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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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72/85

Tale-01『まだ呼ばれていない』

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください

NCO-076-KR関連Tale-01


『まだ呼ばれていない』



一


二〇一一年一月十一日、午後五時四十二分。


国会議事堂前の芝生広場には、日没前から大勢の人々が集まり始めていた。


冷え込んだ空気の中、家族連れや報道関係者、招待客、往年のアニメ作品を懐かしむ愛好家たちが、白い息を吐きながら開演を待っている。芝生の上には複数の大型投影装置が並び、議事堂の正面には仮設ステージが設けられていた。スピーカーからは軽快な音楽が流れ、司会者が何度もイベント開始時刻を案内している。


国会議事堂の緑青色のドームは、暮れかけた空を背景に、巨大な蓋のように浮かんでいた。


イ・ジュンホは一般客の列に紛れ、紙コップに入った温かいコーヒーを持ちながら、そのドームを見上げていた。


二十八歳。サイト76観測部門に配属されて三年目。身分上は国土安全研究院から派遣された地質観測技師だが、実際にはMDE韓国支部の第二級観測員である。


今日の任務について、ジュンホは一週間前から何度も説明を受けていた。


イベントの名称は「伝説のドーム開放」。


国会議事堂の建物全体へ映像を投影し、ドームが開いて、地下から巨大ロボットが出撃する光景を再現する。かつて子供たちの間で語られていた都市伝説を、最新のプロジェクションマッピング技術で映像化する催しだった。


主催者に異常存在との関係は確認されていない。


使用される機材も一般的なものだ。


問題は、イベントの題材そのものだった。


「国が危機に陥ると、国会議事堂のドームが開き、地下に隠された巨大ロボットが出撃する」


サイト76は、この噂がただの都市伝説ではない可能性を二十年以上前から把握していた。


ジュンホの耳に、小型通信機から女性の声が届いた。


『観測班各員、定時報告。異常はありますか』


ハン・ソヨン主任研究員の声だった。


ジュンホはマフラーに隠したマイクへ、小さく答えた。


「第三観測地点、異常なし。観客数は約九十名。増加中です」


『了解。現地の地震波計がわずかな周期振動を拾っています。ただし、周囲の設営作業によるものと区別できません。引き続き観測してください』


「了解」


通信が切れる。


ジュンホはコーヒーを口に運んだ。すでにぬるくなっていた。


隣では、父親に肩車された少年が、ドームを指さして興奮していた。


「本当に出てくるかな」


「出てきたら大変だろう」


父親は笑って答えた。


「お父さんが子供の頃も、あの下にロボットがいるってみんな言ってたんだ。悪い奴が来たら屋根が開いて、飛んでいくんだって」


「見たことある?」


「あるわけないだろう」


「じゃあ、いないの?」


「さあな。今日は見られるかもしれないぞ」


少年は嬉しそうに笑った。


何げない親子の会話だった。


ジュンホは、笑うことができなかった。


彼はコートの内ポケットから携帯型ミーム濃度計を取り出した。表面上は古い音楽プレーヤーに偽装されている。表示された数値は基準値よりわずかに高かったが、警戒水準には達していない。


都市伝説を知る者が同じ場所に集まっているのだ。それだけで軽度の上昇は予測されていた。


そう自分に言い聞かせながら、ジュンホは機器をしまった。


その瞬間だった。


議事堂の地下から、低い音が響いた。


ドン。


地面の奥深くで、巨大な何かが足を踏み鳴らしたような音だった。


周囲の観客は反応していない。


ジュンホだけが足元を見た。


数秒後、もう一度。


ドン。


間隔は、およそ五秒。


ジュンホは通信機を作動させた。


「第三観測地点から管制。周期振動を体感しました」


『こちらでも確認しています。間隔は四・八秒。震源推定を開始します』


「観客に反応はありません」


『そのまま待機してください。周囲に異常が出た場合も、独断で避難誘導を開始しないでください』


「了解」


ドン。


芝生を踏むジュンホの靴底に、かすかな振動が伝わった。


心臓の鼓動にしては遅すぎる。


機械の運転音にしては規則正しすぎた。


ジュンホは再び国会議事堂を見上げた。


夕闇に沈み始めたドームは、先ほどよりもわずかに大きく見えた。



二


午後六時二十二分。


イベント開始まで、残り八分。


広場には百人以上の観客が集まり、報道用カメラの赤いランプがあちこちで点灯していた。ステージ上では関係者による挨拶が続いている。子供たちによるテコンドー演武が終わると、大きな拍手が起きた。


