第七章 十三羽目
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解析室の壁が、もう一度だけ鳴った。
どん。
鈍い音だった。外側から叩いた音ではない。コンクリートと断熱材、そのさらに奥に存在するはずのない空洞から、何かが手のひらを押し当てたような音だった。
サイト83の非常灯が赤く明滅する。一度、二度、三度。
警報は鳴っていない。自動防衛設備も作動していない。施設管理端末は、解析室に異常が存在しないと表示していた。
だが、壁の向こうからは確かに声がした。
「ただいま」
幼い子供の声。千鳥のものではない。もっと幼い。五歳か、六歳。男女の区別すら曖昧な、柔らかい声だった。
千鳥の肩に止まった木製の小鳥が、十三回目の鳴き声を終える。
ちち。
最後の一声だけが異様に低かった。鳥の声ではない。人間が鳥の鳴き声を真似たような音。それも、一人ではない。十数人の声が重なっていた。
紅林澪奈は銃を上げた。
「全員、壁から離れてください」
神楽が即座に周囲を確認する。
「解析室の封鎖を提案します」
「承認します」
「高峰、非常扉を」
「了解」
高峰が入口横の緊急封鎖装置へ手を伸ばし、保護カバーを外して赤いレバーを引く。解析室の出入口へ分厚い鋼鉄製シャッターが下り始め、同時に天井の防火隔壁が作動した。室内がサイト83本棟から切り離されていく。
クライムが搬出した人格結晶のケースを中央へ集める。黒岡はメアリーと千鳥を背後へ下げた。
新木慎介は、床へ落ちた鬼灯産業の社章を見つめている。榊の再現体が消えたあと、社章はただの銀色の金属片へ戻っていた。赤い光もなく、文字も消えている。それでも新木は触れなかった。
「新木」
紅林が呼ぶ。
「分かっとる。拾わへん。もう二度と拾わへん」
「解析を」
「直接触れずにやる」
新木はポーチから黒い布を取り出した。布の四隅には小さな鉛玉が縫いつけられている。社章へ被せ、続いて細い木片を十字に組んで布の上へ置いた。
「これで一応、所有権の再接続は防げるはずや」
「一応ですか」
「絶対言うたら、こういう場所では負けや」
新木が立ち上がる。
壁から三度目の音がした。
どん。
今度は一つではない。北側、南側、天井、床下。部屋そのものを外側から無数の手が囲み、全てが同じ速度で叩き始めた。
「ただいま」
「ただいま」
「ただいま」
声も増えていく。幼い子供、成人男性、老女、若い女、掠れた老人。何百もの声が壁の向こうで重なった。
メアリーが両耳を押さえる。
「違う」
彼女は小さく言った。黒岡がその前へ立つ。
「何が聞こえる」
「家族の声じゃない」
「家が話しているのか」
「違う。家が、誰かの声を使ってる」
千鳥が肩の小鳥を見る。木製の鳥は彼女へ顔を向けていない。壁を見つめ、嘴をわずかに開いて、何かを待っている。
「この子、家を呼んでる」
「小鳥がですか」
紅林が尋ねる。千鳥は頷いた。
「ずっとそうだった」
「何がです」
「小鳥箱が置かれてから、家がおかしくなった」
新木が千鳥を見る。
「鬼灯産業の設備を入れる前からか」
「ううん。最初に来たのは、小鳥箱だった」
解析室の全員が静まった。
「誰が持ってきた」
「知らない男の人」
「鬼灯産業の榊ではありませんか」
「違う。もっと若かった」
「服装は」
「作業着」
「色は」
「灰色」
新木の眉が動く。
「会社名は見たか」
「胸に字があった」
「東雲か」
千鳥は答えなかった。代わりに、肩の小鳥を見つめる。その腹部に浮かんだ文字――東雲。二文字目まで刻まれた企業名は、それ以上進んでいない。だが、新木には十分だった。
「東雲重工業株式会社。やっぱり、あいつらが噛んどる」
高峰が銃口を壁へ向けたまま尋ねる。
「鬼灯産業と東雲重工業が共同で作ったのか」
「まだ分からへん」
「榊は別事業者の製品だと言った」
「鬼灯産業は嘘をつかへん。せやから、少なくとも小鳥箱そのものは鬼灯産業製やない」
「では、何のための製品です」
