↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
77/85

Tale-01 『悪夢のない夜』

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます


NCO-217-JP関連Tale-01


『悪夢のない夜』



一


午前三時十二分、第三病室から悲鳴が聞こえた。


藤崎奈緒はナースステーションの椅子から立ち上がり、机の上に置いていた記録端末をつかんだ。廊下へ出ると、白い床を非常灯の青白い光が照らしていた。


夜凪睡眠医療センターは、関東地方の郊外に建てられた小規模な専門病院だった。慢性的な不眠症、睡眠麻痺、夜驚症、悪夢障害を専門に扱っている。入院病棟には十一名の患者がおり、その全員が、原因不明の反復性悪夢を訴えていた。


第三病室の前には、すでに当直の森川医師が立っていた。


室内では二十三歳の女性患者、小田切沙耶がベッドの上で身体を丸めている。心拍数は一分間に百四十八回。寝衣は汗で濡れ、両腕には自分の爪でつけた傷があった。


「沙耶さん、藤崎です。ここは病院です。もう起きていますよ」


奈緒はベッド脇へ座り、患者の肩へ毛布をかけた。


沙耶は何度も呼吸を繰り返した後、奈緒の白衣をつかんだ。


「先生を入れないで」


「先生?」


「学校の先生。廊下にいるから」


病室の扉は開いている。その向こうには誰もいない。


「ここにはいませんよ」


「違う。夢の廊下にいるの」


沙耶は震えながら、扉の外を見た。


「顔に口しかない先生。手が床まで伸びていて、いつも私を追いかけてくる」


「今夜も同じ夢だったんですね」


沙耶はうなずいた。


この病院へ入院してから七日間、彼女は毎晩同じ怪物に追われていた。


夢の舞台は、小学生時代に通っていた学校。照明の消えた校舎を逃げ続け、捕まる直前に目を覚ます。夢の中に現れる教員は、沙耶が子供の頃に恐れていた担任教師に似ていた。


ただし、身長は三メートル近くあり、顔には目も鼻もなく、大きな口だけがある。


「また捕まりましたか」


奈緒が尋ねると、沙耶は白衣を握る手に力を込めた。


「うん」


「何をされました?」


「後ろから抱き締められた」


奈緒は沙耶の身体を確認した。


肩甲骨の周囲に、赤い爪痕が残されている。睡眠中に自分でつけられる位置ではなかった。


「捕まった後、どうなりましたか」


「目が覚めた」


沙耶は涙を拭いながら答えた。


「いつも、捕まると目が覚めるの」


「なら、怪物から逃げ切れれば、もう少し眠れるかもしれませんね」


安心させるつもりで言った言葉だった。


だが、沙耶の表情が変わった。


「違う」


「何がですか」


「あれに捕まらないと、下へ行っちゃう」


「下?」


「学校の地下。夢の中には、ずっと地下へ続く階段があるの。先生が来なかった日は、誰かが下から呼んでくる」


「誰が呼ぶんですか」


沙耶は答えなかった。


代わりに、病室の入口へ目を向けた。


廊下のさらに奥。


照明の届かない場所。


誰もいないはずの暗闇を見つめている。


「今も聞こえますか」


奈緒が尋ねる。


沙耶は小さく首を振った。


「起きている間は聞こえない」


しばらくして呼吸が安定すると、沙耶は再び横になった。しかし、目は閉じようとしなかった。


「朝まで、ここにいてくれますか」


「いますよ」


奈緒はベッド脇の椅子へ座った。


「眠らなくていいんですか」


「今夜は無理」


沙耶は毛布を顔の近くまで引き上げた。


「でも、明日からは大丈夫だって先生が言ってた。悪夢を見なくする新しい治療を始めるから」


奈緒は森川医師を見た。


医師は患者に見えない位置で、静かにうなずいた。


十一名の患者を対象とした、新しいレム睡眠抑制治療。


翌日から始まる予定だった。



二


治療に使用されたのは、枕元へ設置する小型の睡眠制御装置だった。


脳波と眼球運動を監視し、患者がレム睡眠へ移行する直前に、微弱な音と電気刺激を与える。患者を完全には覚醒させず、夢を見ない睡眠段階へ誘導する仕組みである。


動物実験と短期間の臨床試験は終了していた。


森川医師は、治療開始前の説明会で安全性を強調した。


「悪夢の内容へ干渉するのではありません。悪夢が発生する睡眠段階を減らします。患者さんによっては軽い疲労感や眠気が残る可能性がありますが、現在のように毎晩強制的に覚醒するよりも、身体への負担は小さくなると考えられます」


