Tale-02『五百人は、国民か』
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NCO-076-KR関連Tale-02
『五百人は、国民か』
一
「五百人いれば、国民を再現できると思いますか」
その質問を受けたとき、チェ・ミンソク博士は、手元の資料から顔を上げなかった。
サイト76、第三会議室。
窓のない細長い部屋には、心理研究部門、情報管理部門、統計解析部門から集められた十二名の職員が座っていた。壁面の大型モニターには、NCO-076-KR-Bの推定内部構造と、過去十年間における実体化率の変動が表示されている。
巨大人型構造物を示す青い輪郭の周囲には、政治的不安、軍事的緊張、経済危機、大規模災害、感染症流行など、実体化率へ影響したと考えられる事象が時系列で並んでいた。
ミンソクは資料の一ページをめくった。
「再現はできません」
彼は平然と答えた。
「韓国の総人口、地域差、年齢、職業、政治的立場、経済状況、宗教観、教育水準、情報摂取経路まで考慮すれば、五百人では不十分です。五千人でも足りないでしょう」
質問した情報管理部門の職員が眉をひそめた。
「では、この実験に意味はないと?」
「国民全体の再現には意味がありません。しかし、NCO-076-KR-Bが集合意識をどのように数えているかを調べるには十分です」
ミンソクは初めて顔を上げた。
「私たちは、あれが何を聞いているのか知りません。人口に対する単純な割合なのか、感情の強度なのか、情報の拡散速度なのか。あるいは、国家に対する帰属意識を持つ者だけを選別しているのかもしれない」
「だから、閉鎖環境内で五百人に同じ情報を与える」
「そうです」
ミンソクはモニター上の実体化率を示した。
現在値、四十一%。
安全と呼べる数値ではないが、緊急状態でもない。
「外部社会に影響を与えず、一定数の人間へ意図的に共通の敵を認識させる。その後、NCO-076-KR-Bの実体化率、内部構造、電磁反応を観測します」
会議室の奥に座っていたハン・ソヨン主任研究員が口を開いた。
「被験者には何を見せる予定ですか」
「架空の武装組織に関する報道映像です」
ミンソクが答えた。
「国外に拠点を持ち、韓国国内の複数施設への攻撃を計画している。政府機関の一部に協力者がおり、警察と軍にも情報が共有されていない。そういう設定です」
「実在する国や民族を連想させる要素は」
「排除しています。組織名、言語、装備、活動地域、思想的背景はすべて架空です。映像内で使用する顔も生成したものです」
ハン主任は資料を閉じた。
「被験者は、その映像が実験用に制作されたものだと知っていますか」
「知りません」
「終了後には説明する?」
「もちろんです」
「実験中にパニックが起きた場合は」
「心理職員を配置します。映像を現実だと確信させる時間は、最大で六時間です」
「六時間もあれば、人の見方は変わります」
「だから実験になるんです」
ミンソクの言葉に、室内の空気がわずかに固くなった。
ハン主任は彼を見つめた。
「チェ博士。私たちが調べようとしているのは、情報を使って巨大兵器を操縦できるかどうかではありません」
「理解しています」
「本当に?」
「我々が敵を指定したとき、NCO-076-KR-Bが反応するかを調べる。それだけです」
「それを操縦と呼ぶのよ」
ミンソクは答えなかった。
会議室の照明が一瞬だけ暗くなった。
壁面モニターに表示されていたNCO-076-KR-Bの頭部が、映像の乱れによって横を向いたように見えた。
数秒後、表示は正常に戻った。
誰も、そのことには触れなかった。
二
実験は二週間後に開始された。
被験者は韓国国籍を持つ成人五百名。
年齢、性別、出身地域、職業、政治的立場が可能な限り均等になるよう選出されていた。被験者には「緊急時における情報伝達と集団判断に関する大規模社会実験」と説明され、サイト76から離れたMDE管理下の研修施設へ集められた。
