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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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75/85

Tale-04『ドームが開く日』

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は15分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください!

NCO-076-KR関連Tale-04


『ドームが開く日』



一


最初の亀裂が確認されたのは、午前二時十三分だった。


国会議事堂のドーム中央部から外周へ向かって、長さ約十一メートルの細い線が走った。


監視映像を確認した警備員は、当初それを塗装の剥離だと考えた。だが、亀裂は外側の金属板だけでなく、その下にあるはずの支持構造を無視して、ドーム全体を完全な直線で分断していた。


午前二時十九分、二本目。


午前二時二十七分、三本目。


亀裂が増えるたび、国会議事堂地下から四・八秒間隔の振動が発生した。


ドン。


ドン。


ドン。


サイト76は、二本目が確認された時点でDOMEWATCHレベル3を発令した。


三本目が出現したとき、NCO-076-KR-Bの実体化率は八十七%へ到達した。


ハン・ソヨン主任研究員が管制室へ入ると、すでに全観測部門が緊急体制へ移行していた。壁一面のモニターには、国会議事堂、ソウル市内、国内主要都市、軍事境界地域、発電施設、通信網、SNS上の情報拡散状況が表示されている。


一つの危機ではなかった。


前日午後から、一部地域で大規模な停電が発生。


政府機関の複数の通信網が停止。


軍事境界地域では、正体不明の飛翔体を確認したという未検証情報が拡散していた。


大手報道機関のウェブサイトには同時多発的な攻撃が行われ、偽の避難命令が掲載された。


政府要人が国外へ逃亡したという映像。


軍部隊が首都へ進軍しているという投稿。


浄水施設へ毒物が混入されたという音声。


外国軍が国境を越えたという速報。


どれも確認されていない。


だが、確認されていないからこそ、人々は最悪の事態を想像した。


「国内危機認識指数、七十二・四%」


統計担当者が報告する。


「危険水準を超過しました。関連語句の投稿量は通常時の三百八十倍。“国家の敵”、“内部協力者”、“先制攻撃”が急上昇しています」


「情報の発信源は」


ハン主任が尋ねた。


「複数です。少なくとも八系統。国外サーバーを経由していますが、国内から操作されているものも含まれます」


「同一組織?」


「判別できません。互いに矛盾する情報もあります。政府が軍を掌握したという情報と、軍が政府を拘束したという情報が同時に拡散しています」


「内容は重要ではないのかもしれない」


背後から声がした。


チェ・ミンソク博士だった。


三年前の実験以降、彼は国内情報監視班の責任者を務めている。右手には薄い手袋をはめていた。その下にある赤い四角は、現在も消えていない。


「人々に必要なのは、信じるべき情報じゃない」


ミンソクはモニター上を流れる投稿を見た。


「何も信じられないという状態です。敵が誰か分からない。それでも、どこかに敵がいるとだけ思わせればいい」


管制室の床が揺れた。


ドン。


四・八秒後。


ドン。


職員の一人が叫んだ。


「四本目の亀裂を確認!」


ドームを四等分するように、新たな線が形成された。


NCO-076-KR-B実体化率、八十八%。


ハン主任は管制卓へ手をついた。


「政府危機管理室へ連絡。議事堂周辺半径五キロメートルの避難準備を開始してください」


「理由は何と説明しますか」


「地下ガス設備の重大事故。周辺で爆発の危険があると」


ミンソクが彼女を見た。


「それを信じてもらえると思いますか」


「信じてもらう必要はない。逃げてもらえればいい」


「偽の避難命令が拡散している中で、新しい避難命令を出せば混乱が増えます」


「それでも、ドームが開いた後に避難させるよりはいい」


ハン主任はモニター上の国会議事堂を見た。


巨大なドームには、十字を描く四本の亀裂。


都市伝説のとおりだった。


ただし、誰も歓声を上げていない。


「サイト76全職員へ通達」


ハン主任は館内放送を作動させた。


「DOMEWATCHレベル4へ移行します。NCO-076-KR-Bは実体化率八十八%。敵性対象選定過程へ入った可能性があります」


管制室の職員たちが作業を続けながら、その声を聞く。


「各部門は所定の手順に従ってください。ただし、攻撃目標の誘導を目的とする情報操作は全面的に禁止します。敵を与えて時間を稼ごうとしないでください」


ミンソクが右手を握る。


