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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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49/83

第五章 鬼灯産業

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想聞かせてください!

扉の隙間から、赤い糸が流れ込んでいた。


 血管のように脈打ちながら白い床を這い、吊るされた人格原型へ伸びていく。一本、二本、十本。やがて糸は枝分かれし、白い空間の至るところへ広がった。


 糸が触れた場所から空間が変色する。白が黄ばみ、黄ばみが木目へ変わり、木目は柱となり、壁となり、天井となる。何もなかったはずの人格保管領域が、再び家の内部へ作り替えられようとしていた。


 巨大な扉の向こうには、もう一人の紅林澪奈が立っている。その全身には木製の小鳥が取りついていた。肩、胸、腰、腕、太腿。小鳥たちは爪を戦術服へ食い込ませ、皮膚の下へ赤い糸を送り込んでいる。


 偽物の紅林は笑っていた。それは、先ほどまで彼女が浮かべていた笑みではない。迷いも、困惑も、恐怖もない。帰宅した家族を歓迎するためだけに作られた、空虚で穏やかな笑顔だった。


「全員で帰りましょう」


 背後に並ぶ人形たちも、同じ言葉を繰り返す。


「全員で帰りましょう」


「全員で帰りましょう」


「全員で帰りましょう」


 紅林は肩の小鳥を左手でつかんだ。木の爪が肉へ食い込み、痛みが走る。小鳥の腹部では、彼女の名前の最後の一画が刻まれつつあった。赤い溝が、ゆっくりと伸びていく。


「神楽」


「はい」


「扉を閉鎖してください」


「外側から押されています」


「ワイヤーと固定杭を併用。完全に閉じなくても構いません。侵入速度を落としてください」


「了解」


 神楽とクライムが扉へ向かう。クライムが射出器を構え、左右の空間へワイヤーを撃ち込んだ。金属製の杭が白い床へ突き刺さる。ワイヤーを扉の取っ手へ絡め、巻き上げると、巨大な扉が軋んだ。


 外側から無数の手が差し込まれる。人形の手、子供の手、老人の手、木でできた手、紙でできた手。隙間から指を入れ、扉が閉じるのを妨げている。


 神楽が短く射撃した。指が砕け、木片と紙片が散る。切断された手は床へ落ちると、家族写真へ変わった。写真の中では、知らない家族が食卓を囲んで笑っている。


「閉じます!」


 クライムがワイヤーを巻き取る。扉がゆっくりと閉じていく。その隙間で、偽物の紅林が本物を見つめていた。


「隊長」


 声が変わった。笑顔はそのままだったが、呼びかけにだけ、わずかな苦痛が混じっている。


「命令を」


 本物の紅林の目が鋭くなる。まだ残っている。家に支配されながらも、あの複製人格は完全には消えていない。


「抵抗してください。命令です」


 偽物の紅林の口元が震えた。


「了解」


 次の瞬間、彼女は自分の肩に止まっていた小鳥をつかみ、その木製の身体を握り潰した。


 ぱきり、と乾いた音がする。小鳥が砕け、偽物の首へ巻きついていた赤い糸が一瞬緩んだ。彼女はその隙に背後の人形へ向けて発砲する。銃弾が人形の頭部を破壊し、家族の群れがざわめいた。


「帰宅を拒否しました」


「家族が拒否しました」


「不和が発生しました」


 無数の声が重なる。偽物の紅林は扉へ背を向け、人形たちの前へ立った。


「私は――家族ではありません」


 家全体が鳴動した。白い空間へ伸びていた赤い糸が一斉に激しく震え、小鳥たちが悲鳴のような声を上げる。偽物の紅林の身体へ、さらに多くの糸が突き刺さった。両脚が床へ固定される。それでも彼女は銃を下ろさない。


「閉めてください!」


 偽物が叫ぶ。神楽とクライムが力を込め、扉を閉じる。最後に見えたのは、押し寄せる人形たちへ銃を向ける、もう一人の紅林の背中だった。


 扉が完全に閉じた直後、外側から激しい衝撃が加わった。


 どん。


 扉全体が揺れる。


 どん。


 固定杭が軋む。


 どん。


 ワイヤーが張り詰める。


「長くは持たない。固定杭が床ごと剥がされる」


「必要な時間だけ持たせてください」


 紅林は巨大な家族登録簿へ向き直った。空中に浮かぶ本体は、人の背丈を超えるほど大きい。分厚い表紙、黒ずんだ紙、背表紙に押された鬼灯の紋章。開かれた最後の頁には十三の登録欄が並び、十二の欄にはすでに名前がある。