施設内から外部への通信は遮断されている。
被験者が視聴する映像は、テレビ局の緊急報道番組を模して制作されていた。
架空の武装組織「白い川」が、韓国国内の発電所、通信施設、浄水場を同時に攻撃する計画を進めている。政府内部に複数の協力者が存在し、公式発表は信用できない可能性がある。
映像には、武装した構成員、押収された爆発物、暗号化された作戦文書、拘束された政府職員の証言が含まれていた。
すべて偽物だった。
背景となる建物は閉鎖されたMDE施設。
武器は訓練用の模造品。
証言者はMDEの職員。
映像内に登場する組織幹部の顔は、実在しない人間の顔を合成したものだった。
ミンソクは施設地下の観察室から、被験者たちの反応を見ていた。
最初の映像が終了すると、各部屋で激しい議論が始まった。
「政府は何をしているんだ」
「本当に攻撃が起きるのか」
「この映像自体が偽物じゃないのか」
「家族に連絡させてくれ」
「警察を呼ぶべきだ」
予測された反応だった。
職員は被験者を落ち着かせ、外部への連絡が安全上の理由で一時的に制限されていると説明した。三十分後、第二の映像が放映された。
映像内では、白い川によるものとされる小規模な爆発が発生していた。
被害者はいない。
しかし、攻撃開始が間近であるという印象を与えるには十分だった。
統計解析担当者が報告する。
「敵性認識、五十八%を超過しました。組織の存在を完全に信用している被験者は四十一%。何らかの脅威が存在すると判断した者を含めると七十四%です」
ミンソクはサイト76から送信される観測値を確認した。
NCO-076-KR-B、実体化率四十一%。
変化なし。
「次の映像を予定どおり流してください」
隣にいた心理職員が顔を向けた。
「すでに不安反応が強すぎます。三番目の映像を遅らせるべきでは」
「規定範囲内です」
「家族への連絡を求めている被験者が百人を超えています」
「実験終了後に説明します」
「そういう問題ではありません」
ミンソクは職員を見た。
「我々がここで止めれば、五百人を六時間拘束し、恐怖を与えただけで何も分からずに終わる」
「だから続けると?」
「データがなければ、次は五百万人が恐怖を感じたときに何もできない」
心理職員は口を閉じた。
第三の映像が放映された。
白い川の幹部とされる人物がカメラへ向かい、韓国政府に対する声明を読み上げる。声には複数の加工が施され、国籍も年齢も分からない。
声明の最後に、その人物はこう告げた。
「この国の中にいる協力者は、すでに皆さんの隣にいる」
映像が終わった。
各部屋で、被験者同士が互いの顔を見始めた。
空気が変わった。
それまでの恐怖は、画面の向こうにいる架空の組織へ向けられていた。しかし今度は、同じ部屋にいる他人へ向けられている。
一人の被験者が、別の被験者を指さした。
「あの人は、さっきから何も言っていない」
指された男性が立ち上がった。
「だから何だ」
「こういうとき、黙って周りを見ている奴が一番怪しい」
「馬鹿なことを言うな」
別の部屋では、外国での勤務経験を持つ被験者が質問を浴びせられていた。
政府機関に勤めている被験者は、情報を隠しているのではないかと疑われた。
武装組織の名称と同じ漢字を名字に含むというだけで、一人の女性が部屋の隅へ追いやられた。
敵性認識、八十二%。
集団内相互不信、六十七%。
NCO-076-KR-B、実体化率四十一%。
変化なし。
「なぜだ」
ミンソクは呟いた。
五百人の大部分が共通の敵を認識している。
恐怖も怒りも十分に高い。
それなのに、地下の巨人は反応しない。
サイト76から通信が入った。
『こちらDOMEWATCH管制。NCO-076-KR-Aの出現を確認できません。地下振動、電磁波、現実安定度のすべてに変化なし』
「観測を継続してください」
