第四章 帰れない家 ## 後編
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もう一人の紅林澪奈は、暗闇の中で静かに微笑んでいた。
立ち姿。
視線の高さ。
左肩をわずかに引く癖。
銃を持つ手の角度。
その全てが、本物の紅林と同じだった。
装備も同一だった。
濃紺の戦術服。
胸元のMDE章。
腰のホルスター。
右肩に記されたγ-9〈マジックナンバーズ〉の部隊識別章。
唯一異なるのは、その肩に止まった木製の小鳥だった。
小鳥の腹部には、赤い文字で名前が刻まれている。
紅林澪奈。
本物の紅林の肩にも、同じ小鳥が止まっていた。
同じ名前。
同じ印。
同じ十三羽目。
神楽がすぐに銃口を上げた。
「識別質問を行います」
もう一人の紅林は、視線だけを神楽へ向けた。
「必要ありません」
声まで同じだった。
落ち着いた抑揚。
余計な感情を表へ出さない話し方。
聞き慣れた隊長の声が二つ並ぶことで、空間そのものが歪んだように感じられた。
「私は紅林澪奈です」
「それを決めるのはこちらです」
神楽は一歩前へ出た。
「所属、階級、現行任務を回答してください」
「MDE実働部門所属。特殊対応部隊γ-9〈マジックナンバーズ〉隊長。現在の任務はNCO-318-JP内部に取り込まれた第一次調査班の救助、および異常構造の確認と収容です」
淀みのない回答。
内容は正しい。
神楽は続ける。
「出動前、ブリーフィングルームで最初に発言した人物は」
「高野博士です」
「その内容は」
「現場の異常性を住居型構造体と断定せず、契約型媒体、認識依存型空間、あるいは群体異常の可能性を残すよう指示しました」
正しい。
神楽の表情がさらに硬くなる。
「部隊編成時、黒岡が装備申請で却下されたものは」
「大型破砕槌です」
黒岡が眉をひそめた。
「そこまで知っているのか」
「私は隊長です」
偽物の紅林は答えた。
「隊員の装備内容を把握するのは当然です」
声。
記憶。
判断基準。
全てが正確だった。
メアリーが千鳥のそばから、恐る恐る顔を上げる。
「二人とも同じ」
彼女は囁いた。
「中身まで、ほとんど同じ」
紅林は偽物から目を離さない。
「ほとんど、ということは違いがあるのですね」
「ある」
メアリーは両手を胸元で握った。
「でも、どっちが本物か分からない」
その言葉に、誰も反応できなかった。
神楽の銃口がわずかに下がる。
すぐに持ち直す。
「記憶の複製だけではありません」
メアリーは続けた。
「感情もある。みんなを守ろうとしてる。千鳥を助けようとしてる。家から出る方法を考えてる。隊長と同じことを考えてる」
「完全な複製か」
高峰が言う。
「せやけど、完全やない」
新木慎介が名簿を見つめたまま答えた。
「家は完璧な人間を作れへん。伊吹班がそうやった。記憶をコピーしても、関係性の扱い方を間違えとる」
「どこを見れば分かる」
「まだ分からん」
「役に立たないな」
「今考えとるわ」
新木は名簿を床へ広げた。
最後の欄。
紅林澪奈と記された名前。
その文字の一部が、濡れた墨のように揺れている。
「登録が完了しとらん」
「名前は書かれています」
神楽が言う。
「せやけど、十三羽目は一羽しか入れへん。今は同じ名前が二人おる。家も、どっちを登録するか決めきれとらん」
本物の紅林と偽物の紅林。
二人の肩で、小鳥が互いを見つめる。
木のくちばしが小さく動いた。
ちち。
ちち。
二羽が同時に鳴く。
地下室の奥で、巨大な鼓動が響いた。
どくん。
床が揺れる。
無数の人形が跪いたまま、顔だけを上げた。
その視線が、二人の紅林へ集まる。
「家が選ぶ前に決めなければなりません」
本物の紅林が言う。
偽物も同時に口を開いた。
「家が選ぶ前に決めなければなりません」
同じ声。
同じ言葉。
同じ間。
新木が舌打ちする。
「真似すんなや」
偽物の紅林は新木へ視線を向けた。
「真似ではありません。同じ結論に達しただけです」
「それが気色悪い言うとんねん」
「感情的な発言は控えてください」
「隊長そっくりやな」