十一名の患者全員が治療に同意した。


奈緒も反対しなかった。


沙耶を含めた患者たちは、長期間にわたり悪夢に苦しめられている。睡眠薬、心理療法、認知行動療法のどれも十分な効果を上げていなかった。


怪物に追われる夢を見なくなる。


それで患者が眠れるのなら、試す価値はあると思った。


治療初日の夜、病棟は不自然なほど静かだった。


普段なら午前零時を過ぎる頃から、患者の寝言、すすり泣き、ナースコールが断続的に聞こえてくる。だが、その夜は誰一人として目を覚まさなかった。


午前二時。


午前三時。


午前四時。


十一名全員が眠り続けた。


奈緒は各病室を回り、患者の状態を確認した。


沙耶は穏やかな表情で眠っている。


心拍、呼吸、脳波に異常はない。


肩や腕に新しい傷も見られない。


奈緒は安堵しながら、彼女の毛布を整えた。


そのとき、沙耶の口元がわずかに動いた。


「開けないで」


非常に小さな声だった。


奈緒は顔を近づけた。


「沙耶さん?」


返事はない。


「何を開けてはいけないんですか」


沙耶は眠ったまま、眉間にしわを寄せた。


「白い扉」


呼吸が一度止まる。


すぐに正常へ戻った。


奈緒は睡眠制御装置を確認した。レム睡眠は正常に抑制されている。夢を見ていることを示す反応もない。


それでも沙耶は、何かを見ている。


奈緒は記録端末へ発言を入力した。


病室を出た直後、背後から別の音が聞こえた。


くちゃ。


湿ったものを噛むような音。


奈緒は振り返った。


沙耶は変わらず眠っている。


枕元の装置も正常に作動していた。


くちゃ。


今度は、ベッドの下から聞こえた。


奈緒は屈み、床を確認した。


何もない。


音は止まっていた。


廊下へ戻ると、小児用待合室の扉が開いていた。


昼間、子供の患者が家族と過ごすための部屋だ。壁には動物の絵が貼られ、床には玩具と絵本が並んでいる。


部屋の中央で、小型映像投影機が作動していた。


丸みを帯びた黄色い本体に、白衣を着た髭面の人物が描かれている。


「わくわく博士の、ぐっすり!おやすみドリームシアター」


子供向けの睡眠導入玩具だった。


天井へ星空や動物の映像を投影し、穏やかな音楽と短い物語を流す。病院へ寄付されたもので、昼間は小児患者がよく使用していた。


誰もいない待合室の天井に、笑顔のわくわく博士が映っている。


『さあ、よい子のみんな。お布団に入る時間だよ』


明るい音声が流れる。


奈緒は投影機へ近づいた。


タイマーは切れている。本来なら作動しないはずだった。


『目を閉じて、ゆっくり眠ろう』


わくわく博士の顔が画面いっぱいに広がる。


『夢の中には、楽しいお友達がいっぱいだよ』


映像が一瞬乱れた。


笑顔だった博士の口が、不自然に真っすぐ閉じる。


『でも、今日は眠っちゃだめだよ』


奈緒は動きを止めた。


映像内の博士が、画面の外にいる奈緒へ顔を向けた。


『夢の奥のお友達は、まだ起きてないからね』


投影が消えた。


部屋が暗くなる。


奈緒は本体の電源を確認した。


電池は入っていなかった。



三


治療開始から三日間、患者の状態は目に見えて改善した。


悪夢による覚醒は一度も起きなかった。


沙耶は食欲を取り戻し、ほかの患者と話すようになった。目の下にあった濃い隈も薄くなっている。


「昨日は夢を見ましたか」


朝の検温時、奈緒が尋ねた。


「何も見なかった」


沙耶は笑って答えた。


「本当に何も。目を閉じたと思ったら、朝だった」


「よく眠れたんですね」


「こんなの、何年ぶりだろう」


沙耶は自分の両腕を見た。


新しい傷はない。


「先生も来なかった」


口しかない巨大な教員。


沙耶を捕まえ、毎晩無理やり目覚めさせていた怪物。


「寂しいですか」


奈緒が冗談めかして尋ねる。


「まさか」


沙耶は笑った。


だが、その笑顔が途中で止まった。


「ただ……」


「何ですか」


「寝る直前に、音が聞こえるの」


奈緒は記録端末を開いた。


「どのような音ですか」


沙耶は説明しようとして、何度か口を動かした。


「誰かが食べてるみたいな音」


奈緒の指が止まった。


「何を食べているんですか」


「分からない。暗いから」


