第十二章 帰ってきた家
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十三番目の玄関が開いた。
表札に刻まれているのは、ただ一文字。
家。
扉の向こうには、廊下も部屋もなかった。
広がっていたのは、夕焼けに染まった住宅街だった。
どこまでも同じ形の家が並んでいる。
同じ屋根。
同じ窓。
同じ玄関。
全ての家から、夕食の匂いが漂っていた。
味噌汁。
焼き魚。
煮物。
炊きたての米。
誰かが帰ってくることを待つ匂い。
「家が、自分を管理者にした」
嵯峨野宗一が言った。
彼は解析室の床へ座り込んでいる。
紙と木で構成されていた身体は、少しずつ人間に近い形へ戻っていた。だが、肌の下には細い文字列が流れている。保管庫との接続は、まだ完全に切れていない。
「管理者となった家は、帰還先を自由に選択できます」
紅林澪奈は、玄関の向こうへ銃口を向けた。
「現在の帰還先は」
「ここです」
「サイト83ですか」
「いいえ」
嵯峨野は住宅街を見る。
「人間が家と認識する、全ての場所です」
紅林の表情が険しくなる。
家族のいる場所。
一人で暮らす部屋。
学生寮。
宿泊施設。
避難所。
収容室。
本人が帰る場所だと認識すれば、全てが対象になる。
「このままでは、どこへでも展開できる」
神楽が言った。
「はい」
「被害範囲は」
「算定できません」
「日本国内だけですか」
「認識に距離は関係ありません」
世界中。
誰かが家を思い出すたび。
帰りたいと願うたび。
その場所へ、この玄関が現れる可能性がある。
荒木真介は胸元を押さえた。
十三羽目の登録は解除された。だが、関係接続網の痕跡が、薄い傷のように皮膚へ残っている。
「向こうから声が聞こえる」
「内容は」
紅林が尋ねる。
「皆、同じこと言うとる」
住宅街に並ぶ家々。
閉ざされた玄関。
その内側から、無数の声が聞こえていた。
「ただいま」
「ただいま」
「ただいま」
帰宅する側の言葉。
これまで家が繰り返していたのは、帰ってきた者を迎える言葉だった。
おかえりなさい。
だが、今は違う。
家そのものが、帰ってきたと告げている。
「家は、どこへ帰ったんや」
新木慎介が車椅子の上から尋ねた。
額には冷却材。鼻には止血材。右目の周囲にも応急処置が施されている。
顔色は悪い。それでも観測盤から目を離さない。
嵯峨野は答えた。
「人間の帰宅願望へです」
「場所やない」
「はい」
「帰りたいいう願いそのものを、自分の家にした」
「その可能性が高い」
新木が舌打ちする。
「そら、隔離できへんわ」
黒い立方体へ封じ込めたのは、構造としての家だった。
だが家は、帰りたいという感情へ自らの帰属を移した。
建物を壊しても。
契約を解除しても。
小鳥箱を封じても。
人間が帰りたいと願う限り、家は存在できる。
「十三という枠を破壊する方法を説明してください」
紅林が言った。
嵯峨野は、床に残る木製の小鳥を見る。
小鳥は全身に亀裂が入っている。それでも小さく鳴き続けていた。
ちち。
ちち。
「試作十三号は、十二の帰還対象と一人の管理者によって構成されます」
「現在の管理者は家自身」
「はい」
「なら、家を管理者から外す」
「それだけでは、次の管理者を選びます」
千鳥が小鳥を見る。
「また誰かが、十三羽目になる」
「はい」
「候補がいなかったら」
「新たに作成します」
澪のように。
誰かの複製。
記憶から生まれた人格。
あるいは、家の内部へ取り込まれた誰か。
十三番目の席は、必ず埋められる。
「なら、十二の方を消す」
高峰が言った。
「帰還対象がなければ、管理者も必要ない」
「十二件の構造物には、人格が残されています」
神楽が答える。
「破壊はできません」
「構造物から人格を分離する」
メアリーが言った。
「家じゃなく、人として外へ出せばいい」
紅林は、搬出された人格結晶のケースを見る。
柊木家から救出した者たち。
家に取り込まれながらも、人として保存できた。
同じ処理を十二件へ行えば、家だけを空にできる可能性がある。
「問題があります」
嵯峨野が言った。
「十二件の一部は、建物と人格の区別を失っています」
「どういう意味です」