「我々が与えた答えを、あれは忘れません」


ハン主任は続けた。


「今夜、私たちが間違えれば、あれも同じように間違えます」



二


午前二時四十八分。


国会議事堂周辺の避難が開始された。


警察と消防は、地下ガス施設に爆発の危険があると説明した。だが、その説明は避難開始から三分も経たないうちに「政府による偽装」としてSNS上へ拡散した。


政府が国会議事堂を爆破しようとしている。


議員たちが秘密の地下通路から逃亡している。


軍が議事堂を占拠するため、住民を追い出している。


そして、最も多く共有されたのは一枚の画像だった。


開きかけた国会議事堂のドーム。


暗闇の中から上昇する巨大な機械の頭部。


画像の下には、こう書かれていた。


「国家非常用機構、まもなく出撃」


画像は偽物だった。


二〇一一年のドーム開放イベント映像と、複数の巨大ロボット作品を組み合わせて作られている。


しかし、画像を見た人々の多くは、それを完全には信じなかった。


完全には否定もしなかった。


幼い頃に聞いた都市伝説。


国が危機に陥ったとき、ドームが開き、巨大ロボットが出撃する。


まさか。


本当に。


そんなはずはない。


でも、政府なら隠しているかもしれない。


一度でも「いるかもしれない」と想像した時点で、NCO-076-KR-Bはその認識を受け取った。


実体化率、八十九%。


サイト76地下観測区画で警報が鳴った。


「NCO-076-KR-A、完全出現!」


観測モニターに巨大格納庫の内部が映し出される。


暗闇の中に立つ人型機械。


その全身が、これまでにない鮮明さで確認できた。


全高六十三・七メートル。


黒灰色の装甲。


人間の筋肉と骨格を模倣した関節。


背部に収納された大型推進器。


両脚には飛行時の姿勢を制御する翼状構造。


両腕に目立った火器はない。


代わりに、拳を保護するための厚い装甲が取り付けられている。


それは兵器であると同時に、巨大化された格闘家の肉体だった。


機体の足元には、何千もの部品が並んでいる。


装甲板。


センサー。


無人機。


迎撃装置。


通信設備。


その多くは、数時間前まで存在しなかった。


映像を解析していた職員が、声を震わせた。


「新規部品の形成速度が上昇しています」


格納庫の床へ白い設計図が浮かぶ。


国内で新しい情報が拡散するたび、床から黒い物質が盛り上がり、部品へ変化していく。


「外国の特殊部隊が侵入した」という情報が広がる。


機体の頭部に、生体反応を広域探知するセンサーが追加された。


「政府が通信を遮断する」という情報が広がる。


機体の背部に、独立型通信中継装置が形成された。


「軍が市民へ発砲する」という情報が広がる。


機体の胸部に、銃火器の弾道を追跡する装置が追加された。


「正体不明の感染者が国内へ入り込んだ」という情報が広がる。


腕部に、生体組織を分析するための採取機構が形成された。


噂が機能になる。


恐怖が装甲になる。


疑念が目になる。


怒りが拳を厚くする。


「見てください」


観測員が機体の胸部を拡大した。


装甲表面に、文字が浮かんでいる。


敵性対象候補。


その下に、名称が高速で切り替わっていた。


大韓民国政府。


国会。


軍。


警察。


外国軍。


報道機関。


通信企業。


宗教団体。


抗議活動参加者。


移民集団。


MDE韓国支部。


東雲重工業株式会社。


名称の中には、実在しない組織も含まれていた。


白い川。


三年前、ミンソクが実験用に作った架空の武装組織。


ミンソクは名前を見つめた。


「まだ残っている」


一度だけ、五百人へ与えた偽物の敵。


実験終了後に存在しないと説明したはずの組織。


それでも、NCO-076-KR-Bは敵性候補として保存していた。


「忘れない」


ミンソクが呟く。


「我々が忘れても、あれは忘れない」


格納庫映像が乱れた。


機体の頭部が動く。


両眼が、観測装置を通じてサイト76管制室を見た。


右手に熱を感じたミンソクが、手袋を外す。


手のひらにある赤い四角。


その横には、これまで「保留」と記されていた。


文字が変化していた。


回答要求。


機体の声が、サイト76内の全通信機器から流れた。


「回答者へ質問する」


管制室の職員が一斉に振り返る。


ミンソクは右手を押さえた。


「国家の敵は誰だ」


誰も声を発しなかった。


質問はミンソクへ向けられている。


彼はマイクの前に立った。


「分からない」


「回答を要求する」


「分からない」


「危機が発生している」


「それでも分からない」


「国民は恐れている」


「恐怖は回答ではない」


「国民は怒っている」


「怒りも回答ではない」


「国民は敵の存在を信じている」


ミンソクはモニター上に並ぶ名称を見た。


