第十四章 いってらっしゃい
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十二件の家が崩れ始めた。
だが、それは以前のような破壊ではなかった。
屋根が白い光へ変わる。
壁が紙片へ戻る。
床板が剥がれ、その下から誰かの記憶が現れる。
夏の日差し。
冬の朝。
食卓を囲んだ夜。
一人で過ごした部屋。
帰ってこなかった者を待ち続けた玄関。
家を構成していたものが、一つずつ本来の形へ戻っていく。
その内部から、人影が現れた。
老人。
子供。
作業員。
患者。
研究員。
元の姿を保っている者。
輪郭だけしか残っていない者。
顔を失った者。
自分の名前を思い出せない者。
誰もが、消えゆく住宅街の道路へ立っていた。
「救出班へ接続します」
神楽が通信端末を開く。
「各構造物の人格分離が開始されました。保留領域への収容を急いでください」
『了解』
『第三班、対象を確認』
『医療班を要請します』
『記憶欠損者多数』
『搬送を開始』
住宅街の遠くに、サイト83へ続く扉が現れる。
一つではない。
十二件の家ごとに、それぞれ異なる出口が開いていた。
扉の向こうから、MDEの救出班が入ってくる。
人格保護装備を身につけた職員たちは、一人ずつ救出対象へ声をかけた。
名前を尋ねる。
自分が誰か分からない者には、覚えているものを確認する。
歩けない者は担架へ乗せる。
触れられることを恐れる者には、一定の距離を保つ。
外へ出ることを拒む者には、すぐに手を伸ばさない。
「ここにいたい」
一人の老女が言った。
「この家には、息子がいるの」
救出班員は、崩れていく家を見る。
玄関の前には、若い男の姿をした人形が立っていた。笑顔のまま、同じ言葉を繰り返している。
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり」
「息子さんが本人である保証はありません」
「分かってる」
老女は答えた。
「でも、もう少しだけ」
救出班員は無理に腕をつかまなかった。
「三分待ちます」
「いいの」
「その後、もう一度お話しします」
老女は崩れていく人形を見た。
救出班員は隣に立ち、何も言わず待った。
別の家から、一人の子供が走り出す。
両手に古びた写真を抱えている。
「これも持っていっていい?」
救出班員が写真を確認する。
異常反応。
人格情報。
家の構造との接続。
安全とは言えない。
それでも、取り上げることはしなかった。
「封鎖容器へ入れるなら、一緒に運べます」
「捨てない?」
「今は捨てません」
「あとでは?」
「調べてから決めます。あなたの話も聞きます」
子供は少し迷い、写真を差し出した。
全てを保証しない。
だが、本人の意思を無視しない。
家の外にある救出が、少しずつ進んでいく。
「人格分離率、上昇」
神楽が端末を確認する。
「第一構造、七十一パーセント。第二構造、六十八パーセント。残りも順次進行中です」
「外部地域の異常は」
紅林が尋ねる。
『管制室より報告』
『周辺住宅地に発生していた玄関構造が消失しています』
『死亡者および失踪者の目撃情報も減少』
『帰宅衝動を訴えていた職員の認知状態が回復中です』
家の拡大は止まった。
完全に消えたわけではない。
だが、新しい帰還先を増やす力を失っている。
道は救出の様子を見ていた。
紅林から借りていた姿が、少しずつ変化している。
黒い髪から色が抜ける。
戦術服は灰色の布へ戻る。
顔の輪郭も曖昧になっていく。
「消えるのですか」
紅林が尋ねた。
「分かりません」
道は答える。
声も、もう紅林のものではなかった。
幼くも。
大人びてもいない。
男とも女とも決められない。
まだ形の定まっていない声。
「怖いです」
「はい」
「でも、これは私が選びました」
「はい」
紅林はそれ以上、止めなかった。
澪が道の前へ立つ。
投影された身体も、少しずつ透け始めている。人格結晶へ戻る時が近づいていた。
「私を作ったことを、許すとは言えません」
