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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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48/84

第四章 帰れない家 ## 後編

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください

もう一人の紅林澪奈は、暗闇の中で静かに微笑んでいた。


 立ち姿。


 視線の高さ。


 左肩をわずかに引く癖。


 銃を持つ手の角度。


 その全てが、本物の紅林と同じだった。


 装備も同一だった。


 濃紺の戦術服。


 胸元のMDE章。


 腰のホルスター。


 右肩に記されたγ-9〈マジックナンバーズ〉の部隊識別章。


 唯一異なるのは、その肩に止まった木製の小鳥だった。


 小鳥の腹部には、赤い文字で名前が刻まれている。


 紅林澪奈。


 本物の紅林の肩にも、同じ小鳥が止まっていた。


 同じ名前。


 同じ印。


 同じ十三羽目。


 神楽がすぐに銃口を上げた。


「識別質問を行います」


 もう一人の紅林は、視線だけを神楽へ向けた。


「必要ありません」


 声まで同じだった。


 落ち着いた抑揚。


 余計な感情を表へ出さない話し方。


 聞き慣れた隊長の声が二つ並ぶことで、空間そのものが歪んだように感じられた。


「私は紅林澪奈です」


「それを決めるのはこちらです」


 神楽は一歩前へ出た。


「所属、階級、現行任務を回答してください」


「MDE実働部門所属。特殊対応部隊γ-9〈マジックナンバーズ〉隊長。現在の任務はNCO-318-JP内部に取り込まれた第一次調査班の救助、および異常構造の確認と収容です」


