視線を上げると、消灯した端末の画面に自分の顔が映っていた。
その背後に、濡れた服を着た少年が立っている。
奈緒は振り返った。
誰もいない。
もう一度、画面を見る。
少年も消えていた。
奈緒は自分の腕を抱いた。
少年の顔を、見間違えるはずがなかった。
十六年前、川で死亡した弟。
悠人だった。
四
最初に昏睡状態となったのは、治療開始から六日目の朝だった。
第五病室の患者が、定時の覚醒処置に反応しなかった。
呼吸、心拍、体温は正常。瞳孔反応もある。脳波は覚醒状態に近い活動を示している。
だが、声にも痛み刺激にも反応しない。
患者は穏やかな表情で眠り、微笑んでいた。
その日の午後に二人目。
深夜に三人目。
三人とも、悪夢を見なくなったと喜んでいた患者だった。
森川医師は治療の中止を決定した。
すべての睡眠制御装置が回収され、患者はレム睡眠を抑制しない通常の睡眠へ戻された。
それでも、悪夢は戻らなかった。
沙耶は眠ることを拒否した。
「先生が来ない」
彼女はベッドの隅に座り、膝を抱えていた。
「治療は中止しました。今夜から、以前と同じように夢を見るはずです」
「違う」
「まだ眠っていないから、分からないでしょう」
「分かるの」
沙耶は暗い廊下を見た。
「あの先生、もういない」
「どうして?」
「食べられたから」
奈緒は返事ができなかった。
「音が止まったの」
沙耶が続ける。
「全部食べ終わったんだと思う」
「何を?」
「先生を」
病室の照明が一度だけ明滅した。
沙耶は奈緒の腕をつかんだ。
「今夜、寝たら駄目」
「大丈夫です。私たちが監視しています」
「看護師さんもだよ」
「私?」
「昨日、夢に出てきたから」
沙耶は奈緒の顔を見上げた。
「あの先生から逃げてたら、看護師さんが廊下にいたの。だから、手をつないで一緒に逃げようと思った」
奈緒の背中に冷たい感覚が走った。
「いつの夢ですか」
「最後に先生が来た夜」
治療開始の前日。
沙耶が悪夢を見た最後の夜だった。
「私に何か言いましたか」
「こっちに来てって呼んだ」
「私は来ましたか」
沙耶は首を横に振った。
「看護師さんの後ろに、濡れた男の子がいたから」
奈緒は腕を振りほどきそうになった。
どうにか思いとどまり、沙耶の手を握り返す。
「その子は、何をしていましたか」
「看護師さんを見てた」
「ほかには?」
「怒ってた」
「誰に?」
沙耶は奈緒の背後を指さした。
「下にいる人に」
奈緒は振り返らなかった。
その夜、病棟職員には二人一組で患者を監視するよう指示が出された。
外部の保健機関と、森川医師が「中央の異常医療機関」とだけ説明した組織にも連絡が行われた。
専門班の到着予定は翌朝。
それまで患者を眠らせない方針が決まった。
だが、午前一時を過ぎた頃から、病棟全体に強い眠気が広がり始めた。
患者だけではない。
医師。
看護師。
警備員。
連絡を受けて来院した家族。
全員が、立っていられないほどの眠気を訴えた。
コーヒーも覚醒薬も効果がなかった。
奈緒はナースステーションで記録を入力しながら、何度も意識が遠のくのを感じた。
端末の文字が二重に見える。
時計は午前二時五十九分。
隣にいた看護師が机へ突っ伏して眠っている。
起こそうと立ち上がった瞬間、廊下の照明が消えた。
非常灯は点灯しなかった。
暗闇の奥から、水滴の音が聞こえる。
奈緒の靴底を冷たい水が覆った。
ナースステーションの床に、水はない。
それでも、足首まで水に浸かっている感覚があった。
「奈緒姉ちゃん」
暗闇から、少年の声がした。
奈緒は目を閉じた。
十六年前。
夏休み。
川岸へ置かれた、悠人の青い靴。
流れの速い場所へ行くなと言われていたのに、奈緒は友人との会話に夢中になり、弟を見ていなかった。
発見されたとき、悠人は遠く離れた下流にいた。
「奈緒姉ちゃん」
声が近づく。
「今度は、ちゃんと見てて」
奈緒は目を開けた。
病院の廊下ではなかった。
水に沈んだ、古い家の中だった。
幼い頃に家族と暮らしていた家。
天井近くまで濁った水に満たされているはずなのに、奈緒は呼吸ができた。
家具が水中を漂い、窓の外には真っ暗な川が流れている。
廊下の奥に悠人が立っていた。
死亡した当時の十一歳の姿。
服も髪も濡れ、白く膨らんだ皮膚には水草が絡みついている。両目は開いているが、瞳がない。
「悠人」
少年の口から、黒い水が溢れた。
奈緒へ向かって歩き始める。
「待って」
