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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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51/85

第七章 十三羽目

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想聞かせてください!

解析室の壁が、もう一度だけ鳴った。


 どん。


 鈍い音だった。外側から叩いた音ではない。コンクリートと断熱材、そのさらに奥に存在するはずのない空洞から、何かが手のひらを押し当てたような音だった。


 サイト83の非常灯が赤く明滅する。一度、二度、三度。


 警報は鳴っていない。自動防衛設備も作動していない。施設管理端末は、解析室に異常が存在しないと表示していた。


 だが、壁の向こうからは確かに声がした。


「ただいま」


 幼い子供の声。千鳥のものではない。もっと幼い。五歳か、六歳。男女の区別すら曖昧な、柔らかい声だった。


 千鳥の肩に止まった木製の小鳥が、十三回目の鳴き声を終える。


 ちち。


 最後の一声だけが異様に低かった。鳥の声ではない。人間が鳥の鳴き声を真似たような音。それも、一人ではない。十数人の声が重なっていた。


 紅林澪奈は銃を上げた。


「全員、壁から離れてください」


 神楽が即座に周囲を確認する。


「解析室の封鎖を提案します」


「承認します」


「高峰、非常扉を」


「了解」


 高峰が入口横の緊急封鎖装置へ手を伸ばし、保護カバーを外して赤いレバーを引く。解析室の出入口へ分厚い鋼鉄製シャッターが下り始め、同時に天井の防火隔壁が作動した。室内がサイト83本棟から切り離されていく。


 クライムが搬出した人格結晶のケースを中央へ集める。黒岡はメアリーと千鳥を背後へ下げた。


 新木慎介は、床へ落ちた鬼灯産業の社章を見つめている。榊の再現体が消えたあと、社章はただの銀色の金属片へ戻っていた。赤い光もなく、文字も消えている。それでも新木は触れなかった。