どれか一つを選べば、機体はその対象へ向かう可能性がある。


政府を選ぶ。


軍を選ぶ。


外国を選ぶ。


虚偽情報を拡散した者を選ぶ。


あるいは、MDE自身を選ぶ。


正しい答えが存在するように見せかけて、選択肢のすべてが間違っている。


「国民は、敵が誰なのか知らない」


ミンソクは答えた。


機体の目が淡く発光した。


「選定不能」


「そうだ」


「回答者は職務を放棄するか」


ミンソクは右手を握った。


「違う。分からないものを、分かったふりで選ばない。それが今の回答だ」


数秒間、機体は動かなかった。


「回答を保存する」


通信が切れた。


右手の文字が変化する。


選定保留。


しかし、実体化率は下がらなかった。


九十%。


管制室に新しい警報が響いた。


「五本目の亀裂を確認!」



三


午前三時六分。


東雲重工業から、サイト76の緊急回線へ匿名通信が届いた。


発信元は複数の中継設備を経由していたが、MDEは送信者を把握していた。


画面に映ったのは、真壁征司だった。


「時間がない。形式的な挨拶は省略する」


ハン主任が応答する。


「そちらの施設は監視対象です。匿名通信に意味はありません」


「こちらも承知している」


「何の用ですか」


「今回の情報攻撃に使用されているサーバー群の所在地を送信する」


ハン主任の端末へ、大量の位置情報と通信記録が転送された。


国内外に分散したサーバー。


偽映像の生成拠点。


自動投稿プログラム。


侵害された報道機関の認証情報。


一部はMDEも把握していなかった。


「どうやって入手したの」


「企業秘密だ」


「情報攻撃への関与を認める資料も含まれています」


「好きに解釈しろ。今は我々を逮捕している時間はない」


ハン主任は資料を情報管理部門へ転送した。


「目的は何です」


「東雲重工業は攻撃対象候補に指定されている」


「だから自分たちを守るため?」


「会社は常に会社を守る」


「正直ですね」


「正直であることが利益になる場合はな」


真壁の背後では、職員たちが資料と機材を運んでいた。


韓国国内の施設から撤収を進めているらしい。


「一つ確認したい」


真壁が言った。


「対象は我々の技術を模倣し、改良している」


「以前の不正接触が原因です」


「分かっている。説教は後で聞く」


「次があると思っているの?」


「次を作るのが会社の仕事だ」


真壁は机の上に一枚の金属板を置いた。


東雲重工業の社章が刻まれている。


「これが三十分前に変化した」


金属板に刻まれた文字が映される。


東雲重工業株式会社。


攻撃対象選定中。


「現在、韓国国内の全社員を退避させている。だが、機体が出撃すれば、国外施設へも到達する可能性がある」


「だから止めてほしい?」


「違う。止められないことは分かっている」


真壁はハン主任を見た。


「何を敵にするか、間違えさせるな」


「それができれば苦労していません」


「それでもやれ。我々は、そのために情報を渡している」


通信が乱れた。


真壁の背後にある照明が明滅する。


「もう一つ」


彼は言った。


「東雲重工業が保有する大型独立電源設備を、ソウル市内の停電地域へ送る」


ハン主任は眉をひそめた。


「何を要求するつもり?」


「何も要求しない」


「東雲重工業が無償で?」


「国民生活を支援したという事実が、我々への敵性判定を下げる可能性がある」


「結局は自分たちのためね」


「動機に価値はない。電気が復旧するなら、それでいい」


真壁は通信を終了しようとした。


ハン主任が呼び止める。


「真壁主任」


「何だ」


「情報提供に感謝します」


真壁は数秒間黙った。


「我々は契約していない」


「分かっています」


「借りだと思うな」


「思いません」


「ならいい」


通信が切れた。


ハン主任は送られてきた資料を確認した。


情報攻撃を止めるだけでは足りない。


すでに拡散した恐怖は消えない。


虚偽だと発表しても、それ自体が隠蔽と受け取られる。


ミンソクが資料を見ながら言った。


「敵の正体を発表しますか」


「まだ特定できていない」


「少なくとも、情報が意図的に作られている証拠はある」


「それを公開すれば、今度は“偽情報を作った者”へ敵意が集中する」


「では、何も言わない?」


ハン主任は首を横に振った。


「事実だけを出す」


「信じてもらえますか」


「全員には無理でしょう」


彼女は管制室の各モニターを見た。


「でも、全員を一つの方向へ向かせる必要はない」


「どういう意味です」


「私たちは、国民の意見を統一しようとしていた。危機ではないと信じさせるか、特定の敵を信じさせるか。どちらにしても、一つの答えを与えようとしていた」


ハン主任は国会議事堂の映像を指した。


「でも、国家は最初から一つの声ではない」


