第四章 帰れない家 ## 前編①
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暗闇の奥から現れた者たちは、いずれもMDEの装備を身につけていた。
濃紺の戦術服。左胸に縫いつけられた組織章。腰に固定された簡易測定器と携帯端末。肩口に記された部隊識別番号。
どれも記録に残されている第一次調査班のものだった。
先頭に立つ伊吹真人を含め、合計七名。
NCO-318-JP内部で消息を絶った、第一次調査班の全員だった。
誰一人として欠けていない。
誰一人として、死んでいるようには見えなかった。
だが、誰もが生還者には見えなかった。
六人の隊員は暗い廊下から一列になって現れ、伊吹の背後で静かに足を止めた。
全員の動作が、奇妙なほど揃っていた。
右足を前に出し、左足を引き寄せる。
肩を下ろす。
顔を上げる。
呼吸をする。
それぞれ別の人間であるはずなのに、一つの身体を六つに分け、それぞれに同じ命令を与えたかのようだった。
紅林澪奈は銃口を下げなかった。
「全員、その場から動かないでください」
声は静かだった。
しかし、拒否を許さない強さがあった。
伊吹は困惑した表情を浮かべた。
「紅林隊長、どういう意味ですか。俺たちは救助を待っていたんです」
「あなたたちが第一次調査班であることは確認しています」
「だったら――」
「確認したのは、外見と装備だけです」
伊吹の口が閉じた。
紅林の斜め後方で、神楽が左手を軽く上げた。
マジックナンバーズの隊員たちは、合図に従って半円状に展開した。黒岡と高峰が前方を受け持ち、クライムが廊下の左右を確認する。メアリーは視線を伏せ、聴覚と精神感応に意識を集中させていた。
新木慎介は伊吹たちを見たまま、腰のポーチから白い糸の束を取り出した。
糸には、等間隔で小さな金属片が結びつけられている。
一般的な測定機器ではない。
古代魔術研究部門が使用する、境界検査用の簡易術具だった。
新木は糸の端を指に巻き、残る部分を床へ落とした。
金属片が畳に触れる。
かすかな音がした。
ちりん。
ただ、それだけだった。
本来ならば、周囲に異常な空間歪曲や認識干渉が存在する場合、金属片は不規則に震えるはずだった。
だが糸は動かなかった。
床に落ちたまま、ぴたりと止まっている。
「反応は」
神楽が小声で尋ねた。
「ない」
新木は答えた。
「せやけど、正常っちゅう意味やない。これはたぶん、測れへんのや」
「測定不能?」
「それとも、ここでは異常な方が正常になっとる」
新木はしゃがみ込み、糸の端を畳の上で滑らせた。
金属片は鳴らなかった。
彼は眉をひそめた。
「この家の中で測っとる限り、この家を異常やとは判定できへん。水ん中で水の濡れ具合を測るようなもんや」
紅林は伊吹から目を離さずに言った。
「本人確認を行います」
「何をすればいい」
「質問に答えてください。第一次調査班の構成員名、現場到着時刻、突入時の指揮手順。記録にある内容と照合します」
「分かりました」
伊吹はすぐに答えた。
淀みはなかった。
第一次調査班の所属、階級、氏名。
現場へ到着した時刻。
村落封鎖後の確認手順。
屋敷へ接近した人数。
玄関の前で測定した異常値。
どれも事前資料と一致していた。
残る六人も、それぞれ個別に質問へ答えた。
回答内容に矛盾はない。
記憶の混乱も見られない。
発声も正常。
瞳孔反応も正常。
生体モニターが示す脈拍と体温も、人間の範囲内に収まっていた。
それでも、違和感は消えなかった。
むしろ質問を重ねるほど、違和感は濃くなっていった。
彼らは、正しすぎた。
記憶に曖昧さがない。
言い間違いをしない。
隊員同士で回答が食い違わない。
数日前の突入時刻を秒単位で答え、誰がどの順番で玄関を通過したかまで、全員が同じ言葉で説明した。
