第九章 お届け物
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午前零時十三分。
サイト83の館内放送が起動した。
開始を指示した職員はいない。放送室は無人。自動放送システムにも、該当する音声データは登録されていなかった。
それでも、施設内の全てのスピーカーから柔らかな音楽が流れ始める。
古いオルゴールの旋律。一音ごとに軋みが混じる。どこか懐かしく、同時にひどく不安定な曲だった。
音程は正しい。速度も一定。だが、十三音目を迎えるたびに旋律が最初へ戻る。
一、二、三。
十三。
最初から。
何度繰り返しても、曲は終わらなかった。
サイト83の職員たちが、次々に足を止める。負傷者を運んでいた医療班。破損区画を確認していた保全部門。警備線を構築していた武装職員。全員が天井のスピーカーを見上げた。
そして、音楽の背後から女の声が聞こえた。
『サイト83職員の皆様へ、お届け物をお預かりしております』
落ち着いた声。業務連絡のように明瞭な発音。
『受取人は、荒木真介様です』
廊下を歩いていた荒木真介が足を止めた。
隣では、新木慎介が担架に乗せられたまま医療班に運ばれている。新木はゆっくりと顔を荒木へ向けた。
「お前、通販でも頼んだんか」
「こんな時間指定するかい」
『繰り返します。荒木真介様。お届け物をお預かりしております』
荒木は天井を睨んだ。
「ワシの名前、フルで呼ばんといてくれへん?」
「気にするとこ、そこかいな」
「館内放送で名指しされるん嫌やろ」
「異常から名指しされる方を気にせえ」
医療班員が担架を止める。
「荒木研究員。心当たりは」
「あるように見えます?」
「見えません」
「せやろ」
『受領場所は、第一解析室です』
荒木の表情から、わずかに軽さが消えた。
第一解析室。つい先ほどまでγ-9が活動していた区画。黒い隔離立方体と、鬼灯産業の封筒が収容されている場所。現在は完全封鎖され、警備班が監視しているはずだった。
新木が担架から上半身を起こす。
「戻るで」
医療班員が肩を押さえた。
「安静にしてください」
「ワシ、あそこの異常担当や」
「あなたは負傷者です」
「軽傷や」
「先ほど精神的には死んでいると言いました」
「あれは比喩や」
「担架の上で交渉しないでください」
荒木は新木を見る。
「お前は医療室行っとけ」
「行けるかいな。お前、次の契約者にされかけとんねんぞ」
「まだ決まったわけやない」
「封筒に名前書かれとったやろ」
「名字だけや」
「荒木が何人おんねん、このサイトに」
「三人」
「三人もおるんかい!」
荒木は指を折った。
「ワシと、警備部門の荒木主任と、食堂の荒木さん」
「食堂にもおるんか」
「おるで。カレーの日だけ大盛りにしてくれる」
「その情報、今いる?」
『受取人は、荒木真介様です』
館内放送が訂正した。
荒木と新木が同時に黙る。数秒後、新木が荒木を見た。
「お前やん」
「聞こえとるわ」
「名字だけや言うたやん」
「異常に訂正されると思わんやろ」
放送が途切れ、オルゴールだけが残る。十三音。そして、また最初へ。
その時、廊下の防火扉が開いた。
紅林澪奈と神楽が、武装職員二名を伴って現れる。紅林の左肩には応急処置が施され、血の跡が残っていた。顔色も良くない。それでも歩調に乱れはない。
「荒木真介」
「はい」
「解析室へ戻ります」
「了解です」
荒木が即答する。新木も担架から降りようとした。
「新木は医療室へ」
「なんでや」
「命令です」
「ワシがおらんと契約系の解析できへんやろ」
「現場から遠隔参加してください」
「直接見な分からんこともある」
「歩けますか」
「歩ける」
新木は担架から足を下ろした。立ち上がり、一歩を踏み出す。
膝が折れた。
医療班員二名に支えられる。荒木が無言で見つめた。
「今のは床が悪い」
「何もないで」
「重力が一瞬ずれた」
「この期に及んで見栄張るなや」
「うるさい」
紅林は新木を見る。
「車椅子を使用してください」
「担架よりはましやな」
