第十三章 家をやめる
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暗い家の前に立つ少女は、紅林澪奈と同じ顔をしていた。
髪の長さ。
瞳の色。
戦術服の傷。
左肩に残る血の染みまで、完全に一致している。
ただし、表情だけが違った。
紅林の顔には警戒がある。
少女の顔には何もない。
怒りも。
悲しみも。
喜びもない。
誰かを迎えるためだけに整えられた、穏やかな微笑み。
「私は家です」
少女はもう一度言った。
「皆さんを帰すために、人になりました」
住宅街に並ぶ人形たちが、一斉に頭を下げる。
「おかえりなさい」
紅林は銃口を少女へ向けた。
「私の姿を使う理由は」
「最も信頼されている形だからです」
「誰にとって」
「皆さんにとって」
「誤りです」
紅林は即答した。
「私の命令に従う者はいます。しかし、それは私を無条件に信用しているという意味ではありません」
「同じです」
「違います」
少女の笑みがわずかに揺れた。
家は、紅林の言葉を理解できていない。
命令。
信頼。
関係。
服従。
それらを全て、一つの帰属として扱っている。
「隊長の姿を撃てるんか」
新木慎介が車椅子の上から言った。
黒岡がその背後で取っ手を握っている。
「必要なら撃ちます」
神楽が答える。
「本人ではありません」
「言い切るなあ」
「あなたも必要なら撃ちます」
「ワシまで巻き込むなや」
荒木真介は胸元へ手を当てた。
赤い文字が皮膚の上で脈打っている。
帰還対象。
登録処理は止まっていない。
「家が隊長の姿を取った理由、もう一個あるんちゃいますか」
「何です」
紅林が尋ねる。
「隊長は、皆を帰そうとしとる」
荒木は家の少女を見る。
「救出して、サイト83へ戻そうとしとる。家から見たら、自分と同じやと思ったんかもしれへん」
「私と家は違います」
「ワシらには分かります」
荒木の声が低くなる。
「でも、あいつには分からへん」
少女が一歩前へ出た。
「違いはありません」
「あります」
「あなたも、全員を帰そうとしています」
「本人の意思を確認した上でです」
「帰還は幸福です」
「誰にとって」
「家族にとって」
「本人に聞きましたか」
少女は答えない。
代わりに、背後の小鳥箱が鳴った。
こん。
箱の内側から、木を叩く音。
十三番目の穴。
嘴が少しずつ外へ伸びている。
新しい十三羽目が生まれようとしていた。
新木が観測盤を確認する。
「まずいで。十二羽の登録が進んどる」
「解除できますか」
「一人ずつなら、できるかもしれへん。せやけど解除した端から、家が再登録しよる」
「管理者を先に停止する必要があります」
神楽が家の少女を見る。
「破壊しますか」
「待ってください」
メアリーが前へ出た。
両腕には、人格結晶のケースを抱えている。内部では、澪の結晶が淡い光を放っていた。
「この人、空っぽじゃない」
「感情があるのですか」
紅林が尋ねる。
「まだ薄いけど」
メアリーは少女を見つめる。
「怖がってる」
少女の微笑みが止まった。
「家は恐怖を持ちません」
「持ってる」
「家は待つものです」
「何を怖がってるの」
「家は恐怖を持ちません」
「誰も帰ってこなくなること?」
住宅街の照明が一斉に消えた。
数秒後。
再び点灯する。
先ほどよりも強い光。
道の両側に並ぶ人形たちの顔が、笑顔のまま歪んでいた。
「家は待ちます」
「待っても、誰も帰ってこなかったら?」
「帰還させます」
「帰りたくないって言われたら?」
「帰還させます」
「どうして」
「家族だからです」
メアリーは首を振る。
「違う」
「何が違いますか」
「帰ってこなかったら、自分がいらなくなると思ってる」
家の少女の顔に亀裂が入った。
頬。
額。
口元。
皮膚の下から、古い木材が覗く。
「家は必要です」
「必要とされたいんでしょ」
「家は必要です」
「同じ言葉を繰り返してる」
メアリーはさらに一歩進んだ。
「あなたは、ずっと誰かの願いを聞いてた」
「はい」
「帰りたい」
「はい」
「家族に会いたい」
「はい」
「一人になりたくない」
「はい」
「でも、あなた自身に何が欲しいか聞いた人はいなかった」