ジュンホは観客の後方へ移動していた。


そこからなら、議事堂正面とドーム全体を一度に観察できる。サイト76が設置した耐改変記録装置も近くにある。装置は報道機関の予備カメラを装っており、別地点に置かれた同型機と同期していた。


通信機から、第一観測地点にいるパク観測員の声が聞こえた。


『第一地点。投影装置の動作を確認。主催者から提出された演出進行表との差異はありません』


続いて第二地点。


『第二地点。議事堂内部の監視映像に異常なし。ドーム部分にも物理的変化は見られません』


ハン主任が応答した。


『了解。イベント開始後は目視情報と機器情報を区別して報告してください。見えたものを、見えたまま伝えてください。解釈は後です』


ジュンホはその言葉を聞きながら、議事堂の窓を見つめていた。


何かがおかしい。


最初は、室内照明の反射だと思った。


正面上部、ドームを支える構造のすぐ下。通常なら壁面しかない場所に、縦長の窓のような光が見えている。


ジュンホは記憶していた議事堂の構造図を思い浮かべた。


あの位置に窓はない。


双眼鏡を取り出し、焦点を合わせる。


窓ではなかった。


半開きになった扉だった。


扉の向こうには、上へ伸びる狭い階段が見えた。黄色い作業灯が等間隔に灯り、コンクリートの壁を照らしている。


そして、階段の途中に、人が立っていた。


灰色の作業服。黄色い安全帽。顔は影に隠れている。


作業員は階段を上るでも下りるでもなく、手すりに片手を置いたまま、屋外にいるジュンホの方を見ていた。


距離は百メートル以上離れている。それでも、見られていると分かった。


「第三観測地点より管制。議事堂正面上部に、設計図に存在しない開口部を確認。内部に階段と人影があります」


数秒の沈黙。


『こちらの映像では確認できません。位置をもう一度』


ジュンホは場所を説明した。


『該当箇所は外壁です。出入口も窓もありません』


「見えています。作業服を着た人物が一人います」


『記録装置を向けられますか』


ジュンホは耐改変記録装置の角度を調整した。一般の観客に不審に思われないよう、ゆっくりと行う。


再び双眼鏡を覗いた。


扉はまだ存在していた。


だが、人影は消えていた。


代わりに、安全帽だけが階段の途中に置かれている。


「人影が消失。開口部はまだあります」


『記録装置では外壁しか映っていません』


「私は見えています」


『落ち着いてください。視線を外し、三秒後にもう一度確認してください』


ジュンホは指示に従った。


双眼鏡を下ろし、目を閉じて三秒数える。


再び覗いたとき、扉も階段も消えていた。


そこには、何の変哲もない国会議事堂の外壁があった。


『第三地点、状況を報告してください』


「消えました」


『了解。認識影響の可能性があります。体調に変化は』


「ありません」


答えた直後、ジュンホは右手に違和感を覚えた。


手袋の指先に、白い粉が付着している。


コンクリートの粉だった。


ジュンホはそれを見つめた。


先ほどまで、手袋には何も付いていなかった。壁にも建築資材にも触れていない。


粉の中に、小さな金属片が混じっていた。


拾い上げて街灯の明かりにかざす。


薄く曲がった金属板の破片だった。表面には、黒い文字が印刷されている。


「第七整備通路」


ジュンホの背中を冷たいものが流れた。


ステージ上の司会者が、明るい声を張り上げた。


「皆さん、大変お待たせいたしました!」


観客から歓声が上がる。


「幼い頃、誰もが一度は想像した伝説。国が危機に陥ったとき、国会議事堂のドームが開き、私たちの英雄が空へ飛び立つ――今夜、その伝説が現実になります!」


議事堂の照明が一斉に消えた。


暗闇の中で、低い振動が一度だけ響いた。


ドン。


ジュンホの持つ金属片が、指の間で小さく震えた。



三


最初の演出は、議事堂の建設から始まった。


投影された光の線が建物の輪郭をなぞり、壁面を分解し、再構成していく。石材が積み上がり、柱が伸び、最後に巨大なドームがゆっくりと形成される。


歓声が上がった。


続いて、都市へ迫る危機が描かれる。


