Tale 3「返却先」
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彼には、戸籍がなかった。
出生届もない。
学校へ通った記録も、病院を受診した記録もない。
家族写真も一枚も存在しない。
それでも彼は、確かに生きていた。
名前はヨナス。
三十四歳。
そして二十二年前、NCO-122から「返してもらいます」と告げられた子供だった。
*
「確認します」
MDE欧州管区の小さな面談室で、██調査官は録音装置を起動した。
「あなたは十二歳の時、NCO-122と接触した」
「はい」
「その後、家族や知人からあなたに関する記憶が消失した」
「そうです」
「ご両親も?」
ヨナスは少しだけ笑った。
「最後まで覚えていたのは母でした」
「どのくらい?」
「三日です」
笑顔が消える。
「三日目の夜、家に帰ったら警察を呼ばれました」
「…………」
「知らない男の子が家に入ろうとしてる、って」
██調査官は資料へ目を落とした。
「その後は?」
「いろいろですよ。施設に入れられたり、逃げたり。存在しない人間が生きるのは面倒なんです」
「MDEがあなたを発見したのは十九歳の時ですね」
「ええ」
「現在はMDE発行の身分証明を使用している」
「おかげさまで」
ヨナスは皮肉っぽく笑った。
「存在することを認めてもらうのに七年かかりましたけどね」
*
██調査官は一枚の写真を机へ置いた。
NCO-122。
黒い外套。
白樺の枝。
そして大きな麻袋。
ヨナスの表情が変わった。
「覚えていますか?」
「忘れると思います?」
「……失礼しました」
██調査官は写真を戻した。
「今日あなたを呼んだ理由は、NCO-122の判定についてではありません」
「じゃあ?」
「袋です」
ヨナスの指が止まった。
「過去の証言記録を再調査しました」
██調査官は別の資料を取り出す。
「あなたは十二歳当時、警察官にこう証言している」
ページを開く。
「『袋の中を見た』」
ヨナスは何も言わなかった。
「現在確認されている被害者の中で、麻袋内部を直接見たと証言している人物は、あなたを含めて三名だけです」
「…………」
「何を見たんですか?」
沈黙。
「ヨナスさん」
「知らない方がいいですよ」
「それを判断するのは我々です」
ヨナスが小さく息を吐いた。
「MDEの人って、みんなそう言いますね」
「仕事ですから」
「そうですか」
ヨナスは椅子へ深く座り直した。
「……家族がいました」
██調査官の手が止まった。
「家族?」
「はい」
「あなたの?」
ヨナスは首を横に振った。
「違います」
「では、誰の家族です?」
少し考えてから、ヨナスは答えた。
「俺が生まれる前の家族です」
*
「意味が分かりません」
「俺も分かりませんよ」
「具体的に説明してください」
ヨナスは目を閉じた。
「袋の中は暗くありませんでした」
██調査官が記録を取る。
「家だったんです」
「家?」
「俺が子供の頃に住んでいた家です。でも少し違った」
「どう違いました?」
「古かった」
ヨナスはゆっくり話し続ける。
「壁紙も家具も違う。テレビもない。俺の部屋もなかった。でも、間取りだけは同じでした」
「人がいた?」
「食卓に四人」
「誰です?」
「知らない人です」
「本当に?」
「その時は」
██調査官が顔を上げた。
「その時は?」
「大人になってから、一人だけ見つけました」
ヨナスは机の写真へ視線を落とした。
「祖父です」
「あなたの祖父?」
「俺が生まれる十五年前に死んだ祖父です」
部屋が静かになった。
「他の三人は?」
「分かりません」
「彼らは何をしていました?」
「食事してました」
「あなたに気付きましたか?」
「はい」
ヨナスの声が少し低くなった。
「全員、俺を見ました」
「何か言いましたか?」
「祖父が立ち上がった」
ヨナスは自分の手を見つめる。
「それで笑ったんです」
「何と?」
「やっと帰ってきたな、って」
*
██調査官は数秒間、何も書かなかった。
「あなたは袋に入ったんですか?」
「いいえ」
「では、なぜ今ここに?」
「ループレヒトが袋を閉じたからです」
「NCO-122が?」
「はい」
「なぜ?」
「分かりません」
ヨナスは首を振った。
「でも、その時に聞こえました」
「何が?」
「袋の中にいた子供たちの声です」
██調査官の表情が変わる。
「何と言っていました?」
「いろいろ」
「覚えているものは?」
ヨナスはしばらく答えなかった。
「『違う』」
「…………」
「『まだ早い』」
「他には?」
「『この子じゃない』」
██調査官は記録を続ける。
「そして最後に、一人だけ」
ヨナスが顔を上げた。
「はっきり聞こえました」
「何と?」
「『この家じゃない』」
ペンが止まった。
*
「つまり、あなたは本来そこへ返却される予定ではなかった?」
「知りません」
「では、NCO-122は間違えた?」
「それも分かりません」
「しかし――」
「調査官」
ヨナスが遮った。
「一つ聞いていいですか?」
「何でしょう」
「俺の家族について、どこまで調べました?」
「可能な限りです」
「俺の母親は?」
「現在も存命です」
「父親は?」
「同じく」
「祖父母は?」
「記録されています」
「曾祖父母は?」
「……確認可能です」
「その前は?」
██調査官は答えなかった。
「どこまで?」
「十九世紀後半までです」
「その前は?」
「記録がありません」
ヨナスは笑わなかった。
「俺も調べたんですよ」
「何を?」
「家です」
「あなたが育った?」
「そうです」
ヨナスは一枚のコピー用紙を取り出した。
古い新聞記事だった。
「その土地には、昔から家が建っていました」
「それが?」
「今の家が建てられる前にも」
別の記事。
さらに古い。
「その前にも」
██調査官が紙を見る。
「……同じ場所?」
「全部」
「住人は?」
「家族です」
ヨナスは言った。
「全部、子供のいる家族でした」
██調査官は資料を読み進める。
火災。
建て替え。
所有者変更。
戦争による記録消失。
さらにその前。
追跡不能。
「これがNCO-122とどう関係するんです?」
「分かりません」
ヨナスは立ち上がった。
「ただ、一つだけ」
「何です?」
「俺が袋の中で見た食卓」
ヨナスは扉へ向かう。
「あれ、俺の家じゃなかったのかもしれない」
「では?」
ヨナスは立ち止まった。
「俺の家が、あれと同じだったんです」
*
面談終了後。
██調査官はヨナスの提出資料を情報分析部門へ送付した。
その夜、追加調査の結果が届いた。
ヨナスが幼少期を過ごした土地について、現存する最古の記録が発見されていた。
17██年。
教会が保管していた洗礼記録だった。
その土地に居住していた一家について記載されている。
父親。
母親。
二人の娘。
一人の息子。
五人家族。
██調査官は写真を見た。
当然、当時の写真ではない。
後世に描かれた家族肖像画だった。
その中に、ヨナスが袋の中で見たと証言した四人と特徴が一致する人物がいた。
ただし。
ヨナスの証言では、食卓にいたのは四人だった。
記録上、家族は五人。
一人足りない。
██調査官は洗礼記録を確認した。
末子。
男児。
八歳。
氏名の横に、後世の筆跡と思われる短い注釈が残されていた。
ドイツ語で一言。
「返却済み」
██調査官はしばらく画面を見つめていた。
そして、ヨナスが最後に残した言葉を思い出した。
「俺の家が、あれと同じだったんです」
その時。
調査室の時計が午前零時を告げた。
十二月一日だった。
《Tale End》
次回予告
Tale 4「プレゼント」
10月21日21時投稿予定