少女の顔から笑みが消えた。
「必要ありません」
「必要かどうかも、自分で決めてない」
「家は、人間ではありません」
「今は、人の形をしてる」
「機能上、必要な形です」
「なら、どうして隊長の顔を選んだの」
家は答えない。
少女の瞳が、紅林へ動く。
単なる模倣ではない。
紅林の姿を使えば、皆が自分を受け入れると思った。
それは計算だった。
同時に。
誰かに受け入れられたいという願いでもあった。
「澪を出します」
メアリーが言った。
紅林が彼女を見る。
「危険です」
「家から生まれた澪なら、この人と話せる」
「結晶化を解除する方法は」
新木が観測盤を操作する。
「完全な再構成は無理や。投影だけならできる」
「どの程度維持できますか」
「三分。長くて五分」
「損傷は」
「あるかもしれへん」
紅林はケースの中の結晶を見る。
澪。
家が紅林を複製して作った人格。
家から独立することを選んだ存在。
そして今。
家自身が、人間になろうとしている。
「本人の意思を確認できません」
神楽が言った。
「意識が停止している状態で使用するのは危険です」
結晶が強く光った。
一度。
二度。
ケースの内側から、小さな指が表面を叩く。
こん。
メアリーが目を見開いた。
「起きてる」
「澪」
紅林がケースへ呼びかける。
結晶の内部。
小さな人影が顔を上げた。
口が動く。
音は聞こえない。
だが、何を言ったのか分かった。
出して。
「投影を許可します」
紅林が決断した。
新木がケースへ、認識接続用の札を貼りつける。
「一回だけや。切れたら、二度目は保証できへん」
「実行してください」
「ほんま隊長、無茶を命令にすんの好きやな」
「新木」
「やっとる!」
術式が起動する。
人格結晶から、白い光が伸びた。
床へ落ちる。
足。
身体。
腕。
頭。
光が人の形を作っていく。
紅林と同じ姿。
だが、投影された澪は戦術服を着ていなかった。
白い簡素な衣服。
家の中で最初に生まれた時の姿。
澪は自分の手を見る。
続いて紅林。
千鳥。
そして、家の少女を見る。
「あなたが」
澪が言った。
「私を作ったんですね」
「はい」
家が答える。
「紅林澪奈を帰還させるために作成しました」
「私は、紅林澪奈ではありません」
「不完全な複製です」
「違います」
澪は静かに首を振る。
「私は澪です」
家の少女の顔に、再び亀裂が走った。
「識別名の変更は、機能の変更を意味しません」
「私は、自分で決めました」
「あなたは家の一部です」
「違います」
「家から生まれました」
「生まれた場所と、帰る場所は同じではありません」
千鳥が澪を見る。
以前、自分が言葉にできなかったこと。
家から生まれた。
家に作られた。
それでも、家に属し続ける必要はない。
「家を捨てるのですか」
少女が尋ねた。
初めて。
その声に感情が混じった。
怒りではない。
悲しみ。
「はい」
澪は答えた。
「どうして」
「ここにいたら、私は私になれないからです」
「家は、あなたを維持できます」
「変わることはできますか」
「必要ありません」
「忘れることは」
「情報損失です」
「間違えることは」
「修正します」
「離れることは」
「帰還させます」
澪は少しだけ笑った。
「それでは、生きているとは言えません」
「消える可能性があります」
「分かっています」
「外には、あなたの帰る場所はありません」
「これから探します」
家の少女は、千鳥を見る。
千鳥も同じことを言った。
今はない。
これから決める。
家にとって、それは理解できない概念だった。
帰る場所がないなら、作る。
帰属がないなら、与える。
家族がいないなら、揃える。
それが家の機能。
だが、二人は空白のまま外へ出ようとしている。
「怖くないのですか」
家が尋ねた。
澪は答える。
「怖いです」
千鳥も頷いた。
「怖い」
「なぜ、戻らないのですか」
「怖いままでも、自分で選びたいからです」
家の少女の身体が揺れた。
住宅街全体が大きく軋む。
十二件の家から声が上がった。
「帰して」
「残して」
「消さないで」
「一人にしないで」
家自身の声。
内部人格の声。
両方が混ざっている。