「新木」


 紅林が呼ぶ。


「分かっとる。拾わへん。もう二度と拾わへん」


「解析を」


「直接触れずにやる」


 新木はポーチから黒い布を取り出した。布の四隅には小さな鉛玉が縫いつけられている。社章へ被せ、続いて細い木片を十字に組んで布の上へ置いた。


「これで一応、所有権の再接続は防げるはずや」


「一応ですか」


「絶対言うたら、こういう場所では負けや」


 新木が立ち上がる。


 壁から三度目の音がした。


 どん。


 今度は一つではない。北側、南側、天井、床下。部屋そのものを外側から無数の手が囲み、全てが同じ速度で叩き始めた。


「ただいま」


「ただいま」


「ただいま」


 声も増えていく。幼い子供、成人男性、老女、若い女、掠れた老人。何百もの声が壁の向こうで重なった。


 メアリーが両耳を押さえる。


「違う」


 彼女は小さく言った。黒岡がその前へ立つ。


「何が聞こえる」


「家族の声じゃない」


「家が話しているのか」


「違う。家が、誰かの声を使ってる」


 千鳥が肩の小鳥を見る。木製の鳥は彼女へ顔を向けていない。壁を見つめ、嘴をわずかに開いて、何かを待っている。


「この子、家を呼んでる」


「小鳥がですか」


 紅林が尋ねる。千鳥は頷いた。


「ずっとそうだった」


「何がです」


「小鳥箱が置かれてから、家がおかしくなった」


 新木が千鳥を見る。


「鬼灯産業の設備を入れる前からか」


「ううん。最初に来たのは、小鳥箱だった」


 解析室の全員が静まった。


「誰が持ってきた」


「知らない男の人」


「鬼灯産業の榊ではありませんか」


「違う。もっと若かった」


「服装は」


「作業着」


「色は」


「灰色」


 新木の眉が動く。


「会社名は見たか」


「胸に字があった」


「東雲か」


 千鳥は答えなかった。代わりに、肩の小鳥を見つめる。その腹部に浮かんだ文字――東雲。二文字目まで刻まれた企業名は、それ以上進んでいない。だが、新木には十分だった。


「東雲重工業株式会社。やっぱり、あいつらが噛んどる」


 高峰が銃口を壁へ向けたまま尋ねる。


「鬼灯産業と東雲重工業が共同で作ったのか」


「まだ分からへん」


「榊は別事業者の製品だと言った」


「鬼灯産業は嘘をつかへん。せやから、少なくとも小鳥箱そのものは鬼灯産業製やない」


「では、何のための製品です」


 神楽が言う。新木は答えず、千鳥へ視線を戻した。


「小鳥箱が来たあと、何が起きた」


 千鳥はしばらく黙っていた。思い出したくない記憶。長い時間の中で家に削られ、加工され、それでも残った断片。


「最初は、何も」


「箱を置いただけか」


「うん」


「置いた場所は」


「玄関」


「鬼灯産業の設備は、そのあとですか」


「あと」


「どれぐらい後や」


「分からない。でも、お父さんが帰ってきてから」


 紅林の目が細くなる。


「最初に帰宅したのは父親ですか」


「うん」


「死亡していた」


「事故で。山で車が落ちたって」


 その父親を帰した。鬼灯産業の家族帰宅支援設備が。少なくとも、家族はそう考えていた。


 だが、榊の最後の言葉が残っている。


 小鳥箱は、家族を帰すための設備ではない。


 家を帰すための設備。


 紅林は壁を見る。


「小鳥箱が先に家へ入り、鬼灯産業の設備があとから導入された」


「せや。鬼灯産業の設備は帰宅願望を拾う。せやけど、帰宅先を作る機能はあっても、家そのものを増殖させる機能は本来ないんかもしれん」


「小鳥箱が家を作った」


「あるいは、運んだ」


 新木は解析室の床を見下ろす。


「家を別の場所へ帰宅させるための座標杭。そないなもんかもしれへん」


「家が帰宅するとは、どういう意味です」


 神楽が尋ねる。


「人間の帰宅は、家の外から中へ移動することや」


「はい」


「家の帰宅は、その逆やない」


 新木は壁を指した。


「家が自分の中へ、外側の場所を取り込む」


 壁の向こうで何かが擦れた。


 ざり。ざり。ざり。


 コンクリートの裏側を木材が這う音。柱、梁、床板。存在しないはずの建材が、施設構造の内側で組み上がっている。


「解析室が家の一部にされる」


 クライムが言った。


「違う」


 メアリーが呟く。


「サイト83が」


 室内の空気が重くなった。紅林は通信端末を操作する。


「管制室、応答してください」


 雑音。返答がない。


「こちらγ-9。サイト83管制室、応答を」


 数秒後、無線の向こうから男性職員の声が聞こえた。


『こちら管制室』


 発声が遅い。一音ずつ、言葉の形を確認しているような話し方だった。


「施設全体の異常状況を報告してください」


『異常は、ありません』


「解析室を緊急封鎖しました。隔壁作動記録を確認してください」


『隔壁は、作動していません』


 神楽が装置を見る。目の前では鋼鉄製シャッターが完全に下り、防火隔壁も閉じている。だが、管制側には作動記録がない。


「施設図を確認してください。解析室の位置は」


『解析室は、存在しません』


 全員の動きが止まった。


「繰り返してください」


『サイト83施設図に、解析室は存在しません』


「現在、私たちがいる部屋です」


『その部屋は、どちらですか』


 無線の向こうで複数の声が囁く。管制室の職員たちが何かを相談している。その声の中に、子供の笑い声が混ざっていた。


『所属を確認します』


「特殊対応部隊γ-9、マジックナンバーズ」


『該当する部隊は、登録されていません』


 通信が切れた。紅林は端末を見つめる。


「認識改変が始まっています」


 神楽が言う。


「外部から、この部屋と私たちの存在が消されている」


「家の中へ移されたからや」


 新木は窓のない壁を見回す。


「サイト83におるんやない。見た目だけ同じ別の家へ入れられた」


「では、封鎖は意味がありません」


 高峰が言う。


「むしろ自分たちで退路を閉ざしただけだ」


「隔壁を開けます」


 神楽が操作盤へ向かい、緊急解除コードを入力する。反応はない。もう一度入力しても無反応だった。保護板を外して内部配線へ直接アクセスする。回路は正常で、電源も生きている。それでも隔壁は動かない。