「その音を聞いた後に、夢を見ますか」


「見ない。でも――」


沙耶は病室の床へ視線を落とした。


「毎晩、音が少し近くなってる」


同じ訴えは、ほかの患者からも聞かれた。


何かを噛む音。


硬いものを砕く音。


大量の水をすする音。


誰かが口の中で名前を繰り返す音。


十一名のうち七名が、入眠直前に似た音を聞いていた。


森川医師は、治療に伴う入眠時幻覚だと判断した。


「悪夢の記憶が残っているんでしょう。脳が夢を見ない状態に適応するまで、多少の幻覚が起きることはあります」


「七人が同じような音を聞いています」


奈緒が言った。


「互いに話した可能性は?」


「病室は分かれています。最初に訴えた患者の記録も公開していません」


「音の表現は完全には一致していない」


森川医師は記録を閉じた。


「噛む音、砕く音、すする音。共通しているように見えて、実際にはそれぞれ違う」


「でも、何かが食べているという部分は同じです」


「藤崎さん」


森川医師は眼鏡を外し、目元を押さえた。


「三日間、誰も悲鳴を上げていない。自傷も、夜間の過呼吸も、睡眠中の心停止も起きていない。患者たちは回復している」


「分かっています」


「なら、経過を見よう」


奈緒はそれ以上反論しなかった。


だが、治療記録には別の異常も現れていた。


患者たちの睡眠時間と、記録された睡眠段階の合計が一致しない。


たとえば沙耶は、前夜に六時間三十二分眠っていた。


しかし、浅い睡眠、深い睡眠、覚醒反応を合計すると、六時間十九分にしかならない。


十三分が不足している。


ほかの患者でも、十一分から十四分の欠損が確認された。


装置の時計は正常。


記録媒体にも停止や破損はない。


映像を見る限り、患者はその間もベッドで眠っている。


ただ、脳波上では、睡眠にも覚醒にも分類できない。


まるでその時間だけ、患者の意識が記録から切り取られているようだった。


奈緒は欠損時間の音声記録を再生した。


最初は、患者の呼吸音しか聞こえない。


再生から一分ほど経ったところで、小さな音が入った。


くちゃ。


数秒後。


くちゃ。


音量を上げる。


何かが、ゆっくりと咀嚼している。


奈緒はヘッドホンを外した。


音声は止まらなかった。


くちゃ。


今度は、ナースステーションの机の下から聞こえている。


奈緒は椅子を引き、足元を確認した。


何もない。


視線を上げると、消灯した端末の画面に自分の顔が映っていた。


その背後に、濡れた服を着た少年が立っている。


奈緒は振り返った。


誰もいない。


もう一度、画面を見る。


少年も消えていた。


奈緒は自分の腕を抱いた。


少年の顔を、見間違えるはずがなかった。


十六年前、川で死亡した弟。


悠人だった。



四


最初に昏睡状態となったのは、治療開始から六日目の朝だった。


第五病室の患者が、定時の覚醒処置に反応しなかった。


呼吸、心拍、体温は正常。瞳孔反応もある。脳波は覚醒状態に近い活動を示している。


だが、声にも痛み刺激にも反応しない。


患者は穏やかな表情で眠り、微笑んでいた。


その日の午後に二人目。


深夜に三人目。


三人とも、悪夢を見なくなったと喜んでいた患者だった。


森川医師は治療の中止を決定した。


すべての睡眠制御装置が回収され、患者はレム睡眠を抑制しない通常の睡眠へ戻された。


それでも、悪夢は戻らなかった。


沙耶は眠ることを拒否した。


「先生が来ない」


彼女はベッドの隅に座り、膝を抱えていた。


「治療は中止しました。今夜から、以前と同じように夢を見るはずです」


「違う」


「まだ眠っていないから、分からないでしょう」


「分かるの」


沙耶は暗い廊下を見た。


「あの先生、もういない」


「どうして?」


「食べられたから」


奈緒は返事ができなかった。


「音が止まったの」


沙耶が続ける。


「全部食べ終わったんだと思う」


「何を?」


「先生を」


病室の照明が一度だけ明滅した。


沙耶は奈緒の腕をつかんだ。


「今夜、寝たら駄目」


「大丈夫です。私たちが監視しています」


「看護師さんもだよ」


「私?」


「昨日、夢に出てきたから」