まるで、同じ記録映像を見た者たちが、その内容を暗唱しているかのようだった。
「次の質問です」
紅林が言った。
「突入前、伊吹班長が部下へ伝えた最後の指示は?」
伊吹は一瞬も考えなかった。
「異常が確認された場合、攻撃よりも退路確保を優先する。個人行動を避け、必ず二名以上で行動する。以上です」
六人も同じ答えを返した。
一字一句、違わなかった。
神楽の目が細くなった。
黒岡が、銃を構え直す。
伊吹はその動きを見て、苛立ちを押し殺すように息を吐いた。
「何がおかしいんです」
「あなたたち自身に聞いてください」
「質問には答えたでしょう」
「全員が同じ答えを返しました」
「同じ命令を聞いたんだから、当然です」
「人間は、同じ経験を同じ言葉では記憶しません」
紅林の声は冷静だった。
「意味は一致しても、表現は変わる。語順も変わる。省略する部分も違う。それが普通です」
伊吹は黙り込んだ。
背後の六人も、同時に黙った。
その沈黙さえ、揃っていた。
メアリーが両手で自分の肩を抱いた。
「この人たち、静かすぎる」
彼女の声は小さかった。
「頭の中が、静かすぎるよ」
伊吹がメアリーへ顔を向けた。
六人も同時に向けた。
全員の視線が、全く同じ角度で動いた。
メアリーの顔から血の気が引いた。
クライムがすぐに彼女の前へ立つ。
「見るな」
「違う」
メアリーは首を振った。
「見られたからじゃない。この人たちの中、何もないわけじゃないの。ちゃんと考えてる。ちゃんと怖がってる。ちゃんと私たちを疑ってる」
「それなら何が問題だ」
「全部同じなの」
その言葉を聞いた瞬間、廊下の空気が変わった。
誰も動かなかった。
誰も声を上げなかった。
それでも全員が、無意識に伊吹たちから距離を取った。
メアリーは唇を震わせながら続けた。
「七人とも、同じことを考えてる。同じ言葉で。同じ順番で。同じ感情で。怖がる場所まで同じ。疑う相手も同じ。次に何を言うか考えてる、その考え方まで全部同じ」
伊吹の表情から、困惑が消えた。
代わりに、奇妙な無表情が浮かんだ。
それは怒りでもなく、驚きでもない。
役目を終えた仮面が、ゆっくりと外れ落ちていくような変化だった。
「なるほど」
伊吹が言った。
背後の六人の口も動いた。
「なるほど」
七つの声が、重なった。
男の声。
女の声。
低い声。
かすれた声。
本来なら異なるはずの七つの声が、完全に同じ速度と抑揚で響いた。
家の奥で、小鳥が鳴いた。
ちちち。
ちちち。
ちちち。
七人の隊員は、ゆっくりと首を傾げた。
同じ方向へ。
同じ角度で。
紅林が右手を上げた。
「全員、発砲待機」
安全装置の外れる音が連続した。
伊吹たちは動かなかった。
ただ紅林を見つめていた。
「俺たちは伊吹真人です」
七人が言った。
「訂正してください」
紅林は答えた。
「あなたは伊吹真人ではない」
「俺たちは伊吹真人です」
「伊吹真人は一人です」
「いいえ」
七人の顔に、薄い笑みが浮かんだ。
「帰ってきた者は、みんな同じです」
高峰が息をのんだ。
黒岡の指が引き金に触れる。
その瞬間、屋敷の奥で、柱時計が鳴った。
ごうん。
重い音が一度だけ響いた。
音は屋敷全体を震わせ、畳の下から、壁の裏から、天井の奥から反響した。
続いて、遠くで何かが走り出した。
ばたばたばたばた。
小さな足音だった。
子供のようにも聞こえる。
動物のようにも聞こえる。
廊下の左右。
天井裏。
床下。
複数の場所を、無数の何かが駆け回っている。
メアリーが耳を塞いだ。
「来る」
紅林が振り返る。
「何が」
「この家が、起きる」
次の瞬間、照明が消えた。
完全な闇が落ちた。
「暗視装置!」
神楽の声が飛ぶ。
各員が装備を切り替える。
紅林の視界に緑色の輪郭が戻った。