澪が言った。
「はい」
「あなたが作った私は、紅林澪奈として家へ残るための複製でした」
「はい」
「あなたのせいで、私は自分が何者なのか分からなくなりました」
「はい」
「これからも、分からないままかもしれません」
道は何も言い返さない。
「でも」
澪は少しだけ笑った。
「あなたが変わることは望みます」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることでもありません」
澪は困ったような笑みを浮かべた。
紅林と似ている。
だが、紅林はそんな笑い方をほとんどしない。
「それも、あなたが選んだ表情ですか」
紅林が尋ねる。
「はい」
「そうですか」
投影された澪の輪郭が薄くなる。
制限時間が来ている。
「澪」
千鳥が呼んだ。
「また起きる?」
「分かりません」
「そう」
「でも」
澪は手を伸ばす。
千鳥も手を伸ばした。
二人の指が重なる。
投影された人格と、家の記憶から再構成された少女。
本来なら触れられない。
それでも、一瞬だけ互いの存在を確かめるように重なった。
「次に起きたら、外の話を聞かせてください」
「うん」
「家じゃない場所の話を」
「たくさん探す」
「お願いします」
澪は微笑んだ。
身体が白い光へ変わる。
光はメアリーが抱える人格結晶へ戻り、その内部で小さな人影になった。
澪は再び目を閉じる。
メアリーはケースを強く抱きしめた。
「消えてない」
「状態は」
紅林が尋ねる。
「弱いけど、いる」
「保護を継続します」
住宅街の崩壊が進む。
家々が一軒ずつ消えていく。
残るのは、道だけだった。
どこまでも続いていた道路も、少しずつ短くなる。
道は、自分の手を見た。
指先から透明になっている。
「私は、どこへ行きますか」
紅林は答えようとした。
だが、千鳥が先に言った。
「自分で決めるんでしょ」
「はい」
「なら、聞かないで」
道は少し驚いた顔をした。
「厳しいな」
荒木が言う。
「最初は、それでいい」
千鳥は答えた。
「誰かに決めてもらったら、また同じになる」
「確かに」
荒木は胸元を見る。
赤い文字が消えていく。
帰還対象。
登録解除。
関係接続網だけが、薄い傷痕として残った。
「荒木」
紅林が呼ぶ。
「身体状況は」
「ちょい気持ち悪いですけど、動けます」
「無理をしないでください」
「新木より元気です」
「張り合うなや」
新木が車椅子から抗議する。
「お前、座っとるやん」
「これは戦術的着席や」
「ただの車椅子や」
「あとで五千円に利子つけるぞ」
「返さんでええ言うたやろ」
「それは緊急時の話や!」
「約束は約束や」
「鬼灯産業みたいなこと言うな!」
道が二人を見る。
ほんのわずかに。
口元が緩んだ。
「それは、家族ですか」
千鳥が答える。
「違うらしい」
「同僚です」
紅林が言った。
「でも、帰ってきてよかったと思う関係」
千鳥が付け加える。
道はその言葉を繰り返した。
「帰ってきてよかった」
迎えるための言葉。
強制する言葉ではない。
帰ってくることを前提とせず。
帰ってきた時だけ、伝える言葉。
道は紅林を見る。
「一度だけ、言ってもいいですか」
「誰に」
「皆さんに」
紅林は少し考える。
「命令や強制を伴わないのであれば」
「はい」
道は、住宅街へ入った者たちを見る。
家に取り込まれながら。
互いの違いを捨てず。
外へ出ようとした者たち。
「おかえりなさい」
声は一つだった。
家族の声を混ぜていない。
誰かの記憶も。
紅林の声も借りていない。
道自身の声。
静かで。
少し震えていた。
誰も返事を強制されなかった。
だから。
荒木が最初に答えた。
「ただいま」
新木が顔をしかめる。
「お前、帰ってきたみたいに言うなや」
「実際、何回も帰ってきたやろ」
「まだ作戦中やぞ」
「細かいなあ」
神楽が小さく息を吐く。
「ただいま戻りました」
黒岡。
高峰。
クライム。
メアリー。
一人ずつ、自分の言葉で答える。
千鳥は、最後まで黙っていた。