悠人は止まらない。
「ごめんなさい」
奈緒は後退した。
少年の歩みが速くなる。
奈緒は背を向けて走った。
廊下の先に、病院の第三病室が現れた。
扉を開けると、沙耶が床に座っていた。
「看護師さん」
奈緒は沙耶の手をつかんだ。
「逃げますよ」
「どこへ?」
「どこでもいい。あの子から離れないと」
背後で、水を引きずる足音が響く。
悠人が追ってくる。
沙耶は病室の奥を指さした。
そこには、現実には存在しない下り階段があった。
白い光が、階段の下から差している。
「こっち」
沙耶が階段へ向かう。
奈緒は彼女の手を引いた。
「待って。下へ行ってはいけない」
「でも、あの先生がいなくなったとき、下から呼ばれたの」
階段の下から声が聞こえた。
「沙耶」
優しい女性の声。
沙耶の母親だった。
「もう怖い先生はいないよ。降りておいで」
沙耶の表情から恐怖が消えた。
「お母さん」
「違う」
奈緒は彼女を抱き寄せた。
「その声を聞いてはいけない」
「でも、お母さんがいる」
「あなたのお母さんではありません」
階段の下に、白い扉が見えた。
扉は少しだけ開いている。
隙間の向こうには、暖かい光と、誰かが立っている影が見えた。
「奈緒姉ちゃん」
今度は悠人の声が、扉の向こうから聞こえた。
奈緒は振り返った。
廊下から追ってきた、濡れた悠人はまだ背後にいる。
白い扉の向こうにも、悠人がいる。
ただし、そちらは濡れていなかった。
死ぬ前の姿。
笑いながら、奈緒へ手を差し出している。
「今度は一緒に来て」
奈緒の胸から、長年抱えていた痛みが消えていく。
もう一度、弟と話せる。
謝ることができる。
今度こそ手を離さず、一緒にいられる。
白い扉へ近づく。
そのとき、背後の濡れた悠人が唸った。
獣のような声だった。
床を蹴り、一気に奈緒へ飛びかかる。
「やめて!」
奈緒は沙耶をかばった。
濡れた少年の両腕が、奈緒の身体を抱き締める。
冷たい。
痛いほど強い。
耳元で、水の詰まった喉から声が聞こえた。
「そっちじゃない」
白い扉の向こうに立つ悠人の笑顔が崩れた。
口が横へ広がる。
顔全体を裂くほど大きく開く。
その奥には舌も喉もない。
ただ、白い部屋がさらに続いていた。
部屋の奥で、何かが食べている。
くちゃ。
くちゃ。
くちゃ。
何を食べているのかは見えない。
だが、一口ごとに白い部屋の壁が欠けていく。
破壊されているのではない。
そこに何かが存在していたという事実ごと、失われていく。
沙耶が悲鳴を上げた。
白い扉へ近づいていた彼女の足首を、長い腕がつかんでいる。
顔に口しかない、巨大な教師。
食べられたはずの怪物だった。
身体の半分が欠けている。
左腕も、右肩も、顔の一部も存在しない。
それでも怪物は沙耶をつかみ、階段から引き離そうとしている。
「放して!」
沙耶が抵抗する。
怪物の口が開いた。
「起きろ」
白い扉の向こうで、何かが動いた。
笑顔の悠人が奈緒へ手を伸ばす。
「奈緒姉ちゃん。そいつを放して」
濡れた悠人が、奈緒をさらに強く抱き締めた。
爪が背中へ食い込む。
「怖がって」
奈緒は理解した。
白い扉の向こうにいるものは、優しい。
痛みを与えない。
恐怖も罪悪感も、すべて消してくれる。
だから、戻れなくなる。
奈緒は濡れた悠人の顔を見た。
死んだ弟の姿をした怪物。
それが自分を傷つけながら、必死に扉から遠ざけている。
「あなたは、悠人なの?」
怪物は答えなかった。
代わりに奈緒の肩へ噛みついた。
激痛が走る。
奈緒は叫んだ。
五
目を覚ますと、奈緒はナースステーションの床に倒れていた。
病棟の照明は復旧している。
警報音が鳴り、職員たちが廊下を走っていた。
時計は午前三時十二分。
肩に鋭い痛みがある。
白衣をずらすと、人間の歯形に似た傷が残されていた。だが、大きさは十一歳の子供の口と一致しているように見えた。
「藤崎さん!」
森川医師が駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「沙耶さんは」
奈緒は床へ手をつき、立ち上がろうとした。
第三病室へ向かうと、沙耶はベッドの上で激しく咳き込んでいた。呼吸はある。意識も戻っている。
その背中には、巨大な指でつかまれたような痕が残されていた。
「先生がいた」
沙耶は泣きながら奈緒へしがみついた。
「食べられてたのに、戻ってきた」
「ええ」
奈緒は彼女を抱き締めた。
「先生が起こしてくれました」