「乗るんかい」
「現場行けるなら何でもええ」
数分後、新木は簡易車椅子に座り、荒木に押されて第一解析室へ向かっていた。
「もうちょい丁寧に押せや」
「無料サービスや。文句言うな」
「角で壁にぶつけたやろ」
「気のせいや」
「左足ぶつかったで」
「右足やろ」
「両方ぶつけたんか!」
紅林が前を歩きながら言う。
「静かにしてください」
「すんません」
二人の声が重なった。神楽は小さく息を吐く。
サイト83の廊下には、家の侵食跡が残っていた。壁の一部に浮かぶ木目。床の隙間から覗く黒い土。職員用の扉に一瞬だけ現れる古い表札。
異常構造の大部分は隔離された。だが、完全には消えていない。残留した認識、記憶、素材。家だったものの痕跡が、施設内の各所へ薄く貼りついている。
通路の角を曲がると、前方に第一解析室の封鎖線が見えた。武装警備員が六名。防護服を着た異常媒体処理班が四名。扉の前には移動式の遮断壁が設置されている。
現場責任者が紅林へ駆け寄った。
「γ-9隊長。侵入者は確認されていません」
「封筒の状態は」
「監視映像で小鳥の出現を確認後、封鎖容器内部から音声反応が発生しました」
「内容は」
「配達を求めています」
「それだけですか」
「十三回ごとに、受領遅延に関する警告が入ります」
「警告の内容は」
現場責任者が端末を操作し、録音を再生する。
『お届け物の保管期限が近づいております。期限を超過した場合、最寄りのご自宅へ転送いたします』
荒木の顔が引きつった。
「最寄りの自宅て、どこや」
「登録住所は」
紅林が尋ねる。
「MDE採用時に提出した住所は、もう解約しとります」
「住民登録上は」
「実家です」
「家族は」
荒木は答えるまでに少し間を置いた。
「母親が一人で住んどります」
新木から冗談が消える。
「転送されたらまずいな」
「当たり前や」
「保管期限は」
神楽が現場責任者へ尋ねた。
「現在までの警告回数から推定して、残り約二十六分です」
「根拠は」
「館内放送の周期です。最初の呼び出しから十三分後に第一警告。さらに十三分後に第二警告が入ると予測しています」
「第二警告後に転送される可能性は」
「否定できません」
紅林は扉を見る。
「封鎖を解除します」
「隊長」
神楽が声を低くする。
「荒木本人を接触させるのですか」
「接触前に内容を確認します」
「封筒は、受取人以外の開封を拒否する可能性があります」
「だからといって、直接渡すわけにはいきません」
新木が顎へ手を当てる。
「鬼灯産業の配達なら、受領前に契約は成立せえへんはずや」
「本当に鬼灯産業のものなら、です」
紅林が答える。
「差出人表示だけを利用している可能性があります」
「小鳥は東雲製品の派生物かもしれへん」
「あるいは、家そのもの」
神楽が言った。
荒木は封鎖扉を見つめる。
「ワシを選んだ理由は」
「まだ不明です」
「新木や隊長やなく、ワシやった理由です」
紅林は答えない。新木が荒木を見上げる。
「家に取り込まれた時、お前が最後まで戻らんかったからちゃうか」
「どういう意味や」
「他の職員は、帰るか残るかを選んだ」
「ワシも選んだやろ」
「お前の理由、ワシの五千円やったやん」
「悪いか」
「家から見たら、強い未完了関係に見えた可能性がある」
荒木は眉をひそめる。
「借金が?」
「金やない。お前とワシの関係や」
「気色悪い言い方すんな」
「こっちも嫌やわ」
新木は続ける。
「家は帰属を作る。鬼灯産業の設備は関係を契約へ変える。十三羽目は、空いた場所を埋める」
「つまり」
紅林が言葉を引き取った。
「未完了の関係を持つ者が、次の対象として選ばれた」
「可能性はある」
「でも、借金だけやで」
荒木が言う。新木は少し黙った。
「ほんまに、それだけか」
「何が言いたい」
「家に取り込まれた時、お前は誰の声を聞いた」
荒木の目が動く。
古い団地。玄関。奥から呼ぶ声。
慎介。
あの声。
「覚えてへん」
「嘘つけ」
「お前、鬼灯産業ちゃうやろ」
「必要なら嘘ついてええと思っとる方や」
