Tale「紅林零奈は考えない」
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金土日18時、21時、2本投稿予定
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紅林零奈には、最近一つの悩みがあった。
仕事ではない。部下でもない。異常存在でもない。ましてや、東雲重工業でもない。
もっと身近で、もっと面倒で、ほぼ毎日のように顔を合わせる人物。
クレイン博士である。
正確には、クレイン博士本人ではない――と零奈は思いたかった。
問題なのは、博士が持つ思考読取能力だった。
クレイン博士本人はいつも言う。
「別に、常に読んでるわけじゃないよ。聞こえてくることがあるだけだし、必要がなければ拾わないようにはしてる」
しかし零奈からすれば、「読まれる」も「聞こえる」も大して変わらない。
誰だって、頭の中くらい自由でいたい。
昼食を何にするか。仕事が終わったら何をするか。今日の会議が面倒だとか、書類を増やした上司への文句だとか、誰にも言うつもりのない愚痴だとか。
あるいは。
本人には絶対言いたくないことだとか。
そういうものが、クレイン博士の近くでは時々漏れる。
そして事件は三日前に起きた。
昼休み。サイト83の食堂。
零奈は唐揚げ定食を食べていた。
向かいにはクレイン博士が座り、カレーを食べている。
特に会話はなかった。
平和な昼休みだった。
零奈は唐揚げを一つ口に運び、何気なく博士を見た。
そして思った。
『……今日、髪すごい跳ねてるな』
博士のスプーンが止まった。
零奈の箸も止まった。
数秒の沈黙。
博士が自分の髪へ手を伸ばした。
「どこ?」
零奈は目を細める。
「何がです?」
「髪」
「……」
「右?」
「博士」
「何?」
「今、読みました?」
「いや」
「読みましたよね」
「聞こえた」
「同じです!」
零奈の声が食堂に響いた。
周囲の職員が振り返る。
博士は少し身を縮めた。
「紅林、声」
「誰のせいですか!」
「だから、わざとじゃないって」
「じゃあ忘れてください」
「分かった」
「絶対ですよ」
「分かったって」
零奈は再び唐揚げを食べる。
博士もカレーへ戻った。
数秒。
『……でも本当にすごい跳ねてる』
博士が今度は反対側の髪を触った。
「こっち?」
「読むな!!」
三日前。
その出来事を境に、零奈は決意した。
読まれるなら。
読ませなければいい。
その結論が、なぜあんな騒ぎに発展することになったのか。
本人にもよく分かっていなかった。
午前八時四十分。
サイト83、第四訓練室。
荒木慎介は椅子に座り、目の前のホワイトボードを眺めていた。
隣には黒岡。
二人の前には紅林零奈。
そしてホワイトボードの中央には、一文字だけが大きく書かれている。
**『無』**
荒木はホワイトボードを見た。
零奈を見る。
もう一度、ホワイトボードを見る。
「紅林さん」
「何?」
「これ、何の訓練なんです?」
零奈は腕を組んだ。
「見れば分かるでしょ」
荒木は再び『無』を見る。
「いや、分からへんから聞いてるんですけど」
隣で腕を組んでいた黒岡が、低い声で口を開いた。
「要するに、博士に頭ん中を読ませたくねえんだろ」
零奈が黒岡を見る。
「そう」
荒木も黒岡を見る。
「それだけで分かったんです?」
「最近ずっと博士に噛みついてるからな」
「噛みついてない!」
黒岡は零奈を見たまま言う。
「今の反応を見る限り、相当気にしてるな」
「黒岡まで!」
「事実だ」
荒木が笑った。
「黒岡さん、容赦ないなあ」
「お前も笑ってねえで付き合え」
「いや、俺、完全に巻き込まれただけなんですけど」
黒岡は荒木を見る。
「俺もだ」
「ほな帰りません?」
「無理だろ」
「なんでです?」
黒岡は零奈を顎で示した。
荒木も見る。
零奈は笑っていない。
「……無理そうですね」
「だろ」
零奈が机を叩いた。
「真面目にやって!」
黒岡はため息をつきながら姿勢を直した。
「で、俺たちは何すりゃいい」
「無心になるための訓練に付き合って」
「無心?」
荒木が首を傾げる。
「何も考えなければ、博士にも何も読まれない」