『チェ博士、そちらの実験は本当に開始されていますか』
「開始から四時間以上経過しています」
『こちらには何も届いていません』
その言葉は、ミンソクを苛立たせた。
「届いていない?」
『表現が不適切でした。訂正します。NCO-076-KR-Bが、被験者を国民として認識していない可能性があります』
ミンソクは被験者たちを映すモニターを見た。
五百人。
全員が韓国国籍を持っている。
この国で生まれた者もいれば、帰化した者もいる。海外で暮らしていた者も、軍務経験者も、公務員もいる。
彼らが国民でないというなら、何なのか。
ミンソクは第四映像の準備を指示した。
そのとき、観察室のスピーカーから音が聞こえた。
ドン。
低く、重い音。
職員たちが顔を上げる。
四・八秒後。
ドン。
「サイト76からの音声ですか」
「違います。通信回線には入力されていません」
「では、どこから」
職員が音響設備を確認する。
再び音が鳴った。
ドン。
それは施設の地下から響いていた。
三
実験は午後六時に終了された。
予定より三十分早かった。
地下振動の発生と同時に、複数の被験者が頭痛、吐き気、方向感覚の喪失を訴えたためである。
職員は被験者を各部屋に留め、実験内容の説明を開始した。
武装組織「白い川」は存在しない。
報道映像はすべて実験用に制作された。
攻撃計画も爆発も政府内部の協力者も事実ではない。
説明を受けた被験者の反応はさまざまだった。
安堵して泣き出す者。
職員へ激しく抗議する者。
映像が偽物だったことを信じず、「政府にそう言わされているのだ」と主張する者。
自分が疑った相手に謝罪できず、視線をそらす者。
最も深刻だったのは、敵が存在しないと説明されても、疑いを捨てられない被験者たちだった。
「組織が偽物なのは分かった」
一人の男性被験者が言った。
「だが、国家を狙っている奴がいない証明にはならない」
心理職員が答える。
「今回お見せした情報は、すべて架空です」
「今回の情報は、だろう」
男性は隣に座る被験者たちを見回した。
「それなら、俺たちをこんな場所へ集めた本当の理由は何だ。なぜ外へ連絡させなかった。お前たちは何を調べていた」
職員は回答できなかった。
MDEやNCO-076-KR-Bの存在を説明することは許可されていない。
沈黙は、男性の疑念を深めた。
「ほら、答えられないじゃないか」
その言葉が周囲へ広がった。
別の被験者も職員を疑い始める。
実験終了後の説明そのものが、新たな陰謀の証拠として解釈されていく。
ミンソクは観察室から、その様子を見ていた。
彼の隣で、ハン主任が腕を組んでいる。
実験中に発生した地下振動を受け、サイト76から直接施設へ来ていた。
「実験は失敗です」
ミンソクが言った。
「そうね」
「NCO-076-KR-Bは反応しなかった」
「本当に?」
ミンソクは彼女を見た。
ハン主任は被験者たちの映像を指した。
「実体化率は変化しなかった。議事堂地下にも出現しなかった。でも、この施設の地下で四・八秒間隔の振動が発生した」
「偶然かもしれません」
「あなたはそう思う?」
ミンソクは答えなかった。
ハン主任は続けた。
「あれは、五百人の恐怖を受け取らなかったんじゃない。受け取ったうえで、議事堂地下へ戻さなかった可能性がある」
「どういう意味です」
「あなたたちは閉鎖環境を作った。情報を外へ出さず、五百人だけで完結する小さな国を作ろうとした」
「国を作ったわけではありません」
「でも、その中には敵がいて、政府役の職員がいて、情報を管理する人間がいた。国民役の被験者もいた」
ハン主任は、地下振動の記録をモニターへ表示した。
「NCO-076-KR-Bは国会議事堂の下ではなく、あなたたちが作った偽物の国家の下に現れようとしたのかもしれない」
ミンソクは振動の波形を見つめた。
発生回数は五百回。
被験者一人につき一回と考えるには、あまりに出来すぎた数だった。
「被験者を解放してください」