 最後の欄には、紅林澪奈。最後の一点だけが空白だった。その一点から細い赤い糸が伸び、紅林の肩の小鳥へ繋がっている。


「登録完了を止める方法は」


 神楽が尋ねた。新木慎介は名簿の前へ立ち、契約書と見比べる。


「名前を消すだけやと、また書き直される」


「千鳥の時と同じですか」


「いや。もっと悪い」


 新木は名簿の欄を指さした。


「千鳥は未帰宅やった。せやから家族登録を解除できた。けど隊長は、もう玄関を通っとる」


「家の定義では、帰宅済み」


「せや。しかも今は、契約継承者として選ばれとる。単なる家族登録やない」


「契約者になるということですか」


「この家そのものの持ち主にされる」


 高峰が銃を構えたまま振り返る。


「持ち主になれば、止められるのではないか」


「逆や。家を持つんやない。家に持たれる」


「具体的には」


「契約継承が完了した時点で、隊長の意思は家全体の意思として扱われる。せやけど、家にはもう独自の目的がある。家の考えを、自分の考えやと思わされるんや。今の偽物の隊長みたいにな」


 紅林の肩の小鳥が、ちち、と鳴いた。その声と同時に、彼女の頭の中へ景色が流れ込む。


 夕暮れの住宅街。灯りのついた家。玄関、靴箱、廊下、食卓。そこに座るマジックナンバーズの隊員たち。神楽、黒岡、新木、メアリー、クライム、高峰。全員が穏やかに笑っている。


 怪我はない。任務もない。異常もない。何も失わない。何も変わらない。永遠に同じ夕食を囲み続ける。


「隊長」


 神楽の声で、紅林は現実へ戻った。


「問題ありません」


「今、反応が止まっていました」


「映像を見せられました」


「内容は」


「全員が家族として暮らしている光景です」


 メアリーが顔を歪める。


「家が、隊長を説得してる」


「説得ではありません」


 紅林は肩の小鳥を強く握った。木の爪がさらに深く入り、血が戦術服へ染み出す。紅林は痛みを利用して意識を保った。


「望みを作ろうとしています。新木、十二名の拒否意思を回収する方法を」


「原型を起こして、契約継続を拒否させる」


「人格が正常とは限りません」


「正常やなくても意思が残っとればええ。少なくとも、家が加工する前の状態ならな」


「該当者を特定できますか」


 新木は巨大な名簿の十二名を見た。


「名前は読める。せやけど、この空間に何百人おる」


「登録簿との接続を追います」


 メアリーが言った。千鳥を床へ下ろし、ゆっくりと立ち上がる。顔色は悪い。声を受けすぎている。それでも目には強い意思があった。


「赤い糸をたどれば、誰が誰につながってるか分かると思う」


 黒岡が彼女を見る。


「無理をするな」


「無理しないと間に合わない」


「倒れたら意味がない」


「倒れる前に見つける」


 黒岡は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。


「三分ごとに反応を確認する。返事が遅れたら止める」


「分かった」


 メアリーは目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。周囲に吊るされた人格原型、透明な膜、胸元から伸びる赤い糸。何百もの意識が断片的に彼女へ流れ込む。


 帰りたい。帰れない。帰ってきた。帰りたくない。待っている。待たれている。


 母親の声。父親の声。子供の泣き声。恋人、友人、同僚。誰かの最後の言葉。誰かが言えなかった謝罪。誰かが帰宅を諦めた瞬間。それら全てが一度に押し寄せ、メアリーの身体が揺れた。


 黒岡が背後から支える。


「戻れ」


「まだ」


「顔色が悪い」


「最初の人、見つけた」


 メアリーが指を上げる。白い空間の左奥、透明な膜に包まれた老人。家族写真に写っていた祖父だった。


「次」


 彼女の指が動く。少し離れた場所に祖母。さらに奥に父親。天井近くに母親。一人、二人、三人。名簿に記された十二名が、次々に特定されていく。神楽が座標を記録した。


「全対象を確認」


「回収班を分けます。神楽と高峰は右側の四名。黒岡とメアリーは左側の四名。クライムと新木は上層の四名」


「隊長は」


「名簿を監視します」


「一人では危険です」


「千鳥がいます」


 千鳥は紅林を見上げた。


「私は戦えない」


「知っています」


「家の声も止められない」


「知っています」


「じゃあ、何ができるの」


 紅林は巨大な名簿へ視線を向けたまま答えた。


「あなたは、この家に帰りたくないと最初に言えた人です。ここでは、それが最も重要です」


 千鳥は自分の手を見た。紙のように白い指。細い亀裂。人間の身体ではない。記憶と契約から作られた残存人格。それでも、自分の意思で家を拒絶した。


「分かった。ここにいる」


「お願いします」


 各班が散開する。神楽と高峰は右側へ。黒岡はメアリーを支えながら左奥へ進む。クライムが天井近くへワイヤーを撃ち、新木を引き上げる。白い空間に、短い指示と装備音が響いた。