「何も考えへんって、できるんです?」
「やるの」
「精神論やん」
黒岡がすぐに言った。
「無茶だな」
「黒岡なら何か考えて」
「買いかぶるな」
即答だった。
零奈が睨む。
黒岡はまったく気にしない。
「そもそも『何も考えないようにしよう』って考えた時点で、もう考えてんだろ」
荒木が「あ」と声を漏らした。
零奈は黙った。
黒岡が続ける。
「終わりじゃねえか」
「終わらせない!」
「面倒だな」
「荒木」
「はい」
「笑わない!」
「いや、笑ってませんって」
「笑ってる!」
「顔だけですやん!」
「それ笑ってるっていうの!」
訓練開始から十分後。
零奈は椅子に座り、目を閉じていた。
呼吸を整える。
『無』
『無』
『何も考えない』
『無』
『何も』
『無』
静かだった。
十秒。
二十秒。
三十秒。
荒木が小声で黒岡へ聞く。
「これ、どうやって成功したか判断するんです?」
「知らん」
「ですよね」
黒岡は零奈を見る。
微動だにしない。
「何か考えさせりゃいい」
「それ、訓練の目的と逆ちゃいます?」
「反応しなきゃ成功だろ」
「なるほど」
荒木は少し考えた。
そして零奈へ声をかける。
「紅林さん」
返事はない。
「後ろに博士いますよ」
零奈の目が開いた。
勢いよく振り返る。
誰もいない。
沈黙。
荒木は口元を押さえた。
「……」
零奈がゆっくり振り返る。
「荒木」
「いや」
「荒木」
「今、めっちゃ反応しましたやん」
「荒木」
「はい」
「あとで覚えてなさい」
黒岡が淡々と言った。
「それも思考だ」
零奈が黒岡を見る。
「黒岡!」
「俺に怒るな。反応したのお前だろ」
「もう一回!」
黒岡はため息をついた。
「完全に意地になってんじゃねえか」
「なってない!」
荒木が笑う。
「なってますやん」
「荒木!」
「なんで俺ばっかり!?」
二回目の訓練。
再び零奈は目を閉じた。
黒岡は椅子に座り、荒木はすでに飽き始めていた。
しばらくして、荒木が言う。
「紅林さん」
零奈は動かない。
「クレイン博士について考えんといてください」
その瞬間。
『博士』
『博士』
『博士』
『博士博士博士博士博士』
零奈は目を開けた。
「荒木!」
荒木が椅子ごと少し後ろへ下がる。
「いや、なんで俺に怒るんです!?」
黒岡が頷いた。
「なるほどな」
「何が?」
「考えるなと言われると、余計に考える」
荒木が黒岡を見る。
「そらそうでしょう」
黒岡は零奈を見る。
「向いてねえな」
「まだ始めたばっかり!」
「諦めも肝心だぞ」
「諦めない!」
荒木が黒岡へ小声で言った。
「黒岡さん」
「何だ」
「これ、今日一日かかるんちゃいます?」
「だろうな」
「俺、帰りたいんですけど」
「諦めろ」
「なんで黒岡さんはそんな腹くくってるんです?」
「抵抗するだけ疲れる」
「経験者の言葉や……」
午前九時十五分。
今度は黒岡が立ち上がった。
「やり方変えるぞ」
零奈が顔を上げる。
「何するの?」
「刺激を与える」
「刺激?」
荒木が聞く。
「単語を適当に言う。それに引っ張られず、無心を保て」
零奈は少し考えた。
「分かった」
「いくぞ」
零奈が目を閉じる。
黒岡が低い声で単語を並べる。
「犬」
『犬』
「猫」
『猫』
「海」
『海』
「カレー」
『カレー』
「クレイン博士」
『博士』
零奈の目が開いた。
「混ぜたでしょ!」
黒岡は表情を変えない。
「引っかかったな」
「わざとでしょ!」
「訓練だからな」
荒木が笑う。
「黒岡さん、なんやかんや楽しんでません?」
黒岡は荒木を見る。
「次、お前な」
「なんで!?」
「言い出した奴がやる。基本だ」
「横暴や!」
数分後。
今度は荒木が椅子に座っていた。
目を閉じる。
黒岡が言う。
「無心」
「はい」
十秒。
二十秒。
三十秒。
黒岡が聞いた。
「何考えてる」
荒木は目を閉じたまま答える。
「ラーメン」
零奈が声を上げた。
「考えてるじゃない!」
「腹減ってもうて」
黒岡。
「何味だ」
「味噌」
「具は」
「チャーシューとネギとメンマ。それから――」
「なんで話を広げるの!?」
零奈が叫ぶ。
黒岡は腕を組む。
「腹減った」
荒木が目を開けた。
「黒岡さんまで!?」
