第六章 最後の所有者
毎日21時投稿
金土日18時、21時、2本投稿予定
この章は10分ぐらいで読めます
よかったらコメント感想聞かせてください!
白紙の契約書。消えた社印。解除された権利。
設備は、もはや鬼灯産業の管理下にない。契約対象でも、商品でもない。責任区分から切り離された、ただの異常存在だった。
榊の社章が床で震える。金属表面に文字が浮かんだ。
契約終了を確認いたしました。
長らくのご利用、誠にありがとうございました。
その下へ、さらに小さな文章が現れる。
本設備は契約終了に伴い、お客様所有物として取り扱われます。
「お客様所有物」
高峰が言う。
「お客様って誰だ」
新木は答えなかった。社章の裏面で、新しい所有者の名が刻まれ始めている。紅林澪奈ではない。千鳥でも、柊木家でもない。
文字は企業名だった。
鬼灯産業株式会社。
その名に黒い線が引かれる。続いて、別の文字が浮かんだ。
所有者不在。
そして最後に。
拾得者へ所有権を移転。
紅林たちの周囲で、木製の小鳥が一斉に顔を上げた。千鳥が青ざめる。
「拾った人が、持ち主になる」
新木は社章を床へ投げ捨てた。
「誰が拾った」
全員の視線が金属製の社章へ集まる。榊が消えたあと、それを拾い上げた者。
新木慎介。
床に落ちた社章が一度、二度と跳ね、新木の足元へ滑ってくる。鬼灯の紋章が赤く光った。周囲の小鳥たちが一斉に鳴く。
「おかえりなさい」
家全体が新木へ向いた。壁、床、天井、人形、小鳥。全ての視線が彼一人へ集まる。
社章の裏面に名前が完成した。
新木慎介。
所有権移転完了。
新木は黙って社章を見下ろした。数秒後、ひどく嫌そうな顔をする。
「……なんでワシやねん」
白い空間の奥で巨大な名簿が再び開いた。これまでの家族登録簿ではない。新しい表紙、新しい題名。
設備所有者登録簿。
最初の頁には、所有者、新木慎介。その下に、契約ではなく権利として記されている。
本設備の運用、移設、廃棄、改修は、所有者の責任において実施してください。
さらに、最後の一文。
なお、設備内家族の生活維持義務は所有者へ承継されます。
人形たちが新木へ向けて手を伸ばす。
「お父さん」
「家長」
「持ち主」
「帰る場所をください」
新木の顔が引きつった。
「隊長」
「何です」
「これ、契約より悪なっとるで」
人形の群れが一歩ずつ近づく。もう一人の紅林も、その中から新木を見つめていた。本物の紅林が銃を構える。
「所有権を放棄できますか」
「やってみる」
新木は社章を蹴り飛ばした。
「いらん! 放棄や!」
社章は床を滑り、壁へ当たった。数秒後、何事もなかったように新木の足元へ戻ってくる。登録簿へ新しい注意書きが浮かんだ。
所有者不在となる放棄は認められません。
「ほな、譲渡や!」
「誰へです」
紅林が尋ねる。新木は周囲を見回した。神楽、黒岡、メアリー、クライム、高峰、紅林。全員が一歩ずつ後退する。
「薄情者!」
高峰が即答した。
「当然だろう」
「誰か一人ぐらい名乗り出ぇや!」
「所有権が移った瞬間に家長にされる」
黒岡が言う。
「断る」
「正論やけど腹立つな!」
千鳥が社章を見る。
「私に戻せば」
「却下です」
紅林が即座に答えた。
「あなたを解放した意味がありません」
「でも、この家は私の家だった」
「過去形です」
千鳥は黙る。新木は頭をかいた。
「廃棄は所有者の権利や」
「実行できますか」
「できるはずや。けど、設備内家族の生活維持義務が残っとる」
「家族が全員いなくなれば」
メアリーが言う。
「維持する相手もいなくなる」
全員が人格原型を見る。伊吹班、柊木家、過去の利用者。何百人もの人間。原型が残っている限り、家は彼らを家族として維持し続ける。
「外へ出す」
紅林が言った。
「全人格原型を設備外へ移送。その後、家を廃棄します」
高峰が周囲を見回す。
「何百人分だ」
「できるかどうかではありません。やります」
紅林はもう一人の自分を見る。偽物の紅林が人形の群れから前へ出た。全身の赤い糸が切れ始めている。契約が解除されたことで、家の支配が弱まっていた。彼女の目に、わずかな意思が戻る。
「隊長」