神楽が言う。新木は答えず、千鳥へ視線を戻した。
「小鳥箱が来たあと、何が起きた」
千鳥はしばらく黙っていた。思い出したくない記憶。長い時間の中で家に削られ、加工され、それでも残った断片。
「最初は、何も」
「箱を置いただけか」
「うん」
「置いた場所は」
「玄関」
「鬼灯産業の設備は、そのあとですか」
「あと」
「どれぐらい後や」
「分からない。でも、お父さんが帰ってきてから」
紅林の目が細くなる。
「最初に帰宅したのは父親ですか」
「うん」
「死亡していた」
「事故で。山で車が落ちたって」
その父親を帰した。鬼灯産業の家族帰宅支援設備が。少なくとも、家族はそう考えていた。
だが、榊の最後の言葉が残っている。
小鳥箱は、家族を帰すための設備ではない。
家を帰すための設備。
紅林は壁を見る。
「小鳥箱が先に家へ入り、鬼灯産業の設備があとから導入された」
「せや。鬼灯産業の設備は帰宅願望を拾う。せやけど、帰宅先を作る機能はあっても、家そのものを増殖させる機能は本来ないんかもしれん」
「小鳥箱が家を作った」
「あるいは、運んだ」
新木は解析室の床を見下ろす。
「家を別の場所へ帰宅させるための座標杭。そないなもんかもしれへん」
「家が帰宅するとは、どういう意味です」
神楽が尋ねる。
「人間の帰宅は、家の外から中へ移動することや」
「はい」
「家の帰宅は、その逆やない」
新木は壁を指した。
「家が自分の中へ、外側の場所を取り込む」
壁の向こうで何かが擦れた。
ざり。ざり。ざり。
コンクリートの裏側を木材が這う音。柱、梁、床板。存在しないはずの建材が、施設構造の内側で組み上がっている。
「解析室が家の一部にされる」
クライムが言った。
「違う」
メアリーが呟く。
「サイト83が」
室内の空気が重くなった。紅林は通信端末を操作する。
「管制室、応答してください」
雑音。返答がない。
「こちらγ-9。サイト83管制室、応答を」
数秒後、無線の向こうから男性職員の声が聞こえた。
『こちら管制室』
発声が遅い。一音ずつ、言葉の形を確認しているような話し方だった。
「施設全体の異常状況を報告してください」
『異常は、ありません』
「解析室を緊急封鎖しました。隔壁作動記録を確認してください」
『隔壁は、作動していません』
神楽が装置を見る。目の前では鋼鉄製シャッターが完全に下り、防火隔壁も閉じている。だが、管制側には作動記録がない。
「施設図を確認してください。解析室の位置は」
『解析室は、存在しません』
全員の動きが止まった。
「繰り返してください」
『サイト83施設図に、解析室は存在しません』
「現在、私たちがいる部屋です」
『その部屋は、どちらですか』
無線の向こうで複数の声が囁く。管制室の職員たちが何かを相談している。その声の中に、子供の笑い声が混ざっていた。
『所属を確認します』
「特殊対応部隊γ-9、マジックナンバーズ」
『該当する部隊は、登録されていません』
通信が切れた。紅林は端末を見つめる。
「認識改変が始まっています」
神楽が言う。
「外部から、この部屋と私たちの存在が消されている」
「家の中へ移されたからや」
新木は窓のない壁を見回す。
「サイト83におるんやない。見た目だけ同じ別の家へ入れられた」
「では、封鎖は意味がありません」
高峰が言う。
「むしろ自分たちで退路を閉ざしただけだ」
「隔壁を開けます」
神楽が操作盤へ向かい、緊急解除コードを入力する。反応はない。もう一度入力しても無反応だった。保護板を外して内部配線へ直接アクセスする。回路は正常で、電源も生きている。それでも隔壁は動かない。
黒岡が鋼鉄製シャッターへ近づき、拳で軽く叩いた。返ってきた音は金属ではない。
こん。
木の音。
黒岡はナイフを抜き、シャッターの表面を削る。銀色の塗装が剥がれ、その下から古い木材が現れた。黒ずんだ柱。
「もう置き換わっている」
紅林が言う。
「解析室の構造全体が家に変わり始めています」
壁の時計が止まった。秒針が十二の位置で動かない。次の瞬間、逆回転を始める。
