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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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62/83

Tale「静かなところ」

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください



 昼休みのサイト-83は、嫌いだった。


 正確に言えば、昼休みそのものが嫌いなのではない。食事も嫌いではないし、食堂の飯についても、クレイン博士はそこまで文句を言う人間ではなかった。


 今日の日替わり定食は鶏肉の照り焼きだった。味噌汁と小鉢が付いて、値段を考えれば十分すぎる内容だ。


 問題なのは――人だった。


 クレイン博士は箸で鶏肉を一切れつまんだ。向かいの席は空いている。左右も空いている。意図的に、人の少ない隅の席を選んだ。


 それでも、聞こえる。


 ――午後の実験、面倒だな。


 ――報告書まだ半分しか終わってない。


 ――あ、クレイン博士だ。


 ――本当に心読めるんだっけ。


 ――昨日のあれ、バレてないよな。


 ――カレーにすればよかった。


 ――眠い。


 ――帰りたい。


 クレインは無言で味噌汁をすすった。


 食堂には百人近い職員がいる。その全員の思考が聞こえているわけではない。217-C事案から数週間。検査の結果、自分に定着した能力について、ある程度のことは分かってきていた。


 遠くにいる人間の思考は聞こえない。弱い思考も分からない。記憶を勝手に掘り返すこともできない。だから、MDEの研究部門が付けた「表層思考知覚」という名称は、おそらく正しい。


 だが――「限定的」という言葉を考えた奴を、一度この食堂の真ん中に座らせてやりたい。


 十人、二十人、三十人。近くにいる人間が増えれば、それだけ声も増える。


 実際の声とは少し違う。耳から聞こえるわけではない。頭の中へ直接、他人の言葉が滑り込んでくる。


 だから耳栓は役に立たない。一度試した。結果は最悪だった。外の音だけが消えて、思考の声が余計にはっきり聞こえた。二度とやらない。


 ――博士、機嫌悪そう。


 クレインの眉がわずかに動く。


 ――いつもか。


 考えた本人は三つ離れた席に座っていた。こちらを見てはいない。だからクレインも何も言わず、鶏肉を口へ運んだ。


 そのとき、別の思考が引っかかった。


 ――あ。博士だ。


 顔を上げる。


 トレーを持った若い男性職員がこちらへ歩いてくるところだった。見覚えはある。確か、先月配属された新人研究員だ。


 ――話しかけていいのかな。


 クレインは目を伏せた。


 やめろ。


 ――でも一回聞いてみたいんだよな。


 やめておけ。


 ――本当に心読めるのかな。


 やめろと言っている。


 もちろん、口には出していない。


「博士」


 結局、新人は来た。


 クレインは箸を止める。


「なんだ」


「あ、いや……」


 新人研究員は露骨に緊張した。


 ――怖っ。


「…………」


 ――いやいやいや、失礼だろ。


「用件は?」


「あ、はい。えっと……博士の、その……」


 ――能力。


「能力のことか」


 新人の口が止まった。


「……はい」


 クレインはため息をついた。


「どこまで聞いた?」


「人が考えていることが分かるって」


「だいたい合ってる」


「本当に?」


「本当に」


「じゃあ……」


 嫌な予感がした。そして、その予感はすぐ思考として聞こえてきた。


 ――数字を一つ考えて――


「47」


「え?」


 新人が固まった。


「47だろ」


「…………」


「違ったか?」


「いや……合ってます」


 周囲の何人かがこちらを見た。同時に思考が増える。


 ――マジ?


 ――本当に読めるんだ。


 ――47ってなんで?