「聞こえますか」
「はい」
「戻ってきてください」
偽物は自分の身体を見る。赤い糸、木製の小鳥、崩れ始めた戦術服。
「私は、人格原型ではありません」
「知っています」
「家が消えれば、私も消える可能性があります」
「知っています」
「それでも」
「戻ってきてください」
偽物の表情が変わった。あの、少し困ったような笑み。
「了解しました」
彼女は人形たちへ振り返る。
「全員、聞いてください。この家は廃棄されます」
ざわめきが広がる。泣き声。怒声。帰宅を拒絶された者たちの声。
「帰る場所がなくなる」
「家族がいなくなる」
「また一人になる」
偽物の紅林は続けた。
「家ではなくても、外へ出られます」
「外は怖い」
「ここにいたい」
「帰りたい」
「帰る場所がない」
千鳥が一歩前へ出た。
「私も、帰る場所はない」
人形たちの視線が集まる。
「でも、ここには残らない」
「なぜ」
一体の人形が尋ねた。千鳥は答える。
「ここにいると、自分じゃなくなるから。寂しくても、怖くても、どこへ行くか分からなくても、自分でいたい」
白い空間に長い沈黙が落ちる。人格原型たちが一人ずつ目を開き、膜の中から千鳥を見る。人形の顔が歪み、笑顔が崩れ、その下から元の人間の表情が現れた。泣いている者、怒っている者、戸惑う者。全員が違う顔をしていた。
新木は所有者登録簿へ手を置く。
「所有者権限で命令する。設備内の全家族登録を一時解除。人格原型を移送可能状態へ変更。生活維持義務を、現状保存から安全退去支援へ読み替える」
登録簿が赤く光り、文字が紙面へ浮かぶ。
命令を受理しました。
条件確認中。
数秒後、追加確認が表示された。
安全な退去先を指定してください。
「MDEサイト83」
紅林が言う。新木が登録簿へ向けて繰り返す。
「退去先、MDEサイト83」
移送距離算定不能。
設備外接続を要求します。
「玄関を作れ。サイト83へ繋がる出口や」
設備外の構造情報が不足しています。
新木は紅林を見る。
「高砂研究員と高野博士の記憶がある」
「二人を探してください」
メアリーが目を閉じ、人格原型の中から二つの意識を探る。すぐに指を上げた。
「いる」
白い空間の右端。他の原型とは異なり、半透明の部屋ごと保存されている。サイト83の解析室。机、端末、椅子。そこに高砂研究員と高野博士が立っていた。二人は時間を止められたように動かない。
「接続情報を取得できますか」
「所有者権限ならいけるはずや」
新木は登録簿へ手を押しつける。
「対象、高砂研究員および高野博士の帰属地点情報を参照。設備外出口を構築せえ」
登録簿の頁が高速でめくれる。白い空間の奥で柱が立ち上がり、床が生まれ、壁が組み上がる。やがて玄関が現れた。
扉の向こうには、サイト83の解析室が見える。警報灯、倒れた椅子、点滅する端末。現実の時間は、ほとんど進んでいないようだった。
「出口を確認」
神楽が言う。紅林は即座に指示を出した。
「人格原型の移送を開始します」
新木が登録簿へ命じる。
「全対象を順番に搬出。肉体が存在せえへん場合は、人格保存媒体へ変換」
実行形式を選択してください。
紙。写真。音声。記憶結晶。生体再構成。
複数の選択肢が浮かぶ。
「生体再構成は危険です」
神楽が言う。
「設備の機能を信用できません」
「記憶結晶」
高峰が提案した。
「MDEなら保管できる」
「本人の意識が維持される保証は」
メアリーが尋ねる。登録簿へ文字が浮かんだ。
記憶結晶化に伴う情報損失率、推定三・二パーセント。
「高い」
紅林が言う。
「他は」
写真化、情報損失率九・八パーセント。
音声化、十二・四パーセント。
紙媒体、十八・一パーセント。
生体再構成、算定不能。
「記憶結晶でいきます」
紅林は決断した。
「三・二パーセントを許容。識別情報、人格中核、自己認識、長期記憶を優先保存してください」
新木が命令を登録する。
実行。
吊るされた人格原型の膜が一つずつ光り始める。身体が細かな光へ変わり、掌に収まるほどの透明な結晶へ集約されていく。結晶の内部には、小さな人影が見えた。眠るように目を閉じている。
神楽と高峰が結晶を回収し、専用ケースへ収める。