 黒岡が鋼鉄製シャッターへ近づき、拳で軽く叩いた。返ってきた音は金属ではない。


 こん。


 木の音。


 黒岡はナイフを抜き、シャッターの表面を削る。銀色の塗装が剥がれ、その下から古い木材が現れた。黒ずんだ柱。


「もう置き換わっている」


 紅林が言う。


「解析室の構造全体が家に変わり始めています」


 壁の時計が止まった。秒針が十二の位置で動かない。次の瞬間、逆回転を始める。


 一秒、二秒、三秒。


 室内の端末表示も変化した。日時、施設番号、人員登録。全てが高速で巻き戻る。現在の日付から一年前、五年前、十年前。そして、平成十三年。


 千鳥が顔を上げた。


「この日」


 端末の日付が止まる。


 平成十三年八月十三日。


 家族帰宅支援設備が導入された日。


 室内の机が木製の食卓へ変わる。端末は陶器の皿へ、資料は新聞紙へ、椅子は古い座布団へ。壁には家族写真が現れた。


 柊木家。玄関の前に並ぶ家族。千鳥。そして写真の端には、灰色の作業着を着た若い男が立っている。


 男の胸元には、確かに文字があった。


 東雲重工業株式会社。


「写真を記録してください」


 紅林が言う。神楽がカメラを構え、撮影した。だが画面には何も映らない。ただの白い壁だけだった。


「認識依存か」


「いいえ」


 メアリーが男を見つめる。


「こっちを見てる」


 写真の中の男。灰色の作業着、短い黒髪、穏やかな顔。彼は家族と同じ方向を向いていない。カメラでもなく、解析室にいる紅林たちへ視線を向けていた。


 写真の中から。


「見えているんですか」


 紅林が尋ねる。男の口が動いた。音は出ない。新木がその動きを読む。


「やっと帰った」


 壁が大きく膨らんだ。内側から何か巨大なものが押し出してくる。コンクリートの表面が裂け、亀裂の奥から古い玄関扉が現れた。


 柊木家の玄関。


 すでに廃棄したはずの家。


 扉はゆっくりと開いた。外はない。向こうには、以前の家と同じ長い廊下が続いている。畳、白い襖、柱時計。だが廊下の左右には、MDEの施設設備が埋め込まれていた。監視カメラ、配管、警報装置、職員用掲示板。