一秒、二秒、三秒。
室内の端末表示も変化した。日時、施設番号、人員登録。全てが高速で巻き戻る。現在の日付から一年前、五年前、十年前。そして、平成十三年。
千鳥が顔を上げた。
「この日」
端末の日付が止まる。
平成十三年八月十三日。
家族帰宅支援設備が導入された日。
室内の机が木製の食卓へ変わる。端末は陶器の皿へ、資料は新聞紙へ、椅子は古い座布団へ。壁には家族写真が現れた。
柊木家。玄関の前に並ぶ家族。千鳥。そして写真の端には、灰色の作業着を着た若い男が立っている。
男の胸元には、確かに文字があった。
東雲重工業株式会社。
「写真を記録してください」
紅林が言う。神楽がカメラを構え、撮影した。だが画面には何も映らない。ただの白い壁だけだった。
「認識依存か」
「いいえ」
メアリーが男を見つめる。
「こっちを見てる」
写真の中の男。灰色の作業着、短い黒髪、穏やかな顔。彼は家族と同じ方向を向いていない。カメラでもなく、解析室にいる紅林たちへ視線を向けていた。
写真の中から。
「見えているんですか」
紅林が尋ねる。男の口が動いた。音は出ない。新木がその動きを読む。
「やっと帰った」
壁が大きく膨らんだ。内側から何か巨大なものが押し出してくる。コンクリートの表面が裂け、亀裂の奥から古い玄関扉が現れた。
柊木家の玄関。
すでに廃棄したはずの家。
扉はゆっくりと開いた。外はない。向こうには、以前の家と同じ長い廊下が続いている。畳、白い襖、柱時計。だが廊下の左右には、MDEの施設設備が埋め込まれていた。監視カメラ、配管、警報装置、職員用掲示板。
家とサイト83が混ざり合っている。
「家がサイト83へ帰ってきた」
千鳥が言った。新木は首を振る。
「ちゃう」
「何が違うの」
「家が帰ったんやない」
彼は玄関の向こうを見る。
「ここを家にしたんや」
廊下の奥に、誰かが立っていた。灰色の作業着。写真の中にいた男と同じ制服。胸元には、東雲重工業株式会社の社名。
男は両手を見える位置に上げた。武器は持っていない。敵意も見せない。ゆっくりと一礼する。
「お初にお目にかかります。東雲重工業株式会社、第三特殊製品管理課所属。榛名と申します」
紅林は銃口を下げない。
「所属証明を」
「こちらを」
榛名は胸元から社員証を取り出し、床へ置いて蹴った。社員証は玄関を越え、解析室側へ滑ってくる。神楽が遠隔アームで回収した。
社員証には顔写真、氏名、社員番号、所属。そして下部には、赤い文字で記載がある。
異常製品回収権限保持者。
「本人確認はできません」
神楽が言う。
「認証先が存在しない」
「当然です。当社の人員情報は、一般的な外部照会では確認できません」
「では、信用できません」
「信用を求めてはおりません」
紅林の目が細くなる。
東雲重工業の基本方針。MDEと正面衝突しない。発見時は人員と技術の保全を優先。可能なら戦わず、可能なら殺さず、証拠を消して逃げる。
だが、今の榛名は逃げていない。自ら姿を見せた。
「目的は何です」
「弊社製品の回収です」
「十三羽目」
「正確には、空間帰還誘導器試作十三号」
千鳥の肩の小鳥が、ちち、と鳴いた。榛名はそれを見る。
「長期間の未回収状態について、まずお詫び申し上げます」
「謝罪は不要です。機能を説明してください」
「空間帰還誘導器は、登録された構造物を指定座標へ帰還させる装置です」
「家を移動させる」
「単なる移動ではありません」
「では」
「対象構造物が帰属すると認識した場所を、帰還先へ上書きします」
新木が舌打ちする。
「やっぱりや」
榛名は続けた。
「本試作品は災害時、戦闘時、空間崩壊時などにおいて、重要施設を安全な座標へ退避させる目的で開発されました」
「重要施設」
「研究所、倉庫、避難施設、移動不能な収容設備などです」
「なぜ民家に設置された」
榛名は一瞬だけ沈黙した。
「試験運用です」
黒岡の声が低くなる。
「民間人の家で試したのか」
「正式な試験ではありません」
「では何です」
「不正流出です」