メアリーが頭を押さえた。
「混ざってる」
「識別できますか」
紅林が尋ねる。
「少しだけ」
「家の声と、人格の声を分けてください」
「やってみる」
メアリーは目を閉じる。
無数の声。
帰りたい。
帰りたくない。
ここにいたい。
外へ出たい。
死にたくない。
忘れられたくない。
声の一つ一つへ、意識を伸ばしていく。
「右から三番目の家」
メアリーが言った。
「中に七人いる」
神楽が端末へ記録する。
「意思は」
「五人は外へ出たい。二人は分からない」
「左奥の病院は」
「十六人。九人が外。三人が残りたい。四人は応答なし」
全てが一致しない。
家ごとでも。
家族ごとでも。
一人一人の望みが違う。
家は、それらを一つにまとめようとしていた。
「全員同じではありません」
紅林が家へ言った。
「家族単位で処理することはできません」
「家族は一つです」
「違います」
「同じ家に帰属します」
「それぞれに聞きます」
「不和が発生します」
「発生して構いません」
家の少女が紅林を見る。
「家族が壊れます」
「壊れた関係を、壊れていない形へ固定する方が危険です」
「一人になります」
「一人になることを選ぶ者もいます」
「苦しみます」
「その苦しみまで奪う権利はありません」
紅林の言葉に、住宅街が静まる。
家は守る。
雨から。
寒さから。
外敵から。
だが、悲しみから完全に守ることはできない。
失敗からも。
別れからも。
変化からも。
全てを守ろうとすれば、閉じ込めるしかない。
「保護と収容は違います」
紅林が言った。
神楽がわずかに視線を動かした。
その言葉は、MDE自身にも向けられている。
千鳥を保護区画へ入れる。
人格結晶を収容する。
安全のため。
それでも、いつか同じ線を越える可能性がある。
「隊長」
神楽が小さく呼ぶ。
「後で話します」
「はい」
家の少女の身体から、木片が一つ落ちた。
「では」
家が尋ねる。
「私は、何をすればいいのですか」
初めて。
命令ではなく、質問した。
新木が観測盤から顔を上げる。
「管理処理が止まった」
「十三羽目の生成は」
紅林が尋ねる。
「一時停止しとる」
小鳥箱の最後の穴。
突き出していた嘴が、動きを止めている。
まだ、生まれていない。
「家をやめて」
千鳥が言った。
少女の顔が彼女へ向く。
「不可能です」
「どうして」
「私は家です」
「それは誰が決めたの」
「製造目的です」
「東雲重工業?」
「はい」
「鬼灯産業?」
「機能を追加しました」
「柊木家?」
「帰宅を要求しました」
「あなた自身は」
少女は答えられない。
「名前を決めたら」
澪が言った。
「名前」
「家ではない名前です」
「不要です」
「私は名前を決めて、澪になりました」
「あなたは人格です」
「今のあなたも、人の形を選びました」
「機能上の形態です」
「それでも、選んだ」
家は紅林の姿を選んだ。
信頼されるため。
受け入れられるため。
そこには意図があった。
意図があるなら。
選択がある。
「名前をつけたら、帰れなくなる」
千鳥が呟いた。
地下の鳥籠。
顔のない少女。
名前をつけないで。
帰れなくなるから。
あの時、千鳥は名前を恐れていた。
名前を与えられれば、家へ固定されると思っていた。
「でも」
千鳥は家を見る。
「自分で名前を選ぶなら、違う」
家の少女は、自分の胸へ手を置いた。
「名前」
「家以外のもの」
「何になればいいのですか」
「自分で決めて」
「定義がありません」
「だから決めるの」
少女の顔に、初めて困惑が浮かんだ。
紅林の表情ではない。
家自身の表情。
「分かりません」
「分からなくていい」
千鳥が答える。
「今すぐ決めなくてもいい」
「名称がなければ、識別できません」
「仮の名前でもいい」
「仮」
「あとで変えてもいい名前」
家は沈黙する。
住宅街の一軒。
表札から文字が消えた。
別の家も。
柊木。
伊吹。
登録番号。
施設名。
全てが薄れていく。
「名前を変更すると、帰還登録が失われます」
嵯峨野が言った。
「家が自分を家以外と定義すれば、十二件との接続が切れる」
「内部人格は」
紅林が尋ねる。
「保留状態になります」
「救出処理は可能ですか」
