第五章 鬼灯産業
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扉の隙間から、赤い糸が流れ込んでいた。
血管のように脈打ちながら白い床を這い、吊るされた人格原型へ伸びていく。一本、二本、十本。やがて糸は枝分かれし、白い空間の至るところへ広がった。
糸が触れた場所から空間が変色する。白が黄ばみ、黄ばみが木目へ変わり、木目は柱となり、壁となり、天井となる。何もなかったはずの人格保管領域が、再び家の内部へ作り替えられようとしていた。
巨大な扉の向こうには、もう一人の紅林澪奈が立っている。その全身には木製の小鳥が取りついていた。肩、胸、腰、腕、太腿。小鳥たちは爪を戦術服へ食い込ませ、皮膚の下へ赤い糸を送り込んでいる。
偽物の紅林は笑っていた。それは、先ほどまで彼女が浮かべていた笑みではない。迷いも、困惑も、恐怖もない。帰宅した家族を歓迎するためだけに作られた、空虚で穏やかな笑顔だった。
「全員で帰りましょう」
背後に並ぶ人形たちも、同じ言葉を繰り返す。
「全員で帰りましょう」
「全員で帰りましょう」
「全員で帰りましょう」
紅林は肩の小鳥を左手でつかんだ。木の爪が肉へ食い込み、痛みが走る。小鳥の腹部では、彼女の名前の最後の一画が刻まれつつあった。赤い溝が、ゆっくりと伸びていく。
「神楽」
「はい」
「扉を閉鎖してください」
「外側から押されています」
「ワイヤーと固定杭を併用。完全に閉じなくても構いません。侵入速度を落としてください」
「了解」
神楽とクライムが扉へ向かう。クライムが射出器を構え、左右の空間へワイヤーを撃ち込んだ。金属製の杭が白い床へ突き刺さる。ワイヤーを扉の取っ手へ絡め、巻き上げると、巨大な扉が軋んだ。
外側から無数の手が差し込まれる。人形の手、子供の手、老人の手、木でできた手、紙でできた手。隙間から指を入れ、扉が閉じるのを妨げている。
神楽が短く射撃した。指が砕け、木片と紙片が散る。切断された手は床へ落ちると、家族写真へ変わった。写真の中では、知らない家族が食卓を囲んで笑っている。
「閉じます!」
クライムがワイヤーを巻き取る。扉がゆっくりと閉じていく。その隙間で、偽物の紅林が本物を見つめていた。
「隊長」
声が変わった。笑顔はそのままだったが、呼びかけにだけ、わずかな苦痛が混じっている。
「命令を」
本物の紅林の目が鋭くなる。まだ残っている。家に支配されながらも、あの複製人格は完全には消えていない。
「抵抗してください。命令です」
偽物の紅林の口元が震えた。
「了解」
次の瞬間、彼女は自分の肩に止まっていた小鳥をつかみ、その木製の身体を握り潰した。
ぱきり、と乾いた音がする。小鳥が砕け、偽物の首へ巻きついていた赤い糸が一瞬緩んだ。彼女はその隙に背後の人形へ向けて発砲する。銃弾が人形の頭部を破壊し、家族の群れがざわめいた。
「帰宅を拒否しました」
「家族が拒否しました」
「不和が発生しました」
無数の声が重なる。偽物の紅林は扉へ背を向け、人形たちの前へ立った。
「私は――家族ではありません」
家全体が鳴動した。白い空間へ伸びていた赤い糸が一斉に激しく震え、小鳥たちが悲鳴のような声を上げる。偽物の紅林の身体へ、さらに多くの糸が突き刺さった。両脚が床へ固定される。それでも彼女は銃を下ろさない。
「閉めてください!」
偽物が叫ぶ。神楽とクライムが力を込め、扉を閉じる。最後に見えたのは、押し寄せる人形たちへ銃を向ける、もう一人の紅林の背中だった。
扉が完全に閉じた直後、外側から激しい衝撃が加わった。
どん。
扉全体が揺れる。
どん。
固定杭が軋む。
どん。
ワイヤーが張り詰める。
「長くは持たない。固定杭が床ごと剥がされる」
「必要な時間だけ持たせてください」
紅林は巨大な家族登録簿へ向き直った。空中に浮かぶ本体は、人の背丈を超えるほど大きい。分厚い表紙、黒ずんだ紙、背表紙に押された鬼灯の紋章。開かれた最後の頁には十三の登録欄が並び、十二の欄にはすでに名前がある。
