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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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第八章 帰らない家

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください!

紅林の視界が消えた。


 次の瞬間、彼女はサイト83全体を見ていた。


 目で見ているのではない。建物そのものとして認識している。廊下が血管。扉が関節。収容区画が臓器。職員たちが、体内を動く小さな光。


 そして、その全てに黒い木の根が絡みついていた。


 家。


 柊木家。


 だが、もはや元の形ではない。サイト83全体へ広がり、無数の部屋を作っている。職員一人につき一つの家。それぞれの記憶。帰りたい場所。会いたい人。失ったもの。


 家はそれらを読み取り、部屋を増殖させていた。


「見える」


 千鳥の声が、紅林の内側から聞こえる。


「全部」


 二人の認識が繋がっていた。紅林には千鳥の恐怖が分かる。千鳥には紅林の責任感が分かる。感覚は混ざっている。それでも、どちらがどちらかは失われていない。


 互いの違いを保ったまま、同じものを見ている。


「取り込まれた職員を確認します」


 紅林が言う。声は解析室だけではなく、サイト83全体へ響いた。


 一つ目の部屋。金井が食堂にいる。目の前には亡くなった両親。彼は何度も首を振りながら、席を立てずにいた。


 別の部屋。梶原が病院の廊下にいる。白衣の女が向こうから歩いてくる。梶原は銃を向けている。だが撃てない。


 さらに別の部屋。荒木が古い団地の玄関に立っている。部屋の奥から、誰かが呼んでいた。


「慎介」


 荒木は動かない。


「そっち行ったらあかんやつやろ」


 警戒しながらも、その声には揺れがある。新木が映像を感じ取り、叫んだ。


「荒木!」


 だが、声は届かない。


「帰還対象を指定してください」


 榛名の声が遠くで聞こえる。


「家だけを排除することは可能ですか」


 紅林が尋ねた。


「対象構造物を分離できれば」


「方法は」


「どこまでが家で、どこまでがサイト83かを定義する」


 紅林は認識を広げる。壁、廊下、記憶、家族、職員、設備。全てが混ざり合っていた。物理的な線引きはできない。


 だが、一つだけ違いがある。


 家は、帰宅を強制する。


 サイト83は、職員たちが自ら残っている場所だ。危険でも、苦しくても、任務や責任によって選んでいる場所。


「定義します」


 紅林が言った。


「本人の意思を無視して帰属を固定する構造を、家とします」


 千鳥が続ける。


「帰らせようとするもの全部」


「本人の意思で所属を選択できる構造を、サイト83とします」


「出ていくことも、残ることも選べる場所」


 空間帰還誘導器が震えた。


 定義を解析。


 矛盾。


 重複。


 不明領域。


 警告が二人の意識へ流れ込む。


 家とサイト83の境界を完全に分離できません。


「分離できない部分は」


 紅林が問う。


 選択を要求します。


 保留。


 家へ分類。


 サイト83へ分類。


「保留にせえ!」


 新木が叫ぶ。紅林は彼を見る。


「理由を」


「人格原型や! 澪もそうや! 家が作ったけど、今は家やない!」


 紅林は理解した。


 もう一人の紅林――澪。千鳥。人形から元の人格へ戻りかけた者たち。家から生まれた、あるいは家によって形を変えられた。しかし、家に帰属するとは限らない。


 家に由来するというだけで、廃棄してよい存在ではない。


「不明領域を保留」


 紅林が命じる。


「独立した自己意思を確認するまで、サイト83側へ一時移送」


 千鳥も繰り返した。


「自分で決められるまで、捨てない」


 定義を受理。


 帰還処理を開始。


 サイト83全体が軋んだ。家の部屋が、一つずつ施設から剥がれていく。