新木の言葉に、黒岡が低く笑った。
緊張の中で漏れた、短い笑いだった。
「確かに、それは本人らしい」
本物の紅林は黒岡を見た。
「笑っている場合ですか」
偽物も同じ言葉を発した。
二人の声が重なる。
黒岡の笑みが消えた。
「訂正する。気味が悪い」
千鳥が紅林の腕の中で震えた。
「家が来る」
「どこからです」
紅林が尋ねる。
「全部から」
その直後、地下室の天井から黒い液体が滴り落ちた。
一滴。
二滴。
やがて雨のように降り始める。
液体は床へ落ちると土へ変わった。
湿った黒土。
そこから細い木の根が伸びる。
根は人形たちの足へ絡みつき、身体の中へ潜り込んでいった。
跪いていた人形たちが、一斉に背を反らす。
口が開く。
黒い根が口内から伸び、天井へ繋がる。
人形たちは操り人形のように立ち上がった。
その顔から、笑みが消える。
代わりに現れたのは、怒りだった。
家族を奪われた者の怒り。
帰宅を拒絶された者の怒り。
自分たちの輪から逃げようとする者へ向けた、純粋な敵意。
「千鳥を返してください」
人形たちが言った。
百を超える声が、一つに重なる。
「家族を返してください」
紅林は千鳥を抱いたまま後退した。
「この子は家族ではありません」
「家族です」
「本人が否定しています」
「子供の拒絶は意思として認められません」
新木が契約書を握りしめる。
「まだ代理同意を使う気か」
「家族の意思は個人の意思に優先します」
「そんな条文、契約書にはあらへん」
「家族であれば当然です」
新木の表情が変わった。
「今のは契約やない」
「どういう意味だ」
高峰が尋ねる。
「この家が勝手に作った理屈や」
新木は契約書をめくる。
「鬼灯産業の条文やない。設備が自分を維持するために、契約の外側へルールを増やしとる」
「自律進化したということですか」
神楽が言う。
「進化いうほど立派やない。壊れた契約を無理に守ろうとして、解釈を継ぎ足し続けたんや」
家は契約を守る。
帰宅を望む者を帰す。
家族を揃える。
その目的のために、帰宅願望を作り、家族関係を捏造し、拒絶を無効化し、対象外の者まで利用者として登録する。
契約を守り続けた結果、契約の意味を失っていた。
「停止させる方法は」
紅林が尋ねる。
「契約違反を確定させる」
「すでに違反しています」
「違反しとるだけや足らん。履行不能か、契約解除を認めさせなあかん」
「相手は誰です」
「本来なら鬼灯産業や」
新木は周囲を見た。
「せやけど、ここに担当者はおらん」
「設備へ直接申し立てることは」
「今やっとる。聞く耳持たんやろ」
偽物の紅林が口を開いた。
「担当者はいます」
全員の視線が向く。
「どこに」
本物の紅林が尋ねた。
偽物は、自分の胸元を指した。
「私の記憶の中です」
新木が目を細める。
「どういうことや」
「私が生成された際、家は紅林澪奈の記憶を複製しました。その中には、突入時に確認した契約書と、千鳥の記憶から流入した鬼灯産業担当者の姿があります」
「姿だけやろ」
「会話もあります」
「千鳥の記憶にあった営業員」
紅林が言う。
「その人物を再現できるということですか」
「可能です」
「なぜ、それを提案するのです」
偽物は一瞬だけ沈黙した。
初めて、答えに間があった。
「任務達成のためです」
「あなた自身が消える可能性があります」
「理解しています」
「十三羽目に登録されれば、あなたは存続できます」
「それも理解しています」
「それでも契約を解除すると」
「私は紅林澪奈です」
偽物は答えた。
「紅林澪奈であれば、部隊と保護対象の生存を優先します」
本物の紅林は、偽物を見つめた。
そこには迷いがなかった。
自己保存より任務。
自分より部隊。
あまりにも自分らしい判断だった。
だからこそ、本物はわずかな違和感を覚えた。
「あなたは、自分が偽物だと理解していますか」
「理解しています」
「恐怖は」
「あります」
「消えたくないと思いますか」
「思います」
「それでも命令に従うのですね」
「はい」
偽物の紅林は穏やかに答えた。
「隊長命令であれば」
その言葉に、紅林は目を細めた。