 淀みのない回答。


 内容は正しい。


 神楽は続ける。


「出動前、ブリーフィングルームで最初に発言した人物は」


「高野博士です」


「その内容は」


「現場の異常性を住居型構造体と断定せず、契約型媒体、認識依存型空間、あるいは群体異常の可能性を残すよう指示しました」


 正しい。


 神楽の表情がさらに硬くなる。


「部隊編成時、黒岡が装備申請で却下されたものは」


「大型破砕槌です」


 黒岡が眉をひそめた。


「そこまで知っているのか」


「私は隊長です」


 偽物の紅林は答えた。


「隊員の装備内容を把握するのは当然です」


 声。


 記憶。


 判断基準。


 全てが正確だった。


 メアリーが千鳥のそばから、恐る恐る顔を上げる。


「二人とも同じ」


 彼女は囁いた。


「中身まで、ほとんど同じ」


 紅林は偽物から目を離さない。


「ほとんど、ということは違いがあるのですね」


「ある」


 メアリーは両手を胸元で握った。


「でも、どっちが本物か分からない」


 その言葉に、誰も反応できなかった。


 神楽の銃口がわずかに下がる。


 すぐに持ち直す。


「記憶の複製だけではありません」


 メアリーは続けた。


「感情もある。みんなを守ろうとしてる。千鳥を助けようとしてる。家から出る方法を考えてる。隊長と同じことを考えてる」


「完全な複製か」


 高峰が言う。


「せやけど、完全やない」


 新木慎介が名簿を見つめたまま答えた。


「家は完璧な人間を作れへん。伊吹班がそうやった。記憶をコピーしても、関係性の扱い方を間違えとる」


「どこを見れば分かる」


「まだ分からん」


「役に立たないな」


「今考えとるわ」


 新木は名簿を床へ広げた。


 最後の欄。


 紅林澪奈と記された名前。


 その文字の一部が、濡れた墨のように揺れている。


「登録が完了しとらん」


「名前は書かれています」


 神楽が言う。


「せやけど、十三羽目は一羽しか入れへん。今は同じ名前が二人おる。家も、どっちを登録するか決めきれとらん」


 本物の紅林と偽物の紅林。


 二人の肩で、小鳥が互いを見つめる。


 木のくちばしが小さく動いた。


 ちち。


 ちち。


 二羽が同時に鳴く。


 地下室の奥で、巨大な鼓動が響いた。


 どくん。


 床が揺れる。


 無数の人形が跪いたまま、顔だけを上げた。


 その視線が、二人の紅林へ集まる。


「家が選ぶ前に決めなければなりません」


 本物の紅林が言う。


 偽物も同時に口を開いた。


「家が選ぶ前に決めなければなりません」


 同じ声。


 同じ言葉。


 同じ間。


 新木が舌打ちする。


「真似すんなや」


 偽物の紅林は新木へ視線を向けた。


「真似ではありません。同じ結論に達しただけです」


「それが気色悪い言うとんねん」


「感情的な発言は控えてください」


「隊長そっくりやな」


 新木の言葉に、黒岡が低く笑った。


 緊張の中で漏れた、短い笑いだった。


「確かに、それは本人らしい」


 本物の紅林は黒岡を見た。


「笑っている場合ですか」


 偽物も同じ言葉を発した。


 二人の声が重なる。


 黒岡の笑みが消えた。


「訂正する。気味が悪い」


 千鳥が紅林の腕の中で震えた。


「家が来る」


「どこからです」


 紅林が尋ねる。


「全部から」


 その直後、地下室の天井から黒い液体が滴り落ちた。


 一滴。


 二滴。


 やがて雨のように降り始める。


 液体は床へ落ちると土へ変わった。


 湿った黒土。


 そこから細い木の根が伸びる。


 根は人形たちの足へ絡みつき、身体の中へ潜り込んでいった。


 跪いていた人形たちが、一斉に背を反らす。


 口が開く。


 黒い根が口内から伸び、天井へ繋がる。


 人形たちは操り人形のように立ち上がった。


 その顔から、笑みが消える。


 代わりに現れたのは、怒りだった。


 家族を奪われた者の怒り。


 帰宅を拒絶された者の怒り。


 自分たちの輪から逃げようとする者へ向けた、純粋な敵意。


「千鳥を返してください」


 人形たちが言った。


 百を超える声が、一つに重なる。


「家族を返してください」


 紅林は千鳥を抱いたまま後退した。