 その間も扉は叩かれ続けていた。衝撃のたびに隙間が広がり、赤い糸が侵入して床へ根を張る。糸の先から小さな木の芽が出た。芽は急速に伸び、枝と葉を広げ、赤い鬼灯の実を結ぶ。


 空間中に咲いた袋状の実。その内側には、小さな人の顔があった。目を閉じた顔、苦しむ顔、笑う顔。それぞれが囁く。


「契約を継承してください」


「家族を守ってください」


「家を維持してください」


「帰宅を保証してください」


 紅林は反応しない。肩の小鳥がさらに深く爪を立てる。名前の最後の一画が、少しずつ完成へ近づいていた。


 新木から通信が入る。


『一人目に到達したで』


「覚醒させられますか」


『膜が邪魔や。物理的に破ってええか』


「待ってください」


 紅林は巨大な名簿を見る。祖父の名前から伸びる赤い糸は、透明な膜へ繋がっている。


「膜は人格を保護するためのものです。破壊すると原型まで損傷する可能性があります」


『ほな、どうする』


「契約上の呼び出しを使います。名前を読み上げれば、本人確認が始まるはずです」


『家族登録が強化される危険は』


「あります」


『さらっと言うなや』


「他に方法がありません」


 新木のため息が通信越しに聞こえた。


『了解や』


 紅林は最初の名前を読んだ。


「柊木宗一郎」


 名簿の文字が赤く光る。老人を包んでいた膜が脈打ち、中で閉じていた目が開いた。老人は苦しそうに息を吸う。膜の中に液体はない。それでも、溺れていた者が水面へ出たような反応だった。


