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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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# Tale-01 # 閉会まで、あと一人 第一章 地下第四会議室

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


朝から雨が降っていた。


 季節外れの冷たい雨は、コンクリートで覆われた研究施設の窓を細かく叩き続けている。灰色の空は低く垂れ込み、外の景色は霧に溶けていた。


 青年は施設の正門前で一度だけ深呼吸をした。


 胸元には新品の職員証。


 まだ革の匂いが残る書類鞄。


 制服も支給されたばかりで、肩の布地は少し硬い。


 今日から彼は、この施設の研究員になる。


 正確には、まだ「研究補佐」という肩書きだった。


 異常現象を直接扱う権限もなければ、重要な判断を下す立場でもない。


 それでも、ここへ来るまでの努力を思えば、それだけで十分だった。


 受付を抜け、長い廊下を歩く。


 壁には古い写真が並び、研究成果や過去の収容作戦の記録が額縁に収められている。


 だが、不思議なことに人物写真だけが妙に少なかった。


「新人君かな?」


 柔らかな声に振り返る。


 白衣姿の女性研究員が微笑んでいた。


「緊張してる?」


「……少しだけ。」


「最初はみんなそうよ。」


 彼女は笑いながら職員証を確認すると、施設内の簡単な案内を始めた。


 研究棟。


 資料保管庫。


 実験室。


 食堂。


 医療区画。


 説明を聞きながら歩くうちに、青年の緊張は少しずつ解けていく。


 どこにでもある研究施設。


 そう思えるほど、この場所は静かだった。


 ――もっとも、それは表面だけの話だった。


 廊下の途中、警報灯が一瞬だけ赤く点灯した。


 すぐに消える。


 周囲の職員は誰も驚かない。


「今のは?」


「ああ、気にしなくていいわ。」


 女性研究員は慣れた様子で肩をすくめた。


「異常反応の定期チェックよ。毎日何度も鳴るから。」


「毎日……ですか。」


「そのうち慣れる。」


 青年は曖昧に頷いた。


 慣れるものなのだろうか、と心の中で思いながら。


 やがて二人はエレベーターに乗り込む。


 行き先は地下。


 表示灯がゆっくりと数字を減らしていく。


 地上階。


 地下一区画。


 地下二区画。


 地下三区画。


 扉が開く。


 そこは地上とは違い、静寂が支配するフロアだった。


 天井は少し低く、照明は暖色系の柔らかな光を放っている。


 冷たい研究施設というより、古い図書館のような落ち着いた雰囲気だった。


「今日の会議は地下会議区画よ。」


「会議……ですか?」


「ええ。歓迎も兼ねた定例会議。」


 青年は驚いた。


 入った初日から会議に参加するとは思っていなかった。


「そんな大事な場に、自分がいてもいいんでしょうか。」


「いいの。」


 女性研究員は笑う。


「うちの議長はね、新人ほど会議に出ろって人だから。」


「議長?」


「会議って、偉い人だけが話す場所じゃないでしょう?」


 そう言って彼女は誰かの口真似をする。


『現場を知らない会議ほど危険なものはない。新人の疑問ほど価値がある。』


「……それが議長の口癖。」


 青年は少しだけ笑った。


 そんな人なら会ってみたいと思った。


 二人は廊下を進む。


 途中、小さな案内板が目に入る。


 地下第一会議室。


 地下第二会議室。


 地下第三会議室。


 そして、一番奥。


 木製の古いプレートが掛けられた扉。


 そこには控えめな文字で、


**地下第四会議室**


 と刻まれていた。


 新品の施設には似つかわしくない、長い年月を感じさせる札だった。


「ここだけ、古いんですね。」


「そうね。」


 女性研究員は扉を見つめ、小さく微笑む。


「昔から使われている部屋だから。」


「建物より古いんですか?」


「さあ。」


 一瞬だけ、彼女は考えるような表情を見せた。


「……どうだったかしら。」


 言葉を濁し、そのまま扉をノックする。


 中から穏やかな声が返ってきた。


「どうぞ。」


 扉を開ける。


 部屋は想像よりずっと質素だった。


 中央には長い木製の机。


 その周囲を囲む十三脚の椅子。


 壁には真っ白なホワイトボード。


 窓はなく、壁時計だけが静かに時を刻んでいる。


 コーヒーの香りが部屋いっぱいに広がっていた。


 すでに数人の研究員が席に着き、資料を読みながら談笑している。


「新人さん?」


「いらっしゃい。」


「歓迎するよ。」


 次々に声を掛けられ、青年は緊張しながら頭を下げた。


 その時だった。


 部屋の一番奥の席から、一人の人物が立ち上がる。


 年齢は分からない。


 白衣を整え、穏やかな笑みを浮かべている。


 威圧感はない。


 だが、その人が立っただけで、部屋の空気が自然と落ち着いた。


「初めまして。」


 その人物は青年の前まで歩み寄る。


「ようこそ。」


「今日から仲間だ。」


 差し出された右手。


 青年は慌てて握り返した。


「よろしくお願いします!」


 議長は少しだけ笑う。


「そんなに硬くならなくていい。」


「ここは会議室だ。」


「尋問室じゃない。」


 部屋中に小さな笑いが広がる。


 青年の肩から、ようやく力が抜けた。


 議長は空いている席を指差した。


「好きな場所へ座っていい。」


「会議は、肩書きで座る場所を決めない。」


 青年は一番手前の席へ腰を下ろした。


 ふと視線を巡らせる。


 椅子は十三脚。


 しかし、座っているのは十二人だけだった。


 奥の一席だけが、静かに空いている。


「……あの。」


 青年は小声で隣の研究員へ尋ねた。


「一席、空いていますけど……。」


 隣の研究員は、その椅子を一瞥すると、穏やかに笑った。


「ああ。」


「きっと、あと一人来るんだよ。」


 その何気ない一言を、この時の青年は深く考えなかった。


 壁時計の秒針が静かに進む。


 議長は手元の議事録を開き、部屋をゆっくりと見回した。


 そして、いつものように穏やかな声で告げる。


「それでは。」


「定例対策会議を始めましょう。」


 誰も知らなかった。


 この日が、この部屋で開かれる**最後の正常な会議**になることを。


 そして、あの一席が、この先何十年、あるいはそれ以上の時間を経ても埋まることはないということを。



次回予告

第二章 始まりの警報

9月6日21時投稿予定

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