赤い警告灯。空を覆う黒雲。地上へ降下する正体不明の影。議事堂の壁面に炎が広がり、窓が崩れ落ちる。


もちろん、すべて映像だ。


しかし、ジュンホには別のものが見えていた。


投影映像が議事堂の構造を透過する一瞬ごとに、建物の内側に存在しない設備が浮かび上がる。


ドーム直下から地下へ伸びる巨大な昇降路。


幾重にも配置された固定器具。


人間用とは思えないほど大きな電力供給端子。


そして、壁面を縦横に走る無数の整備通路。


そこには作業員がいた。


一人、二人、三人。


映像が切り替わるたび、数が増える。


灰色の作業服と黄色い安全帽。全員が黙々と機械を操作し、ボルトを締め、ケーブルを接続している。


観客は誰も気づいていない。


ジュンホは通信機に話しかけた。


「管制。投影映像の内部に、複数の人影を確認しています。少なくとも六人」


『第一、第二観測地点からは報告なし。第三地点だけに見えている可能性があります』


「耐改変記録装置は」


『現時点では通常の映像です』


投影された警報表示が、議事堂全面を赤く染めた。


六人の作業員が、一斉に作業を止める。


全員が顔を上げた。


ジュンホを見た。


距離も壁も関係なかった。六つの顔のない頭部が、正確にジュンホの位置を向いていた。


そのうち一人が、ゆっくりと右腕を持ち上げる。


手袋をはめた指が、ジュンホを指した。


残りの五人も同じ動作をした。


「私を見ています」


『第三地点、直ちに後退してください』


「六人全員が私を指しています」


『ジュンホ、聞こえていますか。その場から離れてください』


ハン主任が初めて、職員番号ではなく名前で呼んだ。


ジュンホは一歩後ろへ下がった。


その瞬間、スピーカーから高い電子音が鳴った。


演出上の警報音とは異なる。音響機器が接続不良を起こしたような、不快な音だった。


議事堂に投影されていた映像がわずかに乱れる。


六人の作業員が消えた。


代わりに、ドームの中央へ巨大な円形の影が現れた。


司会者が叫ぶ。


「さあ、伝説の瞬間です!」


ドームの周囲に八本の光が走った。


光に沿って、巨大な屋根が分割されていく。


投影映像では、ドームは外側へ花びらのように開く予定だった。


だが、ジュンホが見ているものは違った。


ドームは内側へ沈み込んでいた。


八つに分割された構造物が、議事堂の内部へ格納されていく。その動きは投影映像より遅く、重かった。鉄骨が軋み、巨大な歯車が回転する音が聞こえる。


地面が震えた。


周囲の観客が歓声を上げる。


彼らは演出だと思っている。


ジュンホの手の中で、携帯型ミーム濃度計が振動した。画面を確認すると、数値が測定上限に達していた。


「管制、ドームが――」


照明が消えた。


投影装置も、スピーカーも、仮設ステージも、議事堂周辺の街灯も、すべての光が同時に落ちた。


完全な暗闇。


歓声が戸惑いの声へ変わる。


ジュンホの通信機から、ハン主任の声が途切れ途切れに聞こえた。


『全観測……電力……記録装置は……』


通信が切れた。


四・七秒。


後の調査では、その停電は四・七秒間だったとされている。


ジュンホにとっては、もっと長かった。


暗闇の中、国会議事堂の上部に巨大な穴が開いていた。


ドームはもう存在しない。


穴の内部には光がなく、星明かりすら吸い込まれていた。


その暗闇の奥から、何かが上昇してくる。


最初に見えたのは額だった。


黒い金属で覆われ、いくつもの装甲板が重なっている。表面には古い鉄のような傷があったが、錆は見られない。


次に、目に相当する細長い構造。


光ってはいなかった。


それでも、それが周囲を見ていると分かった。


鼻梁を思わせる中央装甲。


閉じられた口。


巨大な人間の顔を、兵器として作り直したような頭部だった。


機体の背後には、細い足場が組まれていた。


足場の上に、七人の作業員が立っている。


六人ではない。


七人目が加わっていた。


七人目は安全帽をかぶっていなかった。灰色の作業服だけを身につけ、両腕を力なく下ろしている。


顔が見えた。


イ・ジュンホだった。