「私はまだ、あなたへ命令していません」
偽物が沈黙する。
ごく短い沈黙。
だが、初めて生じた明確なずれだった。
紅林は続けた。
「あなたは私の記憶から作られた。判断基準も、責任感も、任務への姿勢も複製されている」
「はい」
「しかし、あなたには隊長であるという自覚と同時に、私へ従属する意識がある」
神楽が偽物を見る。
「家に作られた存在だからか」
「十三羽目の候補として生成された以上、家は序列を設定したのでしょう」
紅林は言った。
「家族には役割がある。親。子。家長。保護者。そして、帰ってきた者」
新木が頷く。
「偽物の隊長は、隊長として作られたんやない」
「では何として」
「帰ってきた紅林澪奈や」
偽物の顔から、わずかに表情が消えた。
「本物の紅林が外におる限り、こっちは帰還後の存在として扱われる。せやから本物に従う」
「違います」
偽物が言った。
初めて、強い否定だった。
「私は隊長です」
「なら証明してみ」
新木は一歩前へ出た。
「隊長は誰にも従属せえへん。少なくとも、自分自身に命令される前から従う準備はせん」
「私は合理的判断を――」
「ちゃう」
新木の声は静かだった。
「家に都合のええ紅林澪奈にされとる」
偽物の肩に止まった小鳥が鳴いた。
ちち。
偽物の身体が一瞬硬直する。
「私は」
彼女の声が揺れる。
「私は紅林澪奈です」
小鳥が再び鳴く。
ちち。
「私は帰宅しました」
偽物の口が、本人の意思とは無関係に動き始める。
「私は家族です」
「離れてください」
本物の紅林が命じた。
神楽たちが距離を取る。
偽物は両手で自分の喉を押さえた。
「私は、十三羽目です」
「違う」
紅林が言った。
「あなたはまだ登録されていません」
「私は帰りました」
「帰っていません」
「帰りました」
小鳥の爪が、偽物の肩へ食い込む。
戦術服を破り、皮膚へ沈む。
傷口から血は出なかった。
赤い糸が這い出した。
糸は偽物の首へ巻きつき、口元へ伸びる。
「私は幸せです」
偽物が笑った。
その目には、明確な恐怖があった。
「家族と一緒で、幸せです」
紅林は銃を上げた。
偽物の肩に止まる小鳥へ照準を合わせる。
「撃てば、偽物ごと崩れる可能性があります」
神楽が言う。
「分かっています」
「待ってください」
偽物が苦しげに声を絞り出した。
「まだ、使えます」
「何を」
「記憶を」
赤い糸が口を塞ぐ前に、偽物は叫んだ。
「営業員を再現します!」
小鳥が甲高く鳴いた。
偽物の身体が大きく反り返る。
背中が裂けた。
そこから黒い腕が伸びる。
スーツの袖。
白い手袋。
続いて肩。
頭。
一人の男が、偽物の背中から這い出してきた。
黒いスーツを着た、細身の男。
年齢は四十代前後。
髪を整え、薄い笑みを浮かべている。
胸元には、鬼灯を模した銀色の社章。
千鳥が息をのんだ。
「あの人」
男は偽物の身体から完全に抜け出すと、戦術服の埃を払うような仕草をした。
周囲を見回す。
跪く人形。
崩れた鳥籠。
千鳥。
紅林たち。
そして最後に、小さく頭を下げた。
「お待たせいたしました」
声は穏やかだった。
「鬼灯産業株式会社、家族生活支援部門所属、契約管理担当の榊と申します」
新木が銃口を向ける。
「本人か」
「いいえ」
榊は微笑んだ。
「私は当時の記憶を基に再現された、契約担当者の応対記録です」
「役に立つんか」
「契約内容に関するご質問には回答可能です」
「なら話が早い」
新木は契約書を突きつけた。
「この設備は契約対象外の子供を内部に拘束し、帰宅願望を強制生成しとる。契約違反や」
榊は契約書を受け取らなかった。
視線だけを紙面へ向ける。
「ご指摘の事実が正しければ、契約内容との不一致が認められます」
「停止せえ」
「私は記録ですので、設備停止権限を有しておりません」
「ほんなら何しに出てきたんや」
「ご案内のためです」
黒岡が低く言う。
「役に立たない営業だな」
「ご不便をおかけし、申し訳ございません」
榊は一切表情を変えない。
「ただし、契約解除条件についてはご説明できます」
「言ってください」
紅林が命じる。
榊は彼女を見る。