「最悪やな」
荒木は視線を逸らした。新木はそれ以上追及しなかった。
紅林は二人を見る。
「現場で聞きます」
封鎖解除が始まる。第一防護壁、第二防護壁、気密扉。順番に開放されていく。
解析室内部は、先ほどとほとんど変わっていなかった。破損した机、倒れた椅子、監視機材。中央には黒い立方体。
その手前。透明な封鎖容器の中に、白い封筒がある。
封筒の中央には穴が開いていた。そこから木製の小鳥が頭を出している。翼は封筒の中。胴体も見えない。首から上だけが、白い紙を破って外へ出ていた。
小鳥は全員の入室を見届け、最後に荒木を見る。首を傾げた。
「お届け物です」
小さな声。口調は館内放送と同じだった。
荒木は足を止める。
「頼んでへんで」
「ご注文品ではありません」
「ほな受け取らへん」
「ご契約に基づくお届け物です」
新木が前へ出ようとする。紅林が手で制した。
「契約番号を提示してください」
小鳥の頭が紅林へ向く。
「受取人以外への回答はできません」
「契約者は誰です」
「受取人以外への回答はできません」
「差出人は鬼灯産業株式会社ですか」
「封筒に記載されています」
「質問に答えてください」
小鳥は数秒黙った。
「差出人表示は、鬼灯産業株式会社です」
紅林の目が細くなる。
「差出人が鬼灯産業であるとは言っていませんね」
「差出人表示は正確です」
「表示だけが正確」
「はい」
新木が低く唸る。
「やっぱり、鬼灯産業の正式配達やない」
「では、誰が送ったのです」
「受取人へご確認ください」
荒木が自分を指す。
「ワシ?」
「はい」
「知らんがな」
「ご確認ください」
「何をどう確認すんねん」
「開封後に確認できます」
「開けさせたいだけやろ」
「お届け物です」
会話が循環する。小鳥は嘘をついていない。だが、必要な情報も渡さない。
鬼灯産業の応対形式を模倣している。それでも、本物とは違う。質問へ正確に答えるのではなく、開封へ誘導していた。
「封筒の内部を非接触で走査します」
紅林が言う。処理班が装置を準備した。
X線、磁気、超音波、魔術構造観測、空間容積測定。複数の機器が封鎖容器へ向けられる。
結果は全て異なった。
X線では、封筒の内部は空。磁気走査では鉄骨構造が検出された。超音波では奥行き二十一メートルの空間。魔術観測では契約式が一件。空間測定では、内部容積を算定不能。
「封筒やないな」
新木が言った。
「入口や」
「どこへの」
「届け物そのものの中やろ」
荒木が封筒を見る。
「中に入れ言うんか」
「開けるだけで接続される可能性もある」
荒木は小鳥へ尋ねる。
「受け取ったら、どうなる」
「受領が完了します」
「その後は」
「お届け物をご利用いただけます」
「利用せえへんかったら」
「保管していただけます」
「捨てたら」
小鳥は黙る。
「答えろや」
「適切な廃棄手続きが必要です」
「何が適切や」
「同封の取扱説明書をご確認ください」
「開けな見られへんやんけ」
「はい」
荒木は額を押さえた。
「腹立つな、こいつ」
「鬼灯産業より雑や」
新木が言う。
「鬼灯産業は腹立つけど、質問には答えよる」
「褒めてへんか、それ」
「比較の話や」
神楽が封筒側面を確認する。
「宛名が完成しています」
封筒の表面。先ほど途中だった文字が完成していた。
荒木真介様。
その下へ、赤い文字で一行追加されている。
代理受領不可。
「本人以外は開けられない」
神楽が言う。
「荒木を狙っていることは確実です」
紅林は小鳥を見る。
「受領期限を提示してください」
「残り十八分四十秒です」
「期限超過時は」
「最寄りのご自宅へ転送します」
「転送後、誰が受取人になります」
「荒木真介様です」
「本人が不在の場合は」
「同居者による代理受領が可能です」
荒木の顔色が変わる。
「さっき代理受領不可て書いとるやろ」
「現在の受領条件です」
「転送されたら変わるんか」
「はい」
紅林が確認する。
「母親が受け取れる」
「はい」
「受け取った場合、契約者は」
「受取人です」
「荒木本人か、母親か」