「この子は家族ではありません」


「家族です」


「本人が否定しています」


「子供の拒絶は意思として認められません」


 新木が契約書を握りしめる。


「まだ代理同意を使う気か」


「家族の意思は個人の意思に優先します」


「そんな条文、契約書にはあらへん」


「家族であれば当然です」


 新木の表情が変わった。


「今のは契約やない」


「どういう意味だ」


 高峰が尋ねる。


「この家が勝手に作った理屈や」


 新木は契約書をめくる。


「鬼灯産業の条文やない。設備が自分を維持するために、契約の外側へルールを増やしとる」


「自律進化したということですか」


 神楽が言う。


「進化いうほど立派やない。壊れた契約を無理に守ろうとして、解釈を継ぎ足し続けたんや」


 家は契約を守る。


 帰宅を望む者を帰す。


 家族を揃える。


 その目的のために、帰宅願望を作り、家族関係を捏造し、拒絶を無効化し、対象外の者まで利用者として登録する。


 契約を守り続けた結果、契約の意味を失っていた。


「停止させる方法は」


 紅林が尋ねる。


「契約違反を確定させる」


「すでに違反しています」


「違反しとるだけや足らん。履行不能か、契約解除を認めさせなあかん」


「相手は誰です」


「本来なら鬼灯産業や」


 新木は周囲を見た。


「せやけど、ここに担当者はおらん」


「設備へ直接申し立てることは」


「今やっとる。聞く耳持たんやろ」


 偽物の紅林が口を開いた。


「担当者はいます」


 全員の視線が向く。


「どこに」


 本物の紅林が尋ねた。


 偽物は、自分の胸元を指した。


「私の記憶の中です」


 新木が目を細める。


「どういうことや」


「私が生成された際、家は紅林澪奈の記憶を複製しました。その中には、突入時に確認した契約書と、千鳥の記憶から流入した鬼灯産業担当者の姿があります」


「姿だけやろ」


「会話もあります」


「千鳥の記憶にあった営業員」


 紅林が言う。


「その人物を再現できるということですか」


「可能です」


「なぜ、それを提案するのです」


 偽物は一瞬だけ沈黙した。


 初めて、答えに間があった。


「任務達成のためです」


「あなた自身が消える可能性があります」


「理解しています」


「十三羽目に登録されれば、あなたは存続できます」


「それも理解しています」


「それでも契約を解除すると」


「私は紅林澪奈です」


 偽物は答えた。


「紅林澪奈であれば、部隊と保護対象の生存を優先します」


 本物の紅林は、偽物を見つめた。


 そこには迷いがなかった。


 自己保存より任務。


 自分より部隊。


 あまりにも自分らしい判断だった。


 だからこそ、本物はわずかな違和感を覚えた。


「あなたは、自分が偽物だと理解していますか」


「理解しています」


「恐怖は」


「あります」


「消えたくないと思いますか」


「思います」


「それでも命令に従うのですね」


「はい」


 偽物の紅林は穏やかに答えた。


「隊長命令であれば」


 その言葉に、紅林は目を細めた。


「私はまだ、あなたへ命令していません」


 偽物が沈黙する。


 ごく短い沈黙。


 だが、初めて生じた明確なずれだった。


 紅林は続けた。


「あなたは私の記憶から作られた。判断基準も、責任感も、任務への姿勢も複製されている」


「はい」


「しかし、あなたには隊長であるという自覚と同時に、私へ従属する意識がある」


 神楽が偽物を見る。


「家に作られた存在だからか」


「十三羽目の候補として生成された以上、家は序列を設定したのでしょう」


 紅林は言った。


「家族には役割がある。親。子。家長。保護者。そして、帰ってきた者」


 新木が頷く。


「偽物の隊長は、隊長として作られたんやない」


「では何として」


「帰ってきた紅林澪奈や」


 偽物の顔から、わずかに表情が消えた。


「本物の紅林が外におる限り、こっちは帰還後の存在として扱われる。せやから本物に従う」


「違います」


 偽物が言った。


 初めて、強い否定だった。


「私は隊長です」


「なら証明してみ」


 新木は一歩前へ出た。


「隊長は誰にも従属せえへん。少なくとも、自分自身に命令される前から従う準備はせん」