沙耶は奈緒の顔を見上げた。


「あの先生から逃げてたら、看護師さんが廊下にいたの。だから、手をつないで一緒に逃げようと思った」


奈緒の背中に冷たい感覚が走った。


「いつの夢ですか」


「最後に先生が来た夜」


治療開始の前日。


沙耶が悪夢を見た最後の夜だった。


「私に何か言いましたか」


「こっちに来てって呼んだ」


「私は来ましたか」


沙耶は首を横に振った。


「看護師さんの後ろに、濡れた男の子がいたから」


奈緒は腕を振りほどきそうになった。


どうにか思いとどまり、沙耶の手を握り返す。


「その子は、何をしていましたか」


「看護師さんを見てた」


「ほかには?」


「怒ってた」


「誰に?」


沙耶は奈緒の背後を指さした。


「下にいる人に」


奈緒は振り返らなかった。


その夜、病棟職員には二人一組で患者を監視するよう指示が出された。


外部の保健機関と、森川医師が「中央の異常医療機関」とだけ説明した組織にも連絡が行われた。


専門班の到着予定は翌朝。


それまで患者を眠らせない方針が決まった。


だが、午前一時を過ぎた頃から、病棟全体に強い眠気が広がり始めた。


患者だけではない。


医師。


看護師。


警備員。


連絡を受けて来院した家族。


全員が、立っていられないほどの眠気を訴えた。


コーヒーも覚醒薬も効果がなかった。


奈緒はナースステーションで記録を入力しながら、何度も意識が遠のくのを感じた。


端末の文字が二重に見える。


時計は午前二時五十九分。


隣にいた看護師が机へ突っ伏して眠っている。


起こそうと立ち上がった瞬間、廊下の照明が消えた。


非常灯は点灯しなかった。


暗闇の奥から、水滴の音が聞こえる。


奈緒の靴底を冷たい水が覆った。


ナースステーションの床に、水はない。


それでも、足首まで水に浸かっている感覚があった。


「奈緒姉ちゃん」


暗闇から、少年の声がした。


奈緒は目を閉じた。


十六年前。


夏休み。


川岸へ置かれた、悠人の青い靴。


流れの速い場所へ行くなと言われていたのに、奈緒は友人との会話に夢中になり、弟を見ていなかった。


発見されたとき、悠人は遠く離れた下流にいた。


「奈緒姉ちゃん」


声が近づく。


「今度は、ちゃんと見てて」


奈緒は目を開けた。


病院の廊下ではなかった。


水に沈んだ、古い家の中だった。


幼い頃に家族と暮らしていた家。


天井近くまで濁った水に満たされているはずなのに、奈緒は呼吸ができた。


家具が水中を漂い、窓の外には真っ暗な川が流れている。


廊下の奥に悠人が立っていた。


死亡した当時の十一歳の姿。


服も髪も濡れ、白く膨らんだ皮膚には水草が絡みついている。両目は開いているが、瞳がない。


「悠人」


少年の口から、黒い水が溢れた。


奈緒へ向かって歩き始める。


「待って」


悠人は止まらない。


「ごめんなさい」


奈緒は後退した。


少年の歩みが速くなる。


奈緒は背を向けて走った。


廊下の先に、病院の第三病室が現れた。


扉を開けると、沙耶が床に座っていた。


「看護師さん」


奈緒は沙耶の手をつかんだ。


「逃げますよ」


「どこへ?」


「どこでもいい。あの子から離れないと」


背後で、水を引きずる足音が響く。


悠人が追ってくる。


沙耶は病室の奥を指さした。


そこには、現実には存在しない下り階段があった。


白い光が、階段の下から差している。


「こっち」


沙耶が階段へ向かう。


奈緒は彼女の手を引いた。


「待って。下へ行ってはいけない」


「でも、あの先生がいなくなったとき、下から呼ばれたの」


階段の下から声が聞こえた。


「沙耶」


優しい女性の声。


沙耶の母親だった。


「もう怖い先生はいないよ。降りておいで」


沙耶の表情から恐怖が消えた。


「お母さん」


「違う」


奈緒は彼女を抱き寄せた。


「その声を聞いてはいけない」


「でも、お母さんがいる」


「あなたのお母さんではありません」


階段の下に、白い扉が見えた。


扉は少しだけ開いている。


隙間の向こうには、暖かい光と、誰かが立っている影が見えた。


「奈緒姉ちゃん」


