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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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46/85

第四章 帰れない家 ## 前編①

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメント感想など聞かせてください!

暗闇の奥から現れた者たちは、いずれもMDEの装備を身につけていた。


 濃紺の戦術服。左胸に縫いつけられた組織章。腰に固定された簡易測定器と携帯端末。肩口に記された部隊識別番号。


 どれも記録に残されている第一次調査班のものだった。


 先頭に立つ伊吹真人を含め、合計七名。


 NCO-318-JP内部で消息を絶った、第一次調査班の全員だった。


 誰一人として欠けていない。


 誰一人として、死んでいるようには見えなかった。


 だが、誰もが生還者には見えなかった。


 六人の隊員は暗い廊下から一列になって現れ、伊吹の背後で静かに足を止めた。


 全員の動作が、奇妙なほど揃っていた。


 右足を前に出し、左足を引き寄せる。


 肩を下ろす。


 顔を上げる。


 呼吸をする。


 それぞれ別の人間であるはずなのに、一つの身体を六つに分け、それぞれに同じ命令を与えたかのようだった。


 紅林澪奈は銃口を下げなかった。


「全員、その場から動かないでください」


 声は静かだった。


 しかし、拒否を許さない強さがあった。


 伊吹は困惑した表情を浮かべた。


「紅林隊長、どういう意味ですか。俺たちは救助を待っていたんです」


「あなたたちが第一次調査班であることは確認しています」


「だったら――」


「確認したのは、外見と装備だけです」


 伊吹の口が閉じた。


 紅林の斜め後方で、神楽が左手を軽く上げた。


 マジックナンバーズの隊員たちは、合図に従って半円状に展開した。黒岡と高峰が前方を受け持ち、クライムが廊下の左右を確認する。メアリーは視線を伏せ、聴覚と精神感応に意識を集中させていた。