 金井の食堂。両親の姿が崩れ、彼は床へ倒れる。


 梶原の病院。廊下が消え、元の収容区画へ戻る。


 荒木の団地。玄関の向こうから伸びていた手が消えた。


「慎介?」


 荒木が周囲を見る。次の瞬間、元の休憩室へ戻った。


 だが、家は抵抗した。


 全ての部屋から声が上がる。


「帰りたい」


「帰らせて」


「ここにいたい」


「一人にしないで」


 紅林の意識へ、何百人もの願いが流れ込む。家だけではない。職員自身の声も混ざっていた。


 本当に帰りたい者。亡くなった家族へ会いたい者。任務から逃げたい者。疲れた者。壊れかけた者。


 家は、嘘だけを見せているわけではない。願いの中にある本物の部分をつかみ、離さない。


 紅林の認識が揺れる。


「隊長」


 千鳥の声。


「違いが分からない」


「本人へ選ばせます」


「全員に?」


「はい」


「時間がない」


「それでもです」


 紅林はサイト83全体へ呼びかける。


「こちらγ-9隊長、紅林澪奈。現在、サイト83は異常空間に取り込まれています」


 家が放送を妨害する。


「おかえりなさい」


「家族が待っています」


「帰宅してください」


 紅林は続けた。


「目の前の人物、場所、記憶が本物である保証はありません」


 職員たちが顔を上げる。


「ですが、あなたが帰りたいという願いまで、偽物とは言いません」


 家の声が一瞬弱まった。


「帰りたい者は、その意思を否定しなくて構いません」


 神楽が紅林を見る。予想外の言葉だった。だが、紅林は続ける。


「ただし、帰るかどうかを決めるのは家ではありません」


 千鳥が金属球へ手を強く押しつけた。


「自分で決めて」


 彼女の声も、サイト83全体へ響く。


「今帰るのか。あとで帰るのか。もう帰らないのか。別の場所へ行くのか」


 千鳥は息を吸う。


「家に決めさせないで」


 各部屋で、職員たちが動き始めた。


 金井は両親を見る。


「帰りたいです」


 彼は泣きながら言った。


「でも、あなたたちのところではありません」


 食卓が崩れる。


 梶原は病院の廊下で銃を下ろした。


「会いたかった」


 目の前の女へ言う。


「だからこそ、ここには残れない」


 病室が消える。


 荒木は団地の奥へ向けて叫んだ。


「慎介に五千円返してもろてへんねん!」


 新木が遠隔認識の中で怒鳴る。


「そこ理由にすんなや!」


 荒木には聞こえない。


「せやから、まだ帰られへん!」


 団地が音を立てて崩れる。新木が顔を覆った。


「ほんまに借金だけ覚えとるやんけ」


 紅林はわずかに息を吐く。笑いではない。だが、緊張が一瞬だけ解けた。


 職員たちは一人ずつ選択する。


 帰らない。


 今は帰らない。


 ここではない。


 会いたいが、残らない。


 家の部屋が次々に剥がれていく。


 だが、全員ではなかった。一部の部屋は残っている。返答しない者。家族の幻影から離れられない者。精神的に抵抗できない者。


「未応答者、三十七名」


 神楽が報告する。


「強制移送しますか」


 空間帰還誘導器が選択を求める。


 本人意思未確認。


 家側へ残留。


 サイト83側へ移送。


 保留。


 紅林は即答した。


「保留」


「また保留ですか」


 榛名が言う。


「自己意思を確認できない者を、家の所有物として扱うことはできません」


「保留領域は不安定です」


「安定化してください」


「本製品の機能外です」


「東雲重工業なら、方法があるはずです」


 榛名は黙った。


「あなたたちは、技術を回収しに来た」


「はい」


「なら、保留領域を維持してください」


「それは協力要請ですか」


「取引です」


 榛名の目がわずかに変わる。


「条件を」


「保留領域の安定化。未応答者三十七名と、家由来人格の保全。完了まで、MDEは空間帰還誘導器を破壊しません」


「回収は」


「認めません」


「技術情報の共有は」


「限定的に検討します」


「曖昧です」


「あなたたちも同じでしょう」