一瞬だけ、その目が二人の紅林を見比べた。
「現在、本設備は契約主体を喪失しています」
「契約者が死亡しているからですか」
「正確には、原契約者の人格と意思が設備内で統合され、独立した契約主体として存在していないためです」
「契約者不在なら、契約は終了するはずや」
新木が言う。
「通常はその通りです」
「通常は?」
「本契約には、家族による権利継承条項が含まれています」
千鳥の身体が震える。
「家族の誰かが契約を継ぐ」
紅林が言う。
「はい」
「その候補が十三羽目」
「その解釈で相違ありません」
地下室の奥で鼓動が強くなる。
どくん。
人形たちが一歩前へ出る。
「現在、設備は紅林澪奈様を継承者候補として登録処理中です」
榊は続けた。
「登録が完了した場合、契約は有効に継続されます」
「解除するには」
「継承前に、契約者不在を確定させる必要があります」
「方法は」
「家族登録簿に存在する全ての継承権者が、契約継続を拒否することです」
新木は名簿を見る。
十三の欄。
千鳥の名前は消えた。
最後に紅林の名が浮かびつつある。
それ以外の十二名。
祖父母。
父母。
兄弟姉妹。
親族。
彼らの人格は家に統合され、独立意思を持たない。
「拒否できる状態やないやろ」
「はい」
「ほな詰みやないか」
「いいえ」
榊は穏やかに答えた。
「統合前の意思記録が残存している場合、代理意思として使用可能です」
紅林の目が鋭くなる。
「帰れなかった者たちの部屋」
「はい」
地下に保存されている人格原型。
伊吹班。
過去の利用者。
家へ加工される前の記憶と意思。
「家族登録者の原型を見つけ、拒否を取る」
神楽が言う。
「それで解除条件を満たせる」
「理論上は可能です」
「制限時間は」
榊は紅林の肩の小鳥を見た。
鳥の腹部。
名前の最後の一画が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「登録完了まで、およそ三十分です」
「正確ですか」
「設備内部の時間変動を考慮しない場合です」
「考慮したら」
「三分から三日です」
高峰が顔をしかめる。
「幅が広すぎる」
「異常設備ですので」
「お前が言うな」
新木が吐き捨てる。
人形たちがさらに近づく。
榊は一礼した。
「ご案内は以上です」
「待ってください」
紅林が呼び止める。
「鬼灯産業は、この事態を想定していましたか」
榊は黙った。
初めて、営業用の笑みが薄れた。
「契約当時、本設備には定期保守契約が付帯していました」
「保守が行われなかった」
「利用者様が、保守担当者の立ち入りを拒否されました」
「なぜ」
千鳥が小さく答えた。
「家族を取られると思ったから」
榊は頷く。
「原契約者様は、帰宅したご家族を再び失うことを強く恐れておられました」
「鬼灯産業は放置したのですか」
「三度の訪問、七度の書面通知、二度の遠隔停止申請を行いました」
「それでも停止しなかった」
「契約上、利用者の同意なく強制停止する権限を有しておりませんでした」
鬼灯産業は嘘をつかない。
契約を守る。
そして契約にない救済は行わない。
「では、現在の責任は誰にあると考えますか」
紅林が尋ねた。
榊は穏やかに答えた。
「契約書上の責任区分についてご説明しますか」
「いいえ」
紅林は榊を見据えた。
「あなた自身の判断を聞いています」
榊は沈黙した。
記録に過ぎない再現体。
それでも、その顔にごく小さな迷いが浮かんだ。
「申し訳ございません」
やがて彼は言った。
「その質問への回答は、記録されておりません」
次の瞬間、榊の身体が紙片へ変わった。
黒いスーツ。
白い手袋。
穏やかな顔。
全てが薄い紙となり、床へ散る。
最後に、鬼灯産業の社章だけが残った。
金属音を立てて転がる。
新木が拾い上げた。
裏面に、小さな文字が刻まれている。
契約に関するお問い合わせは、担当窓口まで。
「ふざけとるな」
新木は社章を握りしめた。
「ふざけてはいません」
偽物の紅林が言った。
彼女は膝をついていた。
背中の裂け目から赤い糸が垂れている。