『起きたで』


「意思疎通を」


 新木が老人へ顔を近づける。


「柊木宗一郎さん。聞こえますか」


 老人の口が動くが、声は膜を通らない。クライムが小型端末を膜へ貼りつけ、波形を読み取る。数秒後、無線から雑音混じりの声が聞こえた。


『ここは……家か』


 弱く、遠い老人の声。新木は答えなかった。


「質問だけするで。あんたは、鬼灯産業との家族帰宅支援設備契約を継続したいか」


 老人の目が動く。混乱、恐怖、そして何かを思い出す。


『家族は』


「今は答えられへん」


『帰ってきたのか』


「契約を継続したいか、拒否するか。それだけ答えてくれ」


 老人の顔に強い苦悩が浮かぶ。


『帰ってきた。みんな、帰ってきた』


 千鳥が震える。紅林は老人の声を聞き続けた。


『だが、違った。顔は同じだった。声も同じだった。なのに、全員が同じことを言った』


『おかえり。おかえり。おかえり』


 老人は頭を抱えようとした。だが、膜の中で身体がほとんど動かない。


『止めたかった。止められなかった。契約だから。願ったから。私が帰ってきてほしいと願ったから』


 新木が静かに尋ねる。


「契約を継続するか」


 老人は目を閉じた。


『拒否する』


 その瞬間、巨大な名簿の最上段にある名前へ黒い線が引かれた。


 柊木宗一郎。登録欄の横に、新しい文字が浮かぶ。


 継承拒否。


 白い空間が大きく揺れ、扉の向こうから何かが絶叫した。


「一名確認。次へ」


 神楽から通信が入る。


『二人目、柊木文江に到達しました』


「呼び出します。柊木文江」


 祖母の膜が揺れ、目が開く。神楽が端末を接続した。


『聞こえますか』


『宗一郎さん……あの人はどこ』


「現在、別の場所で意思確認を行っています」


『帰ってきたの』


 神楽は答えない。


「鬼灯産業との契約継続について確認します。継続か拒否か、意思を示してください」


 老女の目が見開かれた。


『あれを止めて』


「拒否で間違いありませんか」


『止めて』


「契約継続を拒否しますか」


『拒否します』


 二人目。名簿へ黒い線が引かれる。


 継承拒否。


 白い空間の木目化が少し止まった。赤い糸の一部が黒く焼け、崩れ落ちる。


「効果があります」


「続行してください」


 三人目、四人目。父親、母親、兄、姉。人格原型を呼び起こし、意思を確認する。だが、全員がすぐに拒否するわけではなかった。


『帰ってきた家族を、また失うのか』


 父親は迷った。


『偽物でも、いないよりはいい』


 母親は泣いた。


『あの子が一人になる』


 兄は契約継続を望んだ。


『家は必要だ』


 姉は何度尋ねても答えなかった。


 家は単純な怪物ではない。帰りたいという願いを材料にしている。その願いは本物だった。


 失った家族へ会いたい。もう一度声を聞きたい。一人で食卓につきたくない。玄関の音を待ち続けたくない。どれも人間の弱さであり、愛情であり、後悔だった。契約は、そこへ入り込んだ。