議事堂前の芝生に立つジュンホと、巨大な機体の背後に立つジュンホ。


二人の視線が重なった。


足場の上のジュンホが、ゆっくりと口を動かした。


音は聞こえない。


それでも、何を言っているのか分かった。


「来るな」


直後、巨大機体の目がわずかに動いた。


機体が議事堂前のジュンホを見た。


頭部表面に白い文字が浮かび上がる。


아직 불리지 않았다.


意味を考える必要はなかった。


「まだ呼ばれていない」


ジュンホが呟くと、巨大機体の口が開いた。


内部には歯も砲口もなかった。


ただ、人間が一人通れるほどの暗い通路が、頭部の奥へ向かって続いていた。


通路の入り口に、黄色い安全帽が置かれていた。


視界が白く染まった。



四


音楽が戻った。


歓声が上がった。


ジュンホは、芝生の上に立ち尽くしていた。


目の前では投影映像の巨大ロボットが国会議事堂から空へ飛び立ち、夜空に光の軌跡を描いている。周囲の観客が拍手し、子供たちが飛び跳ねている。


ドームは閉じていた。


亀裂も開口部もない。


投影された映像を除けば、国会議事堂は何も変わっていなかった。


『第三地点、応答してください』


通信機からハン主任の声が聞こえた。


ジュンホは返事をしようとした。


声が出なかった。


『ジュンホ。聞こえているなら、応答してください』


「……聞こえています」


『現在位置は』


「第三観測地点です」


『身体に異常は』


ジュンホは自分の手を見た。


右手にはまだ「第七整備通路」と書かれた金属片がある。


左手には、見覚えのない黄色い安全帽を持っていた。


「ありません」


自分でも、なぜ嘘をついたのか分からなかった。


『耐改変記録装置に異常映像が保存されています。イベント終了後、観客と一緒に移動してください。こちらから回収班を向かわせます』


「了解」


ジュンホは安全帽をコートの内側へ隠した。


イベントは予定どおり終了した。


ステージでは主催者が成功を宣言し、観客は満足そうに帰り始めている。父親に肩車されていた少年も、巨大ロボットの動きを真似しながら何度も蹴りを放っていた。


「本当に出てきたね」


少年が言った。


父親は笑った。


「映像だよ」


「違うよ」


「何が違うんだ」


「あれは映像じゃないよ」


父親の表情がわずかに曇った。


少年は閉じたドームを見上げていた。


「あれはまだ下にいるんだよ」


ジュンホは足を止めた。


少年がこちらを見る。


その視線が、ジュンホのコートに隠された安全帽へ向けられた。


「おじさんも作る人なの?」


ジュンホは答えなかった。


父親が少年の頭を軽く叩く。


「変なことを言うな。行くぞ」


親子は人混みの中へ消えた。


午後七時十九分、サイト76の回収班がジュンホと接触した。


ジュンホは耐改変記録装置、携帯型ミーム濃度計、「第七整備通路」と記された金属片を提出した。


安全帽については報告しなかった。



五


サイト76へ戻ったジュンホは、三時間にわたる事情聴取を受けた。


耐改変記録装置には、停電中の映像が残されていた。


八つに分割され、内側へ格納されるドーム。


暗闇から上昇する巨大な頭部。


機体背後の足場に立つ七人の人影。


頭部表面に浮かんだ「まだ呼ばれていない」という文字。


しかし、記録映像を拡大しても、七人目の顔は確認できなかった。すべての人影は輪郭が崩れ、黒い染みのように映っている。


ジュンホは、自分と同じ顔をした七人目について報告した。


黄色い安全帽については、最後まで話さなかった。


聴取終了後、ハン主任が彼を医療部門まで同行した。


廊下には二人の足音だけが響いていた。


「なぜ、最初に自分の顔を見たことを言わなかったの」


ハン主任が前を向いたまま尋ねた。


「混乱していました」


「本当に?」


「はい」


ハン主任は足を止めた。


「あなたの手袋から、コンクリート粉と金属片が検出された。どちらも議事堂に使われている材料とは一致しなかった。コンクリートの製造年代は測定不能。金属片の成分も、既知の合金と一致しない」