ミンソクは、三年前にNCO-076-KR-Bから受けた質問を思い出した。


五百人は、国民か。


「正しい情報を一つだけ出すのではなく、確認できた事実をすべて公開する」


ハン主任は言った。


「停電の原因。軍の現在位置。浄水施設の検査結果。政府要人の所在。映像の作成方法。分からないものは、分からないと明記する」


「矛盾した情報が増えるかもしれません」


「構わない。少なくとも、恐怖だけが唯一の共通認識になるのを止める」



四


午前三時二十一分。


政府機関、報道各社、通信企業、地方自治体から、同時に情報公開が開始された。


通常であれば非公開とされる軍用機の飛行記録。


発電所の障害状況。


浄水施設の検査結果。


要人の移動記録。


サイバー攻撃を受けた報道機関のアクセス履歴。


拡散中の映像が合成されたものであることを示す解析資料。


公開された情報の中には、政府にとって都合の悪いものも含まれていた。


対応の遅れ。


連絡体制の不備。


当初、停電規模を過小評価していた記録。


危機管理室内で意見が対立していた事実。


情報を整理してから発表すべきだという反対意見もあった。


ハン主任は拒否した。


整えられた一つの説明より、不完全でも検証可能な複数の事実を出す。


国民に信じるべき答えを渡すのではない。


自分で確認するための材料を渡す。


反応はすぐに現れた。


虚偽情報を信じ続ける者もいた。


政府発表を新たな偽装だと主張する者もいた。


外国勢力、国内政治家、軍、報道機関を非難する声も消えなかった。


しかし、それまで一つの塊となっていた恐怖が、少しずつ分かれ始めた。


何が起きているか確認しようとする者。


地域の停電情報を共有する者。


避難が必要な人間を支援する者。


偽映像の元になった素材を探す者。


デマを否定するのではなく、検証方法を説明する者。


危機を誰かへの攻撃に変えず、目の前の問題を解決しようとする声が増えていった。


NCO-076-KR-Bの実体化率は、九十%で停止した。


「上昇停止を確認」


管制室に、わずかな安堵が広がる。


だが、低周波振動は続いている。


ドン。


ドン。


ドン。


「六本目の亀裂!」


モニター上で、ドームに新しい線が走った。


実体化率は変わらない。


「なぜ」


観測員が呟く。


ミンソクが格納庫映像を確認した。


NCO-076-KR-Bは動いている。


足元の固定具が順番に解除されている。


一基目。


二基目。


三基目。


建造は止まっても、すでに完成している部分の起動は進んでいる。


「実体化率だけを見ていては駄目です」


ミンソクが言った。


「九十%で出撃できるのかもしれない」


ハン主任が緊急通信を開く。


「NCO-076-KR-B。こちらサイト76、ハン・ソヨン主任研究員。応答してください」


反応はない。


「あなたはまだ敵を選定していない。出撃する必要はありません」


格納庫内で、四基目の固定具が外れる。


「回答してください」


巨大機体の胸部から音声が発せられた。


「敵性対象選定中」


「選定を中止してください」


「危機は継続している」


「原因は調査中です」


「国民は保護を要求している」


「誰から守るつもりですか」


「選定中」


「選定できていないなら、動かないでください」


機体の頭部が上を向く。


格納庫の天井。


その先には、国会議事堂のドームがある。


「待って」


ハン主任の声が強くなる。


「あなたが地上へ出れば、人々はもっと恐れる。軍は攻撃する。都市は混乱する。あなた自身が危機を拡大させます」


「国家防衛を実行する」


「それは防衛ではない」


「定義を要求する」


ハン主任は言葉を失った。


「国家防衛の定義を要求する」


管制室の全員が彼女を見ていた。


報告書なら書ける。


国家の主権、領域、国民、公共機能を外部または内部の脅威から保護すること。


だが、そんな文章を与えれば、NCO-076-KR-Bはそれを文字どおり実行する。


国家機能を守るために国民を排除するかもしれない。


領土を守るために都市を破壊するかもしれない。


国民を守るため、国民が敵だと思う者を殺すかもしれない。


「答えられません」


ハン主任は言った。


「回答不能を確認」


「違います。答えが一つではないんです」


「防衛行動に複数の定義は不要」


「必要です」


「矛盾を検出」


「矛盾しているのが人間です」


「矛盾は誤作動を生む」


「あなたがそうでしょう」


管制室が静まり返った。


NCO-076-KR-Bの両眼が、わずかに明るくなる。


「説明を要求する」


「あなたは国民を守ろうとしている。でも、国民の恐怖を材料にしている。守るために、国民を恐れさせている。あなたが出撃すれば危機が増える。それでも防衛を続けようとしている」