 新木慎介は伊吹たちを見たまま、腰のポーチから白い糸の束を取り出した。


 糸には、等間隔で小さな金属片が結びつけられている。


 一般的な測定機器ではない。


 古代魔術研究部門が使用する、境界検査用の簡易術具だった。


 新木は糸の端を指に巻き、残る部分を床へ落とした。


 金属片が畳に触れる。


 かすかな音がした。


 ちりん。


 ただ、それだけだった。


 本来ならば、周囲に異常な空間歪曲や認識干渉が存在する場合、金属片は不規則に震えるはずだった。


 だが糸は動かなかった。


 床に落ちたまま、ぴたりと止まっている。


「反応は」


 神楽が小声で尋ねた。


「ない」


 新木は答えた。


「せやけど、正常っちゅう意味やない。これはたぶん、測れへんのや」


「測定不能?」


「それとも、ここでは異常な方が正常になっとる」


 新木はしゃがみ込み、糸の端を畳の上で滑らせた。


 金属片は鳴らなかった。


 彼は眉をひそめた。


「この家の中で測っとる限り、この家を異常やとは判定できへん。水ん中で水の濡れ具合を測るようなもんや」


 紅林は伊吹から目を離さずに言った。


「本人確認を行います」


「何をすればいい」


「質問に答えてください。第一次調査班の構成員名、現場到着時刻、突入時の指揮手順。記録にある内容と照合します」


「分かりました」


 伊吹はすぐに答えた。


 淀みはなかった。


 第一次調査班の所属、階級、氏名。


 現場へ到着した時刻。


 村落封鎖後の確認手順。


 屋敷へ接近した人数。


 玄関の前で測定した異常値。


 どれも事前資料と一致していた。


 残る六人も、それぞれ個別に質問へ答えた。


 回答内容に矛盾はない。


 記憶の混乱も見られない。


 発声も正常。


 瞳孔反応も正常。


 生体モニターが示す脈拍と体温も、人間の範囲内に収まっていた。


 それでも、違和感は消えなかった。


 むしろ質問を重ねるほど、違和感は濃くなっていった。


 彼らは、正しすぎた。


 記憶に曖昧さがない。


 言い間違いをしない。


 隊員同士で回答が食い違わない。


 数日前の突入時刻を秒単位で答え、誰がどの順番で玄関を通過したかまで、全員が同じ言葉で説明した。


 まるで、同じ記録映像を見た者たちが、その内容を暗唱しているかのようだった。


「次の質問です」


 紅林が言った。


「突入前、伊吹班長が部下へ伝えた最後の指示は?」


 伊吹は一瞬も考えなかった。


「異常が確認された場合、攻撃よりも退路確保を優先する。個人行動を避け、必ず二名以上で行動する。以上です」


 六人も同じ答えを返した。


 一字一句、違わなかった。


 神楽の目が細くなった。


 黒岡が、銃を構え直す。


 伊吹はその動きを見て、苛立ちを押し殺すように息を吐いた。


「何がおかしいんです」


「あなたたち自身に聞いてください」


「質問には答えたでしょう」


「全員が同じ答えを返しました」


「同じ命令を聞いたんだから、当然です」


「人間は、同じ経験を同じ言葉では記憶しません」


 紅林の声は冷静だった。


「意味は一致しても、表現は変わる。語順も変わる。省略する部分も違う。それが普通です」


 伊吹は黙り込んだ。


 背後の六人も、同時に黙った。


 その沈黙さえ、揃っていた。


 メアリーが両手で自分の肩を抱いた。


「この人たち、静かすぎる」


 彼女の声は小さかった。


「頭の中が、静かすぎるよ」


 伊吹がメアリーへ顔を向けた。


 六人も同時に向けた。


 全員の視線が、全く同じ角度で動いた。


 メアリーの顔から血の気が引いた。


 クライムがすぐに彼女の前へ立つ。


「見るな」


「違う」


 メアリーは首を振った。


「見られたからじゃない。この人たちの中、何もないわけじゃないの。ちゃんと考えてる。ちゃんと怖がってる。ちゃんと私たちを疑ってる」


「それなら何が問題だ」


「全部同じなの」


 その言葉を聞いた瞬間、廊下の空気が変わった。


 誰も動かなかった。


 誰も声を上げなかった。


 それでも全員が、無意識に伊吹たちから距離を取った。


 メアリーは唇を震わせながら続けた。


「七人とも、同じことを考えてる。同じ言葉で。同じ順番で。同じ感情で。怖がる場所まで同じ。疑う相手も同じ。次に何を言うか考えてる、その考え方まで全部同じ」


 伊吹の表情から、困惑が消えた。


 代わりに、奇妙な無表情が浮かんだ。


 それは怒りでもなく、驚きでもない。


 役目を終えた仮面が、ゆっくりと外れ落ちていくような変化だった。


「なるほど」


 伊吹が言った。


 背後の六人の口も動いた。


「なるほど」


 七つの声が、重なった。


 男の声。


 女の声。


 低い声。


 かすれた声。


 本来なら異なるはずの七つの声が、完全に同じ速度と抑揚で響いた。


 家の奥で、小鳥が鳴いた。


 ちちち。


 ちちち。


 ちちち。


 七人の隊員は、ゆっくりと首を傾げた。


 同じ方向へ。


 同じ角度で。


 紅林が右手を上げた。


「全員、発砲待機」


 安全装置の外れる音が連続した。


 伊吹たちは動かなかった。


 ただ紅林を見つめていた。


「俺たちは伊吹真人です」


 七人が言った。


「訂正してください」


 紅林は答えた。


「あなたは伊吹真人ではない」


「俺たちは伊吹真人です」


「伊吹真人は一人です」


「いいえ」


 七人の顔に、薄い笑みが浮かんだ。


「帰ってきた者は、みんな同じです」


 高峰が息をのんだ。


 黒岡の指が引き金に触れる。


 その瞬間、屋敷の奥で、柱時計が鳴った。


 ごうん。


 重い音が一度だけ響いた。


 音は屋敷全体を震わせ、畳の下から、壁の裏から、天井の奥から反響した。


 続いて、遠くで何かが走り出した。


 ばたばたばたばた。


 小さな足音だった。


 子供のようにも聞こえる。


 動物のようにも聞こえる。


 廊下の左右。


 天井裏。


 床下。


 複数の場所を、無数の何かが駆け回っている。


 メアリーが耳を塞いだ。


「来る」


 紅林が振り返る。


「何が」


「この家が、起きる」


 次の瞬間、照明が消えた。


 完全な闇が落ちた。


「暗視装置!」


 神楽の声が飛ぶ。


 各員が装備を切り替える。


 紅林の視界に緑色の輪郭が戻った。


 伊吹たちは、まだ同じ場所に立っていた。


 七人。


 一列。


 動いていない。


 しかし、その背後にあった廊下が消えていた。


 代わりに、白い襖が並んでいる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 さきほどまで壁だった場所に、十枚以上の襖が等間隔で出現していた。