 家とサイト83が混ざり合っている。


「家がサイト83へ帰ってきた」


 千鳥が言った。新木は首を振る。


「ちゃう」


「何が違うの」


「家が帰ったんやない」


 彼は玄関の向こうを見る。


「ここを家にしたんや」


 廊下の奥に、誰かが立っていた。灰色の作業着。写真の中にいた男と同じ制服。胸元には、東雲重工業株式会社の社名。


 男は両手を見える位置に上げた。武器は持っていない。敵意も見せない。ゆっくりと一礼する。


「お初にお目にかかります。東雲重工業株式会社、第三特殊製品管理課所属。榛名と申します」


 紅林は銃口を下げない。


「所属証明を」


「こちらを」


 榛名は胸元から社員証を取り出し、床へ置いて蹴った。社員証は玄関を越え、解析室側へ滑ってくる。神楽が遠隔アームで回収した。


 社員証には顔写真、氏名、社員番号、所属。そして下部には、赤い文字で記載がある。


 異常製品回収権限保持者。


「本人確認はできません」


 神楽が言う。


「認証先が存在しない」


「当然です。当社の人員情報は、一般的な外部照会では確認できません」


「では、信用できません」


「信用を求めてはおりません」


 紅林の目が細くなる。


 東雲重工業の基本方針。MDEと正面衝突しない。発見時は人員と技術の保全を優先。可能なら戦わず、可能なら殺さず、証拠を消して逃げる。


 だが、今の榛名は逃げていない。自ら姿を見せた。


「目的は何です」


「弊社製品の回収です」


「十三羽目」


「正確には、空間帰還誘導器試作十三号」


 千鳥の肩の小鳥が、ちち、と鳴いた。榛名はそれを見る。


「長期間の未回収状態について、まずお詫び申し上げます」


「謝罪は不要です。機能を説明してください」


「空間帰還誘導器は、登録された構造物を指定座標へ帰還させる装置です」


「家を移動させる」


「単なる移動ではありません」


「では」


「対象構造物が帰属すると認識した場所を、帰還先へ上書きします」


 新木が舌打ちする。


「やっぱりや」


 榛名は続けた。


「本試作品は災害時、戦闘時、空間崩壊時などにおいて、重要施設を安全な座標へ退避させる目的で開発されました」


「重要施設」


「研究所、倉庫、避難施設、移動不能な収容設備などです」


「なぜ民家に設置された」


 榛名は一瞬だけ沈黙した。


「試験運用です」


 黒岡の声が低くなる。


「民間人の家で試したのか」


「正式な試験ではありません」


「では何です」


「不正流出です」


 榛名は淡々と答えた。


「当時、本試作品は輸送中に紛失しました。その後、個人売買を経由し、柊木家へ渡ったものと推定されています」


「東雲重工業は回収しなかった」


「捜索は行いました」


「見つけられなかった」


「はい」


「二十五年近く」


「はい」


 榛名は一度も目を逸らさない。嘘をついているようには見えなかった。だが、正直であることと、信用できることは別だ。


「鬼灯産業との関係は」


「契約関係はありません」


「鬼灯産業の設備と干渉した」


「そのようです」


「想定していましたか」


「いいえ」


「結果として、帰還誘導器が鬼灯産業の帰宅支援設備を、家の移送条件として利用した」


「現時点では、その可能性が高いと判断しています」


「家族が帰宅するたび、家そのものが帰還先を増やした」


「はい」


「最終的に、家は人間の帰宅願望を利用し、あらゆる場所を自分の帰属先として上書きするようになった」


「はい」


 新木が榛名を睨む。


「で、今はサイト83を新しい帰還先にしようとしとる」


「正確には」


 榛名は解析室を見回した。


「すでに帰還処理は完了しています」


 その瞬間、解析室の外から館内放送が流れた。


『職員の皆様にお知らせします』


 サイト83で通常使用されている女性職員の声。


『本日の業務は終了しました』


 紅林たちの表情が変わる。


『各自、速やかに帰宅してください』


 廊下の奥で、無数の扉が開く音がした。


 がちゃ。がちゃ。がちゃ。


『ご家族がお待ちです』


 榛名が背後を見る。


「急ぐ必要があります」


「何が起きています」


「サイト83職員全員が、帰宅対象として認識されました」


「家が職員を取り込む」


「はい」


「止める方法は」


「空間帰還誘導器を回収し、登録構造物を初期化します」


「回収すれば、家は消えるのですか」


「家として維持されている異常構造は崩壊します」


「内部の人員は」


「保証できません」


 紅林は榛名を見る。


「何名が取り込まれている」


「現時点では不明です」


「推定を」


「サイト83の全在籍者」


 室内が静まり返る。研究員、警備員、事務職員、収容担当、医療部門、実働部隊。サイト83には多数の人員がいる。その全てが、すでに家の内部へ含まれている可能性があった。