今度は悠人の声が、扉の向こうから聞こえた。


奈緒は振り返った。


廊下から追ってきた、濡れた悠人はまだ背後にいる。


白い扉の向こうにも、悠人がいる。


ただし、そちらは濡れていなかった。


死ぬ前の姿。


笑いながら、奈緒へ手を差し出している。


「今度は一緒に来て」


奈緒の胸から、長年抱えていた痛みが消えていく。


もう一度、弟と話せる。


謝ることができる。


今度こそ手を離さず、一緒にいられる。


白い扉へ近づく。


そのとき、背後の濡れた悠人が唸った。


獣のような声だった。


床を蹴り、一気に奈緒へ飛びかかる。


「やめて!」


奈緒は沙耶をかばった。


濡れた少年の両腕が、奈緒の身体を抱き締める。


冷たい。


痛いほど強い。


耳元で、水の詰まった喉から声が聞こえた。


「そっちじゃない」


白い扉の向こうに立つ悠人の笑顔が崩れた。


口が横へ広がる。


顔全体を裂くほど大きく開く。


その奥には舌も喉もない。


ただ、白い部屋がさらに続いていた。


部屋の奥で、何かが食べている。


くちゃ。


くちゃ。


くちゃ。


何を食べているのかは見えない。


だが、一口ごとに白い部屋の壁が欠けていく。


破壊されているのではない。


そこに何かが存在していたという事実ごと、失われていく。


沙耶が悲鳴を上げた。


白い扉へ近づいていた彼女の足首を、長い腕がつかんでいる。


顔に口しかない、巨大な教師。


食べられたはずの怪物だった。


身体の半分が欠けている。


左腕も、右肩も、顔の一部も存在しない。


それでも怪物は沙耶をつかみ、階段から引き離そうとしている。


「放して!」


沙耶が抵抗する。


怪物の口が開いた。


「起きろ」


白い扉の向こうで、何かが動いた。


笑顔の悠人が奈緒へ手を伸ばす。


「奈緒姉ちゃん。そいつを放して」


濡れた悠人が、奈緒をさらに強く抱き締めた。


爪が背中へ食い込む。


「怖がって」


奈緒は理解した。


白い扉の向こうにいるものは、優しい。


痛みを与えない。


恐怖も罪悪感も、すべて消してくれる。


だから、戻れなくなる。


奈緒は濡れた悠人の顔を見た。


死んだ弟の姿をした怪物。


それが自分を傷つけながら、必死に扉から遠ざけている。


「あなたは、悠人なの?」


怪物は答えなかった。


代わりに奈緒の肩へ噛みついた。


激痛が走る。


奈緒は叫んだ。



五


目を覚ますと、奈緒はナースステーションの床に倒れていた。


病棟の照明は復旧している。


警報音が鳴り、職員たちが廊下を走っていた。


時計は午前三時十二分。


肩に鋭い痛みがある。


白衣をずらすと、人間の歯形に似た傷が残されていた。だが、大きさは十一歳の子供の口と一致しているように見えた。


「藤崎さん!」


森川医師が駆け寄る。


「大丈夫ですか」


「沙耶さんは」


奈緒は床へ手をつき、立ち上がろうとした。


第三病室へ向かうと、沙耶はベッドの上で激しく咳き込んでいた。呼吸はある。意識も戻っている。


その背中には、巨大な指でつかまれたような痕が残されていた。


「先生がいた」


沙耶は泣きながら奈緒へしがみついた。


「食べられてたのに、戻ってきた」


「ええ」


奈緒は彼女を抱き締めた。


「先生が起こしてくれました」


病棟にいた十一名の患者のうち、七名が同時に覚醒していた。


全員がナイトメアに追跡、捕獲または攻撃される夢を見ていた。


残る四名は、穏やかな表情のまま昏睡している。


四名とも、夢の中でナイトメアが現れなかったと話していた患者だった。


午前三時二十分、正面玄関へ複数の黒い車両が到着した。


降りてきた者たちは医療関係者を名乗ったが、通常の医療機関に所属する者ではなかった。


病棟は直ちに封鎖された。


患者と職員の携帯電話が回収され、外部への連絡も制限された。窓には外側から遮蔽材が取り付けられ、睡眠記録装置はすべて別室へ運び出された。


指揮を執っていたのは、三十代後半の男性だった。


白衣の胸元には、所属施設や病院名ではなく、「MDE・サイト83」とだけ記された識別証をつけている。


久世冬馬と名乗った。


「藤崎奈緒さんですね」


久世はナースステーションの椅子に座る奈緒へ尋ねた。