「構造変化!」


 クライムが叫ぶ。


「後方もだ!」


 振り返ると、玄関へ続いていたはずの廊下もなくなっていた。


 そこには狭い台所があった。


 古い流し台。


 黒ずんだまな板。


 吊り下げられた鍋。


 卓上には、湯気を立てる味噌汁が人数分並べられている。


 九人分。


 マジックナンバーズの現場要員と同じ数だった。


 椀の横には、それぞれ名札が置かれていた。


 紅林澪奈。


 神楽。


 黒岡。


 新木慎介。


 メアリー。


 クライム。


 高峰。


 さらに二つ。


 高砂研究員。


 高野博士。


 現場にはいない者たちの名まであった。


 サイト83から通信支援を行っている二人の名前だった。


 無線から、高砂の声が聞こえた。


『こちら高砂。今、映像を確認しています。隊長、その食事には触れないでください』


「当然です」


『いえ、そういう意味ではありません』


 通信の向こうで、紙をめくる音がした。


『そちらの映像に、こちらの席が映っています』


 紅林は台所を見た。


 高砂研究員と高野博士の名札。


 二人分の椀からも、湯気が立っている。


『そしてこちらにも、同じ匂いがしています』


 無線越しに、誰かが椅子を倒した。


『高砂研究員、後ろだ!』


 高野博士の声だった。


 通信に激しい雑音が混じった。


 紅林はすぐに呼びかける。


「高砂、応答してください」


『大丈夫です。まだ、何も――』


 高砂の言葉が止まった。


 無線の向こうから、食器の触れ合う音がした。


 かちゃり。


 かちゃり。


 かちゃり。


『隊長』


 高砂の声が震えていた。


『こちらの解析室に、食卓が出現しました』


「全員退避してください」


『扉が開きません』


 紅林は無線を握りしめた。


「高野博士」


『試している。しかし、どうやらこちらも内部へ取り込まれたらしい』


「サイト83まで影響範囲が拡大したということですか」


『違う』


 高野の声は低かった。


『距離を越えて拡大したんじゃない。最初から、我々も家の中にいたんだ』


 紅林は黙った。


 視界の端で、伊吹たちが動いた。


 七人は、一斉に台所へ顔を向けた。


「食事の時間です」


 彼らが言った。


「家族は揃って食卓につかなければいけません」


 黒岡が一歩前へ出た。


「誰が家族だ」


 七人の目が、黒岡へ向いた。


「帰ってきた人です」


「俺たちは帰ってきていない」


「いいえ」


 伊吹たちの笑みが深くなった。


「玄関を通りました」


「それがどうした」


「玄関を通って家に入ることを、帰宅と呼びます」


 新木が小さく舌打ちした。


「言葉の定義を固定しとる」


 紅林が尋ねる。


「契約術式ですか」


「たぶんな。しかも、家に入った時点で同意した扱いになっとる。玄関が承諾行為や」


「契約内容は確認できますか」


「まだ無理や。条文が見えへん」


 新木は台所を見回した。


 棚。


 鍋。


 食器。


 名札。


 そして壁に掛けられた、一枚の家族写真。


 新木の視線が止まった。


「隊長」


「何です」


「あれ見てみ」


 紅林が写真へ暗視装置を向けた。


 古い木製の額縁。


 中には、この屋敷の前で撮影されたと思われる集合写真が収められていた。


 中央に老夫婦。


 その周囲に、成人した子供たち。


 孫と思われる少年と少女。


 全員が穏やかに笑っている。


 ごく普通の家族写真だった。


 ただし、写真の端には、伊吹真人が立っていた。


 調査用装備を着たまま。


 笑っていた。


 その隣には第一次調査班の隊員たちが並んでいる。


 七人全員が、家族の一員として写真に収まっていた。


「いつ撮った写真だ」


 高峰がつぶやいた。


「撮影された形跡はありません」


 神楽が答える。


「そもそも、この家族の記録に伊吹班は存在しない」


 写真の表面が波打った。


 水面に風が吹いたように、像が揺れる。


 老夫婦の顔がぼやけた。


 子供たちの姿が薄くなる。