最後の欄には、紅林澪奈。最後の一点だけが空白だった。その一点から細い赤い糸が伸び、紅林の肩の小鳥へ繋がっている。
「登録完了を止める方法は」
神楽が尋ねた。新木慎介は名簿の前へ立ち、契約書と見比べる。
「名前を消すだけやと、また書き直される」
「千鳥の時と同じですか」
「いや。もっと悪い」
新木は名簿の欄を指さした。
「千鳥は未帰宅やった。せやから家族登録を解除できた。けど隊長は、もう玄関を通っとる」
「家の定義では、帰宅済み」
「せや。しかも今は、契約継承者として選ばれとる。単なる家族登録やない」
「契約者になるということですか」
「この家そのものの持ち主にされる」
高峰が銃を構えたまま振り返る。
「持ち主になれば、止められるのではないか」
「逆や。家を持つんやない。家に持たれる」
「具体的には」
「契約継承が完了した時点で、隊長の意思は家全体の意思として扱われる。せやけど、家にはもう独自の目的がある。家の考えを、自分の考えやと思わされるんや。今の偽物の隊長みたいにな」
紅林の肩の小鳥が、ちち、と鳴いた。その声と同時に、彼女の頭の中へ景色が流れ込む。
夕暮れの住宅街。灯りのついた家。玄関、靴箱、廊下、食卓。そこに座るマジックナンバーズの隊員たち。神楽、黒岡、新木、メアリー、クライム、高峰。全員が穏やかに笑っている。
怪我はない。任務もない。異常もない。何も失わない。何も変わらない。永遠に同じ夕食を囲み続ける。
「隊長」
神楽の声で、紅林は現実へ戻った。
「問題ありません」
「今、反応が止まっていました」
「映像を見せられました」
「内容は」
「全員が家族として暮らしている光景です」
メアリーが顔を歪める。
「家が、隊長を説得してる」
「説得ではありません」
紅林は肩の小鳥を強く握った。木の爪がさらに深く入り、血が戦術服へ染み出す。紅林は痛みを利用して意識を保った。
「望みを作ろうとしています。新木、十二名の拒否意思を回収する方法を」
「原型を起こして、契約継続を拒否させる」
「人格が正常とは限りません」
「正常やなくても意思が残っとればええ。少なくとも、家が加工する前の状態ならな」
「該当者を特定できますか」
新木は巨大な名簿の十二名を見た。
「名前は読める。せやけど、この空間に何百人おる」
「登録簿との接続を追います」
メアリーが言った。千鳥を床へ下ろし、ゆっくりと立ち上がる。顔色は悪い。声を受けすぎている。それでも目には強い意思があった。
「赤い糸をたどれば、誰が誰につながってるか分かると思う」
黒岡が彼女を見る。
「無理をするな」
「無理しないと間に合わない」
「倒れたら意味がない」
「倒れる前に見つける」
黒岡は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
「三分ごとに反応を確認する。返事が遅れたら止める」
「分かった」
メアリーは目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。周囲に吊るされた人格原型、透明な膜、胸元から伸びる赤い糸。何百もの意識が断片的に彼女へ流れ込む。
帰りたい。帰れない。帰ってきた。帰りたくない。待っている。待たれている。
母親の声。父親の声。子供の泣き声。恋人、友人、同僚。誰かの最後の言葉。誰かが言えなかった謝罪。誰かが帰宅を諦めた瞬間。それら全てが一度に押し寄せ、メアリーの身体が揺れた。
黒岡が背後から支える。
「戻れ」
「まだ」
「顔色が悪い」
「最初の人、見つけた」
メアリーが指を上げる。白い空間の左奥、透明な膜に包まれた老人。家族写真に写っていた祖父だった。
「次」
彼女の指が動く。少し離れた場所に祖母。さらに奥に父親。天井近くに母親。一人、二人、三人。名簿に記された十二名が、次々に特定されていく。神楽が座標を記録した。
「全対象を確認」
「回収班を分けます。神楽と高峰は右側の四名。黒岡とメアリーは左側の四名。クライムと新木は上層の四名」
「隊長は」
「名簿を監視します」
「一人では危険です」
「千鳥がいます」
千鳥は紅林を見上げた。
「私は戦えない」
「知っています」