ハン主任が言った。
「記憶処理は」
「実施しません」
「彼らは説明に納得していません。都市伝説と結びつける者が出る可能性があります」
「それでもよ」
「情報管理規定に反します」
「これ以上、彼らの認識を操作することを許可しません」
ミンソクは口を閉じた。
ハン主任は観察室を出る直前、足を止めた。
「チェ博士。あなたはこの実験で何を操縦しようとしたの?」
「NCO-076-KR-Bです」
「違う」
ハン主任は振り返らなかった。
「あなたが操縦していたのは、五百人の方よ」
四
異常は、実験終了から三日後に始まった。
最初の報告者は、被験者番号147の男性だった。
男性は解放後、自宅で同じ夢を二晩続けて見た。
巨大な地下空間。
光のない格納庫。
そこに立つ、未完成の人型機械。
機体は男性を見下ろし、質問した。
「敵は誰だ」
男性は、実験映像で見せられた架空組織の名前を答えた。
機体は首を横に振った。
「それは存在しない」
男性が政府内部の協力者と答えると、機体は再び首を振った。
「お前は見ていない」
隣人、外国人、政治家、実験を行った職員。
男性が思いつく限りの敵を挙げても、機体はすべて否定した。
最後に、機体は問いかけた。
「お前は、なぜ敵を必要としている」
そこで男性は目を覚ました。
同日、ほかの被験者からも同様の夢が報告された。
十九名。
互いに連絡を取った形跡はない。
夢の細部には差異があったが、巨大な格納庫、未完成の機体、敵を尋ねる声は共通していた。
一部の被験者は、機体の足元にほかの被験者たちが並んでいたと証言した。
顔は全員、実験映像に登場した架空の武装組織構成員と同じだった。
その中に自分自身の顔を見た者もいた。
サイト76は十九名を再度保護し、心理検査とミーム汚染検査を行った。
脳波には共通する異常パターンが確認された。
被験者が睡眠状態へ入ると、通常は同期しないはずの脳波が、離れた部屋にいる者同士で同じ周期へ変化した。
周期は四・八秒。
ハン主任は、実験責任者としてミンソクを観察に立ち会わせた。
睡眠中の十九名が、同時に言葉を発した。
「違う」
十九人の声が重なる。
四・八秒後。
「それではない」
さらに四・八秒。
「教えられた敵を答えるな」
ミンソクは観察窓の前に立ち、被験者たちを見ていた。
「誰に話しているんです」
彼が尋ねると、ハン主任は首を横に振った。
「分からない」
被験者番号203の女性が、閉じた目から涙を流した。
「ごめんなさい」
別の被験者が続ける。
「知らなかった」
さらに別の声。
「映像で見たから」
十九人が順番に答えていく。
「皆が言ったから」
「怖かったから」
「疑わない方が危険だと思った」
「信じなければ、自分が敵にされると思った」
最後に、全員が同時に口を開いた。
「五百人は、国民か」
観察室の照明が消えた。
予備電源は作動しなかった。
暗闇の中で、巨大な何かが歩く音が聞こえた。
ドン。
金属が擦れ合う。
ドン。
ミンソクの前にある観察窓が、黒く変色した。
窓の向こうにいた被験者たちは見えない。
代わりに、巨大な顔が現れた。
目に相当する部分は発光していない。
それでも、ミンソクを見ている。
「五百人は、国民か」
声は観察窓の向こうからではなく、ミンソクの頭の中から聞こえた。
彼は後退した。
隣にいたはずのハン主任の姿は消えている。
観察室の壁も、操作卓も、出入口も消えていた。
ミンソクは、暗い格納庫に一人で立っていた。
頭上にはNCO-076-KR-B。
その足元には五百人の被験者が並んでいる。
全員が同じ顔をしていた。
架空組織「白い川」の幹部として、ミンソクたちが生成した男の顔。
実在しない人間の顔だった。
「五百人は、国民か」
三度目の質問。
ミンソクは喉を動かした。
「違う」
機体は反応しない。
「五百人だけで国民を再現することはできない」
「では、何人なら国民か」
「分からない」