伊吹たちは、まだ同じ場所に立っていた。
七人。
一列。
動いていない。
しかし、その背後にあった廊下が消えていた。
代わりに、白い襖が並んでいる。
一枚。
二枚。
三枚。
さきほどまで壁だった場所に、十枚以上の襖が等間隔で出現していた。
「構造変化!」
クライムが叫ぶ。
「後方もだ!」
振り返ると、玄関へ続いていたはずの廊下もなくなっていた。
そこには狭い台所があった。
古い流し台。
黒ずんだまな板。
吊り下げられた鍋。
卓上には、湯気を立てる味噌汁が人数分並べられている。
九人分。
マジックナンバーズの現場要員と同じ数だった。
椀の横には、それぞれ名札が置かれていた。
紅林澪奈。
神楽。
黒岡。
新木慎介。
メアリー。
クライム。
高峰。
さらに二つ。
高砂研究員。
高野博士。
現場にはいない者たちの名まであった。
サイト83から通信支援を行っている二人の名前だった。
無線から、高砂の声が聞こえた。
『こちら高砂。今、映像を確認しています。隊長、その食事には触れないでください』
「当然です」
『いえ、そういう意味ではありません』
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
『そちらの映像に、こちらの席が映っています』
紅林は台所を見た。
高砂研究員と高野博士の名札。
二人分の椀からも、湯気が立っている。
『そしてこちらにも、同じ匂いがしています』
無線越しに、誰かが椅子を倒した。
『高砂研究員、後ろだ!』
高野博士の声だった。
通信に激しい雑音が混じった。
紅林はすぐに呼びかける。
「高砂、応答してください」
『大丈夫です。まだ、何も――』
高砂の言葉が止まった。
無線の向こうから、食器の触れ合う音がした。
かちゃり。
かちゃり。
かちゃり。
『隊長』
高砂の声が震えていた。
『こちらの解析室に、食卓が出現しました』
「全員退避してください」
『扉が開きません』
紅林は無線を握りしめた。
「高野博士」
『試している。しかし、どうやらこちらも内部へ取り込まれたらしい』
「サイト83まで影響範囲が拡大したということですか」
『違う』
高野の声は低かった。
『距離を越えて拡大したんじゃない。最初から、我々も家の中にいたんだ』
紅林は黙った。
視界の端で、伊吹たちが動いた。
七人は、一斉に台所へ顔を向けた。
「食事の時間です」
彼らが言った。
「家族は揃って食卓につかなければいけません」
黒岡が一歩前へ出た。
「誰が家族だ」
七人の目が、黒岡へ向いた。
「帰ってきた人です」
「俺たちは帰ってきていない」
「いいえ」
伊吹たちの笑みが深くなった。
「玄関を通りました」
「それがどうした」
「玄関を通って家に入ることを、帰宅と呼びます」
新木が小さく舌打ちした。
「言葉の定義を固定しとる」
紅林が尋ねる。
「契約術式ですか」
「たぶんな。しかも、家に入った時点で同意した扱いになっとる。玄関が承諾行為や」
「契約内容は確認できますか」
「まだ無理や。条文が見えへん」
新木は台所を見回した。
棚。
鍋。
食器。
名札。
そして壁に掛けられた、一枚の家族写真。
新木の視線が止まった。
「隊長」
「何です」
「あれ見てみ」
紅林が写真へ暗視装置を向けた。
古い木製の額縁。
中には、この屋敷の前で撮影されたと思われる集合写真が収められていた。
中央に老夫婦。
その周囲に、成人した子供たち。
孫と思われる少年と少女。
全員が穏やかに笑っている。
ごく普通の家族写真だった。
ただし、写真の端には、伊吹真人が立っていた。
調査用装備を着たまま。
笑っていた。
その隣には第一次調査班の隊員たちが並んでいる。
七人全員が、家族の一員として写真に収まっていた。
「いつ撮った写真だ」
高峰がつぶやいた。