「家の声も止められない」
「知っています」
「じゃあ、何ができるの」
紅林は巨大な名簿へ視線を向けたまま答えた。
「あなたは、この家に帰りたくないと最初に言えた人です。ここでは、それが最も重要です」
千鳥は自分の手を見た。紙のように白い指。細い亀裂。人間の身体ではない。記憶と契約から作られた残存人格。それでも、自分の意思で家を拒絶した。
「分かった。ここにいる」
「お願いします」
各班が散開する。神楽と高峰は右側へ。黒岡はメアリーを支えながら左奥へ進む。クライムが天井近くへワイヤーを撃ち、新木を引き上げる。白い空間に、短い指示と装備音が響いた。
その間も扉は叩かれ続けていた。衝撃のたびに隙間が広がり、赤い糸が侵入して床へ根を張る。糸の先から小さな木の芽が出た。芽は急速に伸び、枝と葉を広げ、赤い鬼灯の実を結ぶ。
空間中に咲いた袋状の実。その内側には、小さな人の顔があった。目を閉じた顔、苦しむ顔、笑う顔。それぞれが囁く。
「契約を継承してください」
「家族を守ってください」
「家を維持してください」
「帰宅を保証してください」
紅林は反応しない。肩の小鳥がさらに深く爪を立てる。名前の最後の一画が、少しずつ完成へ近づいていた。
新木から通信が入る。
『一人目に到達したで』
「覚醒させられますか」
『膜が邪魔や。物理的に破ってええか』
「待ってください」
紅林は巨大な名簿を見る。祖父の名前から伸びる赤い糸は、透明な膜へ繋がっている。
「膜は人格を保護するためのものです。破壊すると原型まで損傷する可能性があります」
『ほな、どうする』
「契約上の呼び出しを使います。名前を読み上げれば、本人確認が始まるはずです」
『家族登録が強化される危険は』
「あります」
『さらっと言うなや』
「他に方法がありません」
新木のため息が通信越しに聞こえた。
『了解や』
紅林は最初の名前を読んだ。
「柊木宗一郎」
名簿の文字が赤く光る。老人を包んでいた膜が脈打ち、中で閉じていた目が開いた。老人は苦しそうに息を吸う。膜の中に液体はない。それでも、溺れていた者が水面へ出たような反応だった。
『起きたで』
「意思疎通を」
新木が老人へ顔を近づける。
「柊木宗一郎さん。聞こえますか」
老人の口が動くが、声は膜を通らない。クライムが小型端末を膜へ貼りつけ、波形を読み取る。数秒後、無線から雑音混じりの声が聞こえた。
『ここは……家か』
弱く、遠い老人の声。新木は答えなかった。
「質問だけするで。あんたは、鬼灯産業との家族帰宅支援設備契約を継続したいか」
老人の目が動く。混乱、恐怖、そして何かを思い出す。
『家族は』
「今は答えられへん」
『帰ってきたのか』
「契約を継続したいか、拒否するか。それだけ答えてくれ」
老人の顔に強い苦悩が浮かぶ。
『帰ってきた。みんな、帰ってきた』
千鳥が震える。紅林は老人の声を聞き続けた。
『だが、違った。顔は同じだった。声も同じだった。なのに、全員が同じことを言った』
『おかえり。おかえり。おかえり』
老人は頭を抱えようとした。だが、膜の中で身体がほとんど動かない。
『止めたかった。止められなかった。契約だから。願ったから。私が帰ってきてほしいと願ったから』
新木が静かに尋ねる。
「契約を継続するか」
老人は目を閉じた。
『拒否する』
その瞬間、巨大な名簿の最上段にある名前へ黒い線が引かれた。
柊木宗一郎。登録欄の横に、新しい文字が浮かぶ。
継承拒否。
白い空間が大きく揺れ、扉の向こうから何かが絶叫した。
「一名確認。次へ」
神楽から通信が入る。
『二人目、柊木文江に到達しました』
「呼び出します。柊木文江」
祖母の膜が揺れ、目が開く。神楽が端末を接続した。
『聞こえますか』
『宗一郎さん……あの人はどこ』
「現在、別の場所で意思確認を行っています」
『帰ってきたの』
神楽は答えない。
「鬼灯産業との契約継続について確認します。継続か拒否か、意思を示してください」
老女の目が見開かれた。
『あれを止めて』
「拒否で間違いありませんか」
『止めて』
「契約継続を拒否しますか」