道も待たなかった。
返事を求めない。
それでよかった。
千鳥は、サイト83へ続く出口へ向かって歩き出した。
道の横を通り過ぎる。
数歩。
その後で足を止めた。
振り返らないまま言う。
「ただいまじゃない」
「はい」
「私は、これから行くから」
「はい」
「でも」
千鳥は少しだけ顔を横へ向けた。
「見送って」
道は頷いた。
「いってらっしゃい」
千鳥は歩き出す。
その言葉に、足を止めなかった。
出口へ向かう。
紅林たちも続く。
住宅街はほとんど消えていた。
救出された人格は、それぞれ異なる扉からサイト83へ搬送されていく。
外へ出ることを拒んでいた老女も、最後には救出班員と共に歩き始めた。
家族の人形は、すでに崩れている。
手の中には、息子の顔を写した写真だけが残されていた。
「これは持っていてもいい?」
「検査が必要です」
「取り上げるの」
「今は、お預かりします」
「返してくれる?」
「安全が確認できれば」
老女は少し考え、写真を差し出した。
全てが救えたわけではない。
それでも、一人ずつ外へ出ていく。
最後に、嵯峨野が残った。
道は彼を見る。
「あなたは」
嵯峨野は、消えた研究所のあった方角を見た。
「帰る場所はありません」
「私もありません」
「あなたは、道を選びました」
「はい」
「私は、何を選べばいいのでしょう」
「分かりません」
道は答えた。
自分の身体が消えかけている。
それでも、穏やかに言葉を続ける。
「ですが」
「はい」
「立ち止まって考える場所くらいには、なれます」
嵯峨野は目を閉じた。
二十五年以上。
管理者として、保管庫の中央へ立ち続けた。
帰ることも。
離れることも。
立ち止まることすら許されなかった。
初めて。
何も決めずに考える時間を与えられた。
「ありがとうございます」
嵯峨野は一礼した。
そして、サイト83へ続く出口へ歩き始める。
道だけが残った。
住宅街は消えた。
家も。
小鳥箱も。
人形もない。
暗闇の中に、一本の道路だけが伸びている。
「帰還対象、全件解除」
新木が出口の手前で報告する。
「十三の枠も消失しとる」
「道の反応は」
紅林が尋ねる。
「急速に弱なっとる」
「救出は可能ですか」
「人格として固定できるか分からへん」
「試してください」
「言うと思ったわ」
新木は観測盤へ、残っている力を流し込む。
白い線が道へ伸びる。
だが、接続先をつかめない。
「名前が足らん」
「道と名乗りました」
「概念に近すぎる。個体として固定できへん」
「他の識別情報は」
「帰属なし。役割も未定。帰還先もなし」
「千鳥と同じでは」
「千鳥には、自分自身いう帰属があった」
道には、それすらない。
家をやめたばかり。
自分というものを、まだ作れていない。
「私に帰属します」
道の声が、遠くから聞こえた。
千鳥が振り返る。
「聞こえた」
「何がです」
「私に帰属するって」
暗闇の中。
道の上に、一人の少女が立っている。
もう紅林の姿ではない。
千鳥でも。
澪でもない。
顔の輪郭は曖昧。
髪も。
衣服も決まっていない。
ただ、人の形だけがある。
「名前、道」
新木が観測盤へ入力する。
「帰属、自分自身」
白い線が少女へ接続する。
「役割は」
道が考える。
「まだ決めません」
「仮登録にする」
「帰還先は」
「今は、ここです」
「ここって、どこや」
「家ではない場所」
新木が顔をしかめる。
「曖昧すぎるで」
観測盤が白く光った。
登録受理。
「通ったわ」
「本当に、判定基準がおかしい」
紅林が言う。
「今さらや」
道の身体が光へ包まれる。
人の形が小さくなり、透明な結晶へ変わっていく。
澪とは異なる結晶。
内部には人影ではなく、小さな扉が浮かんでいた。
扉は閉じていない。
半分だけ開いている。
新木が結晶を受け止めた。
「保留人格として固定成功」
「状態は」
「安定しとる。ただし、起こす方法は分からん」
「それでも保護します」
紅林が結晶を受け取る。
軽い。
家一軒を抱えていた存在とは思えないほど、小さく軽かった。