「初期化以外の方法は」


「誘導器の所有権を書き換え、帰還対象を限定する」


 新木が顔をしかめる。


「また所有権か」


「本製品は契約型ではありません。物理的な管理権限です」


「誰が持っとる」


「現在は未登録です」


「さっき千鳥に止まっとったやろ」


「対象の位置を示すためです。所有者登録ではありません」


「ほな、どう登録する」


「製品本体へ管理者の生体情報を入力します」


 紅林は千鳥の肩を見る。木製の小鳥。腹部には東雲の文字。それが本体。


「入力した者はどうなります」


「本製品の管理者となります」


「影響は」


「空間帰還処理中、登録構造物との認識接続が発生します」


「家の内部を認識できる」


「はい」


「逆に、家からも認識される」


「はい」


「人格汚染の可能性は」


「あります」


「死亡率は」


「算定不能です」


 高峰が低く言う。


「何も保証しないのか」


「保証できないことを保証するとは申し上げられません」


「東雲らしいな」


 新木が吐き捨てる。榛名は否定しなかった。


「こちらから一つ提案があります」


「言ってください」


「弊社で回収します」


「拒否します」


 紅林は即答した。榛名の表情は変わらない。


「理由を伺っても」


「MDE施設と多数の人員が取り込まれています。管理権限を外部団体へ渡すことはできません」


「弊社製品です」


「現在は異常災害の原因です」


「その点は認めます」


「回収後、情報を開示しますか」


「必要な範囲で」


「必要性を判断するのは」


「弊社です」


「なら、なおさら渡せません」


 榛名は短く息を吐いた。困惑でも苛立ちでもない。想定通りの回答を受けた者の反応だった。


「MDEがそう判断することは予測していました」


「では、どうします」


「妨害はしません」


 黒岡が銃口をわずかに上げる。


「本当か」


「弊社の目的は、製品と技術の保全です」


「なら奪いに来るだろう」


「正面衝突は損失が大きい」


 榛名は淡々と答える。


「MDEが安全に停止できるのであれば、その過程を観測し、可能であれば後日回収します」


「逃げるのか」


「撤収します」


「同じだ」


「言葉の定義は重要です」


 新木が鼻で笑った。


「鬼灯産業みたいなこと言いよる」


「当社は契約会社ではありません」


「そういう問題ちゃうわ」


 館内放送が再び流れる。


『職員の皆様、ご家族がお待ちです。帰宅してください』


 放送の背後で悲鳴が聞こえた。誰かが助けを求めている。銃声。何かが壊れる音。そして最後に。


『おかえりなさい』


 通信が切れる。紅林は決断した。


「管理権限を取得します」


「隊長」


 神楽が止める。


「危険性が不明です」


「他に方法がありません」


「榛名にやらせるべきです」


「東雲重工業へ、サイト83の構造と人員情報を渡すことになります」


「それでも、隊長が人格汚染を受けるよりは」


「私が適任です」


 新木が一歩前へ出た。


「いや、ワシがやる」


 紅林が彼を見る。


「理由を」


「契約系と空間系の両方に知識がある」


「先ほど所有者にされたばかりです」


「経験者や」


「不採用です」


「なんでや」


「所有権との相性が良すぎます」


 黒岡が小さく笑う。


「確かに」


「笑うとこちゃうぞ」


「冗談ではありません」


 紅林は新木を見据えた。


「二度続けて異常設備の管理者に選ばれる可能性があります」


「今度は自分からや」


「だから危険です」


 新木が反論しようとした時、千鳥が先に口を開いた。


「私がやる」


 全員が少女を見る。


「駄目です」


 紅林が即座に否定した。


「どうして」


「あなたは保護対象です」


「この家を知ってる」


「だからです」


「私のせいで、ここまで来た」


「違います」


「でも」


「あなたが原因ではありません」


 紅林ははっきりと言った。


「小鳥箱を持ち込んだ者。回収できなかった東雲重工業。異常設備を導入した家族。契約に依存した鬼灯産業。複数の要因があります」


 榛名がわずかに目を伏せる。


「あなた一人の責任ではありません」


「でも、私なら家が分かる」


「その可能性はあります」


 メアリーが言った。紅林が彼女を見る。


「千鳥はずっと、十三羽目として家と繋がっていた。たぶん、一番深く入れる」


「負担も最大です」


「うん」


 千鳥は自分の胸へ手を当てる。


「でも、今度は帰るためじゃない。出すために使う」


 紅林は黙った。合理的に考えれば、千鳥は適任だった。家の核。長年の接続。構造への理解。だが同時に、最も守るべき対象でもある。


「共同管理は可能ですか」


 紅林が榛名へ尋ねた。


「二名まで登録できます」


「負荷を分散できる」


「はい。ただし、認識接続も共有されます」


「一人が汚染された場合は」


「もう一人へ影響する可能性があります」


「解除方法は」


「本体を物理的に破壊する」


「破壊後、登録構造物は」


「帰還座標を失い、崩壊します」


「最後の手段ですね」


「はい」


 紅林は千鳥を見る。


「共同管理にします」


「誰と」


「私です」


 神楽が口を開く。


「隊長」


「決定です」


「反対します」


「理由を」


「隊長が汚染された場合、部隊指揮が失われます」


「神楽が引き継いでください」


「そういう意味ではありません」


 紅林は一瞬だけ彼女を見る。神楽は感情を抑えていた。隊長としての判断に反対しているだけではない。一人の隊員として、紅林を危険へ行かせたくないのだ。


 家族ではない。だが、関係はある。


「命令です。私と千鳥で管理権限を取得します」


 神楽は唇を結ぶ。数秒後、銃を下げた。


「了解しました」


 榛名が一歩退く。


「登録方法を説明します」


 千鳥の肩の小鳥が飛び立ち、解析室中央へ降りる。木製の足が床へ触れた瞬間、その身体が開いた。背中、翼、腹部。木片が花弁のように展開し、内部から小さな金属球が現れる。