榛名は淡々と答えた。
「当時、本試作品は輸送中に紛失しました。その後、個人売買を経由し、柊木家へ渡ったものと推定されています」
「東雲重工業は回収しなかった」
「捜索は行いました」
「見つけられなかった」
「はい」
「二十五年近く」
「はい」
榛名は一度も目を逸らさない。嘘をついているようには見えなかった。だが、正直であることと、信用できることは別だ。
「鬼灯産業との関係は」
「契約関係はありません」
「鬼灯産業の設備と干渉した」
「そのようです」
「想定していましたか」
「いいえ」
「結果として、帰還誘導器が鬼灯産業の帰宅支援設備を、家の移送条件として利用した」
「現時点では、その可能性が高いと判断しています」
「家族が帰宅するたび、家そのものが帰還先を増やした」
「はい」
「最終的に、家は人間の帰宅願望を利用し、あらゆる場所を自分の帰属先として上書きするようになった」
「はい」
新木が榛名を睨む。
「で、今はサイト83を新しい帰還先にしようとしとる」
「正確には」
榛名は解析室を見回した。
「すでに帰還処理は完了しています」
その瞬間、解析室の外から館内放送が流れた。
『職員の皆様にお知らせします』
サイト83で通常使用されている女性職員の声。
『本日の業務は終了しました』
紅林たちの表情が変わる。
『各自、速やかに帰宅してください』
廊下の奥で、無数の扉が開く音がした。
がちゃ。がちゃ。がちゃ。
『ご家族がお待ちです』
榛名が背後を見る。
「急ぐ必要があります」
「何が起きています」
「サイト83職員全員が、帰宅対象として認識されました」
「家が職員を取り込む」
「はい」
「止める方法は」
「空間帰還誘導器を回収し、登録構造物を初期化します」
「回収すれば、家は消えるのですか」
「家として維持されている異常構造は崩壊します」
「内部の人員は」
「保証できません」
紅林は榛名を見る。
「何名が取り込まれている」
「現時点では不明です」
「推定を」
「サイト83の全在籍者」
室内が静まり返る。研究員、警備員、事務職員、収容担当、医療部門、実働部隊。サイト83には多数の人員がいる。その全てが、すでに家の内部へ含まれている可能性があった。
「初期化以外の方法は」
「誘導器の所有権を書き換え、帰還対象を限定する」
新木が顔をしかめる。
「また所有権か」
「本製品は契約型ではありません。物理的な管理権限です」
「誰が持っとる」
「現在は未登録です」
「さっき千鳥に止まっとったやろ」
「対象の位置を示すためです。所有者登録ではありません」
「ほな、どう登録する」
「製品本体へ管理者の生体情報を入力します」
紅林は千鳥の肩を見る。木製の小鳥。腹部には東雲の文字。それが本体。
「入力した者はどうなります」
「本製品の管理者となります」
「影響は」
「空間帰還処理中、登録構造物との認識接続が発生します」
「家の内部を認識できる」
「はい」
「逆に、家からも認識される」
「はい」
「人格汚染の可能性は」
「あります」
「死亡率は」
「算定不能です」
高峰が低く言う。
「何も保証しないのか」
「保証できないことを保証するとは申し上げられません」
「東雲らしいな」
新木が吐き捨てる。榛名は否定しなかった。
「こちらから一つ提案があります」
「言ってください」
「弊社で回収します」
「拒否します」
紅林は即答した。榛名の表情は変わらない。
「理由を伺っても」
「MDE施設と多数の人員が取り込まれています。管理権限を外部団体へ渡すことはできません」
「弊社製品です」
「現在は異常災害の原因です」
「その点は認めます」
「回収後、情報を開示しますか」
「必要な範囲で」
「必要性を判断するのは」
「弊社です」
「なら、なおさら渡せません」
榛名は短く息を吐いた。困惑でも苛立ちでもない。想定通りの回答を受けた者の反応だった。
「MDEがそう判断することは予測していました」
「では、どうします」
「妨害はしません」
黒岡が銃口をわずかに上げる。
「本当か」