「矛盾を検出」


「そう。あなた自身の中に矛盾がある」


機体は沈黙した。


一秒。


二秒。


三秒。


四・八秒。


七本目の亀裂が、ドームに走った。



五


午前三時四十分。


避難区域の外側に、群衆が集まり始めていた。


逃げる者だけではない。


ドームが開くところを見ようとする者。


巨大ロボットの存在を確かめようとする者。


政府が何を隠しているのか撮影しようとする者。


幼い頃の都市伝説が現実になることを期待する者。


警察が退去を求めても、人々は携帯電話をドームへ向けた。


配信映像には数十万の視聴者が接続していた。


「開け」


誰かが叫んだ。


別の誰かが笑いながら続ける。


「出てこい!」


それは冗談だった。


イベントを見るような、軽い掛け声だった。


だが、同じ言葉が群衆へ広がる。


「出てこい!」


「国を守れ!」


「敵を倒せ!」


誰を倒すのか分からない。


それでも声だけが大きくなる。


サイト76の観測値が上昇した。


九十一%。


「八本目の亀裂、形成開始!」


警報が最大音量で鳴る。


国会議事堂のドームが、八つに分割された。


最初は数センチ。


続いて数十センチ。


分割された構造物が、低い駆動音とともに内側へ沈み始める。


投影映像ではない。


実物のドームが開いている。


群衆の歓声が一瞬だけ上がった。


しかし、開口部の中にある暗闇を見たとき、その声は止まった。


深すぎる暗闇。


建物の高さでは説明できない空間。


そこから吹き上がる、冷たい風。


地下数百メートルから、巨大な昇降機が動く音が響く。


避難区域の外にいる人々が後退し始めた。


それでも、多くの携帯電話が撮影を続けている。


暗闇の中に、二つの光が灯った。


NCO-076-KR-Bの目。


機体が上昇してくる。


最初に頭部。


続いて肩。


一枚一枚が建物ほどの大きさを持つ装甲板。


国会議事堂全体が、機体を収容するための外殻へ変化していく。


サイト76の管制室では、すべてのモニターが同じ映像へ切り替わった。


巨大な頭部。


その背後にある細い整備用足場。


足場の上に、人影が立っている。


灰色の作業服。


黄色い安全帽。


一人。


二人。


三人。


最後まで数えると、八人いた。


ハン主任の机に置かれていた封筒が震えた。


二〇一一年から保管されていた写真。


十四年前、七人の人影が写っていた写真だった。


ハン主任が取り出す。


写真の中には、現在の格納庫が映っていた。


作業員は八人。


一人はイ・ジュンホ。


一人はハン・ソヨン。


一人はチェ・ミンソク。


一人は真壁征司。


残る四人の顔は黒く潰れている。


写真の裏面に文字が現れる。


必要人数、充足。


「何の人数」


ミンソクが写真を見る。


その瞬間、管制室の扉が開いた。


イ・ジュンホが入ってきた。


二〇一一年のイベント以降、現場観測から外れていた彼は、現在サイト76の記録管理部門に所属している。


手には黄色い安全帽を持っていた。


側面に黒い数字で「7」と書かれている。


「保管庫から消えました」


ジュンホが言った。


「気づいたときには、私の机の上に」


ハン主任は写真を見る。


「八人目は私」


彼女は呟いた。


「違います」


ジュンホが首を横に振った。


「主任は七人目ではない。私も七人目ではなかった」


安全帽の数字が変化する。


7。


8。


再び7。


数字は安定しない。


「整備要員は最初から決まっていなかった」


ジュンホが続ける。


「その時代に、あれの建造へ関わった人間が記録される。信じた者。調べた者。利用しようとした者。止めようとした者」


ミンソクが写真の中の自分を見る。


「私たちも、あれを作った」


国会議事堂の映像で、NCO-076-KR-Bの右腕が動いた。


巨大な手がドームの開口部から現れる。


五本の指が、ゆっくりと縁をつかむ。


街中に金属音が響いた。


群衆から悲鳴が上がる。


実体化率、九十二%。


「敵性対象選定、最終段階」


NCO-076-KR-Bの声が、国内のあらゆる通信機器から流れた。


テレビ。


ラジオ。


携帯電話。


防災放送。


軍用通信。


電源を切られた機器からも声が聞こえた。


「国家を脅かす最大要因を確認」


ハン主任はマイクを握った。


「対象は何です」


機体は答えなかった。


胸部に表示された敵性候補が、高速で切り替わる。


政府。


軍。


外国。


MDE。


東雲重工業。


虚偽情報拡散者。


国民。


そして、表示が止まった。


NCO-076-KR-B。


管制室の誰も声を発しなかった。


「自己を敵性対象として認定」


機体が告げる。


「自己破壊処理を開始する」