『拒否します』
二人目。名簿へ黒い線が引かれる。
継承拒否。
白い空間の木目化が少し止まった。赤い糸の一部が黒く焼け、崩れ落ちる。
「効果があります」
「続行してください」
三人目、四人目。父親、母親、兄、姉。人格原型を呼び起こし、意思を確認する。だが、全員がすぐに拒否するわけではなかった。
『帰ってきた家族を、また失うのか』
父親は迷った。
『偽物でも、いないよりはいい』
母親は泣いた。
『あの子が一人になる』
兄は契約継続を望んだ。
『家は必要だ』
姉は何度尋ねても答えなかった。
家は単純な怪物ではない。帰りたいという願いを材料にしている。その願いは本物だった。
失った家族へ会いたい。もう一度声を聞きたい。一人で食卓につきたくない。玄関の音を待ち続けたくない。どれも人間の弱さであり、愛情であり、後悔だった。契約は、そこへ入り込んだ。
新木が兄の原型へ呼びかける。
「偽物でもええ言うたな」
『偽物じゃない』
「ほな、あんたの母親は何が好きやった」
『何を』
「食べ物でも、歌でも、服でもええ。帰ってきた母親は答えたか」
兄は黙る。
『同じことを言っていた』
「何を」
『家族と一緒なら幸せだと』
「それ以外は」
長い沈黙。
『何も』
「それでも母親やと思うか」
『顔は母さんだった』
「顔だけや」
『声も』
「声だけや」
『でも』
「寂しかったんやろ」
新木の声は、これまでより柔らかかった。
「偽物でもええから、誰かに帰ってきてほしかった。それ自体は責めへん。せやけど、その寂しさを理由に、妹を永遠に閉じ込めるんか」
千鳥が顔を上げる。兄の原型は、初めて少女を見た。白い空間の中央に立つ、顔のない子供。長い年月、十三羽目として家に数えられ続けた妹。
『千鳥』
千鳥は答えない。兄は声を震わせた。
『お前、帰ってきたくなかったのか』
「帰りたくなかった。ずっと」
『どうして』
「みんなが怖かったから」
『家族なのに』
「家族じゃなくなってた」
兄の目が閉じる。
『そうか』
短い言葉。そこには理解も、後悔も、諦めも混じっていた。
『拒否する』
名簿へ黒い線が走る。継承拒否。残る人数は減っていく。六名、七名、八名。
扉への衝撃が強まった。固定杭の一本が抜ける。クライムが振り返った。
「もう持たない!」
「あと四名です。持たせてください」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
紅林の肩の小鳥が強く鳴いた。最後の一画が、ほぼ完成している。赤い糸が肩から首へ伸び、皮膚の下へ入り込む。紅林の視界が一瞬暗くなった。
次に目を開けると、彼女は玄関に立っていた。
白い空間ではない。見覚えのある家。靴箱、廊下、壁に掛けられた時計。奥から食器の音がする。
「澪奈」
女の声。紅林は動かなかった。
「帰ってきたの」
廊下の奥に人影が立つ。顔は暗くて見えない。それでも誰なのか分かる。分かってしまう。
「遅かったね」
紅林の呼吸が止まる。任務ではない。契約でもない。もっと古い記憶。彼女が家という言葉を口にしなくなった理由。帰宅を望まなくなった理由。
「ご飯、できてるよ」
女が手を伸ばす。
「今度は、ちゃんと待ってるから」
紅林の足が、無意識に一歩前へ出た。もう一歩。玄関から廊下へ。
肩の痛みが消える。銃の重さもない。責任もない。隊長ではない。守るべき部下もいない。ただ家へ帰ってきた、一人の人間。
「隊長!」
遠くから神楽の声が聞こえた。だが、家の中ではない。
「隊長、応答してください!」
紅林は立ち止まる。女の手が近づいた。
「行かなくていいよ」
「みんな、待ってるよ」
「もう頑張らなくていい」
優しい声。欲しかった言葉。聞きたくなかった言葉。
「澪奈」
女の顔が光の中へ出る。紅林は目を閉じた。
「あなたは、私をそう呼びません」
女の動きが止まる。紅林は目を開いた。
「一度も。私の名前を、優しく呼んだことはない」
女の顔に亀裂が入った。家の景色が崩れる。壁紙が剥がれ、木の根が露出し、食卓が腐る。温かい光が赤く染まり、女の顔が木製の仮面へ変わった。