伊吹真人。第一次調査班。柊木家。過去の利用者。
一人ずつ、家から外へ出されていく。
人形たちの身体も崩れ始めた。木、紙、髪、写真。それらが床へ落ち、空の器へ戻っていく。帰宅を演じる必要も、家族を模倣する必要もなくなった。ただの材料へ戻る。
もう一人の紅林の身体も透け始めていた。本物の紅林が彼女へ近づく。
「あなたも移送します」
「私は対象一覧にありません」
「所有者権限で追加します」
新木が登録簿へ手を置く。
「仮称個体、紅林澪奈複製人格。移送対象へ追加」
登録簿にエラーが表示される。
対象は設備機能の一部です。
外部移送により、設備動作へ重大な障害が発生します。
「もう廃棄すんねん。障害起きても構わん」
所有者確認。
新木慎介。
廃棄予定を確認。
対象移送を許可します。
偽物の身体が光り始める。彼女は自分の手を見た。
「名前が必要です」
紅林が言う。
「記憶結晶へ識別情報を登録します」
「決める時間は、戻ってから作ると言いました」
「今がその時間です」
偽物は少しだけ考えた。周囲では人格原型が次々に結晶へ変わっている。家が崩れる音。出口の向こうで鳴るサイト83の警報。千鳥の泣き声。新木の怒鳴り声。神楽の指示。全てが、彼女自身の最初の記憶だった。
「澪」
彼女が言う。
「一文字だけ、借ります」
紅林は頷いた。
「識別名、澪」
新木が登録簿へ入力する。
仮称個体の正式識別名。
澪。
登録完了。
彼女の身体が透明な光へ変わる。最後まで残った顔には、穏やかな笑みがあった。家が作った笑顔ではない。自分で選んだ表情。
「戻ります」
「はい」
紅林が答える。
「待っています」
光が結晶へ集約される。透明な結晶。内部には、紅林と同じ姿をした小さな人影。だが、その識別名は澪。
紅林は自らケースへ収めた。
「全人格原型の変換完了」
神楽が報告する。
「伊吹班を含め、総数二百三十一」
「欠損は」
「現時点では確認できません」
「搬出します」
隊員たちがケースを持ち、サイト83へ続く玄関を通る。まず神楽、高峰、クライム、黒岡、メアリー、千鳥。紅林が続く。
最後に新木が残った。
「何をしているのです」
紅林が振り返る。
「廃棄処理や」
「外へ出てからでは」
「所有者が設備内におらんと実行できへん」
「先に言ってください」
「言うたら止めるやろ」
「当然です」
「せやから言わんかった」
新木は笑った。軽い笑い。だが、その顔には緊張がある。
「命令です。こちらへ来てください」
「所有者権限の方が、この家ん中では上や」
「新木」
「隊長」
彼は登録簿へ手を置いた。
「家は、持ち主が最後に戸締まりせなあかん」
白い空間が崩れ始める。柱が折れ、壁が溶け、床の下から黒い土があふれた。人格を失った家は、自分の形を維持できなくなっている。
「廃棄命令を実行する」
新木が言った。
「設備内全構造、全機能、全記録を停止。所有権を終了。再起動、再契約、再構築を禁止」
登録簿に確認文が浮かぶ。
廃棄後、本設備は復元できません。
「了承する」
設備内残存者を確認。
一名。
新木慎介。
廃棄処理を実行した場合、残存者の安全は保証されません。
「分かっとる」
紅林が玄関から戻ろうとする。しかし床から壁がせり上がり、出口を分断した。
「新木!」
「来たらあかん!」
彼は叫ぶ。
「誰か残らな終わらへん!」
「別の方法を探します」
「時間ない!」
家の奥から巨大な音が響いた。小鳥箱。どこかで、十三番目の穴が開く音。家は最後の所有者を、家族として取り込もうとしている。
「新木慎介」
家全体が呼ぶ。
「おかえりなさい」
「帰るか、ぼけ」
新木は登録簿へ血のついた手を叩きつけた。
「廃棄実行!」
鬼灯の社章が砕け、登録簿が炎に包まれた。火は白い空間へ広がり、木の壁、赤い糸、鳥籠、名簿、その全てを呑み込んでいく。
紅林は壁を撃った。神楽も戻り、共に破壊を試みる。だが、弾丸は壁へ吸い込まれた。
「新木!」
向こう側から、彼の声が聞こえる。
「隊長!」
「応答してください!」
「一個だけ頼みあるわ!」
「後で聞きます!」
「今聞け!」
炎が迫り、新木の姿が煙で見えなくなる。