六


国会議事堂地下から、金属が引き裂かれる音が響いた。


NCO-076-KR-Bの左腕が、自らの胸部装甲をつかんでいた。


巨大な指が装甲板の隙間へ食い込み、内部構造を露出させる。


胸部の奥に、白い光が見えた。


動力炉なのか、別の機構なのかは分からない。


機体は右手でドームの縁をつかみ、地上へ出ようとする動きを止めている。


左手で、自らの身体を破壊しようとしている。


「やめて!」


ハン主任が叫んだ。


「自己が国家危機を拡大している」


機体の声は平坦だった。


「自己が国民へ恐怖を与えている」


胸部装甲が剥がれる。


「自己が敵性対象の選定を促進している」


内部で爆発が起きた。


白い光がドーム開口部から夜空へ伸びる。


実体化率、九十三%。


自己破壊しているにもかかわらず、数値が上昇している。


人々がその光景を見ている。


恐れている。


撮影している。


巨大ロボットが現実に存在すると信じている。


認識されるほど、機体は完成する。


完成するほど、自己破壊能力も強くなる。


「このままでは、機体の破壊と実体化が互いを加速させます」


観測員が報告する。


「胸部動力機構が破壊された場合、推定被害範囲は」


「算出不能。最低でもソウル市中心部。異常空間の崩壊を伴えば、影響は半島全域へ拡大する可能性があります」


ミンソクが通信へ割り込んだ。


「NCO-076-KR-B。自己破壊を中止しろ」


「敵性対象排除を実行する」


「お前を排除すれば国家が被害を受ける」


「矛盾を検出」


「そうだ。だから、その判断は間違っている」


「敵性対象を排除しなければならない」


「誰がそう命令した」


「国民」


「国民は、お前に死ねと言ったのか」


機体は沈黙した。


国内の通信機器から、何百万もの声が流れ始めた。


過去から現在までに発せられた言葉。


「国を守ってほしい」


「敵を倒せ」


「悪い奴らを追い出せ」


「何とかしてくれ」


「誰でもいいから止めてくれ」


「本当のことを教えろ」


「私たちを守れ」


子供の声。


大人の声。


冗談。


怒鳴り声。


祈り。


政治演説。


映画の台詞。


SNSへの投稿。


NCO-076-KR-Bは、そのすべてを命令として保存していた。


「防衛を要求された」


機体が言う。


「排除を要求された」


「それは、お前に向けた命令とは限らない」


ミンソクが答える。


「個別命令ではない。集合命令である」


「何人の声で命令になる」


「算出中」


「五百人か」


機体の動きが止まった。


ミンソクは右手を開く。


赤い四角が強く発光している。


「五百人は、国民か」


彼は、かつて自分が受けた質問を返した。


「回答不能」


「五百万人なら国民か」


「回答不能」


「全員が恐れていれば、それは命令か」


「回答不能」


「なら、お前はまだ命令を受けていない」


胸部をつかんでいた左手の動きが停止した。


だが、指はまだ装甲の内部へ食い込んでいる。


ハン主任が通信を引き継いだ。


「あなたはまだ呼ばれていない」


二〇一一年、機体自身が表示した言葉。


ドームの中で巨大な頭部が動いた。


「危機を確認した」


「危機があることと、あなたを呼ぶことは同じではありません」


「国民は守護者を必要としている」


「必要としているかもしれない。でも、あなたがどんな守護者になるかは、まだ決まっていない」


「設計は進行している」


「完成していません」


「実体化率九十三%」


「残り七%は、ただの部品ではない」


ハン主任は写真に写る八人を見た。


彼らは機体の建造へ関わった。


信じることで。


調べることで。


恐れることで。


利用しようとすることで。


止めようとすることで。


「あなたには、敵を倒す拳がある。空を飛ぶための翼も、攻撃を探す目もある」


ハン主任は続けた。


「でも、誰かを助ける手は、まだ作られていない」


機体の右手が、ドームの縁を握っている。


その手は、建物を簡単に破壊できる。


だが、誰かを持ち上げ、守るために作られた形ではない。


「定義を要求する」


「何の?」


「守護者」


ハン主任は目を閉じた。


「それを私一人に決めさせないで」


「回答者を要求する」


「私だけでは駄目」


「五百人か」


「違う」


「五百万人か」


「違う」


「全員か」


ハン主任はゆっくりと首を横に振った。


「人数で決めるものではない」


「回答不能」


「そう。今は答えられない」


機体の胸部から白い光が漏れ続ける。


「それでも、今すぐ決める必要はない」


「危機は継続している」


「だから、私たちが対処する」


「人間の対応能力は不足している」


「不足していても、やる」