 短い沈黙のあと、榛名は口元をわずかに上げた。


「交渉が成立する余地はあります」


「今すぐ実行してください」


「承知しました」


 榛名は作業着の袖をまくる。手首には黒い金属製端末が埋め込まれ、皮膚と機械が一体化していた。彼が端末へ指を触れると、廊下の奥から低い機械音が聞こえた。


 四人の作業員が現れる。全員が灰色の作業着を着て、顔には透明な防護面、背中には大型の装置を背負っていた。武器は見えない。だが、異常装備であることは明らかだった。


「増援を隠していましたか」


 神楽が銃を向ける。


「退路確保要員です」


 榛名が答えた。


「MDEと交戦する意図はありません」


「命令すれば戦う」


「退路が完全に塞がれた場合に限ります」


「正直ですね」


「隠す必要がありません」


 作業員たちは保留領域へ装置を設置する。黒い杭、銀色の線、透明な膜。家とサイト83の間に、第三の空間が作られていく。


 家ではない。施設でもない。白い保管領域。


 未応答者と家由来人格が、そこへ移送される。澪の記憶結晶も、千鳥の人格を構成していた残存情報も。廃棄対象ではないものが、一時的に保存されていく。


「保留領域、安定化率七十パーセント」


 榛名が報告する。


「百パーセントには」


「誘導器本体との接続が必要です」


「接続してください」


「その場合、弊社も管理権限へアクセス可能になります」


 紅林は千鳥を見る。共同管理者である二人の認識は繋がっている。千鳥は首を振った。


「渡したくない」


「私もです」


 紅林は答える。


「別の方法を」


 新木が割って入った。


「管理権限を三分割できへんか」


「正式仕様では二名までです」


 榛名が答える。


「正式仕様やない方法は」


「あります」


「あるんかい」


「推奨しません」


「もうその言葉は聞き飽きたわ」


 新木は金属球へ近づく。


「ワシが中継点になる。管理者にはならん。外部安定化装置との橋渡しだけや」


「精神負荷が発生します」


「どれぐらい」


「人格境界の一時的混線」


「もう隊長が二人おったり、家の持ち主にされたりしとる。今さらや」


「新木」


 紅林が止める。


「これが一番ましや」


「保証は」


「ない」


「なら認められません」


「隊長」


 新木は珍しく真剣な表情で紅林を見る。


「ここで保留領域が崩れたら、三十七人と澪が消える」


 紅林は答えない。


「ワシは魔術研究員や。こういう訳分からん境界に首突っ込むために来とる」


「研究員であって、消耗品ではありません」


「知っとる」


「なら」


「せやから、戻る前提でやるんや」


 新木は笑った。


「荒木に五千円返してもらわなあかんしな」


「貸した側でしょう」


「せやった」


「緊張感を保ってください」


「保っとるわ」


 紅林は数秒考える。他に方法はない。


「三分間だけ許可します」


「短ない?」


「二分にしますか」


「三分でええ」


 榛名が端末を操作する。


「中継接続を開始します」


 新木が金属球の下部へ手を触れた。彼の身体が大きく震える。


「っ、なんやこれ」


 紅林と千鳥の認識。サイト83。家。保留領域。東雲重工業の安定化装置。その全てが新木へ流れ込む。


「新木」


「聞こえとる」


「名前を言ってください」


「新木慎介」


「所属」


「MDEサイト83、魔術研究部門。現場出向中」


「役割」


「中継役」


「帰還先」


 新木は一瞬黙った。その隙へ家が入り込む。畳。食卓。誰かの声。


「慎介」


 新木の顔が歪む。


「答えてください」


 紅林が強く言う。


「帰還先は」


「まだ決めてへん」


「それでは不安定です」


「ほな――借金取り立てるまで帰られへん場所」


「荒木ですか」


「せや!」


 中継接続が安定した。紅林は呆れたように彼を見る。


「それで通るのですか」


 榛名が端末を見る。


「通りました」


「製品の判定基準がおかしい」


「帰属認識が強ければ、内容は問いません」