ジュンホは黙っていた。


「ほかに持ち帰ったものはない?」


「ありません」


ハン主任は数秒間、ジュンホの顔を見つめた。


やがて、小さく息を吐いた。


「今夜は医療区画で休みなさい。帰宅許可は検査が終わってから出す」


「分かりました」


「ジュンホ」


立ち去ろうとした彼を、ハン主任が呼び止めた。


「地下で見たものに呼ばれても、返事をしてはいけない」


ジュンホは振り返った。


「以前にも、同じことがあったんですか」


ハン主任は答えなかった。


ただ、医療区画の扉を開き、彼に入るよう促した。


その夜、ジュンホは一睡もできなかった。


午前二時を過ぎた頃、ベッドの下から低い振動が聞こえ始めた。


ドン。


四・八秒後。


ドン。


サイト76は国会議事堂から離れた場所にある。地下に大型機械も存在しない。


それでも音は続いた。


ジュンホはベッドから起き上がった。


衣類収納棚を開ける。


コートの奥に隠した黄色い安全帽が、暗闇の中に置かれていた。


安全帽の側面には、黒い数字が書かれている。


「7」


イベント会場ではなかったはずの数字だ。


ジュンホが指で触れると、帽子の内側から小さな音がした。


紙が一枚、床へ落ちた。


折り畳まれた古い作業指示書だった。


紙は黄ばんでおり、何十年も前に作られたように見える。だが、印刷された日付は二〇一一年一月十二日、つまり今日の日付だった。


ジュンホは紙を開いた。


上部には「国家非常用機構・建造進行表」と記されている。


その下に、作業工程が並んでいた。


頭部基本構造――完了。


外部認識器官――完了。


国家危機判定機構――調整中。


敵性対象選定機構――未完成。


操縦系統――不要。


整備要員――六名登録済。


最後の行だけが赤く印刷されていた。


第七整備要員――未登録。


ジュンホがその文字を見つめていると、紙の上に新しい線が浮かび上がった。


誰かが見えないペンで書いているように、文字が一つずつ形成されていく。


イ・ジュンホ。


彼の名前だった。


その下に、さらに文章が続く。


登録を完了するには、承認してください。


承認欄の横には空白の四角がある。


ジュンホは紙を床へ落とした。


同時に、部屋の照明が消えた。


ベッドの下で鳴っていた振動が止まる。


代わりに、部屋の壁の向こうから金属音が聞こえた。


ガチャリ。


重い扉の鍵が外れる音だった。


医療区画の壁には、扉など存在しない。


ジュンホは暗闇の中で後退した。


壁の中央に、細い黄色の光が現れる。


光は縦に伸び、続いて横へ広がった。


輪郭に沿って壁が内側へ開く。


向こう側には、コンクリート製の狭い階段があった。


黄色い作業灯が等間隔に灯り、上ではなく、地の底へ向かって延びている。


階段の途中に、六人の作業員が立っていた。


灰色の作業服。黄色い安全帽。影に隠れた顔。


先頭の一人が、空の右手をジュンホへ差し出した。


安全帽をかぶれ。


そう言っているのだと分かった。


ジュンホの背後で、収納棚の中に置かれた安全帽が震え始める。


カタカタと音を立て、棚の端へ少しずつ移動していく。


ジュンホは床に落ちた作業指示書を踏みつけた。


「行かない」


六人は動かなかった。


「俺は、お前たちを作らない」


階段の最下部から、巨大な駆動音が響いた。


暗闇のはるか下で、何かが頭を持ち上げた。


六人の作業員が、一斉に首を横へ向ける。


彼らはジュンホではなく、階段の下を見た。


そして道を開けるように、左右へ分かれた。


地下から声が届いた。


機械音ではなかった。


男とも女とも、子供とも老人とも判別できない、何百万人もの声が重なった音だった。


「まだ呼ばれていない」


ジュンホは息を止めた。


「なら、どうして俺を呼ぶ」


長い沈黙。


やがて、地下の声が答えた。


「呼ばれたときでは、遅い」


黄色い安全帽が収納棚から落ちた。


床を転がり、ジュンホの足元で止まる。


階段の六人が、再び彼へ手を差し出した。


ジュンホは安全帽を見下ろした。