「弊社の目的は、製品と技術の保全です」
「なら奪いに来るだろう」
「正面衝突は損失が大きい」
榛名は淡々と答える。
「MDEが安全に停止できるのであれば、その過程を観測し、可能であれば後日回収します」
「逃げるのか」
「撤収します」
「同じだ」
「言葉の定義は重要です」
新木が鼻で笑った。
「鬼灯産業みたいなこと言いよる」
「当社は契約会社ではありません」
「そういう問題ちゃうわ」
館内放送が再び流れる。
『職員の皆様、ご家族がお待ちです。帰宅してください』
放送の背後で悲鳴が聞こえた。誰かが助けを求めている。銃声。何かが壊れる音。そして最後に。
『おかえりなさい』
通信が切れる。紅林は決断した。
「管理権限を取得します」
「隊長」
神楽が止める。
「危険性が不明です」
「他に方法がありません」
「榛名にやらせるべきです」
「東雲重工業へ、サイト83の構造と人員情報を渡すことになります」
「それでも、隊長が人格汚染を受けるよりは」
「私が適任です」
新木が一歩前へ出た。
「いや、ワシがやる」
紅林が彼を見る。
「理由を」
「契約系と空間系の両方に知識がある」
「先ほど所有者にされたばかりです」
「経験者や」
「不採用です」
「なんでや」
「所有権との相性が良すぎます」
黒岡が小さく笑う。
「確かに」
「笑うとこちゃうぞ」
「冗談ではありません」
紅林は新木を見据えた。
「二度続けて異常設備の管理者に選ばれる可能性があります」
「今度は自分からや」
「だから危険です」
新木が反論しようとした時、千鳥が先に口を開いた。
「私がやる」
全員が少女を見る。
「駄目です」
紅林が即座に否定した。
「どうして」
「あなたは保護対象です」
「この家を知ってる」
「だからです」
「私のせいで、ここまで来た」
「違います」
「でも」
「あなたが原因ではありません」
紅林ははっきりと言った。
「小鳥箱を持ち込んだ者。回収できなかった東雲重工業。異常設備を導入した家族。契約に依存した鬼灯産業。複数の要因があります」
榛名がわずかに目を伏せる。
「あなた一人の責任ではありません」
「でも、私なら家が分かる」
「その可能性はあります」
メアリーが言った。紅林が彼女を見る。
「千鳥はずっと、十三羽目として家と繋がっていた。たぶん、一番深く入れる」
「負担も最大です」
「うん」
千鳥は自分の胸へ手を当てる。
「でも、今度は帰るためじゃない。出すために使う」
紅林は黙った。合理的に考えれば、千鳥は適任だった。家の核。長年の接続。構造への理解。だが同時に、最も守るべき対象でもある。
「共同管理は可能ですか」
紅林が榛名へ尋ねた。
「二名まで登録できます」
「負荷を分散できる」
「はい。ただし、認識接続も共有されます」
「一人が汚染された場合は」
「もう一人へ影響する可能性があります」
「解除方法は」
「本体を物理的に破壊する」
「破壊後、登録構造物は」
「帰還座標を失い、崩壊します」
「最後の手段ですね」
「はい」
紅林は千鳥を見る。
「共同管理にします」
「誰と」
「私です」
神楽が口を開く。
「隊長」
「決定です」
「反対します」
「理由を」
「隊長が汚染された場合、部隊指揮が失われます」
「神楽が引き継いでください」
「そういう意味ではありません」
紅林は一瞬だけ彼女を見る。神楽は感情を抑えていた。隊長としての判断に反対しているだけではない。一人の隊員として、紅林を危険へ行かせたくないのだ。
家族ではない。だが、関係はある。
「命令です。私と千鳥で管理権限を取得します」
神楽は唇を結ぶ。数秒後、銃を下げた。
「了解しました」
榛名が一歩退く。
「登録方法を説明します」
千鳥の肩の小鳥が飛び立ち、解析室中央へ降りる。木製の足が床へ触れた瞬間、その身体が開いた。背中、翼、腹部。木片が花弁のように展開し、内部から小さな金属球が現れる。
黒い金属。その表面には無数の細い溝が刻まれている。血管にも、地図にも、迷路にも見えた。