「五千人か」
「違う」
「五百万人か」
「数の問題ではない」
「では、何が国民を国民にする」
ミンソクは答えられなかった。
機体の足元に並ぶ五百人が、ゆっくりと彼へ顔を向ける。
同じ顔。
存在しない敵の顔。
「お前が作った」
機体が言った。
「何を」
「敵を」
五百人の顔が変形し始めた。
生成された男の顔が溶け、その下から被験者本来の顔が現れる。
自分を疑ったことに怯える顔。
隣人を疑ったことを恥じる顔。
まだ誰かを疑い続けている顔。
実験を行ったMDEを憎む顔。
「お前は敵を作った」
「実験のためです」
「お前は国民を作った」
「違う」
「敵を与え、情報を制限し、恐怖を共有させた」
「違う」
「命令を与えた」
「違う!」
ミンソクの声が格納庫に反響した。
NCO-076-KR-Bは動かない。
「私は、あなたがどう反応するかを調べただけだ」
長い沈黙。
機体の頭部がわずかに傾いた。
「お前は、私と同じだ」
ミンソクは言葉を失った。
「違う」
ようやく、それだけを口にする。
「私は人間です」
「私も国民を守ろうとした」
「お前は兵器だ」
「お前も恐怖を使った」
「私は誰も攻撃していない」
「まだ」
機体の右腕が動いた。
巨大な指が、ミンソクへ向けられる。
周囲に並んでいた五百人の姿が消えた。
代わりに、一人の男が現れた。
白衣を着たチェ・ミンソク博士。
自分自身だった。
機体の頭部に、赤い文字が浮かび上がる。
敵性対象候補。
ミンソクは自分と同じ顔をした男を見た。
もう一人のミンソクは、手に映像資料を持っている。
武装組織。
爆発。
政府内部の協力者。
国民の隣にいる敵。
すべて、自分が作らせたものだ。
「違う」
彼はもう一度言った。
だが、今度の声には力がなかった。
NCO-076-KR-Bが尋ねる。
「五百人は、国民か」
ミンソクは目を閉じた。
「一人でも、国民だ」
格納庫から音が消えた。
機体の巨大な指が止まる。
「では、一人を恐れさせれば、国家は恐れたことになるか」
「ならない」
「一人を敵にすれば、国家は敵を得たことになるか」
「ならない」
「五百人なら」
「ならない」
「何人なら」
「分からない」
ミンソクは顔を上げた。
「分からない。だから、私が決めてはいけなかった」
NCO-076-KR-Bの目に、細い光が灯った。
起動を示す光ではなかった。
何かを記録する機械のような、淡い白色だった。
「回答を保存する」
「何のために」
「次回の選定に使用する」
ミンソクの胸に冷たい感覚が広がった。
「待て。私の答えを基準にするな」
「回答者として登録した」
「登録を解除しろ」
「拒否する」
「私は国民を代表していない」
「一人でも国民だ」
それは、たった今ミンソク自身が答えた言葉だった。
機体の光が強くなる。
「ならば、お前の声も国民の声である」
視界が白く染まった。
五
ミンソクは観察室の床で目を覚ました。
停電から経過していた時間は、十一秒。
ハン主任と二名の職員が彼を支えていた。
観察窓の向こうでは、十九名の被験者が眠り続けている。
「チェ博士。私の声が聞こえますか」
ハン主任が呼びかける。
ミンソクは返事をせず、観察窓へ近づいた。
窓には巨大な顔など映っていない。
「実体化率は」
「変化なし。四十一%のままです」
「地下振動は」
「停電と同時に停止しました」
ミンソクは十九名の被験者を見た。
「五百人全員を再検査してください」
「すでに開始しています」
「夢を見ていない者もです」
「理由は?」
「登録された」
「何が」
ミンソクは自分の右手を見た。
手のひらに、赤い四角が描かれている。
実験中に使用した同意書の確認欄と同じ形だった。
「私の回答が、あれに登録された」
ハン主任は赤い印を確認した。
擦っても消えない。
皮膚の表面に描かれたものではなく、皮下に色素が形成されていた。
「何と答えたの」
ミンソクはすぐには答えなかった。
「一人でも国民だと」