「はい」


「夢の内容を、最初から話してください」


奈緒は、水に沈んだ家、死んだ弟、沙耶、白い扉について説明した。


ただし、扉の向こうで何かが食べていた場面を説明しようとすると、記憶が曖昧になった。


音は覚えている。


白い壁が欠けたことも覚えている。


だが、その奥に何がいたのか思い出せない。


「見たはずなんです」


奈緒は額を押さえた。


「扉の奥に何かがいました」


「姿を説明できますか」


「分かりません」


「人型でしたか」


「分からない」


「大きさは?」


「分からないんです」


奈緒は苛立ちを抑えられなかった。


「忘れたんじゃありません。そこだけ最初から何もなかったみたいに、思い出せないんです」


久世は記録を止めた。


「それ以上、思い出そうとしないでください」


「でも、あれが患者を――」


「今は説明しなくていい」


「あなたたちは、何を知っているんですか」


「まだ何も」


久世は昏睡した四名の脳波記録を見た。


「だから、あなたから聞いています」


別の職員が、治療前後の睡眠記録を机へ置いた。


「主任。全患者の記録に欠損があります」


「時間は」


「平均十二分五十一秒。最長十四分二秒。装置の停止は確認できません」


「音声は?」


「共通する異常音があります」


職員が記録を再生した。


くちゃ。


くちゃ。


奈緒が夢の中で聞いた音。


久世は無言で最後まで聞いた。


「これは何の音ですか」


奈緒が尋ねた。


久世はすぐには答えなかった。


「現時点では分かりません」


「患者たちは何に襲われているんです」


「我々が確認しなければならないのは、そこです」


久世は、眠っている患者と覚醒した患者の記録を二つに分けた。


「昏睡した患者には、最後の夜に悪夢が現れていない」


「はい」


「覚醒できた患者は、全員が悪夢の中で怪物に捕まっている」


「怪物に捕まったから、目を覚ました」


「そう考えられます」


久世は奈緒の肩に残る歯形を確認した。


「藤崎さん。あなたは眠る前に、このような傷を負っていましたか」


「いいえ」


「夢の中では、誰に噛まれましたか」


「弟です」


「弟さんは現在どこに?」


「十六年前に亡くなりました」


久世は短く息を吐いた。


「これから奇妙なことを言います」


「もう十分、奇妙です」


「そうですね」


久世は昏睡した四名を映す監視画面へ目を向けた。


「あなたたちが見ていた怪物は、敵ではない可能性があります」


奈緒は濡れた悠人の顔を思い出した。


白い扉から遠ざけるため、痛いほど強く自分を抱き締めた腕。


「患者を傷つけているんですよ」


「それでも、目を覚まさせた」


「では、白い扉の向こうにいたものは?」


「それを調べる必要があります」


「調べて、どうするんですか」


久世は答えなかった。


代わりに、患者たちの睡眠記録を指でなぞった。


「この七人は、悪夢を見たから戻ってこられた」


続いて、穏やかに眠る四人を見る。


「この四人は、悪夢を見なくなったから戻ってこない」


久世は奈緒へ視線を戻した。


「今夜から、この施設にいる全員を起こしておきます。睡眠が必要な場合は、我々の管理下で眠ってもらいます」


「私もですか」


「あなたは、患者の夢に出てきた。その後、自分でも同じ構造の夢を見た」


久世は新しい記録用紙を開いた。


上部の対象者数を十一から十二へ書き換える。


「現時点をもって、あなたを十二人目の感染者として扱います」


奈緒は、その数字を見つめた。


「治療できますか」


久世は答えるまでに時間を置いた。


「眠らないようにすることはできます」


「それでは治療になりません」


「分かっています」


「悪夢を消すことは?」


久世は昏睡した四人を見た。


「それは、もう治療とは呼べない」



六


午前五時二十六分。


患者の移送準備が始まった。


覚醒している七名は、鎮静剤を使用せずに専用車両へ移される。昏睡した四名は生命維持装置へ接続され、MDE医療班の監視下に置かれた。


夜凪睡眠医療センターは、設備異常と薬剤管理上の問題を理由に閉鎖されることになった。


奈緒は私物を取りに、小児用待合室へ立ち寄った。