「私は合理的判断を――」


「ちゃう」


 新木の声は静かだった。


「家に都合のええ紅林澪奈にされとる」


 偽物の肩に止まった小鳥が鳴いた。


 ちち。


 偽物の身体が一瞬硬直する。


「私は」


 彼女の声が揺れる。


「私は紅林澪奈です」


 小鳥が再び鳴く。


 ちち。


「私は帰宅しました」


 偽物の口が、本人の意思とは無関係に動き始める。


「私は家族です」


「離れてください」


 本物の紅林が命じた。


 神楽たちが距離を取る。


 偽物は両手で自分の喉を押さえた。


「私は、十三羽目です」


「違う」


 紅林が言った。


「あなたはまだ登録されていません」


「私は帰りました」


「帰っていません」


「帰りました」


 小鳥の爪が、偽物の肩へ食い込む。


 戦術服を破り、皮膚へ沈む。


 傷口から血は出なかった。


 赤い糸が這い出した。


 糸は偽物の首へ巻きつき、口元へ伸びる。


「私は幸せです」


 偽物が笑った。


 その目には、明確な恐怖があった。


「家族と一緒で、幸せです」


 紅林は銃を上げた。


 偽物の肩に止まる小鳥へ照準を合わせる。


「撃てば、偽物ごと崩れる可能性があります」


 神楽が言う。


「分かっています」


「待ってください」


 偽物が苦しげに声を絞り出した。


「まだ、使えます」


「何を」


「記憶を」


 赤い糸が口を塞ぐ前に、偽物は叫んだ。


「営業員を再現します!」


 小鳥が甲高く鳴いた。


 偽物の身体が大きく反り返る。


 背中が裂けた。


 そこから黒い腕が伸びる。


 スーツの袖。


 白い手袋。


 続いて肩。


 頭。


 一人の男が、偽物の背中から這い出してきた。


 黒いスーツを着た、細身の男。


 年齢は四十代前後。


 髪を整え、薄い笑みを浮かべている。


 胸元には、鬼灯を模した銀色の社章。


 千鳥が息をのんだ。


「あの人」


 男は偽物の身体から完全に抜け出すと、戦術服の埃を払うような仕草をした。


 周囲を見回す。


 跪く人形。


 崩れた鳥籠。


 千鳥。


 紅林たち。


 そして最後に、小さく頭を下げた。


「お待たせいたしました」


 声は穏やかだった。


「鬼灯産業株式会社、家族生活支援部門所属、契約管理担当の榊と申します」


 新木が銃口を向ける。


「本人か」


「いいえ」


 榊は微笑んだ。


「私は当時の記憶を基に再現された、契約担当者の応対記録です」


「役に立つんか」


「契約内容に関するご質問には回答可能です」


「なら話が早い」


 新木は契約書を突きつけた。


「この設備は契約対象外の子供を内部に拘束し、帰宅願望を強制生成しとる。契約違反や」


 榊は契約書を受け取らなかった。


 視線だけを紙面へ向ける。


「ご指摘の事実が正しければ、契約内容との不一致が認められます」


「停止せえ」


「私は記録ですので、設備停止権限を有しておりません」


「ほんなら何しに出てきたんや」


「ご案内のためです」


 黒岡が低く言う。


「役に立たない営業だな」


「ご不便をおかけし、申し訳ございません」


 榊は一切表情を変えない。


「ただし、契約解除条件についてはご説明できます」


「言ってください」


 紅林が命じる。


 榊は彼女を見る。


 一瞬だけ、その目が二人の紅林を見比べた。


「現在、本設備は契約主体を喪失しています」


「契約者が死亡しているからですか」


「正確には、原契約者の人格と意思が設備内で統合され、独立した契約主体として存在していないためです」


「契約者不在なら、契約は終了するはずや」


 新木が言う。


「通常はその通りです」


「通常は?」


「本契約には、家族による権利継承条項が含まれています」


 千鳥の身体が震える。


「家族の誰かが契約を継ぐ」


 紅林が言う。


「はい」


「その候補が十三羽目」


「その解釈で相違ありません」


 地下室の奥で鼓動が強くなる。


 どくん。


 人形たちが一歩前へ出る。


「現在、設備は紅林澪奈様を継承者候補として登録処理中です」


 榊は続けた。


「登録が完了した場合、契約は有効に継続されます」


「解除するには」


「継承前に、契約者不在を確定させる必要があります」