そのとき。
廊下から足音が聞こえた。
黒岡が最初に気づいた。
「誰か来るぞ」
荒木が扉の小窓を覗く。
顔色が変わる。
「博士です」
零奈が立ち上がった。
「全員無心!」
「いや、無理ですって!」
「いいから!」
黒岡も立ち上がる。
「諦めろ。やるぞ」
荒木が振り返る。
「黒岡さんまで乗るん!?」
三人は何事もなかったように座った。
扉が開く。
クレイン博士が入ってきた。
博士は三人を見る。
零奈。
荒木。
黒岡。
そしてホワイトボード。
**『無』**
博士は少し黙った。
「何してるの?」
零奈が答える。
「何も」
「三人で?」
「偶然です」
「訓練室で?」
「偶然です」
博士は黒岡を見る。
黒岡は無表情。
頭の中も静かだった。
次に荒木。
『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』
博士の眉が動く。
最後に零奈。
『気づくな気づくな気づくな気づくな気づくな気づくな』
博士が顔をしかめた。
「紅林」
「何です?」
「うるさい」
「喋ってませんけど!?」
「頭の中が」
零奈が立ち上がる。
「読んだな!」
「勝手に聞こえたんだよ!」
その横。
荒木。
『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』
博士が荒木を見る。
「荒木」
「はい?」
「ラーメンやめて」
荒木の目が輝いた。
「効いてますやん!」
博士が固まる。
「何が?」
黒岡が低く呟いた。
「なるほど」
「黒岡?」
黒岡は腕を組んだ。
「こいつは使えるな」
博士の顔が引きつる。
「何の話?」
零奈が言う。
「これだ!」
「だから何!?」
黒岡はホワイトボードへ歩いた。
『無』
その下に新しい文字を書く。
**『ノイズ』**
博士がそれを読む。
「嫌な予感しかしない」
黒岡は振り返った。
「博士」
「何」
「悪いが、少し付き合え」
「嫌だ」
「まだ何も言ってねえぞ」
「顔見れば分かる」
黒岡が少し笑う。
「思考読まなくても分かるじゃねえか」
「今それ言う?」
黒岡の考えは単純だった。
一人の思考を隠せないのなら、周囲をうるさくすればいい。
「博士の近くで全員が別々のことを考える」
黒岡はそう説明した。
「その中に紅林を混ぜる。聞き分けられなきゃ成功だ」
博士は即答した。
「やめろ」
荒木が感心する。
「めちゃくちゃ力技ですね」
「現場じゃ、単純な手が一番効くこともある」
零奈が頷く。
「やりましょう」
博士が零奈を見る。
「紅林?」
荒木も少し楽しそうだ。
「ちょっと面白そうやな」
「荒木まで!?」
黒岡が無線を取った。
博士が止める。
「待て」
「何だ」
「誰呼ぶつもり?」
「人」
「何人」
黒岡は零奈を見る。
零奈も黒岡を見る。
「多い方がいいな」
博士が頭を抱えた。
「黒岡、君こういう人だった?」
黒岡は少しだけ笑った。
「面白そうだからな」
荒木が指をさす。
「やっぱ楽しんでますやん!」
午前十時。
第四訓練室には二十三名の職員が集まっていた。
研究員、事務職員、警備員、金井、槇原。
さらには、たまたま近くにいた機動部隊員まで二名混ざっている。
その中央。
クレイン博士が椅子に座っていた。
腕を組み、不機嫌そうな顔をしている。
「何で機動部隊までいるの?」
黒岡が答える。
「人数合わせ」
機動部隊員の一人が言う。
「ちょっと興味がありまして」
「君たち暇なの?」
「今日は待機です」
「だからって来なくていいよ」
黒岡が前へ出る。
「説明するぞ」
博士が口を挟む。
「私は参加するなんて言ってない」
「もう二十三人集まってんだ。今さら帰す方が面倒だろ」
博士は周囲を見る。
確かに全員、妙に期待した目をしている。
「……一回だけ」
零奈が小さく拳を握る。
「よし」
「何でそんな嬉しそうなの」
黒岡が説明する。
「全員、それぞれ違うことを頭ん中で強く考えろ」
職員が手を上げる。
「何でもいいんですか?」
「ああ。ただし業務上問題のある内容はやめとけ」
博士が言う。
「そういう問題じゃない」
荒木が手を上げる。
「ラーメンは?」
「好きにしろ」
「よっしゃ」
「よっしゃじゃない」