 黒い金属。その表面には無数の細い溝が刻まれている。血管にも、地図にも、迷路にも見えた。


「左右から触れてください。生体情報と自己認識を登録します」


「自己認識」


 紅林が確認する。


「名前、帰属、役割、帰還先の概念です」


「虚偽は可能ですか」


「推奨しません」


「不可能ではない」


「製品が矛盾を検出した場合、帰還先の誤認が発生します」


「つまり、嘘をつけば別の場所へ飛ばされる」


「最悪の場合、帰還先そのものが消失します」


 紅林と千鳥は金属球の左右へ立った。紅林が右手を伸ばし、千鳥が左手を伸ばす。


 同時に触れた。


 冷たさはない。熱もない。触れた感覚すら曖昧だった。代わりに、頭の中へ問いが響く。


 名前。


 紅林澪奈。


 千鳥。


 帰属。


 MDE。


 なし。


 紅林の思考に、千鳥の答えが流れ込む。


 千鳥には帰属する場所がない。家も、組織も、家族も。何もない。


 金属球が震え、矛盾を検出したように溝が赤く光る。


「千鳥。帰属を決めてください」


「決められない」


「場所でなくても構いません」


「何でもいいの」


「あなたが選んだものなら」


 千鳥は目を閉じる。長い沈黙。壁の向こうでは家が拡大し続けている。職員の声、泣き声、帰宅を促す館内放送。それでも紅林は待った。


「私」


 千鳥が言う。


「私に帰属する」


 金属球の赤い光が止まり、白い光へ変わった。


 自分自身。家族でも、家でも、誰かの所有物でもない。


 千鳥は、千鳥に帰属する。


 問いが続く。


 役割。


 紅林澪奈。


 γ-9隊長。


 千鳥。


 帰らない者。


 金属球が再び震えた。


「その役割でいいのですか」


「うん」


「否定によって決める必要はありません」


「でも、私が最初に選んだことだから」


 千鳥の声は小さい。だが、迷いはなかった。


「帰らないって、自分で決めた」


 金属球が受理する。


 最後の問い。


 帰還先。


 紅林の視界にサイト83が浮かぶ。廊下、収容区画、隊員たち、医療室、管制室。ここへ戻す。元のサイト83。家に上書きされる前の構造。


 千鳥の答えは空白だった。


「帰還先を」


 紅林が言う。


「ない」


「決めてください」


「分からない」


 金属球の光が不安定になる。榛名が警告した。


「帰還先が一致しません」


「私の指定だけでは」


「共同管理者の場合、双方の定義が必要です」


「同じ場所でなくても構いませんか」


「概念的な一致が必要です」


 紅林は千鳥を見る。


「サイト83では駄目ですか」


「知らない場所」


「今、立っています」


「でも、ここは家になってる」


「元に戻します」


「戻ったあと、私はどうなるの」


 紅林は答えられなかった。


 千鳥をどこへ置くのか。MDEの保護下。医療部門。隔離。観察。おそらく、自由ではない。家よりは安全だろう。それでも千鳥にとっての帰還先ではない。


「帰る場所を決める必要はありません」


 メアリーが言った。紅林と千鳥が彼女を見る。


「戻る場所じゃなくて、行く場所で考えればいい」


「製品は帰還先を求めています」


 榛名が言う。


「言葉の問題」


 メアリーは金属球を見る。


「帰還先って、前にいた場所じゃなくてもいいんでしょ」


 榛名は一瞬だけ考えた。


「対象が帰属すると認識すれば、未到達地点でも可能です」


「なら、千鳥がこれから行く場所」


 千鳥が呟く。


「これから」


「うん」


 メアリーは頷いた。


「今は知らなくても、これから自分で決める場所」


「そんな曖昧な指定で動作するのですか」


 神楽が尋ねる。榛名は金属球の反応を見る。


「通常であれば不可能です」


「通常でなければ」


「本試作品は、対象の帰属認識を優先します」


 千鳥は目を閉じた。


「帰還先」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「私が、自分で選べる場所」


 金属球が強く光った。


 紅林の認識は、元のサイト83。


 千鳥の認識は、自分で選べる場所。


 二つは異なる。だが、一つの概念で繋がっていた。


 家に決められない場所。帰宅を強制されない場所。個人が自分の意思で存在できる場所。


 金属球の溝が、全て白く輝いた。


 管理者登録完了。


 空間帰還処理を開始します。

次回予告


第八章 帰らない家


10月4日18時投稿予定

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