「記憶の選び方を間違えましたね」
紅林は肩の小鳥を引き剥がした。木の爪が肉を裂き、血が飛ぶ。それでも構わない。小鳥を床へ叩きつけ、踏み砕く。
現実が戻った。
「隊長!」
神楽が紅林の肩を支えていた。
「問題ありません」
「首まで糸が入っています」
「切ってください」
「通常の刃物では――」
新木が駆け寄る。
「契約書貸してみ」
彼は鬼灯産業の契約書を細く裂き、紙を赤い糸へ巻きつけた。
「契約条文で契約接続を切る。ほんま、最悪の使い方やな」
火をつける。契約書が燃え、炎が赤い糸へ移る。糸は激しくのたうち、紅林の皮膚から抜けた。傷口から黒い煙が上がる。紅林は痛みに顔を歪めたが、声は上げなかった。
「名前は」
神楽が巨大な名簿を見る。最後の一画は、完成までわずかなところで止まっていた。
「まだです」
「残り四名」
紅林は立ち上がる。
「続けます」
九人目、十人目。拒否意思を回収。十一人目も、長い説得の末に拒否した。
残る一人。名簿の十二番目、柊木千秋。千鳥の母親だった。
彼女の人格原型は、白い空間の最深部に吊るされている。他の原型と違い、全身を何重もの赤い糸に包まれていた。糸は巨大な名簿、扉、床、壁、空間全体へ繋がっている。
「この人が中心か」
高峰が言う。新木が名簿を確認した。
「原契約者は祖父や。せやけど、帰宅願望が一番強かったんは母親やったんかもしれん」
千鳥が動かなくなる。
「お母さん」
その声は、これまでで最も幼かった。紅林は彼女を見る。
「話せますか」
「分からない」
「話す必要はありません」
「でも、聞きたい」
「何を」
「どうして、私まで帰したかったのか」
紅林は答えなかった。それは千鳥自身が尋ねるべきことだった。
「呼び出します。柊木千秋」
母親の膜が激しく脈打ち、赤い糸が一斉に締まる。目が開く。瞳は真っ黒で、白目がない。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
『おかえりなさい』
通信端末をつけていない。それでも声が空間全体から響いた。
『千鳥』
少女が身をすくめる。
『ずっと待っていたのよ』
「違います」
紅林が言う。
「本人確認を行います。あなたは柊木千秋本人ですか」
『母親です』
「質問に答えてください」
『家族の母親です』
「柊木千秋本人ですか」
『家族を待つ者です』
新木が顔をしかめる。
「加工されすぎとる」
「原型ではないのですか」
「原型に家が入り込んどる。こいつが契約維持の中心や」
千秋の身体から赤い糸が増え、膜を突き破って千鳥へ伸びる。紅林が銃で撃つ。糸が弾けるが、切断面から新たな糸が生えた。
『千鳥』
「呼ばないで」
『帰ってきなさい』
「嫌」
『お母さんのところへ』
「嫌!」
『家族でしょう』
「違う!」
千秋の笑みが深くなる。
『どうして、そんなことを言うの』
「怖かったから」
『何が』
「帰ってきたみんなが」
『家族なのに』
「同じ顔してた」
『家族だからよ』
「同じことしか言わなかった」
『家族は心が同じなの』
「違う!」
千鳥は叫んだ。
「家族でも、違うことを考える!」
白い空間が揺れ、千秋の顔に一瞬だけ別の表情が浮かぶ。悲しみ、怒り、混乱。だが、すぐに笑顔へ戻った。
『家族は一つです』
「一つじゃない」
『一緒です』
「一緒でも違う」
『違ってはいけません』
「違っていい!」
千鳥の声が空間へ響いた。吊るされた人格原型たちが反応し、目を開き、顔を上げる。それぞれが「家族」という言葉へ別の表情を見せていた。喜び、苦しみ、懐かしさ、嫌悪、恐怖、後悔。誰一人として同じではない。
「これが家族です」
紅林が言った。
「同じ記憶を持たず、同じ考えも持たず、それでも関係を選ぶ」
『違います』
「あなたが作ったものは家族ではありません」
『違います』
「ただの同一化です」
『違います!』
千秋の声が初めて崩れた。怒鳴り声、母親の声、家の声。複数の音が混ざる。
『家族が違うことを考えるから、離れていく! 違う場所へ行く! 帰ってこなくなる! 死んでしまう!』
紅林は理解した。これが中心だ。