「受領した方です」
紅林は短く息を吐いた。期限を待つ選択肢は消えた。転送を阻止するには、今ここで処理する必要がある。
「荒木」
「はい」
「実家へ緊急保護班を派遣します」
「お願いします」
「同時に、あなたの登録住所をサイト83へ変更できるか確認します」
「異常相手に住民票の変更、間に合います?」
「形式ではなく、帰属認識の問題かもしれません」
新木が言う。
「本人がここを現在地や帰属先として認めれば、転送先を固定できる可能性はある」
「嫌やで」
荒木が即答した。紅林が尋ねる。
「何がです」
「サイト83を自宅やと思うんは」
「転送阻止のためです」
「寝泊まりしとるけど、職場は職場や」
「一時的に認識してください」
「そういう嘘、異常に通るか?」
「通らないでしょうね」
「ほな言わせんなや」
紅林は否定しなかった。
千鳥が解析室の入口に立っていた。医療班が保護区画へ連れていく予定だったが、館内放送の発生を受け、一時待機となっている。
彼女は封筒をじっと見ていた。
「中に、部屋がある」
全員が千鳥を見る。
「見えるのですか」
紅林が尋ねる。
「少し」
「どのような部屋です」
「暗い」
「家ですか」
「違う。倉庫みたい」
新木が目を細める。
「何が置いてある」
「箱」
「いくつ」
「たくさん」
「小鳥箱か」
「ううん」
千鳥は封筒へ一歩近づく。警備員が止めようとするが、紅林が手を上げ、一定距離を保たせた。
「全部、家の形」
「模型ですか」
「たぶん」
「人は」
「一人いる」
解析室の空気が変わった。
「誰です」
「男の人」
「榛名ですか」
「違う」
「灰色の作業着」
「うん」
千鳥の声が小さくなる。
「昔、小鳥箱を持ってきた人」
封筒から出ていた小鳥が千鳥を見る。嘴が開いた。
「閲覧権限がありません」
千鳥の身体が硬直する。小鳥の声が続いた。
「未登録の付属人格は、配送内容を閲覧できません」
紅林が銃を構える。
「千鳥を付属人格と呼ばないでください」
「製品記録上の分類です」
「現在の分類ではありません」
「記録は更新されていません」
「更新してください」
「権限がありません」
「誰にあります」
小鳥は荒木を見る。
「受取人です」
新木が舌打ちした。
「荒木を管理者にするつもりや」
「何の管理者です」
神楽が尋ねる。
「倉庫や」
「家の模型が保管された倉庫」
「東雲重工業が、試作十三号で帰還対象にした構造物かもしれへん」
新木は封筒を見つめる。
「小鳥箱は一つやなかった可能性がある」
「試作十三号という名称は、十三番目の試作品という意味ではないのですか」
「榛名は正確な由来を説明してへん」
紅林が記憶をたどる。
空間帰還誘導器試作十三号。十三羽の小鳥。十三個の穴。十三羽目。
全てが同じ数字へ集まっている。
「十三は個体番号ではなく、運用数かもしれない」
「十三の構造物を一組として管理する装置」
神楽が言う。
「あるいは」
新木の顔が険しくなる。
「十二の帰還先と、一つの管理者」
荒木が小鳥を見る。
「ワシが十三羽目か」
小鳥は答えない。
「聞いとるんや」
「受領後に確認できます」
「そればっかりやな」
千鳥が囁く。
「違う」
「何がです」
紅林が聞く。
「十三羽目は、最後の一羽じゃない」
少女は胸元を押さえた。
長い時間、彼女は十三羽目と呼ばれた。家族の欠員。空いた席。最後に帰る者。そう考えられていた。
だが、小鳥箱の本来の機能が家の帰還誘導なら。
「十三羽目は、箱を持っていく鳥」
千鳥が言った。
「十二羽が帰る場所を探して、十三羽目が次の家へ運ぶ」
紅林が続ける。新木の顔から血の気が引いた。
「配送個体や」
「荒木へ届けられたのは」
「家やない」
新木は封筒を見る。
「次の小鳥箱を管理する役目かもしれへん」
小鳥が、ちち、と鳴いた。肯定にも、警告にも聞こえた。
館内放送が切り替わる。
『保管期限まで、残り十三分です』
オルゴールの音が大きくなる。
一、二、三。
十三。
また最初へ。
紅林は封鎖容器の周囲を見回した。
「開封手順を構築します」