「撮影された形跡はありません」
神楽が答える。
「そもそも、この家族の記録に伊吹班は存在しない」
写真の表面が波打った。
水面に風が吹いたように、像が揺れる。
老夫婦の顔がぼやけた。
子供たちの姿が薄くなる。
代わりに、写真の空白へ新しい人影が浮かび上がった。
紅林。
神楽。
黒岡。
新木。
メアリー。
クライム。
高峰。
一人ずつ、輪郭が形成されていく。
最後に、写真の中央へ高砂研究員と高野博士が現れた。
九人全員が揃った。
その背後で、伊吹たち七人が笑っている。
計十六人。
紅林は写真を凝視した。
妙だった。
人数が合わない。
写真の中にいる人間は十六人のはずだった。
だが、一番下の余白には、手書きの文字でこう記されていた。
――家族十七名。
「一人多い」
紅林が言った。
メアリーが首を振る。
「違うよ」
「何が違うんです」
「一人多いんじゃない」
彼女は震える指で写真を指した。
「一人、写ってないの」
家の奥から、小鳥の鳴き声が聞こえた。
ちちち。
ちちち。
ちちち。
台所の隅に置かれた木箱が、かすかに揺れた。
古びた、小さな鳥籠のような箱だった。
正面には十三個の丸い穴が開けられている。
そのうち十二個の穴から、木製の小鳥の頭が突き出していた。
最後の一つだけが、空いていた。
紅林たちが見つめる中、箱の内部から、何かが爪で木を引っかく音がした。
かり。
かり。
かり。
伊吹たちは食卓を囲むように移動した。
七人が、空いている椅子の背へ手を置く。
「座ってください」
彼らは言った。
「家族が揃うまで、食事は始められません」
紅林は答えなかった。
代わりに、通信回線を切り替えた。
「神楽。退路を再確認」
「了解」
「黒岡、高峰。伊吹班を警戒」
「了解」
「クライム、襖を調べてください。開ける前に報告を」
「任せろ」
「メアリーは私のそばに」
「うん」
「新木」
「分かっとる。契約の起点を探す」
紅林は鳥箱へ視線を向けた。
「箱には触れないでください」
「そら触らん方がええやろな」
新木はしゃがみ込み、鳥箱から二メートルほど離れた場所に札を置いた。
札には古い文字が描かれていた。
彼が指先で印を結ぶ。
「四方を閉じ、名を伏せ、縁を断つ」
低い声で唱えた。
札の表面に細い光が走る。
次の瞬間、札は黒く焦げた。
新木が手を引く。
「早いな」
「失敗ですか」
「いや。拒否された」
「何に」
「家にや」
新木は焦げた札を拾った。
「術式を壊されたんやない。ここでは使えへん言うて、規則そのものに弾かれた。客が勝手に家の間取り変えようとしたから、家主に止められたみたいなもんや」
「私たちは客なのですか」
新木は伊吹たちを見た。
「さっきまではな」
食卓の上に、箸が並べられた。
誰も触れていないのに、一膳ずつ動き、それぞれの椀の横へ置かれていく。
九膳。
続いて、食卓の最奥に、小さな子供用の椅子が現れた。
椅子の前には、空の皿が置かれた。
名札はない。
椅子だけが、誰かを待っていた。
新木の表情が険しくなる。
「今はもう、客やないらしい」
「では何です」
「帰宅した家族や」
柱時計が二度目の音を鳴らした。
ごうん。
同時に、十枚の襖が一斉に開いた。
襖の向こうには、それぞれ異なる部屋があった。
子供部屋。
寝室。
仏間。
風呂場。
病室。
学校の教室。
サイト83の解析室。
MDEの収容区画。
見覚えのないアパートの一室。
そして最後の一枚の向こうには、誰もいない玄関が見えた。
外から夕日の光が差し込んでいる。
玄関の向こうには、ごく普通の住宅街が広がっていた。
家々から夕食の匂いが流れ、遠くから子供の笑い声が聞こえる。
それだけなら、何の変哲もない光景だった。