「ほんまに雑な機械やな」


 新木が呻く。


 保留領域の安定化率が上昇する。八十、九十、九十五。


 家が最後の抵抗を始めた。


 サイト83全体の照明が消える。無数の扉が一斉に開き、その向こうから十三羽の小鳥が飛び出した。


 木製ではない。肉と羽毛を持つ、本物の鳥。だが、顔だけが人間だった。


 柊木家。伊吹班。紅林。新木。千鳥。


 複数の顔が、飛びながら入れ替わる。


「家が核を作り直しています」


 榛名が言う。


「誘導器を奪い返すつもりです」


 小鳥たちが金属球へ向かう。黒岡と高峰が射撃した。弾丸が羽を裂く。それでも鳥は落ちない。


 神楽が一羽を撃ち抜く。身体が砕け、内部から小さな玄関扉が現れた。扉が空中で開き、中から腕が伸びる。神楽の首をつかもうとした瞬間、クライムのワイヤーが腕へ絡みつき、引き千切った。


「接続完了まで」


 紅林が尋ねる。


「四十秒」


 榛名が答える。


「防衛線を維持してください」


 黒岡が銃を再装填する。


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


「隊長の真似か」


「その言い回しは私です」


 紅林が答える。


 小鳥の群れが旋回し、十三羽が一列に並んだ。嘴を開く。


「おかえりなさい」


 音圧が解析室を揺らす。紅林の意識へ家の記憶が流れ込み、千鳥が叫び、新木が膝をつく。金属球が赤く変色した。


「帰還先を再定義します」


 家の声。


「全ての者は家へ帰属します」


 紅林は意識を保つ。


「拒否します」


「家族は拒否できません」


「私たちは家族ではありません」


「同じ場所に住む者は家族です」


「違います」


「同じ目的を持つ者は家族です」


「違います」


「互いを守る者は家族です」


 紅林は一瞬黙った。


 その定義だけは、完全には否定できない。マジックナンバーズ。サイト83。互いを守る者たち。家族と呼ぶこともできる関係。


 家は、そこを突いてくる。


「なら、家族でしょう」


 紅林の認識が揺れる。


「家族でもいい」


 千鳥の声がした。紅林は彼女を見る。


「でも」


 千鳥は金属球を握る。


「家族だからって、家にいなくていい。一緒にいなくてもいい。同じことを考えなくてもいい」


 千鳥は家を睨んだ。


「離れてもいい。帰らなくてもいい」


 そして、叫ぶ。


「それでも関係が残るなら、それが家族でしょ!」


 十三羽の鳥が一斉に崩れた。羽毛、肉、木片、写真。その全てが床へ落ちる。


 金属球が白く輝いた。


 保留領域安定化率、百パーセント。


「接続完了」


 榛名が言う。


「帰還処理を実行できます」


 紅林はサイト83全体を認識する。家の構造、施設の構造、保留領域、職員、人格結晶、千鳥、澪。その全てを分ける。


「家を初期座標へ戻します」


 榛名の表情が変わった。


「初期座標は消失しています」


「では、どこへ」


「本試作品が最初に登録された場所」


「東雲重工業の研究施設か」


「はい」


「現在も存在しますか」


「破棄済みです」


「なら戻せません」


「帰還先が存在しない場合――」


 榛名は一瞬だけ言葉を止めた。


「最も近い帰属地点へ移動します」


「それはどこです」


「弊社の現行施設です」


 新木が顔を上げる。


「最初からそれ狙いやったんか」


「いいえ」


「ほんまか」


「当社は嘘を申し上げません」


「鬼灯産業ちゃうやろ」


「当社も、必要のない虚偽は避けます」


「必要なら嘘つく言い方やな」


 紅林は榛名を見る。


「家を東雲重工業の施設へ送るつもりですか」


「選択肢の一つです」


「回収と研究に利用する」


「否定しません」


「許可できません」


「では、帰還先を新たに指定してください」


「家が帰属できない場所を」


 紅林は考える。現実のどこかへ送れば、そこが新しい家になる。人のいない場所でも、海底でも、砂漠でも、宇宙でも。家は帰還願望を利用し、再びどこかを取り込む可能性がある。