黒岡は時計を見る。
「始めるぞ」
博士。
「待って」
「三」
「黒岡」
「二」
「人の話を――」
「一」
「開始」
二十三人が一斉に考え始める。
『カレー』
『犬』
『猫』
『リンゴリンゴリンゴリンゴ』
『焼肉』
『眠い』
『帰りたい』
『明日の会議嫌だ』
『有給取りたい』
『般若心経』
『円周率』
『給料日』
『筋トレ』
『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』
『二、三、五、七、十一、十三』
『昨日の野球』
『今日の夕飯』
『博士困ってるな』
『黒岡さん楽しそう』
『紅林さん絶対私怨だよな』
『これ研究になるの?』
クレイン博士が頭を抱えた。
「――やめろ!」
一瞬で静かになった。
博士は両手でこめかみを押さえている。
荒木が目を丸くする。
「うわ」
零奈。
「効いた」
黒岡。
「効いたな」
博士が顔を上げた。
「感心するな!」
黒岡は腕を組んだ。
「いや、効果はあった」
「だから何!?」
「使えるかもしれん」
「何に!?」
荒木が答える。
「対クレイン博士戦?」
「戦うな!」
黒岡は荒木を見る。
「それにしても」
「はい?」
「お前のラーメンが一番うるさかった」
荒木の顔が引きつる。
「なんで!?」
博士も頷いた。
「私もそう思う」
「博士まで!?」
零奈が聞く。
「何味?」
荒木。
「味噌です」
黒岡。
「さっきからずっと味噌だな」
「好きなんですよ!」
博士が疲れた顔をする。
「もうラーメンの話やめない?」
その日の実験は、午前十一時。
クレイン博士の逃走によって終了した。
午後二時。
今度は本来の仕事だった。
ブリーフィングルーム。
零奈、荒木、黒岡、クレイン博士。
午前中の騒ぎが嘘のように、全員真面目な顔でモニターを見ていた。
博士が説明する。
「サイト83から約二十キロ離れた、現在は使用されていない民間研究施設だ。内部の一部で、距離と実測値が一致しない現象が確認されている」
零奈が聞く。
「危険性は?」
「今のところ低い。ただし原因は不明」
黒岡が腕を組む。
「空間伸長か」
「可能性はある」
荒木が資料を見る。
「目的は調査なんです?」
「そう」
博士は資料を閉じた。
「私も行く」
零奈が即答する。
「駄目です」
「早いな」
「管理者でしょう」
「研究者でもある」
「現場班で対応できます」
博士が説明しようとする。
「今回の現象なら私が見た方が――」
「駄目です」
博士が困った顔をした。
「紅林」
「駄目です」
黒岡が口を開いた。
「博士」
「何?」
「俺も紅林に賛成だ」
零奈が少し意外そうに黒岡を見る。
博士も同じだった。
「黒岡まで?」
「管理者が前線に出る必要はねえ」
「でも」
黒岡は少し間を置いた。
「ただ、専門家がいた方が早いのも事実だ」
零奈。
「黒岡!」
「現場で余計なことしねえなら、同行自体は構わん」
博士が少し得意そうに零奈を見る。
「ほら」
黒岡は博士へ視線を向ける。
「ただし」
「何?」
「現場では紅林の指示に従え」
博士が黙った。
「現場じゃ紅林が指揮官だ。研究者だろうが管理者だろうが、それは変わらん」
空気が少し変わる。
博士は数秒考えた。
「分かった」
零奈が確認する。
「本当に?」
「従うよ」
黒岡は短く頷く。
「ならいい」
荒木が小声で言う。
「黒岡さん、こういう時はちゃんとしてますよね」
黒岡が荒木を見る。
「お前、俺を何だと思ってる」
「ノリのええ兄ちゃん」
「殴るぞ」
「すんません」
午後三時。
廃研究施設。
先頭は零奈。
その後ろに荒木。
博士。
最後尾を黒岡が歩く。
黒岡は時折、後方を確認していた。
荒木は測定機器を見ながら言う。
「今んところ異常なしです」
「油断すんな」
黒岡が答える。
「はい」
零奈が博士を見る。
「博士」
「何?」
「思考、読まないでくださいね」
「読まないよ」
「本当に?」
「本当に」
零奈は前を向く。
そして思う。
『絶対読んでる』
博士が言った。
「読んでない」
零奈が勢いよく振り返る。
「今読んだ!」
博士も驚く。
「声に出てた」
荒木も頷く。
「出てましたよ」
黒岡も言う。
「はっきりな」
零奈は黙った。