「帰ります」
紅林が言った。
全員が出口を通る。
最後に、紅林は暗闇を振り返った。
もう道はない。
住宅街も。
夕焼けも。
玄関も。
何も残っていない。
扉が閉じる。
次の瞬間。
γ-9は第一解析室へ戻っていた。
警報。
救出班。
医療職員。
搬送される人格結晶。
隔離領域へ送られる救出者。
現実の騒音が、一気に押し寄せる。
「中央構造消失を確認!」
「十二件の異常構造が崩壊!」
「外部地域の住宅異常、縮小中!」
「死亡者目撃情報が消失しています!」
「失踪者の一部を保留領域で確認!」
作戦は終わった。
少なくとも、家の拡大は止まった。
十三羽目も消えた。
紅林は、道の結晶と澪の結晶を並べて見る。
家から生まれ。
家を捨てた二つの人格。
「隊長」
神楽が隣へ立つ。
「施設管理者より、状況報告を求められています」
「負傷者の確認を優先してください」
「すでに進行中です」
「人格救出数は」
「現在、百八十七名。今後増加する見込みです」
「欠損者は」
「多数」
全員を完全には救えなかった。
記憶を失った者。
身体を失った者。
自分の名前を思い出せない者。
外へ出ることを拒否した者。
救出が間に合わなかった者。
成功とは言えない。
だが。
家の一部として、永遠に固定されることは防いだ。
「嵯峨野宗一は」
「拘束しました」
解析室の隅。
嵯峨野は警備職員に囲まれ、椅子へ座っている。
抵抗していない。
逃げようともしていない。
「東雲重工業が回収へ来る可能性があります」
神楽が言う。
「本人と技術情報の保全を優先してください」
「了解」
荒木が、医療班に腕をつかまれている。
「自分で歩けますって」
「認識接続を受けています。検査が必要です」
「新木の方が重症です」
「両方運びます」
「ワシもかいな」
隣では、新木が別の担架へ乗せられていた。
「お前も仲間や」
「嬉しないわ」
「五千円、返せや」
「今それ言う?」
「関係接続の維持に必要や」
「もう解除されたやろ」
「ワシらの関係は残っとる」
「都合ええこと言うな!」
二人が医療班に運ばれていく。
千鳥は、その背中を見送った。
「うるさい」
「通常運転です」
紅林が答える。
「帰ってきたから?」
「そうかもしれません」
千鳥は少し考えた。
「私も、行ってくる」
「どこへ」
「保護区画」
「帰るとは言わないのですね」
「まだ決めてないから」
「分かりました」
千鳥は医療職員と共に歩き出す。
数歩進み、振り返った。
「紅林」
「何です」
「あとで、外の話をして」
「私より適任者がいます」
「でも、あなたの話も聞きたい」
紅林は少しだけ黙る。
「時間があれば」
「それ、断る時の言い方?」
「いいえ」
「じゃあ、待ってる」
千鳥は今度こそ歩いていった。
紅林は、その姿が見えなくなるまで見送る。
神楽が横から言った。
「約束しましたね」
「時間があれば、と言いました」
「千鳥は待つと言いました」
「業務予定を確認します」
「逃げないでください」
「逃げていません」
解析室の壁に、朝の光が差し込んでいた。
本来、この部屋に窓はない。
だが壁の一部が破損し、外部通路へ繋がっている。
その先。
サイト83の地上区画から、朝日が見えた。
長い夜が終わる。
紅林は、手の中にある二つの結晶を見る。
澪。
道。
どちらも、再び目を覚ます保証はない。
それでも。
帰る場所を強制されないまま、ここにいる。
「おかえりなさい」
神楽が不意に言った。
紅林は彼女を見る。
「何ですか」
「先ほど、道に返事をしていませんでした」
「必要ありません」
「そうですか」
「はい」
紅林は朝日の方を見る。
サイト83。
職場。
収容施設。
危険な場所。
家ではない。
それでも、自分が戻ると決めた場所。
「ただいま戻りました」
紅林は小さく言った。
神楽は何も答えなかった。
ただ。
ほんのわずかに笑った。
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