「開けるのですか」
神楽が尋ねる。
「転送されるより管理しやすい」
「荒木へ直接影響が発生します」
「分かっています」
「ワシはええで」
荒木が言った。紅林が彼を見る。
「軽率に了承しないでください」
「母親に飛ぶよりましや」
「だからといって、あなたを犠牲にすることはできません」
「犠牲になるとは決まってへん」
「安全とも決まっていません」
「ほな、どうするんです」
荒木の声は静かだった。冗談はない。
「十三分で、全部分かる方法を探すんですか」
紅林は答えられない。
「現場では、選ばなあかん時あるでしょう」
「あなたは現場要員ではありません」
「MDE職員です」
「それは使い捨てを意味しません」
「知っとります」
荒木は封筒を見る。
「せやから、戻る前提で開けます」
先ほど新木が言った言葉。消耗品ではない。だからこそ、戻る前提で危険へ入る。
新木が荒木を見上げた。
「真似すんなや」
「お前が言うたんやろ」
「言うたけど、お前がやると腹立つ」
「知らんがな」
紅林は二人を見た。
「開封は許可します」
神楽が息をのむ。
「ただし、荒木単独ではありません」
「共同受領は不可やろ」
新木が言う。
「受領ではなく、接続を監視します」
紅林は指示を出した。
「荒木へ生命維持監視装置を装着。物理固定。認識接続が発生した場合は、新木が外部から術式を解析」
「隊長は」
「荒木の自己認識を維持します」
「どうやって」
「質問を続けます」
荒木が顔をしかめる。
「尋問されながら開けるんですか」
「名前、所属、役割、帰還先を反復確認します」
「またそれかいな」
「有効性は確認済みです」
「帰還先、何て答えたらええんです」
「事実を」
荒木は少し考えた。
「分からへん、でもええですか」
「嘘よりは安全です」
「家ない人間に厳しい異常やな」
千鳥が荒木を見る。
「自分で選べる場所って答えたら」
「それ、お前の答えやろ」
「使ってもいい」
「借りるもんちゃう」
「じゃあ、自分で決めて」
荒木は苦笑した。
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃない」
千鳥は答える。
「でも、家に決められるよりいい」
荒木はしばらく少女を見た。
「せやな」
準備が進む。荒木の胸には心拍監視装置。頭部に脳波計。両手首へ認識汚染検出器。腰へ安全索。
封筒から三メートル以上離れられないよう固定するためではない。異常空間へ引き込まれた場合、こちら側へ引き戻すための索だ。
クライムがワイヤーの固定を確認する。
「耐荷重は十分だ」
「空間ごと引かれたら」
荒木が尋ねる。
「その時は切る」
「ワシごと?」
「施設ごと持っていかれるよりはましだ」
「正直やなあ」
「嘘をつく必要がない」
「今日そんなんばっかりや」
新木は車椅子の上で、封鎖容器へ術式観測盤を向ける。紙面には円、十三の点、そして中央に荒木の名が浮かんでいた。
「やっぱり変や」
「何がです」
紅林が尋ねる。
「契約式に見えた一件、契約やない」
「では」
「受領証や」
「受け取った事実だけを固定する術式」
「せや。条件も対価も書いてへん。ただ、荒木が何かを受け取ったいう事実だけが残る」
「その事実が、別の契約に利用される可能性は」
「高い」
「受領を拒否したまま開封できますか」
「普通は無理や」
「普通でない方法は」
新木は紅林を見る。
「封筒の中から、差出人を外へ出す」
「どういうことです」
「荒木が受け取るんやなく、向こうに渡しに来させる」
「配達員を呼び出す」
「せや」
小鳥が首を傾げた。
「配達員は、すでに到着しています」
「お前やない」
新木が言う。
「送り主本人や」
小鳥の動きが止まった。ほんの一瞬。それまで機械的だった反応に、明確な遅れが生じる。
「送り主の立ち会いを要求する」
新木は続けた。
「受取人には、内容物の状態を確認する権利がある。せやろ」
「その権利は規定されていません」
「禁止もされてへん」
「規定外です」
「ほな、判断権限を持つ者を呼べ」