だが、玄関の前には一人の少女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
両手で、小さな鳥籠を抱えている。
顔は髪に隠れて見えない。
少女は玄関の外から、屋敷の中を見つめていた。
メアリーが息を止めた。
「この子」
「知っていますか」
「知らない」
彼女は紅林の腕をつかんだ。
「でも、ずっといた」
「どこに」
「この家の中に」
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
顔はなかった。
目も。
鼻も。
口もない。
白い皮膚だけが、平らに広がっている。
それでも、その顔の中央から声がした。
「おかえりなさい」
台所の鳥箱から、十二羽の木製の小鳥が同時に飛び出した。
木でできた翼が、あり得ない動きで羽ばたく。
羽音はしなかった。
代わりに、十二人の子供が笑う声が響いた。
小鳥たちは天井近くを旋回し、紅林たちの頭上で輪を描いた。
一周。
二周。
三周。
そして一羽ずつ、隊員たちの肩へ降り始めた。
紅林。
神楽。
黒岡。
新木。
メアリー。
クライム。
高峰。
さらに、空中に二羽が浮かんだまま留まる。
サイト83にいる高砂研究員と高野博士の分だった。
残る三羽は、伊吹たちの頭上を飛んだ。
だが、伊吹たちは七人いる。
三羽しかいない。
数が合わない。
「撃ち落としますか」
黒岡が尋ねた。
「待ってください」
紅林は肩に止まった小鳥を見た。
木製のくちばし。
塗装の剥げた翼。
腹部には、小さな文字が刻まれている。
彼女は暗視装置の倍率を上げた。
文字は名前だった。
紅林澪奈。
隊員たちの肩に止まった小鳥にも、それぞれの名が刻まれていた。
「個人識別されています」
神楽が言った。
「隊長、これは標識かもしれません」
「家族として登録するためのものか」
新木が肩の小鳥を横目で見た。
「あるいは、数を数えるためや」
少女が鳥籠を持ち上げた。
籠の扉が開く。
中には何もいなかった。
「十二羽、帰ってきました」
少女が言った。
声は一つではなかった。
幼い少女。
老いた女。
成人男性。
泣いている子供。
複数の声が、重なって聞こえた。
「あと一羽です」
鳥箱の最後の穴から、白い指が一本だけ突き出した。
人間の指だった。
小さな子供の指。
爪が木枠をなぞる。
かり。
かり。
かり。
伊吹たち七人が、同時に椅子を引いた。
「食事の時間です」
七つの声が言う。
「十三羽目が帰ってくる前に、席についてください」
紅林は少女へ銃口を向けた。
「十三羽目とは誰です」
少女には口がない。
それでも、笑ったことが分かった。
「まだ帰っていない人です」
「誰のことですか」
「帰りたい人です」
「名前を答えてください」
少女は鳥籠を胸元へ抱き寄せた。
「名前は、帰ってきてから決まります」
その瞬間、無線から高砂の叫び声が響いた。
『隊長、解析室の扉が開きました!』
「外へ出られますか」
『違います。扉の向こうが――』
雑音。
高砂の息遣い。
『そちらの玄関です』
紅林が正面を見た。
少女の立つ玄関。
その背後に広がっていた住宅街が消えていた。
代わりに、サイト83の解析室が見える。
机。
端末。
散乱した資料。
そして扉の向こう側に立つ、高砂研究員と高野博士。
二人は明らかに別の場所にいるはずだった。
だが、今は襖一枚を隔てた向こうにいた。
高砂が紅林を見つけた。
紅林も高砂を見た。
互いの姿が、はっきりと見える。
「動かないでください」
紅林が言った。
だが、高砂の背後で、解析室の扉が閉まり始めた。
彼女は反射的にこちらへ足を踏み出した。
高野博士が腕をつかむ。
「待て!」
扉は止まらない。
高砂は紅林へ手を伸ばした。
「隊長!」
「来てはいけません!」
襖が閉じる。
高砂の指が隙間に挟まる直前、高野が彼女を引き戻した。