「方法は」


「家族登録簿に存在する全ての継承権者が、契約継続を拒否することです」


 新木は名簿を見る。


 十三の欄。


 千鳥の名前は消えた。


 最後に紅林の名が浮かびつつある。


 それ以外の十二名。


 祖父母。


 父母。


 兄弟姉妹。


 親族。


 彼らの人格は家に統合され、独立意思を持たない。


「拒否できる状態やないやろ」


「はい」


「ほな詰みやないか」


「いいえ」


 榊は穏やかに答えた。


「統合前の意思記録が残存している場合、代理意思として使用可能です」


 紅林の目が鋭くなる。


「帰れなかった者たちの部屋」


「はい」


 地下に保存されている人格原型。


 伊吹班。


 過去の利用者。


 家へ加工される前の記憶と意思。


「家族登録者の原型を見つけ、拒否を取る」


 神楽が言う。


「それで解除条件を満たせる」


「理論上は可能です」


「制限時間は」


 榊は紅林の肩の小鳥を見た。


 鳥の腹部。


 名前の最後の一画が、ゆっくりと赤く染まっていく。


「登録完了まで、およそ三十分です」


「正確ですか」


「設備内部の時間変動を考慮しない場合です」


「考慮したら」


「三分から三日です」


 高峰が顔をしかめる。


「幅が広すぎる」


「異常設備ですので」


「お前が言うな」


 新木が吐き捨てる。


 人形たちがさらに近づく。


 榊は一礼した。


「ご案内は以上です」


「待ってください」


 紅林が呼び止める。


「鬼灯産業は、この事態を想定していましたか」


 榊は黙った。


 初めて、営業用の笑みが薄れた。


「契約当時、本設備には定期保守契約が付帯していました」


「保守が行われなかった」


「利用者様が、保守担当者の立ち入りを拒否されました」


「なぜ」


 千鳥が小さく答えた。


「家族を取られると思ったから」


 榊は頷く。


「原契約者様は、帰宅したご家族を再び失うことを強く恐れておられました」


「鬼灯産業は放置したのですか」


「三度の訪問、七度の書面通知、二度の遠隔停止申請を行いました」


「それでも停止しなかった」


「契約上、利用者の同意なく強制停止する権限を有しておりませんでした」


 鬼灯産業は嘘をつかない。


 契約を守る。


 そして契約にない救済は行わない。


「では、現在の責任は誰にあると考えますか」


 紅林が尋ねた。


 榊は穏やかに答えた。


「契約書上の責任区分についてご説明しますか」


「いいえ」


 紅林は榊を見据えた。


「あなた自身の判断を聞いています」


 榊は沈黙した。


 記録に過ぎない再現体。


 それでも、その顔にごく小さな迷いが浮かんだ。


「申し訳ございません」


 やがて彼は言った。


「その質問への回答は、記録されておりません」


 次の瞬間、榊の身体が紙片へ変わった。


 黒いスーツ。


 白い手袋。


 穏やかな顔。


 全てが薄い紙となり、床へ散る。


 最後に、鬼灯産業の社章だけが残った。


 金属音を立てて転がる。


 新木が拾い上げた。


 裏面に、小さな文字が刻まれている。


 契約に関するお問い合わせは、担当窓口まで。


「ふざけとるな」


 新木は社章を握りしめた。


「ふざけてはいません」


 偽物の紅林が言った。


 彼女は膝をついていた。


 背中の裂け目から赤い糸が垂れている。


「鬼灯産業は、本当に契約通りに動いている」


「せやから腹立つんや」


 人形たちが一斉に走り出した。


「来ます!」


 神楽の声が飛ぶ。


 紅林は千鳥をメアリーへ預けた。


「保護してください」


「隊長は」


「名簿の原型を探します」


「どこにあるか分かりません」


 神楽が言う。


「伊吹班の原型が深部にあるなら、家族登録者も同じ場所に保存されている可能性が高い」


「深部への経路は」


 偽物の紅林が立ち上がる。


「私が分かります」


 紅林は彼女を見る。


「家の構造が見えるのですか」


「一部だけ」


「罠の可能性があります」


 神楽が警告する。


「承知しています」


 偽物は本物の紅林を見た。


「それでも、私を使うべきです」


 人形の群れが迫る。


 黒岡と高峰が射撃を開始した。


 弾丸が身体を砕く。