玩具や絵本は、MDE職員によって一つずつ回収されている。


床の中央には、「ぐっすり!おやすみドリームシアター」が置かれていた。


黄色い本体へ、赤い危険物識別票が取り付けられている。


奈緒は近くにいた職員へ尋ねた。


「それも持っていくんですか」


「確認対象です」


「何か異常が?」


「同じ名称の商品が、製造元の記録に存在しません」


職員は本体を透明な容器へ収めた。


「病院へ寄付した人物も特定できませんでした」


「映像の中の博士が話したんです」


「どのような内容でしたか」


「今日は眠るなと」


職員が手を止めた。


「ほかには?」


「夢の奥のお友達は、まだ起きていないからって」


職員は端末へ内容を記録した。


容器の蓋を閉じる。


電池の入っていない投影機が、内部でひとりでに作動した。


透明な容器の天井に、わくわく博士の顔が映る。


職員と奈緒が同時に振り返った。


博士はいつものように笑っていた。


『みんな、ちゃんと起きられたかな?』


明るい音楽が流れる。


『悪い夢は怖いよね。でも、怖い夢にもお仕事があるんだよ』


奈緒は容器へ近づいた。


「何を知っているの」


映像内の博士は質問に答えない。


『夢を残さず食べると、お腹を壊しちゃうからね』


画面の隅に、笑顔を描かれた三日月が現れる。


三日月の端には、何者かにかじられたような欠損があった。


『食べ残しは、朝まで取っておこう!』


音楽が止まる。


投影も消えた。


MDE職員は無言で容器を二重に封鎖した。


奈緒は待合室の窓から、白み始めた空を見た。


朝が来ている。


それでも、病院の廊下のどこかから、咀嚼音が聞こえていた。


くちゃ。


くちゃ。


音は少しずつ遠ざかっている。


満腹になった何かが、暗い場所へ帰っていくように。



七


サイト83へ向かう車両の中で、奈緒は沙耶と隣り合って座っていた。


沙耶は眠らないよう、何度も自分の頬を叩いている。


「疲れましたか」


奈緒が尋ねる。


「眠い」


「もう少しだけ我慢しましょう」


「看護師さんも眠そう」


「私は大丈夫です」


嘘だった。


目を閉じれば、すぐにでも眠れそうだった。


車窓の外を、早朝の街並みが流れていく。通勤を始めた人々、開店準備をする店、朝日を反射する窓。


悪夢のことなど知らない世界。


沙耶が奈緒の袖をつかんだ。


「先生、また来てくれるかな」


「夢の先生ですか」


「うん」


「怖くないんですか」


「怖いよ」


沙耶は即答した。


「でも、いなくなる方が怖い」


奈緒は返事をせず、肩に残る歯形へ触れた。


あれが本当に悠人だったとは思わない。


弟の記憶を利用しただけの怪物かもしれない。


それでも、最後に聞いた声だけは、奈緒が知っていた弟のものに聞こえた。


そっちじゃない。


沙耶が窓に頭を預ける。


「看護師さん」


「何ですか」


「もし、またあの夢を見たらどうすればいい?」


奈緒は少し考えた。


夢の中で怪物に追われる。


逃げても追いつかれる。


捕まれば傷つけられる。


それでも、その痛みの先には朝がある。


「逃げてください」


奈緒は答えた。


「できるだけ長く、全力で」


「捕まりそうになったら?」


「怖がってください」


「それだけ?」


「はい」


奈緒は閉じかけた沙耶の瞼を軽く叩いた。


「怖がって、目を覚ましてください」


沙耶は小さくうなずいた。


車両は、サイト83へ続く地下搬入口へ入っていく。


地上の朝日が見えなくなる。


奈緒は暗い車窓に映った自分の顔を見た。


その背後に、濡れた悠人が座っている。


今度は追いかけてこなかった。


悠人は奈緒ではなく、車両のさらに後ろにある暗闇を見ていた。


何かの接近を警戒するように。


奈緒は振り返らなかった。


悠人の姿も、暗闇の向こうにいるものも、確認しなかった。


ただ、目を閉じないようにしながら、朝の終わりまで起き続けた。



――Tale-01『悪夢のない夜』終了

次回予告


Tale-02『私を怖がって』


9月 29日21時投稿予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。