「帰属先を持たない領域」


 千鳥が言う。


「保留領域?」


「そこには未応答者がいます」


 紅林が答える。


「別に作る。新しい保留領域を。家だけのために」


 新木が苦しげに笑った。


「帰る場所やなく、帰れへん場所を作るんか」


「隔離領域です。帰属を認めず、外部との接続を遮断する。家に人間の願望を供給しない」


「可能ですか」


 神楽が榛名へ尋ねる。


「空間帰還誘導器単体では不可能です」


「安定化装置を使えば」


「弊社装置を恒久的に一基失います」


「提供してください」


「見返りは」


「空間帰還誘導器の共同管理」


「回収ではなく」


「共同管理です」


「MDE施設内で」


「はい」


 榛名は黙った。


 東雲重工業にとって、製品回収は利益になる。だが、MDEと戦うのは損失だ。共同管理なら、技術へのアクセスを残せる。完全ではないが、撤退よりはよい。


「条件を追加します」


 榛名が言う。


「保守点検時、弊社技術者の立ち入りを認めてください」


「MDE監視下で」


「機密技術への直接監視は拒否します」


「では、交渉不成立です」


「契約ではありません」


「交渉不成立です」


 短い沈黙。家の構造が再び膨張する。時間がない。


「作業工程のみ非公開」


 紅林が譲歩した。


「持ち込み装備と作業結果は、全て検査します」


「作業員の身体検査は」


「必須です」


「記憶検査は」


「必要に応じて」


「拒否します」


「なら、立ち入りを認めません」


 榛名は紅林を見つめる。数秒後、口を開いた。


「分かりました」


「同意ですか」


「東雲重工業は、利益にならない戦闘を望みません」


「それは知っています」


「では、共同管理を受け入れます」


 新木が呻く。


「ほんまに商売人やな」


「工業会社です」


 榛名が作業員へ合図する。四基の安定化装置が保留領域から切り離され、そのうち一基だけが家の隔離用へ転用された。


 黒い杭が空間へ打ち込まれ、銀色の線が立方体を描く。内部には何もない。どこにも帰属しない空間。


「隔離領域を形成。帰還対象を指定してください」


 紅林と千鳥が同時に金属球へ触れる。


「対象」


 紅林が定義する。


「本人の意思を無視して帰属を強制する全構造」


 千鳥が続ける。


「帰らせようとする家」


 金属球が光った。


 サイト83全体から黒い根が引き剥がされる。壁、床、天井、職員の記憶、家族の幻影、食卓、玄関、小鳥箱。その全てが一つの塊へ集まっていく。


 巨大な家。


 柊木家の外観。だが窓の一つ一つには、サイト83の部屋が映っている。


 家は抵抗した。


「帰りたい」


「帰らせて」


「家族を返して」


「ここが家です」


 紅林は答える。


「違います」


 千鳥も答えた。


「ここは、誰の家でもない」


 家が隔離領域へ引き込まれる。屋根、柱、玄関。そして最後に、小鳥箱。


 十三番目の穴から、顔のない何かがこちらを見た。


「おかえりなさい」


 千鳥は首を振る。


「さようなら」


 隔離領域が閉じた。


 黒い立方体。表面に継ぎ目はない。音もない。


 家の声が、完全に消えた。


 サイト83へ現実が戻る。解析室。鋼鉄の壁。端末。警報灯。壊れた机。床へ座り込む隊員たち。


 館内放送が途切れ、通常照明が点灯した。通信端末へ無数の着信が入る。


『管制室からγ-9』


『解析室の位置を再確認』


『施設全体で一時的な構造異常』


『負傷者多数』


『応答せよ』


 紅林は通信を開いた。


「こちらγ-9。全員生存しています」


 新木が床へ倒れ込む。


「全員ちゃう。ワシもう無理や」


「生きています」


「精神的には死んどる」


「荒木へ五千円請求できます」


「復活したわ」


 黒岡が笑う。神楽も小さく息を吐いた。張り詰めていた緊張が、ようやく切れた。


 だが、紅林はまだ金属球から手を離さない。


「管理権限は」