 だが人形たちは倒れない。


 腕を失っても。


 頭を砕かれても。


 床を這い続ける。


 家族を返せと叫びながら。


「案内してください」


 紅林は決断した。


「命令です」


 偽物の紅林が、わずかに笑った。


「了解しました」


 その返答は、今度こそ明確に隊員のものだった。


 偽物は地下室の奥へ走り出した。


 紅林たちも続く。


 クライムがワイヤーを撃ち、倒れた柱を引き倒した。


 巨大な鳥籠が群れの進路を塞ぐ。


 神楽が焼夷弾を投げる。


 炎が広がり、人形たちを飲み込んだ。


 笑顔が燃える。


 家族写真が燃える。


 それでも声は消えない。


「おかえり」


「おかえり」


「帰ってきて」


「一人にしないで」


 紅林たちは走った。


 無数の部屋の間を抜ける。


 病室。


 教室。


 食卓。


 玄関。


 それぞれの部屋にいる人々が、通り過ぎる彼らへ手を伸ばす。


 ある者は母親の声で。


 ある者は兄弟の声で。


 ある者は亡くなった仲間の声で。


 帰ってこいと呼び続ける。


 メアリーは千鳥を抱きしめ、耳を塞ぎながら走った。


「聞かないで」


 自分に言い聞かせるように。


「これは家の声。家族じゃない」


 黒岡が彼女の背後を守る。


「その通りだ」


 少年の声が再び聞こえる。


「兄貴」


 黒岡は振り返らない。


「遅いよ」


「黙れ」


「待ってたのに」


「俺は帰らない」


 紅林が黒岡を見る。


 関係を否定する発言。


 危険な言葉だった。


 だが今回は、何も起きなかった。


 家の力が弱まっている。


 千鳥の登録解除。


 契約者不在。


 十三羽目の重複。


 複数の矛盾が、家の規則を崩し始めている。


「前方です」


 偽物が叫んだ。


 地下室の奥。


 黒い壁。


 壁の中央に、巨大な玄関扉が立っている。


 家の外壁もない。


 廊下もない。


 ただ扉だけが、暗闇の中に存在していた。


 扉には十三個の鍵穴がある。


 十二個には鍵が差し込まれていた。


 最後の一つだけが空いている。


「さっきの鍵」


 新木が言う。


「鬼灯の鍵や」


 紅林はポーチを探る。


 仏壇で入手した黒い鍵。


 まだ手元にある。


「これを使えば」


「開くやろな」


「何が」


「帰れなかった連中の保管庫や」


 背後から人形たちの足音が迫る。


 偽物の紅林が扉の前へ立つ。


「私が時間を稼ぎます」


「一人では無理です」


「分かっています」


「なら全員で――」


「私は長く持ちません」


 偽物は肩の小鳥を見る。


 赤い糸が首まで広がっている。


「家が私を十三羽目として固定し始めています」


「だから残ると」


「本物が扉を開けるまで、家は私を優先して回収します」


「囮になるつもりですか」


「はい」


 紅林はすぐには答えなかった。


 目の前の存在は偽物だ。


 家が作った複製。


 それでも、恐怖がある。


 判断がある。


 自分を犠牲にする意思がある。


「あなたに名前はありますか」


 紅林は尋ねた。


 偽物は少し驚いたように見えた。


「紅林澪奈です」


「それは私の名前です」


「では、ありません」


「自分で決めてください」


 背後の闇が揺れる。


 無数の人形が押し寄せてくる。


 時間はない。


 それでも紅林は待った。


 偽物は自分の手を見る。


 赤い糸。


 裂けた皮膚。


 複製された記憶。


 借り物の顔。


 やがて、彼女は小さく首を振った。


「決められません」


「なぜ」


「私は、私だけの記憶を持っていません」


「今、ここで選択しました」


 紅林は言った。


「部隊を守るために残ると。それは私の記憶ではなく、あなたの判断です」


 偽物の目が揺れる。


「その選択をしたあなたは、少なくとも私ではありません」


「では、何ですか」


「それを決める時間は、戻ってから作ります」


 紅林は黒い鍵を取り出した。


「生き残ってください」


 偽物は、ほんのわずかに笑った。


 今度の笑みは、紅林とは違っていた。


 柔らかく。


 少し困ったような笑み。


「了解しました、隊長」


 彼女は人形の群れへ向き直った。