 新木が兄の原型へ呼びかける。


「偽物でもええ言うたな」


『偽物じゃない』


「ほな、あんたの母親は何が好きやった」


『何を』


「食べ物でも、歌でも、服でもええ。帰ってきた母親は答えたか」


 兄は黙る。


『同じことを言っていた』


「何を」


『家族と一緒なら幸せだと』


「それ以外は」


 長い沈黙。


『何も』


「それでも母親やと思うか」


『顔は母さんだった』


「顔だけや」


『声も』


「声だけや」


『でも』


「寂しかったんやろ」


 新木の声は、これまでより柔らかかった。


「偽物でもええから、誰かに帰ってきてほしかった。それ自体は責めへん。せやけど、その寂しさを理由に、妹を永遠に閉じ込めるんか」


 千鳥が顔を上げる。兄の原型は、初めて少女を見た。白い空間の中央に立つ、顔のない子供。長い年月、十三羽目として家に数えられ続けた妹。


『千鳥』


 千鳥は答えない。兄は声を震わせた。


『お前、帰ってきたくなかったのか』


「帰りたくなかった。ずっと」


『どうして』


「みんなが怖かったから」


『家族なのに』


「家族じゃなくなってた」


 兄の目が閉じる。


『そうか』


 短い言葉。そこには理解も、後悔も、諦めも混じっていた。


『拒否する』


 名簿へ黒い線が走る。継承拒否。残る人数は減っていく。六名、七名、八名。


 扉への衝撃が強まった。固定杭の一本が抜ける。クライムが振り返った。


「もう持たない!」


「あと四名です。持たせてください」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


 紅林の肩の小鳥が強く鳴いた。最後の一画が、ほぼ完成している。赤い糸が肩から首へ伸び、皮膚の下へ入り込む。紅林の視界が一瞬暗くなった。


 次に目を開けると、彼女は玄関に立っていた。


 白い空間ではない。見覚えのある家。靴箱、廊下、壁に掛けられた時計。奥から食器の音がする。


「澪奈」


 女の声。紅林は動かなかった。


「帰ってきたの」


 廊下の奥に人影が立つ。顔は暗くて見えない。それでも誰なのか分かる。分かってしまう。


「遅かったね」


 紅林の呼吸が止まる。任務ではない。契約でもない。もっと古い記憶。彼女が家という言葉を口にしなくなった理由。帰宅を望まなくなった理由。


「ご飯、できてるよ」


 女が手を伸ばす。


「今度は、ちゃんと待ってるから」


 紅林の足が、無意識に一歩前へ出た。もう一歩。玄関から廊下へ。


 肩の痛みが消える。銃の重さもない。責任もない。隊長ではない。守るべき部下もいない。ただ家へ帰ってきた、一人の人間。


「隊長!」


 遠くから神楽の声が聞こえた。だが、家の中ではない。


「隊長、応答してください!」


 紅林は立ち止まる。女の手が近づいた。


「行かなくていいよ」


「みんな、待ってるよ」


「もう頑張らなくていい」


 優しい声。欲しかった言葉。聞きたくなかった言葉。


「澪奈」


 女の顔が光の中へ出る。紅林は目を閉じた。


「あなたは、私をそう呼びません」


 女の動きが止まる。紅林は目を開いた。


「一度も。私の名前を、優しく呼んだことはない」


 女の顔に亀裂が入った。家の景色が崩れる。壁紙が剥がれ、木の根が露出し、食卓が腐る。温かい光が赤く染まり、女の顔が木製の仮面へ変わった。


「記憶の選び方を間違えましたね」


 紅林は肩の小鳥を引き剥がした。木の爪が肉を裂き、血が飛ぶ。それでも構わない。小鳥を床へ叩きつけ、踏み砕く。


 現実が戻った。


「隊長!」


 神楽が紅林の肩を支えていた。


「問題ありません」


「首まで糸が入っています」


「切ってください」


「通常の刃物では――」


 新木が駆け寄る。


「契約書貸してみ」


 彼は鬼灯産業の契約書を細く裂き、紙を赤い糸へ巻きつけた。


「契約条文で契約接続を切る。ほんま、最悪の使い方やな」


 火をつける。契約書が燃え、炎が赤い糸へ移る。糸は激しくのたうち、紅林の皮膚から抜けた。傷口から黒い煙が上がる。紅林は痛みに顔を歪めたが、声は上げなかった。


「名前は」


 神楽が巨大な名簿を見る。最後の一画は、完成までわずかなところで止まっていた。


「まだです」


「残り四名」


 紅林は立ち上がる。


「続けます」


 九人目、十人目。拒否意思を回収。十一人目も、長い説得の末に拒否した。


 残る一人。名簿の十二番目、柊木千秋。千鳥の母親だった。


 彼女の人格原型は、白い空間の最深部に吊るされている。他の原型と違い、全身を何重もの赤い糸に包まれていた。糸は巨大な名簿、扉、床、壁、空間全体へ繋がっている。


「この人が中心か」


 高峰が言う。新木が名簿を確認した。


「原契約者は祖父や。せやけど、帰宅願望が一番強かったんは母親やったんかもしれん」


 千鳥が動かなくなる。


「お母さん」


 その声は、これまでで最も幼かった。紅林は彼女を見る。


「話せますか」


「分からない」


「話す必要はありません」


「でも、聞きたい」


「何を」


「どうして、私まで帰したかったのか」


 紅林は答えなかった。それは千鳥自身が尋ねるべきことだった。


「呼び出します。柊木千秋」


 母親の膜が激しく脈打ち、赤い糸が一斉に締まる。目が開く。瞳は真っ黒で、白目がない。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。


『おかえりなさい』


 通信端末をつけていない。それでも声が空間全体から響いた。


『千鳥』


 少女が身をすくめる。


『ずっと待っていたのよ』


「違います」


 紅林が言う。


「本人確認を行います。あなたは柊木千秋本人ですか」


『母親です』


「質問に答えてください」


『家族の母親です』


「柊木千秋本人ですか」


『家族を待つ者です』


 新木が顔をしかめる。


「加工されすぎとる」


「原型ではないのですか」


「原型に家が入り込んどる。こいつが契約維持の中心や」


 千秋の身体から赤い糸が増え、膜を突き破って千鳥へ伸びる。紅林が銃で撃つ。糸が弾けるが、切断面から新たな糸が生えた。


『千鳥』


「呼ばないで」


『帰ってきなさい』


「嫌」


『お母さんのところへ』


「嫌!」


『家族でしょう』


「違う!」


 千秋の笑みが深くなる。


『どうして、そんなことを言うの』


「怖かったから」


『何が』


「帰ってきたみんなが」


『家族なのに』


「同じ顔してた」


『家族だからよ』


「同じことしか言わなかった」


『家族は心が同じなの』


「違う!」


 千鳥は叫んだ。


「家族でも、違うことを考える!」


 白い空間が揺れ、千秋の顔に一瞬だけ別の表情が浮かぶ。悲しみ、怒り、混乱。だが、すぐに笑顔へ戻った。


『家族は一つです』


「一つじゃない」


『一緒です』


「一緒でも違う」


『違ってはいけません』


「違っていい!」


 千鳥の声が空間へ響いた。吊るされた人格原型たちが反応し、目を開き、顔を上げる。それぞれが「家族」という言葉へ別の表情を見せていた。喜び、苦しみ、懐かしさ、嫌悪、恐怖、後悔。誰一人として同じではない。