 代わりに、写真の空白へ新しい人影が浮かび上がった。


 紅林。


 神楽。


 黒岡。


 新木。


 メアリー。


 クライム。


 高峰。


 一人ずつ、輪郭が形成されていく。


 最後に、写真の中央へ高砂研究員と高野博士が現れた。


 九人全員が揃った。


 その背後で、伊吹たち七人が笑っている。


 計十六人。


 紅林は写真を凝視した。


 妙だった。


 人数が合わない。


 写真の中にいる人間は十六人のはずだった。


 だが、一番下の余白には、手書きの文字でこう記されていた。


 ――家族十七名。


「一人多い」


 紅林が言った。


 メアリーが首を振る。


「違うよ」


「何が違うんです」


「一人多いんじゃない」


 彼女は震える指で写真を指した。


「一人、写ってないの」


 家の奥から、小鳥の鳴き声が聞こえた。


 ちちち。


 ちちち。


 ちちち。


 台所の隅に置かれた木箱が、かすかに揺れた。


 古びた、小さな鳥籠のような箱だった。


 正面には十三個の丸い穴が開けられている。


 そのうち十二個の穴から、木製の小鳥の頭が突き出していた。


 最後の一つだけが、空いていた。


 紅林たちが見つめる中、箱の内部から、何かが爪で木を引っかく音がした。


 かり。


 かり。


 かり。


 伊吹たちは食卓を囲むように移動した。


 七人が、空いている椅子の背へ手を置く。


「座ってください」


 彼らは言った。


「家族が揃うまで、食事は始められません」


 紅林は答えなかった。


 代わりに、通信回線を切り替えた。


「神楽。退路を再確認」


「了解」


「黒岡、高峰。伊吹班を警戒」


「了解」


「クライム、襖を調べてください。開ける前に報告を」


「任せろ」


「メアリーは私のそばに」


「うん」


「新木」


「分かっとる。契約の起点を探す」


 紅林は鳥箱へ視線を向けた。


「箱には触れないでください」


「そら触らん方がええやろな」


 新木はしゃがみ込み、鳥箱から二メートルほど離れた場所に札を置いた。


 札には古い文字が描かれていた。


 彼が指先で印を結ぶ。


「四方を閉じ、名を伏せ、縁を断つ」


 低い声で唱えた。


 札の表面に細い光が走る。


 次の瞬間、札は黒く焦げた。


 新木が手を引く。


「早いな」


「失敗ですか」


「いや。拒否された」


「何に」


「家にや」


 新木は焦げた札を拾った。


「術式を壊されたんやない。ここでは使えへん言うて、規則そのものに弾かれた。客が勝手に家の間取り変えようとしたから、家主に止められたみたいなもんや」


「私たちは客なのですか」


 新木は伊吹たちを見た。


「さっきまではな」


 食卓の上に、箸が並べられた。


 誰も触れていないのに、一膳ずつ動き、それぞれの椀の横へ置かれていく。


 九膳。


 続いて、食卓の最奥に、小さな子供用の椅子が現れた。


 椅子の前には、空の皿が置かれた。


 名札はない。


 椅子だけが、誰かを待っていた。


 新木の表情が険しくなる。


「今はもう、客やないらしい」


「では何です」


「帰宅した家族や」


 柱時計が二度目の音を鳴らした。


 ごうん。


 同時に、十枚の襖が一斉に開いた。


 襖の向こうには、それぞれ異なる部屋があった。


 子供部屋。


 寝室。


 仏間。


 風呂場。


 病室。


 学校の教室。


 サイト83の解析室。


 MDEの収容区画。


 見覚えのないアパートの一室。


 そして最後の一枚の向こうには、誰もいない玄関が見えた。


 外から夕日の光が差し込んでいる。


 玄関の向こうには、ごく普通の住宅街が広がっていた。


 家々から夕食の匂いが流れ、遠くから子供の笑い声が聞こえる。


 それだけなら、何の変哲もない光景だった。


 だが、玄関の前には一人の少女が立っていた。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 両手で、小さな鳥籠を抱えている。