「人間の記憶が、壁や床へ変換されています」
「分離すれば、人格が欠損する」
「はい」
「情報損失率は」
「個体によって異なります。最大で八十パーセント以上」
八十パーセント。
それは救出とは呼べない。
名前だけ。
顔だけ。
短い記憶だけ。
人間だったものの欠片しか残らない可能性がある。
「それでも、分離する」
千鳥が言った。
全員が少女を見る。
「完全じゃなくても、家の一部にされるよりいい」
「本人の同意を確認できません」
紅林が答える。
「じゃあ、聞く」
「十二件全てにですか」
「うん」
「家が妨害します」
「それでも」
千鳥は住宅街を見る。
「私も、聞いてほしかったから」
帰りたいか。
残りたいか。
外へ出たいか。
誰も千鳥に尋ねなかった。
家族だから。
子供だから。
守るためだから。
そう決めつけられ、十三羽目にされた。
「意思確認を優先します」
紅林が決断した。
「十二件の内部へ進入。残存人格を特定し、分離への同意を取得します」
「時間はありません」
嵯峨野が警告する。
「家の帰還範囲は、すでにサイト83外へ広がり始めています」
神楽の端末へ、緊急通信が入った。
『サイト83管制室より報告』
『周辺地域で複数の住宅構造異常を確認』
『無人住宅へ居住者が帰宅したとの通報あり』
『死亡者および失踪者を含む人物の目撃情報が増加中』
家が広がっている。
サイト83の外へ。
周辺の住宅街へ。
人々の記憶へ。
「全員へ確認する時間はない」
高峰が言った。
「放置すれば、被害が拡大する」
紅林は住宅街を見つめる。
全員を救う。
被害を止める。
両方を行う時間はない。
選択が必要だった。
「隊長」
神楽が呼ぶ。
決断を求めている。
紅林は答えようとした。
その前に、荒木が口を開いた。
「ワシが、家と話します」
「何をするつもりです」
「まだ関係接続が残っとる」
荒木は胸元を指す。
「家から見たら、ワシは一回選ばれた十三羽目や」
「再登録される危険があります」
「せやからこそ、家もワシを無視できへん」
「交渉は成立しません」
「鬼灯産業との契約ちゃう。東雲重工業の装置でもない」
荒木は玄関の向こうを見る。
「今の家は、自分で帰りたいと思っとる」
「それが何を意味するのです」
「願いがあるなら、話を聞く可能性もある」
新木が顔をしかめる。
「相手は家やぞ」
「家族みたいに扱う気はない」
「ほな、どう扱う」
荒木は少し考えた。
「迷子や」
住宅街から、声が聞こえる。
「ただいま」
「ただいま」
「ただいま」
帰ってきたと繰り返している。
だが、誰も迎えていない。
「こいつ、一回も帰ったことないんちゃうか」
荒木が言った。
「人を帰すことも、取り込むことも知っとる。でも、自分が帰る場所は知らん」
新木は観測盤を見る。
家から流れ出している帰還信号。
無数の場所へ向けて発信されている。
どれも接続している。
だが、どれも完了していない。
「可能性はある」
新木が呟く。
「家は帰った言うとるのに、帰還処理が完了しとらん」
「帰る場所が定まっていない」
紅林が言う。
「せや」
荒木は頷いた。
「だから、あちこちを家に変えとる」
「交渉の目的は」
「こいつ自身に、帰る場所を選ばせる」
千鳥が首を振った。
「駄目」
「なんでや」
「家は、自分で選べない」
「お前は選べた」
「私は人間だから」
「こいつも願いを持っとるんやろ」
「家が選んだら、そこにいる人をまた取り込む」
千鳥の声が強くなる。
「帰る場所をあげたら駄目」
荒木は少女を見る。
「ほな、どうする」
「帰らなくていいって言う」
千鳥は住宅街へ向き直った。
「家にも」
空気が揺れた。
その言葉に、住宅街全体が反応する。
全ての家の窓へ明かりがついた。
玄関が一斉に開く。
扉の内側に立っていたのは、人間ではなかった。
木。
紙。
土。
髪。
写真。
無数の素材で作られた、家族の人形。
それぞれが千鳥を見る。
「帰らなくていい」
千鳥はもう一度言った。
人形たちの顔が歪む。
「帰れなければ、家ではありません」
「家じゃなくていい」
「家でなければ、何ですか」
「知らない」
千鳥は正直に答えた。
「自分で決めて」
「家は、家です」
「それしかないの」
「家は、帰る場所です」