「左右から触れてください。生体情報と自己認識を登録します」
「自己認識」
紅林が確認する。
「名前、帰属、役割、帰還先の概念です」
「虚偽は可能ですか」
「推奨しません」
「不可能ではない」
「製品が矛盾を検出した場合、帰還先の誤認が発生します」
「つまり、嘘をつけば別の場所へ飛ばされる」
「最悪の場合、帰還先そのものが消失します」
紅林と千鳥は金属球の左右へ立った。紅林が右手を伸ばし、千鳥が左手を伸ばす。
同時に触れた。
冷たさはない。熱もない。触れた感覚すら曖昧だった。代わりに、頭の中へ問いが響く。
名前。
紅林澪奈。
千鳥。
帰属。
MDE。
なし。
紅林の思考に、千鳥の答えが流れ込む。
千鳥には帰属する場所がない。家も、組織も、家族も。何もない。
金属球が震え、矛盾を検出したように溝が赤く光る。
「千鳥。帰属を決めてください」
「決められない」
「場所でなくても構いません」
「何でもいいの」
「あなたが選んだものなら」
千鳥は目を閉じる。長い沈黙。壁の向こうでは家が拡大し続けている。職員の声、泣き声、帰宅を促す館内放送。それでも紅林は待った。
「私」
千鳥が言う。
「私に帰属する」
金属球の赤い光が止まり、白い光へ変わった。
自分自身。家族でも、家でも、誰かの所有物でもない。
千鳥は、千鳥に帰属する。
問いが続く。
役割。
紅林澪奈。
γ-9隊長。
千鳥。
帰らない者。
金属球が再び震えた。
「その役割でいいのですか」
「うん」
「否定によって決める必要はありません」
「でも、私が最初に選んだことだから」
千鳥の声は小さい。だが、迷いはなかった。
「帰らないって、自分で決めた」
金属球が受理する。
最後の問い。
帰還先。
紅林の視界にサイト83が浮かぶ。廊下、収容区画、隊員たち、医療室、管制室。ここへ戻す。元のサイト83。家に上書きされる前の構造。
千鳥の答えは空白だった。
「帰還先を」
紅林が言う。
「ない」
「決めてください」
「分からない」
金属球の光が不安定になる。榛名が警告した。
「帰還先が一致しません」
「私の指定だけでは」
「共同管理者の場合、双方の定義が必要です」
「同じ場所でなくても構いませんか」
「概念的な一致が必要です」
紅林は千鳥を見る。
「サイト83では駄目ですか」
「知らない場所」
「今、立っています」
「でも、ここは家になってる」
「元に戻します」
「戻ったあと、私はどうなるの」
紅林は答えられなかった。
千鳥をどこへ置くのか。MDEの保護下。医療部門。隔離。観察。おそらく、自由ではない。家よりは安全だろう。それでも千鳥にとっての帰還先ではない。
「帰る場所を決める必要はありません」
メアリーが言った。紅林と千鳥が彼女を見る。
「戻る場所じゃなくて、行く場所で考えればいい」
「製品は帰還先を求めています」
榛名が言う。
「言葉の問題」
メアリーは金属球を見る。
「帰還先って、前にいた場所じゃなくてもいいんでしょ」
榛名は一瞬だけ考えた。
「対象が帰属すると認識すれば、未到達地点でも可能です」
「なら、千鳥がこれから行く場所」
千鳥が呟く。
「これから」
「うん」
メアリーは頷いた。
「今は知らなくても、これから自分で決める場所」
「そんな曖昧な指定で動作するのですか」
神楽が尋ねる。榛名は金属球の反応を見る。
「通常であれば不可能です」
「通常でなければ」
「本試作品は、対象の帰属認識を優先します」
千鳥は目を閉じた。
「帰還先」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私が、自分で選べる場所」
金属球が強く光った。
紅林の認識は、元のサイト83。
千鳥の認識は、自分で選べる場所。
二つは異なる。だが、一つの概念で繋がっていた。
家に決められない場所。帰宅を強制されない場所。個人が自分の意思で存在できる場所。
金属球の溝が、全て白く輝いた。
管理者登録完了。
空間帰還処理を開始します。
次回予告
第八章 帰らない家
10月4日18時投稿予定