 顔は髪に隠れて見えない。


 少女は玄関の外から、屋敷の中を見つめていた。


 メアリーが息を止めた。


「この子」


「知っていますか」


「知らない」


 彼女は紅林の腕をつかんだ。


「でも、ずっといた」


「どこに」


「この家の中に」


 少女が、ゆっくりと顔を上げた。


 顔はなかった。


 目も。


 鼻も。


 口もない。


 白い皮膚だけが、平らに広がっている。


 それでも、その顔の中央から声がした。


「おかえりなさい」


 台所の鳥箱から、十二羽の木製の小鳥が同時に飛び出した。


 木でできた翼が、あり得ない動きで羽ばたく。


 羽音はしなかった。


 代わりに、十二人の子供が笑う声が響いた。


 小鳥たちは天井近くを旋回し、紅林たちの頭上で輪を描いた。


 一周。


 二周。


 三周。


 そして一羽ずつ、隊員たちの肩へ降り始めた。


 紅林。


 神楽。


 黒岡。


 新木。


 メアリー。


 クライム。


 高峰。


 さらに、空中に二羽が浮かんだまま留まる。


 サイト83にいる高砂研究員と高野博士の分だった。


 残る三羽は、伊吹たちの頭上を飛んだ。


 だが、伊吹たちは七人いる。


 三羽しかいない。


 数が合わない。


「撃ち落としますか」


 黒岡が尋ねた。


「待ってください」


 紅林は肩に止まった小鳥を見た。


 木製のくちばし。


 塗装の剥げた翼。


 腹部には、小さな文字が刻まれている。


 彼女は暗視装置の倍率を上げた。


 文字は名前だった。


 紅林澪奈。


 隊員たちの肩に止まった小鳥にも、それぞれの名が刻まれていた。


「個人識別されています」


 神楽が言った。


「隊長、これは標識かもしれません」


「家族として登録するためのものか」


 新木が肩の小鳥を横目で見た。


「あるいは、数を数えるためや」


 少女が鳥籠を持ち上げた。


 籠の扉が開く。


 中には何もいなかった。


「十二羽、帰ってきました」


 少女が言った。


 声は一つではなかった。


 幼い少女。


 老いた女。


 成人男性。


 泣いている子供。


 複数の声が、重なって聞こえた。


「あと一羽です」


 鳥箱の最後の穴から、白い指が一本だけ突き出した。


 人間の指だった。


 小さな子供の指。


 爪が木枠をなぞる。


 かり。


 かり。


 かり。


 伊吹たち七人が、同時に椅子を引いた。


「食事の時間です」


 七つの声が言う。


「十三羽目が帰ってくる前に、席についてください」


 紅林は少女へ銃口を向けた。


「十三羽目とは誰です」


 少女には口がない。


 それでも、笑ったことが分かった。


「まだ帰っていない人です」


「誰のことですか」


「帰りたい人です」


「名前を答えてください」


 少女は鳥籠を胸元へ抱き寄せた。


「名前は、帰ってきてから決まります」


 その瞬間、無線から高砂の叫び声が響いた。


『隊長、解析室の扉が開きました!』


「外へ出られますか」


『違います。扉の向こうが――』


 雑音。


 高砂の息遣い。


『そちらの玄関です』


 紅林が正面を見た。


 少女の立つ玄関。


 その背後に広がっていた住宅街が消えていた。


 代わりに、サイト83の解析室が見える。


 机。


 端末。


 散乱した資料。


 そして扉の向こう側に立つ、高砂研究員と高野博士。


 二人は明らかに別の場所にいるはずだった。


 だが、今は襖一枚を隔てた向こうにいた。


 高砂が紅林を見つけた。


 紅林も高砂を見た。


 互いの姿が、はっきりと見える。


「動かないでください」


 紅林が言った。


 だが、高砂の背後で、解析室の扉が閉まり始めた。


 彼女は反射的にこちらへ足を踏み出した。


 高野博士が腕をつかむ。


「待て!」


 扉は止まらない。


 高砂は紅林へ手を伸ばした。


「隊長!」


「来てはいけません!」


 襖が閉じる。


 高砂の指が隙間に挟まる直前、高野が彼女を引き戻した。


 襖は完全に閉まった。


 次の瞬間、そこには壁しかなかった。


 無線も途絶えた。


「高砂」


 応答はない。


「高野博士」


 雑音すら聞こえない。