「誰も帰ってこなかったら」
「待ちます」
「ずっと?」
「はい」
「嫌じゃないの」
返答が止まった。
住宅街に設置された時計。
全ての針が、同時に動きを止める。
「待つことは、家の役割です」
「役割じゃなくて」
千鳥は尋ねる。
「あなたは、どうしたいの」
家が沈黙した。
これまで、誰も尋ねなかった質問。
家は、人間の願いを満たす機能だった。
家族を揃える。
帰宅させる。
関係を維持する。
家自身の意思は、最初から考慮されていない。
だが今。
家は、自ら管理者になった。
願いを持つ存在になった。
「答えられません」
「どうして」
「定義がありません」
「なら、考えて」
「家は考えません」
「今、答えてる」
住宅街の一軒が崩れた。
屋根が落ちる。
壁が傾く。
だが、崩れた内部から新しい家が生えてくる。
「家は帰ります」
「どこへ」
「家へ」
「そこはどこ」
「家です」
言葉が循環する。
帰る。
家へ。
家とは。
帰る場所。
家は、自分の定義から出られない。
「やっぱり壊れとる」
新木が言った。
「概念が閉じとる。自分自身を帰還先にし続けとるんや」
「それが増殖の原因」
紅林が答える。
家が、家へ帰る。
自分自身を帰還先に指定する。
帰還するたび、家が増える。
終わりのない自己複製。
「循環を断つには」
神楽が尋ねる。
「家を、家でなくする」
新木が言った。
「十三の枠を壊すいうんは、そういうことや」
「十二件を家として認識させない」
「せや。建物でも、保管領域でもええ。帰る場所やなくせばええ」
「内部人格は」
「先に分離する必要がある」
結局。
十二件の人格を救出しなければならない。
時間がない。
外では被害が拡大している。
「同時に行います」
紅林が言った。
「十二件を分担します」
「一班一件でも人数が足りません」
神楽が指摘する。
「γ-9だけでは行いません」
紅林は通信端末を開いた。
「サイト83全職員へ通達」
管制室が通信を接続する。
『発言してください』
「現在、十二件の異常構造物がサイト83内部へ展開しています」
施設図へ、十二の新しい区画が表示される。
木造住宅。
集合住宅。
病院。
学校。
工場。
研究所。
既存区画へ重なるように存在している。
「各部門より救出班を編成。異常構造内部へ進入し、残存人格の意思確認を行ってください」
『危険度評価が未完了です』
「承知しています」
『通常職員の投入には、管理者承認が必要です』
「私の権限で緊急対応を申請します」
『隊長権限を超えています』
「では、サイト83管理者へ接続してください」
数秒の雑音。
やがて、別の声が通信へ入った。
『聞こえているよ』
クレイン博士。
サイト83管理者。
いつもの穏やかな声。
『面倒なことになったね』
「博士。全施設規模の救出作戦を提案します」
『危険性は』
「高いです」
『成功率は』
「不明です」
『失敗した場合は』
「帰宅概念を媒介とした異常構造が、世界規模で拡散する可能性があります」
『なるほど』
クレイン博士は短く笑った。
『断る理由がないね』
紅林は眉をひそめる。
「思考を読まないでください」
『読んでいないよ』
「まだ説明していない部分まで理解していました」
『管理者として察しただけだ』
「信用できません」
『それは後で話そう』
通信の向こうでも、警報音が鳴っている。
『サイト83全職員へ、緊急異常災害対応命令を発令する』
クレイン博士の声が、施設全体へ流れた。
『所属部門を問わず、指示された者は救出活動へ参加せよ』
『ただし、目の前に現れた家族を信用するな』
『君たちが会いたいと願った者ほど、慎重に疑え』
一瞬。
博士の声が柔らかくなる。
『それでも、本当に会えたのなら』
『別れを言う時間くらいは取って構わない』
通信が切れた。
紅林は各班へ指示を出す。
「救出班は十二件へ同時進入。人格分離への同意を取得後、対象を保留領域へ移送してください」
施設図上で、各部署の職員が十二の班へ振り分けられていく。
「γ-9は中央構造へ進入。家の管理権限を抑えます」
「中央構造とは」
神楽が尋ねる。
紅林は十三番目の玄関を見る。
表札。
家。
「家自身の内部です」
荒木が安全索を確認する。
「ワシも行きます」