「鬼灯産業は、本当に契約通りに動いている」
「せやから腹立つんや」
人形たちが一斉に走り出した。
「来ます!」
神楽の声が飛ぶ。
紅林は千鳥をメアリーへ預けた。
「保護してください」
「隊長は」
「名簿の原型を探します」
「どこにあるか分かりません」
神楽が言う。
「伊吹班の原型が深部にあるなら、家族登録者も同じ場所に保存されている可能性が高い」
「深部への経路は」
偽物の紅林が立ち上がる。
「私が分かります」
紅林は彼女を見る。
「家の構造が見えるのですか」
「一部だけ」
「罠の可能性があります」
神楽が警告する。
「承知しています」
偽物は本物の紅林を見た。
「それでも、私を使うべきです」
人形の群れが迫る。
黒岡と高峰が射撃を開始した。
弾丸が身体を砕く。
だが人形たちは倒れない。
腕を失っても。
頭を砕かれても。
床を這い続ける。
家族を返せと叫びながら。
「案内してください」
紅林は決断した。
「命令です」
偽物の紅林が、わずかに笑った。
「了解しました」
その返答は、今度こそ明確に隊員のものだった。
偽物は地下室の奥へ走り出した。
紅林たちも続く。
クライムがワイヤーを撃ち、倒れた柱を引き倒した。
巨大な鳥籠が群れの進路を塞ぐ。
神楽が焼夷弾を投げる。
炎が広がり、人形たちを飲み込んだ。
笑顔が燃える。
家族写真が燃える。
それでも声は消えない。
「おかえり」
「おかえり」
「帰ってきて」
「一人にしないで」
紅林たちは走った。
無数の部屋の間を抜ける。
病室。
教室。
食卓。
玄関。
それぞれの部屋にいる人々が、通り過ぎる彼らへ手を伸ばす。
ある者は母親の声で。
ある者は兄弟の声で。
ある者は亡くなった仲間の声で。
帰ってこいと呼び続ける。
メアリーは千鳥を抱きしめ、耳を塞ぎながら走った。
「聞かないで」
自分に言い聞かせるように。
「これは家の声。家族じゃない」
黒岡が彼女の背後を守る。
「その通りだ」
少年の声が再び聞こえる。
「兄貴」
黒岡は振り返らない。
「遅いよ」
「黙れ」
「待ってたのに」
「俺は帰らない」
紅林が黒岡を見る。
関係を否定する発言。
危険な言葉だった。
だが今回は、何も起きなかった。
家の力が弱まっている。
千鳥の登録解除。
契約者不在。
十三羽目の重複。
複数の矛盾が、家の規則を崩し始めている。
「前方です」
偽物が叫んだ。
地下室の奥。
黒い壁。
壁の中央に、巨大な玄関扉が立っている。
家の外壁もない。
廊下もない。
ただ扉だけが、暗闇の中に存在していた。
扉には十三個の鍵穴がある。
十二個には鍵が差し込まれていた。
最後の一つだけが空いている。
「さっきの鍵」
新木が言う。
「鬼灯の鍵や」
紅林はポーチを探る。
仏壇で入手した黒い鍵。
まだ手元にある。
「これを使えば」
「開くやろな」
「何が」
「帰れなかった連中の保管庫や」
背後から人形たちの足音が迫る。
偽物の紅林が扉の前へ立つ。
「私が時間を稼ぎます」
「一人では無理です」
「分かっています」
「なら全員で――」
「私は長く持ちません」
偽物は肩の小鳥を見る。
赤い糸が首まで広がっている。
「家が私を十三羽目として固定し始めています」
「だから残ると」
「本物が扉を開けるまで、家は私を優先して回収します」
「囮になるつもりですか」
「はい」
紅林はすぐには答えなかった。
目の前の存在は偽物だ。
家が作った複製。
それでも、恐怖がある。
判断がある。
自分を犠牲にする意思がある。
「あなたに名前はありますか」
紅林は尋ねた。
偽物は少し驚いたように見えた。
「紅林澪奈です」
「それは私の名前です」
「では、ありません」
「自分で決めてください」
背後の闇が揺れる。
無数の人形が押し寄せてくる。
時間はない。
それでも紅林は待った。
偽物は自分の手を見る。
赤い糸。
裂けた皮膚。
複製された記憶。
借り物の顔。
やがて、彼女は小さく首を振った。
「決められません」
「なぜ」
「私は、私だけの記憶を持っていません」
「今、ここで選択しました」
紅林は言った。
「部隊を守るために残ると。それは私の記憶ではなく、あなたの判断です」