 少女が言った。


「二人は、まだ帰り道にいます」


「何をした」


「家族を迎えに行きました」


 紅林の声が低くなる。


「返してください」


「帰ってきたら、返せません」


 玄関の扉が閉まった。


 少女の姿が消える。


 最後に、白い手だけが隙間から伸び、こちらへ手を振った。


「おかえりなさい」


 扉が閉じきる。


 直後、屋敷全体が大きく傾いた。


 床が沈む。


 壁が伸びる。


 天井が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 食卓の上の椀が滑った。


 味噌汁はこぼれず、斜めになった食卓へ張りついたまま揺れている。


 神楽が壁へ手をつき、体勢を保った。


「重力方向が変わっています!」


「全員、足元を確保!」


 紅林の指示が飛ぶ。


 黒岡がメアリーを支え、クライムが柱へワイヤーを撃ち込む。高峰は新木の腰をつかみ、鳥箱から距離を取らせた。


 伊吹たちは動かなかった。


 傾いた床の上に、垂直のまま立っている。


 重力の影響を受けていない。


 彼らの足元だけ、家の法則が異なっていた。


「やっぱり人間やないな」


 新木が吐き捨てる。


「人間です」


 伊吹たちが答えた。


「帰ってきた人間です」


「同じことや」


「違います」


 七人がこちらへ歩き出した。


 傾斜を無視して、水平な廊下を歩くように近づいてくる。


「人間は、帰る場所があるから人間です」


 紅林が発砲を許可した。


「射撃開始」


 黒岡と高峰の銃が火を噴いた。


 銃声が狭い空間を揺らす。


 弾丸は伊吹たちの胸部と脚部へ命中した。


 防護装備が裂ける。


 肉が砕ける。


 血が飛び散る。


 だが、その血は赤くなかった。


 細かく砕かれた木屑が、傷口からあふれ出した。


 濡れた藁。


 古い紙。


 白い米粒。


 黒い髪。


 人間の身体に存在するはずのないものが、裂けた制服の内側から零れ落ちていく。


 伊吹は歩みを止めなかった。


「攻撃は、家族間の不和と見なされます」


 神楽が叫ぶ。


「後退!」


 七人の背後で、壁が開いた。


 巨大な口のように。


 柱と柱の間が縦に裂け、暗い空洞が現れる。


 そこから無数の腕が伸びた。


 子供の腕。


 老人の腕。


 男の腕。


 女の腕。


 腕は伊吹たちを避け、マジックナンバーズへ向かってくる。


 クライムがワイヤーを巻き取り、紅林たちを引き寄せた。


 黒岡が伸びてきた腕をナイフで切り落とす。


 切断面からは血ではなく、湯気の立つ味噌汁が流れ出した。


 畳へ落ちた腕は、干からびた木の枝へ変わった。


「右の襖!」


 新木が叫ぶ。


「仏間や! あそこだけまだ構造が固定されとる!」


 紅林は即座に判断した。


「全員、仏間へ退避!」


 神楽が先行し、襖を蹴り開ける。


 奥には六畳ほどの仏間があった。


 仏壇。


 座布団。


 壁際に積まれた古い桐箱。


 全員が室内へ飛び込む。


 最後尾の黒岡が襖を閉めた。


 同時に、無数の手が反対側から襖を叩いた。


 どん。


 どん。


 どん。


 紙がたわむ。


 指の形が浮かび上がる。


 だが襖は破れなかった。


 新木はすぐに札を貼り、境界を補強した。


「長くは持たへんで!」


「何分です」


「分で聞くな! 早けりゃ十秒、持って一分や!」


 紅林は室内を見回した。


 出口はない。


 窓もない。


 襖は今にも破られそうだった。


「別の経路を探してください」


 クライムと高峰が壁を調べる。


 神楽は仏壇へライトを向けた。


 位牌が並んでいた。


 数は十三。


 一番右端の位牌だけ、文字が刻まれていない。


 その前には、小さな鍵が置かれていた。


 黒い鉄製の鍵。


 先端に、鬼灯の花を模した装飾が施されている。


 新木が息をのんだ。


「鬼灯産業や」


 紅林が鍵へ近づく。


「触れても安全ですか」


「分からん。せやけど、ここまで露骨に置いとるなら、使わせる気はある」


 仏壇の奥で、何かが動いた。


 神楽が銃を向ける。


 位牌の背後から、紙が一枚滑り落ちた。


 黄ばんだ契約書だった。


 表紙には、整った活字で題名が印刷されている。