「接続を利用しますか」
「せや。ワシがおったら、家は十三羽目を探す必要がなくなる」
「再登録された場合は」
「新木が切る」
「簡単に言うなや」
新木が車椅子から答える。
「お前も来るんか」
「当たり前やろ」
「歩けへんやん」
「車椅子で行く」
「家の中、段差だらけやぞ」
「押せ」
「ワシが?」
「五千円分働け」
「返済扱いにするんか」
「一部だけな」
黒岡が新木の車椅子の背後へ立った。
「俺が押す」
「助かるわ」
「荒木に任せると、壁へぶつける」
「さっきの根に持っとるやん」
メアリーは、人格結晶のケースを抱えた。
「澪も連れていく」
「危険です」
紅林が言う。
「家の中で生まれた人格なら、家の声が分かるかもしれない」
「結晶が破損する可能性があります」
「置いていったら、家が消えた時に影響が出るかも」
紅林はケースを見る。
透明な結晶。
内部で眠る、もう一人の自分。
「携行を許可します」
神楽が隊員たちの装備を確認する。
弾薬。
照明。
認識固定用端末。
安全索。
契約遮断材。
異常構造標識。
準備が整う。
千鳥は玄関の前へ立った。
扉の向こう。
住宅街では、家族の人形たちが道の両側へ並んでいる。
「おかえりなさい」
人形たちが言った。
千鳥は首を横に振る。
「帰ってきたんじゃない」
彼女は一歩、玄関を越えた。
「終わらせに来た」
紅林が続く。
神楽。
黒岡。
新木。
メアリー。
荒木。
クライム。
高峰。
γ-9の全員が、家の中へ入る。
最後に、嵯峨野が玄関の前で立ち止まった。
紅林が振り返る。
「あなたも来てください」
「私は、東雲重工業の元職員です」
「知っています」
「二百四十三名を見捨てました」
「知っています」
「拘束しないのですか」
「作戦終了後に行います」
「逃げる可能性があります」
「逃げますか」
嵯峨野は玄関の向こうを見る。
十二の家。
自分が管理していた者たち。
自分が見捨てた者たち。
「いいえ」
「なら、来てください」
嵯峨野は小さく頷いた。
玄関を越える。
全員が入った瞬間、背後の扉が閉じた。
住宅街から夕日の光が消える。
空が黒く染まった。
全ての家の窓へ、同時に明かりがつく。
道の両側に並んでいた人形たちが振り返る。
同じ角度。
同じ笑顔。
「おかえりなさい」
今度の声は、歓迎ではなかった。
「十三羽目」
荒木の胸元に、赤い文字が浮かぶ。
帰還先統合管理者。
登録処理再開。
「新木!」
「分かっとる!」
新木が観測盤を開く。
だが、表示されたのは荒木の名前ではない。
十三羽目。
候補者。
γ-9。
複数の名前が、一つの欄へ重なっている。
紅林澪奈。
神楽。
黒岡。
新木慎介。
メアリー。
クライム。
高峰。
荒木真介。
嵯峨野宗一。
千鳥。
そして、人格結晶の中にいる澪。
最後に。
解析室へ残されていた、名前のない木製の小鳥。
「十二体」
神楽が数える。
「現在、十二の帰還対象が登録されています」
紅林は周囲を見る。
家族の人形たち。
その奥。
住宅街の中央に、一軒だけ灯りのついていない家がある。
玄関の上には、小鳥箱。
十三個の穴。
十二の穴には、彼らの識別情報を刻まれた小鳥が入っている。
最後の一つだけが空いていた。
「家は、管理者を一人選ぶんやない」
新木が言った。
観測盤の文字が変化する。
帰還対象。
十二体。
管理者。
生成中。
「ワシらを十二羽にした」
「十三羽目は」
メアリーが、灯りのない家を見る。
玄関が開いた。
中から一人の少女が出てくる。
紅林と同じ顔。
同じ髪。
同じ戦術服。
左肩には、乾いた血の跡まで再現されている。
だが、肩に小鳥はいない。
メアリーが抱える人格結晶のケースが、強く震えた。
「澪」
紅林が呼ぶ。
ケースの中には、澪の結晶が存在している。
なら、目の前の少女は澪ではない。
少女は微笑んだ。
「いいえ」
その声には、紅林、千鳥、荒木、新木、そして無数の家族の声が混ざっていた。
「私は家です」
少女は両手を広げる。
「皆さんを帰すために、人になりました」
小鳥箱の最後の穴から、木製の嘴が突き出した。
十三羽目が。
内側から、生まれようとしていた。
次回予告
第十三章 家をやめる
10月8日21時投稿予定