ハン主任が目を閉じた。
「それを、NCO-076-KR-Bが記録した?」
「次回の敵性対象選定に使うと言っていました」
「ほかには」
「私を回答者として登録したと」
「つまり、今後あなたの認識が機体の判断へ影響する可能性がある」
「分かりません」
ミンソクは手のひらを握り締めた。
「ですが、私はもう、この国で何かを敵だと思うことができない」
「それは無理よ」
「無理でも、そうするしかない」
「人は、何かに怒る。誰かを恐れる。憎むこともある。意識だけで完全に止められるものではない」
「では、どうしろと言うんです」
ハン主任は答えられなかった。
観察室のスピーカーから、小さな雑音が聞こえた。
続いて、眠っていた被験者番号147の男性が口を開いた。
「心配する必要はない」
ミンソクとハン主任が振り返る。
男性は目を閉じたままだった。
「一人の声だけでは決めない」
別の被験者が続ける。
「五百人の声だけでも決めない」
三人目。
「全員の声も、同じ重さではない」
四人目。
「恐怖は大きく聞こえる」
五人目。
「怒りは長く残る」
十九人全員が同時に言った。
「だから、まだ決められない」
ミンソクは観察窓へ手をついた。
「何を待っている」
被験者たちの口が、同じ動きをした。
「敵が誰かを、国民が思い出すまで」
「思い出す?」
「以前にも選んだ」
室内が静まり返った。
ハン主任が通信端末を操作し、発言を記録させる。
ミンソクは問いかけた。
「以前とはいつだ」
返答はない。
「誰を選んだ」
被験者たちは眠ったまま動かない。
「お前は過去に出撃したのか」
十九人の目が同時に開いた。
瞳は焦点を結んでいなかった。
全員が、ミンソクの背後にある何かを見ていた。
「忘れさせた」
誰が忘れさせた。
ミンソクがそう尋ねるより先に、被験者たちの目が閉じた。
脳波は通常の睡眠状態へ戻っていた。
六
実験から一か月後。
被験者五百名への継続検査では、十九名を除き、明確な異常は確認されなかった。
共有夢を見た十九名も、二週間後にはNCO-076-KR-Bに関する夢を見なくなった。
ただし、彼らの行動には共通する変化が現れた。
被験者番号147は、事実確認のできない政治情報を拡散することをやめた。
被験者番号203は、実験中に疑った女性へ謝罪した。
別の被験者は、家族との会話で安易に「敵」という言葉を使うことを避けるようになった。
これらの変化が異常影響によるものか、実験経験による心理的反応なのかは判別できなかった。
実験計画は永久凍結された。
NCO-076-KR-Bに対し、意図的に敵性対象を認識させる試みも禁止された。
ミンソクは実験責任者の職を解かれたが、サイト76から除名されることはなかった。
彼は自ら希望して、NCO-076-KR関連情報の監視部門へ異動した。
毎朝、韓国国内の報道、SNS、世論調査、噂、差別的言説、陰謀論を確認し、それらがNCO-076-KR-Bの判断へ与える影響を分析する。
皮肉な仕事だった。
かつて恐怖を作って人々へ与えた男が、今度は誰かが作った恐怖を見つけ、広がる前に止めようとしている。
右手の赤い四角は消えなかった。
ある夜、ミンソクは自宅の机で報告書を書いていた。
時刻は午前一時を過ぎている。
窓の外には、ソウルの街明かりが広がっていた。遠くに国会議事堂のドームが見える。
机の上の端末には、ある映像が表示されていた。
個人が制作した短い動画だった。
内容は、外国人労働者の集団が国内の発電施設を占拠しようとしているというもの。映像は巧妙に編集されているが、複数の場面が無関係なニュース映像から流用されていた。
再生回数は、公開から二時間で十万回を超えている。
コメント欄には、怒りと恐怖が溢れていた。
「追い出せ」
「政府は何を隠している」
「このままでは国を奪われる」
「先に攻撃しなければ手遅れになる」
ミンソクは映像の削除手続きを開始した。