偽物の目が揺れる。
「その選択をしたあなたは、少なくとも私ではありません」
「では、何ですか」
「それを決める時間は、戻ってから作ります」
紅林は黒い鍵を取り出した。
「生き残ってください」
偽物は、ほんのわずかに笑った。
今度の笑みは、紅林とは違っていた。
柔らかく。
少し困ったような笑み。
「了解しました、隊長」
彼女は人形の群れへ向き直った。
紅林は十三番目の鍵穴へ鍵を差し込む。
回す。
一つ目の鍵が同時に回った。
二つ目。
三つ目。
十二個の鍵が、誰も触れていないのに順番に動く。
がちゃ。
がちゃ。
がちゃ。
十三個目。
紅林の鍵が最後まで回る。
巨大な扉が開いた。
冷たい風が吹き出す。
扉の向こうには、白い空間が広がっていた。
壁も床も天井もない。
ただ無数の人影が、糸に吊るされている。
一人ずつ。
透明な膜に包まれ。
眠るように目を閉じている。
伊吹真人。
第一次調査班の隊員たち。
過去の家族登録者。
家に取り込まれた利用者。
人格の原型。
加工される前の人間たち。
「見つけた」
メアリーが息をのむ。
「みんな、ここにいる」
紅林は扉の中へ踏み込む。
神楽たちも続く。
最後に新木が振り返った。
偽物の紅林が、人形の群れを前に立っている。
たった一人。
銃を構え。
肩の小鳥を引き剥がそうとしながら。
「帰ってこいよ」
新木が言った。
偽物は振り返らない。
「帰る場所はありません」
「ほな、戻ってこい」
新木は笑った。
「家やなくて、こっちにな」
扉が閉まり始める。
偽物の紅林が、わずかに顔を横へ向けた。
「努力します」
扉が閉じた。
直後、外側から激しい銃声が響いた。
人形たちの叫び。
木が砕ける音。
家全体の怒号。
そして、もう一人の紅林の声。
「γ-9所属、仮称個体一名。防衛行動を開始します」
白い空間の中で、紅林は立ち止まった。
振り返らない。
「進みます」
神楽が彼女を見る。
「隊長」
「止まれば、彼女の選択を無駄にします」
紅林は前を向いた。
無数の人格原型。
それぞれの胸元から、細い赤い糸が伸びている。
糸は空間の奥へ集まっていた。
その先に、一冊の巨大な名簿が浮かんでいる。
家族登録簿。
本体。
新木が息を吐く。
「ここからが本番やな」
紅林は肩の小鳥をつかんだ。
木製の爪が皮膚へ食い込む。
痛みが走る。
それでも力を緩めない。
「三十分以内に全員の拒否意思を回収します」
高峰が周囲を見回した。
「何百人いると思っている」
「必要なのは登録者十二名です」
紅林は巨大な名簿を見据えた。
「そして伊吹班を回収する」
「両方やるのか」
「当然です」
黒岡が短く笑う。
「それでこそ隊長だ」
白い空間の奥から、誰かの泣き声が聞こえた。
続いて。
一人。
二人。
三人。
吊るされた人々が、ゆっくりと目を開き始める。
最初に目覚めたのは、伊吹真人だった。
彼は膜の中で紅林を見た。
唇が動く。
「逃げろ」
声は聞こえない。
それでも言葉は分かった。
次の瞬間、全ての人格原型が一斉に目を開いた。
赤い糸が強く張る。
巨大な名簿が開く。
最後の頁。
十三番目の欄に記された紅林澪奈の名前が、完成へ近づいている。
残る空白は、最後の一点だけだった。
外側から銃声が止んだ。
静寂。
そして扉の向こうから、声がした。
「隊長」
もう一人の紅林の声だった。
「申し訳ありません」
扉の隙間から、赤い糸が入り込む。
「防衛線を維持できません」
巨大な扉が、外側からゆっくりと開き始めた。
隙間の向こうに立っているのは、もう一人の紅林。
だが、その顔には笑みが浮かんでいた。
肩だけではない。
胸。
首。
両腕。
全身に木製の小鳥が止まっている。
彼女の背後には、無数の人形たちが並んでいた。
「家族を連れてきました」
偽物の紅林が言う。
その声に、本人の意思は残っていなかった。
「全員で帰りましょう」
紅林の肩の小鳥が、最後の一画を刻み始めた。
十三羽目の登録完了まで。
残された時間は、ほとんどなかった。
次回予告
第五章 鬼灯産業
10月2 日21時投稿予定