それから、開かれた壁の向こうにある階段を見た。


階段の下では、巨大な何かが待っている。


まだ完成していない。


まだ敵を知らない。


まだ、何を守るのかさえ理解していない。


だが、それはいつか必ず呼ばれる。


ジュンホは足元の作業指示書を拾い上げた。


承認欄の四角を指でなぞる。


そして紙を二つに破った。


さらに重ねて、もう一度破る。


作業指示書は四枚の紙片となって床に落ちた。


同時に、壁の扉が激しく閉じた。


六人の作業員と階段が消える。


医療区画の照明が戻った。


時計は午前二時十三分を示していた。


ジュンホはしばらく動けなかった。


床には、破いたはずの作業指示書が落ちている。


紙は元の一枚に戻っていた。


ただし、記載内容が変化していた。


整備要員――六名登録済。


第七整備要員――登録拒否。


備考欄には、短い文章が追加されていた。


拒否は受理された。


次回招集時、再確認する。



六


翌朝、医療区画の監視映像には異常が残されていなかった。


午前二時十三分から二時十九分まで、ジュンホはベッド脇に立ち、何もない壁へ向かって話しかけていた。


壁が開いた様子も、作業員が現れた様子も記録されていない。


ジュンホは黄色い安全帽と作業指示書をハン主任へ提出した。


安全帽の材質は一般的な強化樹脂と一致したが、内側に付着していた皮脂と毛髪はジュンホのDNAと一致した。


摩耗状態の分析では、ジュンホが少なくとも九年間にわたり日常的に使用していたものと推定された。


だが、ジュンホにはその安全帽を使用した記憶がなかった。


作業指示書は耐改変保管庫へ移送された。


移送時点で、整備要員の欄には六名しか記載されていなかった。


その日の午後、ハン主任はイベント会場で撮影された耐改変映像を再び確認した。


巨大機体の背後にある足場には、七人の人影が立っている。


映像解析担当者が、七人目を拡大する。


黒く潰れていた顔に、一瞬だけ輪郭が現れた。


イ・ジュンホではなかった。


長い髪を後ろで束ね、白衣の上から灰色の作業服を着た女性。


ハン主任自身だった。


映像の中のハン主任は、カメラに向かって何かを差し出していた。


黄色い安全帽だった。


その側面には、黒い数字で「8」と記されている。


ハン主任は映像を停止した。


直後、サイト76の地下観測装置が低周波振動を検出した。


ドン。


四・八秒後。


ドン。


管制室の職員が振り返る。


「主任、国会議事堂地下の実体化率が上昇しています」


「現在値は」


「三十八%です。イベント開始前から七ポイント上昇」


ハン主任は停止した映像を見つめていた。


画面の中の自分は、安全帽を差し出したまま動かない。


「主任?」


ハン主任は映像を閉じた。


「DOMEWATCHレベル1を継続。イベント参加者全員の追跡調査を開始してください。特に、停電中の記憶を持つ児童を優先します」


「了解しました」


職員が作業へ戻る。


ハン主任は自分の机の引き出しを開けた。


中には、入れた覚えのない一枚の写真があった。


巨大な地下格納庫。


直立する未完成の人型機械。


その胸部に組まれた細い足場。


足場の上には、七人が並んでいる。


ジュンホの姿はない。


代わりに、ハン主任が立っていた。


残りの六人は、まだ顔のない作業員だった。


写真の裏には、黒いインクで短い文章が書かれていた。


ハン主任は、その文章を誰にも見せなかった。


写真を封筒に入れ、最高機密資料用の耐改変保管庫へ収めた。


それから十四年後。


NCO-076-KR-Bの実体化率が初めて九十%を超えた夜、保管庫に収められていた写真はひとりでに裏返った。


写真の裏面にあった文章は消えていた。


代わりに、赤い文字で新たな一文が記されていた。



「あと一人」



――Tale-01『まだ呼ばれていない』終了

次回予告


Tale-02『五百人は、国民か』


10 月23日21時投稿予定

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