病棟にいた十一名の患者のうち、七名が同時に覚醒していた。
全員がナイトメアに追跡、捕獲または攻撃される夢を見ていた。
残る四名は、穏やかな表情のまま昏睡している。
四名とも、夢の中でナイトメアが現れなかったと話していた患者だった。
午前三時二十分、正面玄関へ複数の黒い車両が到着した。
降りてきた者たちは医療関係者を名乗ったが、通常の医療機関に所属する者ではなかった。
病棟は直ちに封鎖された。
患者と職員の携帯電話が回収され、外部への連絡も制限された。窓には外側から遮蔽材が取り付けられ、睡眠記録装置はすべて別室へ運び出された。
指揮を執っていたのは、三十代後半の男性だった。
白衣の胸元には、所属施設や病院名ではなく、「MDE・サイト83」とだけ記された識別証をつけている。
久世冬馬と名乗った。
「藤崎奈緒さんですね」
久世はナースステーションの椅子に座る奈緒へ尋ねた。
「はい」
「夢の内容を、最初から話してください」
奈緒は、水に沈んだ家、死んだ弟、沙耶、白い扉について説明した。
ただし、扉の向こうで何かが食べていた場面を説明しようとすると、記憶が曖昧になった。
音は覚えている。
白い壁が欠けたことも覚えている。
だが、その奥に何がいたのか思い出せない。
「見たはずなんです」
奈緒は額を押さえた。
「扉の奥に何かがいました」
「姿を説明できますか」
「分かりません」
「人型でしたか」
「分からない」
「大きさは?」
「分からないんです」
奈緒は苛立ちを抑えられなかった。
「忘れたんじゃありません。そこだけ最初から何もなかったみたいに、思い出せないんです」
久世は記録を止めた。
「それ以上、思い出そうとしないでください」
「でも、あれが患者を――」
「今は説明しなくていい」
「あなたたちは、何を知っているんですか」
「まだ何も」
久世は昏睡した四名の脳波記録を見た。
「だから、あなたから聞いています」
別の職員が、治療前後の睡眠記録を机へ置いた。
「主任。全患者の記録に欠損があります」
「時間は」
「平均十二分五十一秒。最長十四分二秒。装置の停止は確認できません」
「音声は?」
「共通する異常音があります」
職員が記録を再生した。
くちゃ。
くちゃ。
奈緒が夢の中で聞いた音。
久世は無言で最後まで聞いた。
「これは何の音ですか」
奈緒が尋ねた。
久世はすぐには答えなかった。
「現時点では分かりません」
「患者たちは何に襲われているんです」
「我々が確認しなければならないのは、そこです」
久世は、眠っている患者と覚醒した患者の記録を二つに分けた。
「昏睡した患者には、最後の夜に悪夢が現れていない」
「はい」
「覚醒できた患者は、全員が悪夢の中で怪物に捕まっている」
「怪物に捕まったから、目を覚ました」
「そう考えられます」
久世は奈緒の肩に残る歯形を確認した。
「藤崎さん。あなたは眠る前に、このような傷を負っていましたか」
「いいえ」
「夢の中では、誰に噛まれましたか」
「弟です」
「弟さんは現在どこに?」
「十六年前に亡くなりました」
久世は短く息を吐いた。
「これから奇妙なことを言います」
「もう十分、奇妙です」
「そうですね」
久世は昏睡した四名を映す監視画面へ目を向けた。
「あなたたちが見ていた怪物は、敵ではない可能性があります」
奈緒は濡れた悠人の顔を思い出した。
白い扉から遠ざけるため、痛いほど強く自分を抱き締めた腕。
「患者を傷つけているんですよ」
「それでも、目を覚まさせた」
「では、白い扉の向こうにいたものは?」
「それを調べる必要があります」
「調べて、どうするんですか」
久世は答えなかった。
代わりに、患者たちの睡眠記録を指でなぞった。
「この七人は、悪夢を見たから戻ってこられた」
続いて、穏やかに眠る四人を見る。
「この四人は、悪夢を見なくなったから戻ってこない」
久世は奈緒へ視線を戻した。
「今夜から、この施設にいる全員を起こしておきます。睡眠が必要な場合は、我々の管理下で眠ってもらいます」
「私もですか」
「あなたは、患者の夢に出てきた。その後、自分でも同じ構造の夢を見た」
久世は新しい記録用紙を開いた。
上部の対象者数を十一から十二へ書き換える。
「現時点をもって、あなたを十二人目の感染者として扱います」
奈緒は、その数字を見つめた。
「治療できますか」
久世は答えるまでに時間を置いた。
「眠らないようにすることはできます」