 家族帰宅支援設備利用契約書。


 その下に、小さく企業名が記されていた。


 鬼灯産業株式会社。


 襖を叩く音が強くなる。


 どん。


 どん。


 どん。


 札の端が黒く焦げ始めた。


 新木は契約書を拾い、素早くページをめくった。


「読めますか」


「読める。けど、全部読む時間はあらへん」


「要点だけで構いません」


 新木の目が紙面を走る。


 その顔から、少しずつ血の気が失われていった。


「新木」


「待ってくれ」


「何が書かれています」


「おかしい」


 彼はページをめくる。


 もう一枚。


 さらに一枚。


「契約者の名前がない」


「無記名契約ですか」


「ちゃう。契約者の欄そのものが存在せえへん」


 新木は最後のページを開いた。


 そこには赤い印が押されていた。


 鬼灯の形をした社印。


 その下に、一文だけが記されている。


 ――本契約は、帰宅を希望するすべての者を対象とする。


 襖の札が一枚、燃え尽きた。


 紙の向こうから、伊吹の声がした。


「帰りたいでしょう」


 七つの声が、重なっている。


「あなたたちにも、帰る場所がある」


 メアリーが耳を塞いだ。


「聞いちゃ駄目」


「家族が待っています」


 襖に、九つの顔が浮かび上がった。


 紅林たち自身の顔だった。


 笑っている。


 穏やかに。


 帰宅を喜ぶ家族のように。


「帰りましょう」


 襖が裂けた。


 白い指が、室内へ伸びてくる。


 新木は契約書を握りしめ、叫んだ。


「隊長! 鍵や!」


「どこに使うんです」


「分からへん!」


「推測してください!」


 新木は仏壇を見た。


 十三の位牌。


 無記名の位牌。


 黒い鍵。


 彼の目が、仏壇下部の引き出しへ止まる。


 そこには小さな鍵穴があった。


「そこや!」


 紅林は鍵をつかんだ。


 冷たかった。


 金属の冷たさではない。


 冬の夜、長く放置された人間の手を握ったような冷たさだった。


 鍵を差し込む。


 回す。


 重い音がした。


 仏壇の背面が、ゆっくりと開いた。


 その奥に、下へ続く階段が現れた。


 暗く、深い階段。


 底は見えない。


 風が吹き上がってくる。


 土。


 線香。


 腐った花。


 そして、古い家の匂い。


「全員、降ります!」


 紅林が命じた。


 神楽が先頭に立つ。


 続いてメアリー、新木、高峰、クライム。


 黒岡が殿を務める。


 襖が完全に破られた。


 伊吹たちが仏間へ入ってくる。


 その背後から、無数の腕が這い込んでくる。


 紅林は最後に階段へ足をかけた。


 伊吹と目が合った。


 彼の顔は銃弾で半分崩れていた。


 肉の下には、木と紙と髪が詰まっている。


 それでも伊吹は笑っていた。


「下へ行ってはいけません」


「なぜです」


「そこは、帰れなかった人の部屋です」


 紅林は答えず、階段へ降りた。


 黒岡が仏壇の扉を閉める。


 暗闇。


 狭い階段に、九人分ではない足音が響いた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 誰も声を出さなかった。


 全員が、自分たちの足音を数えていた。


 紅林。


 神楽。


 黒岡。


 新木。


 メアリー。


 クライム。


 高峰。


 現場にいるのは七人。


 階段に響いている足音は、八人分だった。


 最後尾の紅林は振り返った。


 暗闇の中。


 閉じた扉の前に、小さな影が立っている。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 顔のない少女。


 少女は、鳥籠を抱いていた。


 籠の中では、小さな木の鳥が一羽、激しく翼を動かしている。


 その腹部には、まだ名前が刻まれていなかった。


「見つけた」


 少女が言った。


「十三羽目」


 仏壇の扉が閉じた。


 少女の姿が闇へ消える。


 しかし八人目の足音は、その後も紅林たちの背後をついてきた。


次回予告


第四章 帰れない家


## 前編②


9月 29日21時投稿予定

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