襖は完全に閉まった。
次の瞬間、そこには壁しかなかった。
無線も途絶えた。
「高砂」
応答はない。
「高野博士」
雑音すら聞こえない。
少女が言った。
「二人は、まだ帰り道にいます」
「何をした」
「家族を迎えに行きました」
紅林の声が低くなる。
「返してください」
「帰ってきたら、返せません」
玄関の扉が閉まった。
少女の姿が消える。
最後に、白い手だけが隙間から伸び、こちらへ手を振った。
「おかえりなさい」
扉が閉じきる。
直後、屋敷全体が大きく傾いた。
床が沈む。
壁が伸びる。
天井が、ゆっくりと遠ざかっていく。
食卓の上の椀が滑った。
味噌汁はこぼれず、斜めになった食卓へ張りついたまま揺れている。
神楽が壁へ手をつき、体勢を保った。
「重力方向が変わっています!」
「全員、足元を確保!」
紅林の指示が飛ぶ。
黒岡がメアリーを支え、クライムが柱へワイヤーを撃ち込む。高峰は新木の腰をつかみ、鳥箱から距離を取らせた。
伊吹たちは動かなかった。
傾いた床の上に、垂直のまま立っている。
重力の影響を受けていない。
彼らの足元だけ、家の法則が異なっていた。
「やっぱり人間やないな」
新木が吐き捨てる。
「人間です」
伊吹たちが答えた。
「帰ってきた人間です」
「同じことや」
「違います」
七人がこちらへ歩き出した。
傾斜を無視して、水平な廊下を歩くように近づいてくる。
「人間は、帰る場所があるから人間です」
紅林が発砲を許可した。
「射撃開始」
黒岡と高峰の銃が火を噴いた。
銃声が狭い空間を揺らす。
弾丸は伊吹たちの胸部と脚部へ命中した。
防護装備が裂ける。
肉が砕ける。
血が飛び散る。
だが、その血は赤くなかった。
細かく砕かれた木屑が、傷口からあふれ出した。
濡れた藁。
古い紙。
白い米粒。
黒い髪。
人間の身体に存在するはずのないものが、裂けた制服の内側から零れ落ちていく。
伊吹は歩みを止めなかった。
「攻撃は、家族間の不和と見なされます」
神楽が叫ぶ。
「後退!」
七人の背後で、壁が開いた。
巨大な口のように。
柱と柱の間が縦に裂け、暗い空洞が現れる。
そこから無数の腕が伸びた。
子供の腕。
老人の腕。
男の腕。
女の腕。
腕は伊吹たちを避け、マジックナンバーズへ向かってくる。
クライムがワイヤーを巻き取り、紅林たちを引き寄せた。
黒岡が伸びてきた腕をナイフで切り落とす。
切断面からは血ではなく、湯気の立つ味噌汁が流れ出した。
畳へ落ちた腕は、干からびた木の枝へ変わった。
「右の襖!」
新木が叫ぶ。
「仏間や! あそこだけまだ構造が固定されとる!」
紅林は即座に判断した。
「全員、仏間へ退避!」
神楽が先行し、襖を蹴り開ける。
奥には六畳ほどの仏間があった。
仏壇。
座布団。
壁際に積まれた古い桐箱。
全員が室内へ飛び込む。
最後尾の黒岡が襖を閉めた。
同時に、無数の手が反対側から襖を叩いた。
どん。
どん。
どん。
紙がたわむ。
指の形が浮かび上がる。
だが襖は破れなかった。
新木はすぐに札を貼り、境界を補強した。
「長くは持たへんで!」
「何分です」
「分で聞くな! 早けりゃ十秒、持って一分や!」
紅林は室内を見回した。
出口はない。
窓もない。
襖は今にも破られそうだった。
「別の経路を探してください」
クライムと高峰が壁を調べる。
神楽は仏壇へライトを向けた。
位牌が並んでいた。
数は十三。
一番右端の位牌だけ、文字が刻まれていない。
その前には、小さな鍵が置かれていた。
黒い鉄製の鍵。
先端に、鬼灯の花を模した装飾が施されている。
新木が息をのんだ。
「鬼灯産業や」
紅林が鍵へ近づく。
「触れても安全ですか」
「分からん。せやけど、ここまで露骨に置いとるなら、使わせる気はある」
仏壇の奥で、何かが動いた。