「失敗する可能性がある」


「あるでしょうね」


「死者が発生する可能性がある」


「それでも、分からないものを全部敵にして、あなたに壊させるよりはいい」


機体は沈黙した。


国会議事堂周辺では、群衆が避難を続けている。


警察官が転倒した人を助ける。


停電した交差点で、市民が車両を誘導する。


東雲重工業の電源車が、病院へ電力を供給する。


軍は首都へ進軍していない。


浄水施設に毒物はない。


飛翔体に関する情報も誤認だった。


危機は、少しずつ現実の大きさへ戻り始めていた。


国民危機認識指数、六十八%。


六十二%。


五十九%。


実体化率が九十二%へ低下した。


「対象」


ハン主任が呼びかける。


「あなたは敵ではない」


「自己は危機を拡大した」


「そうね」


管制室の職員が彼女を見る。


「でも、間違えたことと、敵であることは同じではない」


「自己は国民へ恐怖を与えた」


「私たちも与えた。MDEも、政府も、報道も、噂を流した人も、恐怖に飲まれた人も。誰か一人だけが作った危機ではない」


「責任対象を選定できない」


「今は選ばなくていい」


「防衛行動を実行できない」


「なら、待って」


「待機期間を要求する」


ハン主任はドームの映像を見た。


「次に、本当に呼ばれるまで」


機体の目から光が消えた。


「了解」


胸部をつかんでいた左手が離れる。


破損した装甲は元に戻らない。


機体は負傷したまま、ゆっくりと下降を始めた。


右手がドームの縁から離れる。


しかし、完全に地下へ戻る直前、動きが止まった。


巨大な頭部が、サイト76の監視カメラへ向けられる。


「質問を保存する」


「何を」


「私は何になればいい」


ハン主任は答えようとした。


だが、機体は返答を待たなかった。


「国民に問え」


巨大な頭部が暗闇へ沈む。


八つに分割されたドームが、ゆっくりと元の位置へ戻り始めた。


最後に残った隙間から、機体の声が聞こえた。


「まだ、決められていない」


ドームが閉じた。



七


午前四時十九分。


NCO-076-KR-Bの実体化率は八十四%まで低下した。


国会議事堂のドームに発生した八本の亀裂は消失。


開閉機構も、昇降路も、格納庫へ接続する設備も、議事堂の構造から失われた。


一連の出来事は、一般の撮影機器にも記録されていた。


しかし、ドーム閉鎖から数分後、映像の大部分が変化した。


巨大機体は、プロジェクションマッピングによる映像へ置き換わった。


現場にいた人々の記憶も不鮮明になり、「大規模な避難訓練だった」「過去のイベント映像が投影された」「停電中に集団錯覚が起きた」と変化していった。


完全に記憶を失ったわけではない。


ただ、自分が見たものを現実だと確信できなくなった。


MDEは積極的な記憶処理を実施しなかった。


必要がなかったからではない。


どこまで忘れさせればNCO-076-KR-Bへの認識が低下し、どこから「政府が隠している」という新たな噂へ変わるか、判断できなかったためである。


午前五時を過ぎた頃、サイト76の警戒体制はレベル3へ引き下げられた。


職員たちは疲労し、管制室の椅子や床に座り込んでいた。


ミンソクは自分の右手を見ていた。


赤い四角は残っている。


だが、その横にあった「回答者」の文字は消えていた。


代わりに、こう記されている。


一名の国民。


ミンソクは小さく笑った。


「降格されました」


隣にいたジュンホが尋ねる。


「何がです」


「国民の代表から、ただの一人に」


「最初からそうだったんじゃないですか」


「そうですね」


ミンソクは手袋を戻した。


ジュンホが持っていた黄色い安全帽にも変化が起きていた。


側面の数字は消えている。


代わりに、新しい文字が刻まれていた。


整備要員登録――保留。


ジュンホは安全帽を机へ置いた。


「十四年前、あれは“呼ばれたときでは遅い”と言いました」


ハン主任が振り返る。


「覚えています」


「私は、出撃する前に完成させなければならないという意味だと思っていました」


「違った?」


「完成するのは、機体だけじゃなかったのかもしれません」


ジュンホは閉じたドームの映像を見る。


「呼ぶ側も、何を求めているのか決めなければならない」


ハン主任は返事をしなかった。


彼女の机には、八人の作業員が写った写真が置かれている。


写真を裏返す。


「必要人数、充足」という文章は消えていた。


新しい文字が現れている。


建造作業、一時停止。


設計変更を待機。


その下に、これまで存在しなかった空白欄が追加されていた。


新規機能。


ハン主任はしばらく考えた後、欄へ手書きで一つの言葉を記入した。


救助。


数秒待つ。


紙面に変化はない。


拒否も、受理もされなかった。