「ワシが戻らんかったら――」
「その言葉は認めません!」
「荒木に伝えといてくれ!」
紅林の動きが一瞬止まる。
「なんで荒木が出てくるんです!」
「借りた五千円、返せんかったって!」
「自分で返してください!」
新木の笑い声が聞こえた。炎の向こう、崩れる家の中で。
「ほな、絶対戻らなあかんな!」
登録簿が完全に燃え尽き、家が絶叫した。玄関が閉まり始める。
「新木!」
紅林は手を伸ばす。炎の中から誰かが走ってきた。濃紺の戦術服、黒い髪。新木慎介。
彼は崩れる床を蹴り、玄関へ飛び込んだ。同時に扉が閉まる。紅林と神楽が彼の腕をつかみ、サイト83側へ引き込んだ。
扉の向こうで家が潰れる。柱、壁、部屋、食卓、家族写真、鳥箱。全てが一点へ吸い込まれていく。
最後に、十三羽の小鳥が飛んだ。
十二羽は炎へ消える。十三羽目だけが、閉じる扉の隙間からこちらへ飛び出した。
木製の小鳥。腹部に名前はない。小鳥はサイト83の解析室を一周し、紅林たちの頭上を飛び、千鳥の肩へ止まった。
千鳥は動かなかった。小鳥は首を傾げる。
ちち。
小さく鳴いた。少女はゆっくりと手を伸ばし、木製の身体へ触れる。
「帰らなくていい。一緒に出よう」
小鳥の身体に亀裂が入り、割れた木の中から赤い鬼灯の種が一粒落ちた。床へ転がる。
新木が顔色を変えた。
「触るな!」
種が割れ、中から黒い煙が立ち上る。煙は細長い人影を作った。黒いスーツ、白い手袋、鬼灯の社章。
契約管理担当、榊。
彼は崩壊した玄関跡を見つめ、それから紅林たちへ深く頭を下げた。
「設備廃棄を確認いたしました」
新木が立ち上がる。
「まだ何かあるんか」
「いいえ。今回は、契約外のご挨拶です」
「記録のくせに」
「廃棄時対応記録が残っておりました」
榊は千鳥を見る。
「長らくご不便をおかけいたしました」
千鳥は彼を睨んだ。
「謝るの、遅い」
「はい」
榊は否定しない。
「当社の対応は、契約上適切でした」
「……そう」
「しかし、適切であることと、正しかったことは同義ではありません」
新木が目を細める。
「それ、記録にあったんか」
榊は一瞬沈黙した。
「いいえ」
「ほな、誰の言葉や」
「不明です」
鬼灯産業は嘘をつかない。榊の再現記録は、本来記録にない言葉を話している。それが何を意味するのか、誰にも判断できなかった。
「一点、ご案内があります」
榊は紅林へ向き直る。
「廃棄処理は正常に完了しました」
「なら何です」
「本設備が生成した全ての派生物について、廃棄対象への指定が行われていません」
紅林の視線が人格結晶ケースへ移る。
「人格原型のことですか」
「それらは利用者情報です。設備本体ではありません」
「他には」
榊は千鳥の肩を見る。そこには木製の小鳥が止まっていた。割れたはずの身体は元の形へ戻っている。腹部に名前はない。
「十三羽目は、設備機能ではありません」
「では何です」
「商品に含まれていない付属品です」
新木の顔が引きつる。
「付属品?」
「原契約者様が、別の事業者より購入されたものと記録されています」
紅林が低い声で尋ねる。
「別の事業者とは」
「当社ではありません」
解析室の照明が一斉に消え、非常灯だけが赤く点灯した。千鳥の肩に止まった小鳥が顔を上げる。その腹部へ、ゆっくりと文字が浮かび始めた。
人名ではない。企業名。
読み取れたのは、最初の二文字だけだった。
東雲。
新木が息をのむ。榊の身体が紙片へ変わり始めた。
「待ってください」
紅林が言う。
「東雲重工業が関与しているのですか」
「契約情報の範囲外です」
「十三羽目は何のために作られた」
「不明です」
「鬼灯産業は知っていたのですか」
「確認できません」
榊の顔が崩れる。最後まで残った口元が、穏やかに動いた。
「ただし」
紙片が床へ落ちる。
「小鳥箱は、家族を帰すための設備ではありません」
最後の一枚が消える。
「家を帰すための設備です」
解析室の壁が、内側から一度だけ叩かれた。
どん。
全員が振り返る。壁の向こうから、子供の声がした。
「ただいま」
千鳥の肩の小鳥が、十三回鳴いた。
次回予告
第七章 十三羽目
10月3日21時投稿予定