そのとき、右手の赤い四角が熱を持った。
端末の画面が一瞬だけ暗くなる。
黒い画面に、ミンソク自身の顔が映った。
その背後に、巨大な影が立っている。
「違う」
ミンソクは言った。
「これは敵ではない」
画面の中の機体は動かない。
「作られた恐怖だ」
反応はない。
「誰かが、国民に敵を与えようとしている」
端末のスピーカーから声が聞こえた。
「お前と同じか」
ミンソクは目を閉じた。
「そうだ」
認めるまでに、長い時間がかかった。
「私がやったことと同じだ」
「ならば、その者は敵か」
ミンソクは答えようとした。
偽情報を作り、人々を意図的に恐れさせ、憎悪を拡散させる者。
国家を内側から壊す者。
敵だと答えることは簡単だった。
右手の赤い四角が、さらに熱くなる。
ミンソクは拳を握った。
「分からない」
「回答を要求する」
「分からない」
「お前は回答者である」
「それでも分からない」
画面の中の巨大な影が、わずかに頭を傾けた。
「なぜ答えない」
ミンソクは窓の外を見た。
国会議事堂のドームは、暗い空の下で沈黙している。
「私が怒っているからだ」
「怒りは回答か」
「違う。少なくとも、それだけで答えてはいけない」
「恐怖は回答か」
「違う」
「多数は回答か」
ミンソクは、実験施設に集めた五百人を思い出した。
同じ映像を見せられ、同じ敵を与えられ、隣にいる者まで疑い始めた人々。
「違う」
「では、何を回答とする」
「知らなければならない」
「何を」
「本当に起きたことを。誰が何をしたのかを。恐怖を取り除いた後でも、その判断が残るのかを」
端末の画面から、巨大な影が消えた。
最後に文字だけが表示された。
回答を保存する。
「待て」
ミンソクが呼びかけたときには、端末は通常の画面へ戻っていた。
偽映像の削除手続きが完了する。
再生数の増加が止まった。
ミンソクは右手を開いた。
赤い四角の横に、新しい文字が浮かび上がっていた。
小さなハングルで、こう記されている。
「保留」
ミンソクは、その文字を長い間見つめていた。
翌朝、彼はハン主任へ現象を報告した。
ただし、報告書の最後には個人的な意見として一文だけ付け加えた。
NCO-076-KR-Bは、我々が考えていたほど単純な兵器ではない。
あれは敵を探しているのではない。
我々が、どのように敵を決めるのかを学んでいる。
報告書を提出した直後、サイト76の地下観測装置が一度だけ振動を記録した。
ドン。
二度目の振動はなかった。
七
実験から三年後、被験者番号147が病気で死亡した。
死亡時刻は午前四時八分。
その瞬間、サイト76の耐改変保管庫に収容されていた実験参加者名簿から、被験者番号147の氏名が消失した。
代わりに、名簿の末尾へ新しい項目が追加された。
回答者総数――四百九十九名。
除外理由――死亡。
その下には、以前存在しなかった質問が記載されていた。
一人が死ねば、国民は一人減るのか。
サイト76の職員は回答を記入しなかった。
翌日、質問の下に新たな文章が追加された。
誰も答えないため、保留する。
さらにその翌日。
別の文章が現れた。
五百人目を待つ。
現在まで、五百人目が誰を指しているのかは判明していない。
ただし、被験者番号147の死亡以降、チェ・ミンソク博士は夢の中で、格納庫の足元に四百九十九人が並ぶ光景を見るようになった。
彼らの隣には、一人分の空間が残されている。
空間の前には、黄色い線で四角が描かれている。
その大きさは、人間一人が立つのにちょうどよい。
ミンソクが夢の中でその四角へ近づくたび、NCO-076-KR-Bは同じ質問をする。
「五百人は、国民か」
ミンソクは、毎回同じように答える。
「違う」
「では、五百人目は必要ないか」
その問いにだけは、まだ答えられていない。
――Tale-02『五百人は、国民か』終了
次回予告
Tale-03『未登録国家規格』
10月24 日18時投稿予定