「これが家族です」


 紅林が言った。


「同じ記憶を持たず、同じ考えも持たず、それでも関係を選ぶ」


『違います』


「あなたが作ったものは家族ではありません」


『違います』


「ただの同一化です」


『違います!』


 千秋の声が初めて崩れた。怒鳴り声、母親の声、家の声。複数の音が混ざる。


『家族が違うことを考えるから、離れていく! 違う場所へ行く! 帰ってこなくなる! 死んでしまう!』


 紅林は理解した。これが中心だ。


 帰ってきてほしい、ではない。離れてほしくない。変わってほしくない。失いたくない。家族を同じ形のまま、永遠に家へ閉じ込めたい。


「あなたは家族を帰したかったのではありません。失うことを拒絶した」


『母親なら当然です』


「いいえ」


 千鳥が答えた。


「お母さんは、私が嫌がっても止めなかった」


『あなたは子供だったから』


「今も子供のままにした」


『守るためよ』


「閉じ込めるため」


『違う』


「私が変わるのが嫌だった」


『違う!』


「私が、お母さんと違うことを考えるのが嫌だった!」


 千秋の膜に亀裂が入り、赤い糸が暴れる。


『違う!』


「なら答えて」


 千鳥は母親を見上げた。


「私が帰りたくないって言った時、どうして聞いてくれなかったの」


 千秋の口が動く。声は出ない。笑顔が崩れ、目の黒が薄くなる。その奥から現れたのは、疲れた女性の瞳だった。涙を浮かべた、人間の目。


『怖かった』


 初めて、家の声ではない言葉が出た。


『みんな、いなくなった。父さんも、母さんも、あなたのお父さんも、お兄ちゃんも。帰ってきても、またいなくなると思った』


 千鳥は何も言わない。


『だから、同じにしたかった。変わらなければ、離れなければ、ずっと家族でいられると思った』


「それで、私を閉じ込めたの」


『あなたしか残っていなかった』


「私は残りたくなかった」


 千秋の顔が歪む。


『ごめんなさい』


 短い謝罪。家の中で初めて聞く言葉だった。契約の定型句ではない。帰宅を促す言葉でも、同一化を求める言葉でもない。一人の人間が、自分と違う相手へ向けた言葉。


 千鳥の身体が震える。涙は出ない。それでも肩が揺れていた。


「遅いよ」


『うん』


「ずっと待ってた」


『うん』


「帰りたかったんじゃない」


『うん』


「外に出たかった」


『ごめんなさい』


 紅林は千秋へ尋ねた。


「契約継続について確認します」


 千秋の瞳に、再び黒い色が広がろうとする。家が抵抗している。赤い糸が首へ巻きついた。


『家族を――』


「柊木千秋」


 紅林は強く呼びかける。


「あなた自身の意思で答えてください」


 千秋の口元に笑みが戻る。


『家族を守るために』


「違う」


 千鳥が言った。


「お母さんの言葉で答えて」


 千秋の顔が揺れる。笑顔、恐怖、苦痛、後悔。複数の表情が入れ替わり、やがて笑みが消えた。


『拒否します』


 名簿の十二番目。柊木千秋。その名前へ黒い線が引かれた。


 継承拒否。


 十二名。全員の拒否意思が揃った。


 一瞬、何も起きなかった。


 次の瞬間、巨大な名簿が轟音とともに閉じた。白い空間全体が激しく揺れる。床に広がっていた木目が剥がれ、赤い糸が次々に切れ、鬼灯の実が黒く腐って崩れ落ちる。吊るされた人格原型たちを包む膜も、透明度を失っていった。


「契約解除か」


 神楽が言う。新木は契約書を確認した。条文、署名、社印。全ての文字が紙面から消え、白紙へ戻っていく。


「成立した。契約者不在。全継承権者拒否。契約終了や」


 紅林の肩に止まっていた小鳥が動きを止める。腹部の名前は、最後の一画が完成する直前でひび割れた。木製の身体が砕け、破片が床へ落ちる。巨大な名簿から、紅林の名が消えた。


 しかし、扉への衝撃は止まらなかった。


 どん。


 どん。


 どん。


 むしろ強くなっている。固定杭が全て抜け、ワイヤーが切れる。巨大な扉が内側へ弾け飛び、人形たちが押し寄せた。


 先頭に立つのは、もう一人の紅林。全身を赤い糸に覆われ、その顔は笑っていない。苦痛に歪んでいた。


「解除されたはずでは」


 神楽が銃を構える。


「契約は終わった!」


 新木が叫ぶ。


「せやけど、設備は止まっとらん!」


「なぜです」


 紅林が問う。新木は白紙になった契約書を見て、扉の向こうから侵入してくる家を見た。


「契約なしで動いとる」


「自律しているということですか」


「ちゃう」


 新木の顔から血の気が引く。


「捨てられたんや」


「何に」


「鬼灯産業にや」

次回予告


第六章 最後の所有者


10月 3日21時投稿予定

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