神楽が銃を向ける。
位牌の背後から、紙が一枚滑り落ちた。
黄ばんだ契約書だった。
表紙には、整った活字で題名が印刷されている。
家族帰宅支援設備利用契約書。
その下に、小さく企業名が記されていた。
鬼灯産業株式会社。
襖を叩く音が強くなる。
どん。
どん。
どん。
札の端が黒く焦げ始めた。
新木は契約書を拾い、素早くページをめくった。
「読めますか」
「読める。けど、全部読む時間はあらへん」
「要点だけで構いません」
新木の目が紙面を走る。
その顔から、少しずつ血の気が失われていった。
「新木」
「待ってくれ」
「何が書かれています」
「おかしい」
彼はページをめくる。
もう一枚。
さらに一枚。
「契約者の名前がない」
「無記名契約ですか」
「ちゃう。契約者の欄そのものが存在せえへん」
新木は最後のページを開いた。
そこには赤い印が押されていた。
鬼灯の形をした社印。
その下に、一文だけが記されている。
――本契約は、帰宅を希望するすべての者を対象とする。
襖の札が一枚、燃え尽きた。
紙の向こうから、伊吹の声がした。
「帰りたいでしょう」
七つの声が、重なっている。
「あなたたちにも、帰る場所がある」
メアリーが耳を塞いだ。
「聞いちゃ駄目」
「家族が待っています」
襖に、九つの顔が浮かび上がった。
紅林たち自身の顔だった。
笑っている。
穏やかに。
帰宅を喜ぶ家族のように。
「帰りましょう」
襖が裂けた。
白い指が、室内へ伸びてくる。
新木は契約書を握りしめ、叫んだ。
「隊長! 鍵や!」
「どこに使うんです」
「分からへん!」
「推測してください!」
新木は仏壇を見た。
十三の位牌。
無記名の位牌。
黒い鍵。
彼の目が、仏壇下部の引き出しへ止まる。
そこには小さな鍵穴があった。
「そこや!」
紅林は鍵をつかんだ。
冷たかった。
金属の冷たさではない。
冬の夜、長く放置された人間の手を握ったような冷たさだった。
鍵を差し込む。
回す。
重い音がした。
仏壇の背面が、ゆっくりと開いた。
その奥に、下へ続く階段が現れた。
暗く、深い階段。
底は見えない。
風が吹き上がってくる。
土。
線香。
腐った花。
そして、古い家の匂い。
「全員、降ります!」
紅林が命じた。
神楽が先頭に立つ。
続いてメアリー、新木、高峰、クライム。
黒岡が殿を務める。
襖が完全に破られた。
伊吹たちが仏間へ入ってくる。
その背後から、無数の腕が這い込んでくる。
紅林は最後に階段へ足をかけた。
伊吹と目が合った。
彼の顔は銃弾で半分崩れていた。
肉の下には、木と紙と髪が詰まっている。
それでも伊吹は笑っていた。
「下へ行ってはいけません」
「なぜです」
「そこは、帰れなかった人の部屋です」
紅林は答えず、階段へ降りた。
黒岡が仏壇の扉を閉める。
暗闇。
狭い階段に、九人分ではない足音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
誰も声を出さなかった。
全員が、自分たちの足音を数えていた。
紅林。
神楽。
黒岡。
新木。
メアリー。
クライム。
高峰。
現場にいるのは七人。
階段に響いている足音は、八人分だった。
最後尾の紅林は振り返った。
暗闇の中。
閉じた扉の前に、小さな影が立っている。
白いワンピース。
長い黒髪。
顔のない少女。
少女は、鳥籠を抱いていた。
籠の中では、小さな木の鳥が一羽、激しく翼を動かしている。
その腹部には、まだ名前が刻まれていなかった。
「見つけた」
少女が言った。
「十三羽目」
仏壇の扉が閉じた。
少女の姿が闇へ消える。
しかし八人目の足音は、その後も紅林たちの背後をついてきた。
次回予告
第四章 帰れない家
## 前編②
9月 29日21時投稿予定