帰ってきてほしい、ではない。離れてほしくない。変わってほしくない。失いたくない。家族を同じ形のまま、永遠に家へ閉じ込めたい。
「あなたは家族を帰したかったのではありません。失うことを拒絶した」
『母親なら当然です』
「いいえ」
千鳥が答えた。
「お母さんは、私が嫌がっても止めなかった」
『あなたは子供だったから』
「今も子供のままにした」
『守るためよ』
「閉じ込めるため」
『違う』
「私が変わるのが嫌だった」
『違う!』
「私が、お母さんと違うことを考えるのが嫌だった!」
千秋の膜に亀裂が入り、赤い糸が暴れる。
『違う!』
「なら答えて」
千鳥は母親を見上げた。
「私が帰りたくないって言った時、どうして聞いてくれなかったの」
千秋の口が動く。声は出ない。笑顔が崩れ、目の黒が薄くなる。その奥から現れたのは、疲れた女性の瞳だった。涙を浮かべた、人間の目。
『怖かった』
初めて、家の声ではない言葉が出た。
『みんな、いなくなった。父さんも、母さんも、あなたのお父さんも、お兄ちゃんも。帰ってきても、またいなくなると思った』
千鳥は何も言わない。
『だから、同じにしたかった。変わらなければ、離れなければ、ずっと家族でいられると思った』
「それで、私を閉じ込めたの」
『あなたしか残っていなかった』
「私は残りたくなかった」
千秋の顔が歪む。
『ごめんなさい』
短い謝罪。家の中で初めて聞く言葉だった。契約の定型句ではない。帰宅を促す言葉でも、同一化を求める言葉でもない。一人の人間が、自分と違う相手へ向けた言葉。
千鳥の身体が震える。涙は出ない。それでも肩が揺れていた。
「遅いよ」
『うん』
「ずっと待ってた」
『うん』
「帰りたかったんじゃない」
『うん』
「外に出たかった」
『ごめんなさい』
紅林は千秋へ尋ねた。
「契約継続について確認します」
千秋の瞳に、再び黒い色が広がろうとする。家が抵抗している。赤い糸が首へ巻きついた。
『家族を――』
「柊木千秋」
紅林は強く呼びかける。
「あなた自身の意思で答えてください」
千秋の口元に笑みが戻る。
『家族を守るために』
「違う」
千鳥が言った。
「お母さんの言葉で答えて」
千秋の顔が揺れる。笑顔、恐怖、苦痛、後悔。複数の表情が入れ替わり、やがて笑みが消えた。
『拒否します』
名簿の十二番目。柊木千秋。その名前へ黒い線が引かれた。
継承拒否。
十二名。全員の拒否意思が揃った。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、巨大な名簿が轟音とともに閉じた。白い空間全体が激しく揺れる。床に広がっていた木目が剥がれ、赤い糸が次々に切れ、鬼灯の実が黒く腐って崩れ落ちる。吊るされた人格原型たちを包む膜も、透明度を失っていった。
「契約解除か」
神楽が言う。新木は契約書を確認した。条文、署名、社印。全ての文字が紙面から消え、白紙へ戻っていく。
「成立した。契約者不在。全継承権者拒否。契約終了や」
紅林の肩に止まっていた小鳥が動きを止める。腹部の名前は、最後の一画が完成する直前でひび割れた。木製の身体が砕け、破片が床へ落ちる。巨大な名簿から、紅林の名が消えた。
しかし、扉への衝撃は止まらなかった。
どん。
どん。
どん。
むしろ強くなっている。固定杭が全て抜け、ワイヤーが切れる。巨大な扉が内側へ弾け飛び、人形たちが押し寄せた。
先頭に立つのは、もう一人の紅林。全身を赤い糸に覆われ、その顔は笑っていない。苦痛に歪んでいた。
「解除されたはずでは」
神楽が銃を構える。
「契約は終わった!」
新木が叫ぶ。
「せやけど、設備は止まっとらん!」
「なぜです」
紅林が問う。新木は白紙になった契約書を見て、扉の向こうから侵入してくる家を見た。
「契約なしで動いとる」
「自律しているということですか」
「ちゃう」
新木の顔から血の気が引く。
「捨てられたんや」
「何に」
「鬼灯産業にや」
次回予告
第六章 最後の所有者
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