 榛名が確認する。


「維持されています」


「共同管理合意に基づき、製品をMDE側へ一時預託します」


「一時ですか」


「所有権は弊社にあります」


「異常災害の原因物です」


「協議事項です」


「逃げますか」


 紅林が尋ねる。榛名は廊下を見る。遠くから、MDE警備部隊の足音が近づいていた。


「撤収します」


「社員証は」


「差し上げます」


「追跡に使います」


「認識阻害処理済みです」


「正直ですね」


「隠しても、いずれ確認されます」


 榛名は四人の作業員へ合図する。彼らの背後に灰色の扉が現れた。どこへ続くかは分からない。


「待ってください」


 紅林が呼び止める。


「何でしょう」


「東雲重工業は、小鳥箱の不正流出について本当に把握していなかったのですか」


 榛名は答えない。


「二十五年近く見つけられなかった。にもかかわらず、今は即座に現れた」


「製品が再起動したためです」


「写真の中に、あなたがいました」


「私ではありません」


「同じ所属の人間でしょう」


「退職者です」


「名前は」


「回答できません」


「不正流出ではなく、意図的な試験だった可能性は」


 榛名は沈黙する。


 東雲重工業は、必要のない嘘を避ける。答えないということは、否定できないということだ。


「その可能性を否定しないのですね」


「回答できません」


「十分です」


 紅林は銃口を下げた。


「次に会う時は、正式な調査対象として対応します」


「承知しました」


「逃げ切れると思いますか」


「逃げ切れなければ、保有設備を使用します」


 榛名の声は変わらない。


「ですが、可能であれば戦いません」


「なぜです」


「MDEとの戦闘は、利益を生みません」


「人命ではなく、利益ですか」


「当社は企業です」


 榛名は一礼した。


「それでは、失礼いたします」


 灰色の扉が閉じ、榛名と作業員たちの姿が消える。扉があった場所には、何も残らなかった。


 神楽が追跡装置を確認する。


「反応なし」


「予想通りです」


 紅林は金属球から手を離した。千鳥も続く。


 接続が切れ、二人の認識が分かれる。突然、自分の身体へ戻ったような感覚。紅林はわずかにふらつき、神楽が支えた。


「隊長」


「問題ありません」


「今後、その言葉は信用しません」


「命令違反ですか」


「医療部門への搬送を提案します」


「承認します」


 神楽は少し驚いた顔をした。


「素直ですね」


「判断力低下を自覚しています」


「なら最初から」


「今は議論しません」


 解析室の扉が開き、MDE警備部隊と医療班が入ってくる。負傷者の確認。人格結晶ケースの搬送。保留領域の隔離。黒い立方体の収容。次々に作業が始まった。


 千鳥はその場に立ったまま、騒がしい室内を見ていた。


 誰も彼女を家族と呼ばない。帰れとも、残れとも言わない。まだ誰も、彼女の行き先を決めていない。


「千鳥」


 紅林が呼ぶ。少女は顔を上げる。


「何」


「これから、あなたの処遇について話し合います」


「閉じ込めるの」


「安全確認のため、一時的な保護区画へ移動します」


「それ、閉じ込めるってこと?」


 紅林は少し考えた。


「はい」


 千鳥は目を細める。


「正直」


「嘘はつきません」


「鬼灯産業みたい」


「訂正してください」


 床から新木の笑い声がした。


「隊長、そこ気にするんやな」


 紅林は彼を無視する。


「ただし、あなたの意見は確認します」


「聞くだけ?」


「可能な範囲で反映します」


「全部じゃないんだ」


「安全上、認められない要求もあります」


 千鳥は少し黙った。


「家よりまし」


「比較対象が低すぎます」


 少女の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。顔のない表面に、はっきりとした表情はない。それでも紅林には分かった。