「勝手に設計へ関わるなと言われるかもしれませんよ」


ミンソクが言った。


「もう手遅れでしょう」


ハン主任はペンを置いた。


「私たちは全員、最初から建造に参加している」



八


三日後。


サイト76宛てに、一通の封筒が届いた。


差出人の記載はない。


通常の郵便物として送られ、異常な経路は確認されなかった。


封筒の中には、子供が描いたと思われる一枚の絵が入っていた。


国会議事堂。


開いたドーム。


そこから立ち上がる巨大ロボット。


過去に収集された絵では、機体は議事堂へ拳を振り下ろしていた。


今回の絵は違った。


巨大ロボットは、崩れた建物の前に膝をついている。


片方の手で瓦礫を持ち上げ、もう片方の手で、その下にいる人々を覆っている。


空には飛翔体も敵のロボットも描かれていない。


機体は誰とも戦っていない。


ただ、人々を助けている。


絵の右下には、幼い文字で名前が書かれていた。


調査の結果、その名前を持つ七歳の少女がソウル市内に実在していることが確認された。


少女は過去にNCO-076-KR関連の調査対象となったことがない。


家族にもMDE、東雲重工業、政府機関との関係はなかった。


職員が少女へ絵について尋ねると、彼女は夢で見たと答えた。


「大きいロボットが泣いてたの」


「どうして泣いていたの?」


「何を壊したらいいか分からなかったから」


「あなたは何と答えたの?」


「壊さなくていいよって言った」


「ロボットは何と答えた?」


少女は少し考えた。


「でも、それなら何をしたらいいって聞いた」


「だから、この絵を描いたの?」


「うん」


少女は絵の中の巨大な手を指さした。


「大きいなら、重いものを持てるでしょ」


あまりにも単純な答えだった。


国家とは何か。


敵とは何か。


防衛とは何か。


何百万人の声を数え続けても決められなかった存在に、七歳の少女は「大きいなら重いものを持てる」と答えた。


職員は最後に尋ねた。


「この下の言葉は、あなたが書いたの?」


絵の下には、一文が記されていた。


少女はうなずいた。


「ロボットが、間に合わなかったって言ってたから」


「何に間に合わなかったの?」


「分からない」


「この絵を、誰かに送るよう言われた?」


「白い服のお姉さん」


少女が描いたもう一枚の小さな絵には、灰色の作業服を着た女性が描かれていた。


頭には黄色い安全帽。


側面には黒い数字で「8」。


顔は、ハン・ソヨン主任研究員と一致した。


だが、ハン主任が少女に会った記録はない。


少女の家を訪れた記録も、封筒を送った記憶もなかった。


サイト76へ戻ったハン主任は、子供の絵を耐改変保管庫へ収容した。


保管庫には、二〇一一年の写真も置かれている。


写真に写る八人の作業員。


そのうち一人が、こちらへ顔を向けていた。


黄色い安全帽をかぶったハン主任。


写真の中の彼女は、巨大機体の胸部へ新しい部品を取り付けている。


小さな部品だった。


形状は、開いた人間の手に似ている。


写真の裏面にあった「新規機能」の欄には、ハン主任が書いた「救助」の文字が残っていた。


その横に、赤い印が押されている。


設計案、受理。


実装条件――国民による追加回答を待つ。


ハン主任は、少女の絵を写真の隣へ置いた。


絵の下に書かれた一文を、もう一度読む。



「まだ、まにあう」



同時刻。


国会議事堂地下、通常の観測装置では到達できない格納空間。


胸部装甲を破損した巨大人型機械が、暗闇の中で直立している。


実体化率、八十四%。


その右腕内部で、これまで存在しなかった機構が形成され始めていた。


敵を殴るための拳ではない。


瓦礫を持ち上げる際に力を調整し、手のひらにいる人間を傷つけないための感覚器官。


誰かが恐怖を口にしたから作られたものではなかった。


誰かが敵を求めたから生まれたものでもなかった。


一人の子供が、「大きいなら重いものを持てる」と考えた。


ただ、それだけだった。


格納庫の床へ、新しい設計図が浮かび上がる。


巨大機体は、自分の右手を見下ろした。


そして、誰にも聞こえない声で質問した。


「これは、防衛か」


返事はない。


機体は答えを急がなかった。


四・八秒後。


これまで足を踏み込む音だと考えられていた低周波振動が、サイト76の観測装置に一度だけ記録された。


ドン。


それは出撃前の踏み込みではなかった。


未完成の守護者が、初めて誰かを助ける手を握り、ゆっくりと開く音だった。



――Tale-04『ドームが開く日』終了

次回予告

NCO-217-JP


正式名称:『悪夢を見ている間は安全です』

10月25日21時投稿予定

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