「回答できません」
「できへんのやなく、権限ないんやろ」
小鳥は黙る。新木の口元が上がった。
「鬼灯産業の応対を真似しとるくせに、規定外対応ができへん。お前、ただの端末や」
「お届け物です」
「話そらすな」
「保管期限まで、残り九分です」
館内放送が重なる。
『荒木真介様。お早めにお受け取りください』
新木は術式観測盤へ手を置いた。
「荒木。封筒に触れず、送り主の開示を要求せえ」
「言うだけでええんか」
「自分の言葉で言え」
荒木は封鎖容器の前へ立ち、小鳥と目を合わせる。
「受け取る前に、送り主を確認させてください」
「差出人表示は鬼灯産業株式会社です」
「表示やなく、送った人間です」
「回答できません」
「ほな、受け取れません」
「期限超過後、ご自宅へ転送します」
「転送も拒否します」
「拒否権はありません」
「ワシの荷物やろ」
「はい」
「ワシ宛てなら、ワシに確認する権利あるやろ」
「規定されていません」
「禁止もされてへん」
新木が小さく笑う。
「ええぞ」
荒木は続けた。
「送り主が出てくるまで、受領判断を保留します」
「保留はできません」
「誰が決めた」
「配送規定です」
「規定を作ったのは」
小鳥が黙る。
「答えられへんのなら、答えられる奴を呼んでください」
封筒が震えた。
かり。
内側から爪が紙を引っ掻く。小鳥の首が不自然な角度で回った。
「送り主の立ち会いを要求しますか」
「要求します」
「理由を」
「中身が危険物かもしれへんから」
「危険物ではありません」
「保証するんか」
「用途通りに使用した場合、安全です」
「用途を説明してへんやろ」
「同封の取扱説明書を――」
「開けな見られへん」
「はい」
「ほな、確認できへん」
また循環する。だが今度は、荒木が引かなかった。
「送り主を呼んでください」
「保管期限まで、残り七分です」
「呼んでください」
「お早めにお受け取りください」
「呼べ」
荒木の声が低くなる。関西弁の柔らかさは残っている。それでも、明確な拒絶だった。
「ワシは受け取るかもしれへん」
解析室の全員が荒木を見る。
「せやけど、誰が何のために送ったか分からんもんを、そのまま受け取るほど間抜けちゃう」
新木が小声で言う。
「時々間抜けやけどな」
「今黙っとけ」
「はい」
荒木は小鳥へ向き直る。
「送り主に伝えてください」
「何を」
「逃げんな。出てこい」
封筒の表面が裂けた。
縦に一本。続いて横。紙が内側から押し広げられ、小鳥の頭が引っ込む。代わりに、暗い隙間が現れた。
冷たい風が吹き出す。油、鉄、古い木材。複数の匂いが混ざっている。
封筒は床へ落ちたまま、少しずつ大きくなった。手紙ほどの大きさから書類袋へ。書類袋から鞄へ。やがて、人が通れるほどの長方形になる。
白い紙でできた扉。
中央には、鬼灯産業の差出人印。その上から、灰色の塗料で別の紋章が描かれている。
東雲重工業株式会社。
二つの企業名。重ねられた表示。
「複合媒体」
神楽が言う。
「鬼灯産業の配送規則を、東雲重工業の装置が利用している」
「逆かもしれへん」
新木が答えた。
「東雲の保管庫へ、鬼灯産業の形式を被せた」
紙の扉が開く。
向こう側には、千鳥が見た通りの倉庫が広がっていた。高い天井、鉄骨、薄暗い照明。左右へ並ぶ無数の棚。
棚には、家の模型が置かれている。木造住宅、団地、学校、病院、工場、研究施設。大小さまざまな構造物。どれも精巧で、窓の奥には小さな灯りがあった。人影が動いているものもある。
「模型やない」
新木が呟く。
「全部、どっかの建物を縮めたもんや」
倉庫の中央に、灰色の作業着を着た男が立っていた。
千鳥の記憶にあった男。家族写真の端にいた人物。年齢は三十代前半。短い黒髪。薄い眼鏡。胸元には、東雲重工業の旧式社章がある。
男は荒木を見た。
「お待ちしておりました」
穏やかな声。榛名とは違う。もっと人間らしく、それでも感情の温度が低い。
「荒木真介様」
次回予告
第十章 帰還先統合管理者
10月5日21時投稿予定