 千鳥は、自分で選んだ反応をしている。


「澪は」


 千鳥が尋ねた。紅林は人格結晶ケースを見る。透明な結晶の内部に、紅林と同じ姿をした小さな人影が眠っている。


「保存されています」


「起きる?」


「分かりません」


「消えない?」


「保証できません」


 千鳥は頷いた。


「分かった」


 紅林は少しだけ意外に思う。


「怖くないのですか」


「怖い」


「それでも」


「分からないって言ってくれたから」


 家は全てを保証した。


 必ず帰る。必ず家族になる。必ず一緒にいられる。


 その保証が、全てを壊した。


 分からない。できないかもしれない。失うかもしれない。それでも選ぶ。


 それが、家の外にあるものだった。


 医療班が新木を担架へ乗せる。


「自分で歩けるで」


「先ほど無理だと言いました」


 紅林が言う。


「あれは気持ちの話や」


「横になっていてください」


「荒木に見られたら笑われる」


 解析室の入口から声がした。


「もう見とるで」


 新木が凍りつく。


 荒木が立っていた。軽い負傷。額に包帯。戦術服の上着を片手に持っている。彼は担架の上の新木を見る。


「ずいぶん偉そうに運ばれとるな」


「ちゃうねん」


「何がちゃうねん」


「世界救っててん」


「五千円も返さんと?」


「ワシが貸した側や!」


 荒木は少し考えた。


「ああ、せやったな」


「忘れんなや!」


「ほな、返さんでもええか」


「返せ!」


 解析室に短い笑いが起きた。黒岡、高峰、クライム。緊張から解放された者たちの笑いだった。


 千鳥も二人のやり取りを見ている。


「家族?」


 彼女が紅林へ小さく尋ねた。


「違います」


 紅林は即答する。


「同僚です」


「仲悪そう」


「通常運転です」


「でも、帰ってきてよかったって顔してる」


 紅林は荒木を見る。彼は新木をからかいながらも、担架の固定具を確認していた。怪我がないか。意識が正常か。目立たないように確かめている。


「そうかもしれません」


 紅林は言った。


「家族じゃなくても、帰ってきてよかったって思うんだ」


「はい」


 千鳥は少し考える。


「それなら、家族じゃなくてもいいかも」


 医療班が新木を運び出し、荒木もついていく。


「荒木!」


「なんや」


「財布、机の上にある!」


「ほな、回収しといたるわ」


「取るな! 五千円だけ返せ!」


「細かい男やな」


「借りた側が言うな!」


 二人の声が廊下の奥へ遠ざかっていく。


 紅林は解析室に残る黒い立方体を見る。家を封じた隔離領域。表面には何もない。音も、振動も、反応もない。


 だが、完全に消えたわけではない。東雲重工業の装置によって隔離されているだけだ。


 鬼灯産業の契約は終わった。家族帰宅支援設備は廃棄された。人格原型は救出された。


 それでも、家そのものは残っている。


「監視体制を構築します」


 紅林が神楽へ言う。


「常時監視。物理接触禁止。音声、映像、空間座標を別系統で記録してください」


「了解」


「東雲重工業製安定化装置の分解は」


「契約上は禁止されていません」


 神楽が言う。


「契約ではなく合意です」


「同じです」


「違います」


「細かいですね」


「重要です」


 紅林は立方体へ近づき、二メートル手前で止まる。表面は黒く、光を反射しない。覗き込んでも、自分の姿は映らなかった。


 その奥に家がある。帰る場所を失った家。帰属先を持たない構造。人間の願いを与えられない限り、動かないはずの異常。