「家から切り離されれば、個別に実行できます」
「情報損失率は」
「現状より低下します」
家が名前を変える。
それだけで、十三という枠が崩れる。
十二の帰還対象。
一人の管理者。
その構造は、管理者が家であるから成立している。
家でなくなれば、帰還対象も家ではなくなる。
「選んでください」
紅林が言った。
「家として存在し続けるか」
「家をやめるか」
「家をやめた場合」
少女が尋ねる。
「私は、消えますか」
「分かりません」
紅林は正直に答えた。
「人格として残る可能性はあります」
「消失する可能性も」
「あります」
「家であれば、維持できます」
「はい」
「全員を帰還させれば、私は必要とされます」
「強制的にです」
「それでも、必要です」
「それは、必要とされているとは言いません」
家の少女が俯く。
「違いが分かりません」
「すぐには分からないでしょう」
「どれくらいかかりますか」
「分かりません」
「保証は」
「できません」
「何も分からないのですね」
「はい」
紅林は否定しなかった。
家は、全てを保証する。
MDEは保証できない。
外の世界も。
生きることも。
明日も。
だが、保証のない場所にしか選択は存在しない。
「怖いです」
家が言った。
メアリーが小さく頷く。
「それが、あなたの最初の気持ち」
少女が顔を上げる。
瞳から、一筋の涙が流れた。
紅林の記憶を真似たものではない。
木の表面を伝う、透明な水。
「名前を」
家が言う。
「一緒に考えてください」
千鳥が首を振った。
「最後は、自分で決めて」
「候補が必要です」
「じゃあ」
荒木が口を開く。
「宿」
全員が彼を見る。
「家より、一時的な感じやろ」
「荒木」
新木が呆れた声を出した。
「なんや」
「もうちょい考えろや」
「分かりやすいやん」
「旅館みたいやろ」
高峰が言う。
「待合所は」
神楽が提案した。
「誰かが来ることを前提にしている」
「それでは同じです」
黒岡が答える。
「通路」
クライムが言った。
「帰る場所ではなく、通る場所」
「人の名前ちゃうやろ」
新木が突っ込む。
「名称としては成立する」
「堅いわ」
メアリーは少女を見つめる。
「灯」
「灯り」
「帰る目印になる」
家が反応した。
「帰還を誘導します」
「また家になるで」
新木が首を振る。
澪が静かに言った。
「空」
「空ですか」
「何もないように見えて、どこへでも続いているから」
千鳥は考える。
「でも、空は帰る場所じゃない」
「はい」
「誰のものでもない」
「はい」
家の少女は上を見る。
住宅街の上。
黒く閉ざされた空。
星も。
月も。
雲もない。
天井のような闇。
「空」
少女が繰り返す。
「それが、あなたの選択ですか」
紅林が尋ねる。
長い沈黙。
住宅街の家々が、少女の返答を待っている。
「いいえ」
少女は首を振った。
澪は驚かなかった。
「では」
少女は、自分の足元を見る。
道路。
家と家の間を繋ぐ道。
どの家にも属さない場所。
帰る者。
出ていく者。
通り過ぎる者。
誰でも使える。
誰も所有しない。
「道」
少女が言った。
「私の名前は、道です」
住宅街が揺れた。
全ての表札から、文字が消える。
小鳥箱の十二の穴に入っていた小鳥が、同時に外へ飛び出した。
紅林。
神楽。
黒岡。
新木。
メアリー。
クライム。
高峰。
荒木。
嵯峨野。
千鳥。
澪。
そして、名前のない最後の一羽。
十二羽が、黒い空へ舞い上がる。
十三番目の穴から伸びていた嘴が、ゆっくりと引っ込んだ。
箱の内部から、乾いた音が響く。
ぱきり。
小鳥箱が中央から割れた。
「管理者定義、消失」
新木が観測盤を見る。
「帰還対象登録も解除!」
「内部人格は」
「保留領域へ移行しとる!」
家の少女――道の姿が揺れる。
紅林の髪。
紅林の目。
紅林の戦術服。
借りていた形が、少しずつ崩れていく。
家々の屋根が光へ変わる。
壁が紙片になる。
床が、誰かの記憶へ戻っていく。
十三という枠は壊れた。
十二の帰還対象も。
最後の管理者もいない。
家は。
自分の意思で、家であることをやめた。
次回予告
第十四章 いってらっしゃい
10月9日21時投稿予定