 紅林は十三番目の鍵穴へ鍵を差し込む。


 回す。


 一つ目の鍵が同時に回った。


 二つ目。


 三つ目。


 十二個の鍵が、誰も触れていないのに順番に動く。


 がちゃ。


 がちゃ。


 がちゃ。


 十三個目。


 紅林の鍵が最後まで回る。


 巨大な扉が開いた。


 冷たい風が吹き出す。


 扉の向こうには、白い空間が広がっていた。


 壁も床も天井もない。


 ただ無数の人影が、糸に吊るされている。


 一人ずつ。


 透明な膜に包まれ。


 眠るように目を閉じている。


 伊吹真人。


 第一次調査班の隊員たち。


 過去の家族登録者。


 家に取り込まれた利用者。


 人格の原型。


 加工される前の人間たち。


「見つけた」


 メアリーが息をのむ。


「みんな、ここにいる」


 紅林は扉の中へ踏み込む。


 神楽たちも続く。


 最後に新木が振り返った。


 偽物の紅林が、人形の群れを前に立っている。


 たった一人。


 銃を構え。


 肩の小鳥を引き剥がそうとしながら。


「帰ってこいよ」


 新木が言った。


 偽物は振り返らない。


「帰る場所はありません」


「ほな、戻ってこい」


 新木は笑った。


「家やなくて、こっちにな」


 扉が閉まり始める。


 偽物の紅林が、わずかに顔を横へ向けた。


「努力します」


 扉が閉じた。


 直後、外側から激しい銃声が響いた。


 人形たちの叫び。


 木が砕ける音。


 家全体の怒号。


 そして、もう一人の紅林の声。


「γ-9所属、仮称個体一名。防衛行動を開始します」


 白い空間の中で、紅林は立ち止まった。


 振り返らない。


「進みます」


 神楽が彼女を見る。


「隊長」


「止まれば、彼女の選択を無駄にします」


 紅林は前を向いた。


 無数の人格原型。


 それぞれの胸元から、細い赤い糸が伸びている。


 糸は空間の奥へ集まっていた。


 その先に、一冊の巨大な名簿が浮かんでいる。


 家族登録簿。


 本体。


 新木が息を吐く。


「ここからが本番やな」


 紅林は肩の小鳥をつかんだ。


 木製の爪が皮膚へ食い込む。


 痛みが走る。


 それでも力を緩めない。


「三十分以内に全員の拒否意思を回収します」


 高峰が周囲を見回した。


「何百人いると思っている」


「必要なのは登録者十二名です」


 紅林は巨大な名簿を見据えた。


「そして伊吹班を回収する」


「両方やるのか」


「当然です」


 黒岡が短く笑う。


「それでこそ隊長だ」


 白い空間の奥から、誰かの泣き声が聞こえた。


 続いて。


 一人。


 二人。


 三人。


 吊るされた人々が、ゆっくりと目を開き始める。


 最初に目覚めたのは、伊吹真人だった。


 彼は膜の中で紅林を見た。


 唇が動く。


「逃げろ」


 声は聞こえない。


 それでも言葉は分かった。


 次の瞬間、全ての人格原型が一斉に目を開いた。


 赤い糸が強く張る。


 巨大な名簿が開く。


 最後の頁。


 十三番目の欄に記された紅林澪奈の名前が、完成へ近づいている。


 残る空白は、最後の一点だけだった。


 外側から銃声が止んだ。


 静寂。


 そして扉の向こうから、声がした。


「隊長」


 もう一人の紅林の声だった。


「申し訳ありません」


 扉の隙間から、赤い糸が入り込む。


「防衛線を維持できません」


 巨大な扉が、外側からゆっくりと開き始めた。


 隙間の向こうに立っているのは、もう一人の紅林。


 だが、その顔には笑みが浮かんでいた。


 肩だけではない。


 胸。


 首。


 両腕。


 全身に木製の小鳥が止まっている。


 彼女の背後には、無数の人形たちが並んでいた。


「家族を連れてきました」


 偽物の紅林が言う。


 その声に、本人の意思は残っていなかった。


「全員で帰りましょう」


 紅林の肩の小鳥が、最後の一画を刻み始めた。


 十三羽目の登録完了まで。


 残された時間は、ほとんどなかった。


次回予告

第五章 鬼灯産業

10月2 日21時投稿予定

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