 ――じゃあ俺も。


「やめろ」


 クレインが言った。


 近くの職員数名がびくりとする。


「全員だ」


 誰に向けた言葉なのか分からず、食堂の一角が静かになった。


「数字を考えるな。俺で能力テストを始めるな。正式な実験なら申請書を出せ」


「す、すみません」


 新人が頭を下げる。


「あと」


「はい?」


「俺の目の前で『怖っ』って考えるのもやめろ」


 新人の顔が青ざめた。


「すみません!」


 今度は声に出して謝った。


「……もういい」


 新人は逃げるように去っていった。


 周囲から笑いをこらえる気配がする。それと同時に、またいくつもの思考が流れ込んできた。


 ――かわいそう。


 ――そりゃそうなるわ。


 ――博士も大変だな。


 ――でもちょっと面白い。


 ――俺なら何考えるかな。


「…………」


 クレインは残っていた味噌汁を一気に飲み干した。


 食事を終えることにした。


*


 午後も大差なかった。


 廊下を歩けば、報告書を出さなければ、会議は三時からだったか、あれがクレイン博士か――そんな思考がすれ違うたびに頭へ入ってくる。


 エレベーターに乗れば、隣に立った女性職員から、


 ――二人きりになっちゃった。


 ――何も考えるな。


 ――何も考えるな。


 ――何も考えるな。


「無理だぞ」


 思わず言ってしまった。


 女性職員がこちらを見る。


「え?」


「いや」


「……?」


「忘れてくれ」


 ちょうどエレベーターの扉が開いた。クレインは逃げるように降りた。


 以前、NCO-217-JPが実験記録で同じことを言っていた。


 『何も考えない』ことはできない。


 当時は面白い記録だと思っていた。今なら分かる。あれは冗談ではなかったのかもしれない。


 人間は、驚くほどよく考える。


 腹が減った。眠い。寒い。暑い。面倒だ。怖い。嬉しい。嫌いだ。好きだ。


 そして、口から出る言葉と頭の中にある言葉は、驚くほど違う。


「博士、先日の資料ありがとうございました」


 ――あの資料めちゃくちゃ長かったんだよな。


「どういたしまして」


「非常に参考になりました」


 ――半分しか読んでないけど。


「そうか」


 以前なら気にも留めなかった。


 人間なんてそんなものだ。社交辞令を使う。嘘をつく。言わなくていいことは言わない。クレインだって同じだ。


 問題は、それが全部分かってしまうことだった。


 知らなくていいことまで、知ってしまう。


 一つ一つは小さい。だが、それが朝から昼、夕方まで積み重なる。


 人がいる限り。


 ずっと。


*


 午後十時四十三分。


 ようやく自室へ戻った。


 サイト-83職員居住区。扉を開ける。当然、誰もいない。クレインは一人で暮らしている。


 扉を閉める。


 電子錠が作動した。


 カチリ。


 その瞬間だった。


「…………」


 何も聞こえなくなった。


 空調設備の低い駆動音。冷蔵庫のモーター。自分の呼吸。時計の秒針。


 それだけだった。


 他人の思考がない。


 クレインは扉にもたれ、目を閉じた。


「……静かだ」


 思わず口から漏れた。


 こんなにも静かなものだっただろうか。


 事故以前は、静寂なんて意識したこともなかった。当たり前に存在するものだった。


 今は違う。


 静かな場所は貴重だった。


 誰もいない場所。誰も考えていない場所。


 自分だけの場所。


 クレインは白衣を脱ぎ、椅子へ放り投げた。冷蔵庫を開けて適当な飲み物を取り出し、机に座って一口飲む。


「はぁ……」


 ようやく頭の奥に張り付いていた何かが剥がれていくような感覚がした。


 静かだ。


 本当に静かだった。


 だからこそ、最初、それが何なのか分からなかった。


 ――聞こえるか。


 クレインの手が止まった。


「…………」


 顔を上げる。


 部屋には誰もいない。テレビは消えている。通信端末も起動していない。


 廊下か?


 違う。


 これは音ではない。


 ――クレイン。


「……おい」


 椅子から立ち上がり、周囲を見回す。


 そして気付いた。


 この感覚を知っている。毎日、嫌というほど感じている。


 思考だ。


 誰かの思考が流れ込んできている。


 だが、おかしい。周囲に人間はいない。


 そもそも、この声――。


「217か?」


 少し間があった。


 ――そうだ。


 クレインは時計を見た。


 NCO-217-JPの収容室はここからかなり離れている。通常なら絶対に能力の有効範囲外だ。


「どうやってる」


 ――知らん。


「お前の能力はこんな距離まで届かないだろ」


 ――届かなかった。


「だったら――」


 言いかけて、クレインは止まった。


 向こうも同じなのか。


 217-C事案。NCO-217-JPの権能の一部が自分へ移った。


 もし、それが単純な移動ではなかったとしたら。


 何かが、まだ繋がっている。


 ――気付いたな。


「……俺の思考も聞こえてるのか?」


 ――少し。


 クレインは額を押さえた。


「勘弁してくれ」


 向こうから笑ったような感覚が伝わってきた。


 声ではない。それなのに、笑っているのが分かる。妙な感覚だった。


「何の用だ」


 ――別に。


「だったら頭の中に入ってくるな」


 ――お前も入ってきてる。


「俺は好きでやってるんじゃない」


 ――俺もだ。


「…………」


 反論できなかった。


 しばらく沈黙が続いた。


 奇妙な沈黙だった。言葉はない。だが、完全な静寂でもない。


 遠くに誰かがいる。


 その存在だけが分かる。


 やがて、NCO-217-JPの思考が届いた。


 ――人の頭ん中、うるさいだろ。


 クレインは椅子に座り直した。


「……ああ」


 ――嫌になるだろ。


「かなりな」


 ――嘘ばっかり聞こえる。


「そうだな」


 ――知らなくていいことも聞こえる。


「……そうだな」


 NCO-217-JPはしばらく何も伝えてこなかった。


 そして、


 ――俺はずっとだ。


 その一言だけが届いた。


 クレインは黙った。


 山中で発見された異常存在。人間の思考を読む妖怪――覚。


 報告書の中では便利な一文で片付けられている。


 **周囲の知的生命体の表層思考を認識する。**


 たったそれだけ。


 自分も、その報告書を書いた側だった。


 能力。異常性。有効範囲。認識精度。


 そんな数字ばかり測定した。


 一度も考えなかった。


 それを四六時中聞かされる側が、何を感じるのか。


「……よく耐えられるな」


 ――慣れた。


「俺も慣れるか?」


 少し長い沈黙があった。


 ――慣れる。


 クレインは小さく息を吐いた。


「そうか」


 ――そのうちな。


「珍しく慰めるじゃないか」


 また沈黙。


 そして。


 ――違う。


「ん?」


 ――諦めろって言ってる。


 数秒。


 クレインは呆気に取られた。


 それから、小さく笑った。


「……性格悪いな、お前」


 遠く離れた収容室から、笑っている感覚が返ってきた。


 そして接続が途切れた。


 部屋が再び静かになる。


 空調。冷蔵庫。時計。そして自分の呼吸。


 クレインは椅子にもたれ、天井を見上げた。


「…………」


 さっきまで欲しくて仕方がなかった静寂が戻ってきた。


 なのに、ほんの少しだけ。


 静かすぎる気がした。


 クレインは目を閉じる。


 そして誰にも聞かれないよう、小さく呟いた。


「……おやすみ、覚」


 返事はなかった。


 今夜は、それでよかった。


**《Tale End》**


次回予告

NCO-72-JP「お下がり」

10月14日21時投稿予定

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