 紅林は背を向けた。


 その時、立方体の表面に小さな白い点が浮かんだ。


 一つ、二つ、三つ。


 十三個。


 小鳥箱の穴と同じ配置。


 神楽が気づく。


「隊長」


 紅林が振り返る。十三個の白い点。そのうち十二個は、すぐに消えた。


 最後の一つだけが残る。


 点はゆっくりと広がり、小さな穴になった。奥は真っ暗で、何も見えない。


 やがて内側から、一枚の紙が押し出された。床へ落ちる。神楽が遠隔アームで回収した。


 白い封筒。宛名はない。


 差出人。


 鬼灯産業株式会社。


 新木はすでに搬送されている。その場で術式検査はできない。


「開封しますか」


 神楽が尋ねる。


「封鎖容器へ」


「内容を確認しなくていいのですか」


「今は」


 紅林は封筒を見る。表面には、小さな赤い鬼灯の印。そして手書きの文字。


 契約終了後のご家族へ。


「家族ではありません」


 紅林は静かに言った。


 封筒の文字が滲む。「ご家族」の三文字に黒い線が引かれ、新しい文字が浮かんだ。


 ご関係者様へ。


 紅林は目を細める。


「訂正されました」


 神楽が言う。


「鬼灯産業は嘘をつかない」


「だから厄介です」


 封筒は封鎖容器へ収められた。直後、黒い立方体の穴が閉じ、白い点も消える。再び完全な無反応となった。


 だが、封筒だけが残っている。


 新しい報告。


 新しい契約。


 あるいは、鬼灯産業からの正式な謝罪。


 紅林には判断できなかった。


「現場対応を終了します」


 彼女は言う。


「以後、隔離領域と人格結晶の保全を最優先。東雲重工業の追跡と、鬼灯産業への照会は別任務として扱います」


「了解」


 神楽が答えた。


 紅林は解析室を出る。廊下、警報灯、走る職員、負傷者を運ぶ医療班。見慣れたサイト83。


 完全に元通りではない。壁には木目の染みが残り、床の隅には小さな木片が落ちている。館内放送は正常へ戻った。


 それでも、遠くの廊下で誰かが扉を開くたび、紅林は一瞬だけ足を止める。


 玄関の音に聞こえる。


 誰かが帰ってきたように。


 だが、それは家ではない。


 ただの扉。ただの廊下。誰かが自分の意思で通るための場所。


 紅林は歩き続けた。


 その背後。


 解析室の封鎖容器の中で、鬼灯産業の封筒がわずかに動く。


 紙の擦れる音。


 封筒の内側から、何かが爪を立てた。


 かり。


 かり。


 かり。


 そして、誰にも聞かれないほど小さな声で。


「次の契約者を確認しました」


 封筒の表面に、新しい宛名が浮かび始める。


 紅林澪奈ではない。千鳥でもない。新木慎介でもない。


 最初の一文字。


 荒。


 続いて。


 木。


 荒木。


 最後の名が刻まれる直前、封鎖容器の監視装置が異常を検知した。警報が鳴り、赤いランプが点灯する。


 だが、封筒の文字は止まらない。


 荒木――。


 その先が完成する前に、封筒の内側から木製の嘴が突き出した。


 白い紙を破り、赤い鬼灯の種をくわえ、一羽の小鳥がゆっくりと顔を出す。


 小鳥は監視カメラを見た。


 首を傾げる。


 ちち。


 一度だけ鳴いた。


「お届け物です」


 終わりを告げるように、サイト83の深夜放送が静かに鳴り始めた。

次回予告


第九章 お届け物


10月4日21時投稿予定

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