「それでは治療になりません」
「分かっています」
「悪夢を消すことは?」
久世は昏睡した四人を見た。
「それは、もう治療とは呼べない」
六
午前五時二十六分。
患者の移送準備が始まった。
覚醒している七名は、鎮静剤を使用せずに専用車両へ移される。昏睡した四名は生命維持装置へ接続され、MDE医療班の監視下に置かれた。
夜凪睡眠医療センターは、設備異常と薬剤管理上の問題を理由に閉鎖されることになった。
奈緒は私物を取りに、小児用待合室へ立ち寄った。
玩具や絵本は、MDE職員によって一つずつ回収されている。
床の中央には、「ぐっすり!おやすみドリームシアター」が置かれていた。
黄色い本体へ、赤い危険物識別票が取り付けられている。
奈緒は近くにいた職員へ尋ねた。
「それも持っていくんですか」
「確認対象です」
「何か異常が?」
「同じ名称の商品が、製造元の記録に存在しません」
職員は本体を透明な容器へ収めた。
「病院へ寄付した人物も特定できませんでした」
「映像の中の博士が話したんです」
「どのような内容でしたか」
「今日は眠るなと」
職員が手を止めた。
「ほかには?」
「夢の奥のお友達は、まだ起きていないからって」
職員は端末へ内容を記録した。
容器の蓋を閉じる。
電池の入っていない投影機が、内部でひとりでに作動した。
透明な容器の天井に、わくわく博士の顔が映る。
職員と奈緒が同時に振り返った。
博士はいつものように笑っていた。
『みんな、ちゃんと起きられたかな?』
明るい音楽が流れる。
『悪い夢は怖いよね。でも、怖い夢にもお仕事があるんだよ』
奈緒は容器へ近づいた。
「何を知っているの」
映像内の博士は質問に答えない。
『夢を残さず食べると、お腹を壊しちゃうからね』
画面の隅に、笑顔を描かれた三日月が現れる。
三日月の端には、何者かにかじられたような欠損があった。
『食べ残しは、朝まで取っておこう!』
音楽が止まる。
投影も消えた。
MDE職員は無言で容器を二重に封鎖した。
奈緒は待合室の窓から、白み始めた空を見た。
朝が来ている。
それでも、病院の廊下のどこかから、咀嚼音が聞こえていた。
くちゃ。
くちゃ。
音は少しずつ遠ざかっている。
満腹になった何かが、暗い場所へ帰っていくように。
七
サイト83へ向かう車両の中で、奈緒は沙耶と隣り合って座っていた。
沙耶は眠らないよう、何度も自分の頬を叩いている。
「疲れましたか」
奈緒が尋ねる。
「眠い」
「もう少しだけ我慢しましょう」
「看護師さんも眠そう」
「私は大丈夫です」
嘘だった。
目を閉じれば、すぐにでも眠れそうだった。
車窓の外を、早朝の街並みが流れていく。通勤を始めた人々、開店準備をする店、朝日を反射する窓。
悪夢のことなど知らない世界。
沙耶が奈緒の袖をつかんだ。
「先生、また来てくれるかな」
「夢の先生ですか」
「うん」
「怖くないんですか」
「怖いよ」
沙耶は即答した。
「でも、いなくなる方が怖い」
奈緒は返事をせず、肩に残る歯形へ触れた。
あれが本当に悠人だったとは思わない。
弟の記憶を利用しただけの怪物かもしれない。
それでも、最後に聞いた声だけは、奈緒が知っていた弟のものに聞こえた。
そっちじゃない。
沙耶が窓に頭を預ける。
「看護師さん」
「何ですか」
「もし、またあの夢を見たらどうすればいい?」
奈緒は少し考えた。
夢の中で怪物に追われる。
逃げても追いつかれる。
捕まれば傷つけられる。
それでも、その痛みの先には朝がある。
「逃げてください」
奈緒は答えた。
「できるだけ長く、全力で」
「捕まりそうになったら?」
「怖がってください」
「それだけ?」
「はい」
奈緒は閉じかけた沙耶の瞼を軽く叩いた。
「怖がって、目を覚ましてください」
沙耶は小さくうなずいた。
車両は、サイト83へ続く地下搬入口へ入っていく。
地上の朝日が見えなくなる。
奈緒は暗い車窓に映った自分の顔を見た。
その背後に、濡れた悠人が座っている。
今度は追いかけてこなかった。
悠人は奈緒ではなく、車両のさらに後ろにある暗闇を見ていた。
何かの接近を警戒するように。
奈緒は振り返らなかった。
悠人の姿も、暗闇の向こうにいるものも、確認しなかった。
ただ、目を閉じないようにしながら、朝の終わりまで起き続けた。
――Tale-01『悪夢のない夜』終了
次回予告
Tale-02『私を怖がって』
9月 29日21時投稿予定