博士が肩をすくめる。
「ほら」
黒岡は呆れたように言う。
「紅林、お前、博士を意識しすぎだ」
「してない!」
「してる奴の反応だぞ」
「黒岡!」
荒木が小さく呟く。
「また始まった」
黒岡。
「放っとけ」
さらに進む。
やがて荒木が足を止めた。
「待ってください」
黒岡も止まる。
「どうした」
荒木が測定器を見る。
「距離、おかしいです」
目の前の通路は、どう見ても十メートルほどしかない。
しかしレーザー測距では、三十メートルを超えている。
零奈が黒岡を見る。
「後ろは?」
黒岡が確認する。
「後ろも伸びてる」
博士が壁を見る。
「空間伸長だな」
零奈はすぐ指示を出した。
「荒木、測定継続。黒岡は後方警戒」
「了解です」
「ああ」
博士が壁へ近づく。
零奈が気づく。
「博士」
「見るだけ」
黒岡も言う。
「触るなよ」
「分かってる」
博士がさらに一歩。
その瞬間。
床から小さな音がした。
黒岡の顔が変わった。
「博士、下がれ!」
同時だった。
床が歪んだ。
博士の足元の空間が、突然沈み込む。
「博士!」
零奈が飛び出した。
博士の腕を掴む。
強く引く。
二人が床へ倒れた。
荒木が叫ぶ。
「紅林さん!」
黒岡は周囲を確認しながら低い声を出した。
「動くな!」
全員が止まる。
歪んでいた床。
数秒。
ゆっくり元へ戻る。
黒岡が確認する。
「……戻った」
荒木が二人へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
博士が起き上がる。
「大丈夫」
零奈も起きる。
そしてすぐに博士を睨んだ。
「だから言ったでしょう!」
「ごめん」
「管理者が勝手に前に出ないでください!」
「はい」
「あなたに何かあったらサイト83どうするんですか!」
「はい」
「本当に!」
零奈は、まだ博士の腕を強く掴んでいた。
『この人が死んだらサイト83がめちゃくちゃになる』
博士は黙った。
零奈の思考は続く。
『……それに』
『普通に嫌だし』
博士の表情が、ほんの少しだけ変わった。
零奈が気づいた。
「……何です?」
「何でもない」
「博士」
「何?」
「読みました?」
「読んでない」
「本当に?」
「本当に」
零奈は目を細める。
博士は少し笑った。
「顔見れば分かるから」
零奈は黙った。
「何でも、思考を読まないと分からないわけじゃないよ」
少しだけ。
静かな空気になった。
荒木も何も言わない。
黒岡は二人を一度見た。
そして荒木の肩を軽く叩く。
「行くぞ」
荒木が顔を上げる。
「え?」
「計測だ」
「あ、はい」
二人は少し離れた。
荒木が小声で言う。
「黒岡さん」
「何だ」
「今、気ぃ遣いました?」
「黙って仕事しろ」
「はい」
少し間。
「でも絶対そうですやん」
黒岡が荒木を見る。
「荒木」
「はい」
「黙れ」
「はい」
零奈は博士の腕を離した。
「……なら」
「うん」
「普段からそうしてください」
博士が頷く。
「努力します」
「絶対ですよ」
「善処します」
零奈の眉が動く。
「努力から下がってる!」
遠くから黒岡の声。
「元気なら仕事しろ!」
零奈と博士。
同時。
「はい!」
調査は無事に終了した。
夕方。
サイト83。
四人が廊下を歩いている。
前を零奈。
中央に博士と荒木。
最後尾に黒岡。
荒木は歩きながら、ふと思った。
『でも博士、絶対さっき読んだよな』
博士が言う。
「荒木」
「はい?」
「聞こえてる」
荒木が苦笑する。
「やっぱり」
零奈が足を止める。
ゆっくり振り返った。
「博士」
博士の顔が固まる。
「……何?」
「荒木の思考、読んだんですか?」
「聞こえた」
「私のは?」
「読んでない」
「本当に?」
「本当に」
零奈がじっと見る。
博士もじっと見る。
零奈。
『怪しい』
博士。
「怪しくない」
沈黙。
博士自身が固まった。
「あ」
荒木も言う。
「あ」
黒岡がため息。
「……馬鹿だな」
零奈の顔が変わる。
「読んだァ!!」
「違う!」
「何が違うんですか!」
「今のは!」
「待ちなさい!」
博士が走った。
零奈が追う。
「紅林、落ち着いて!」
「今日という今日は!」
二人が廊下の向こうへ消えていく。
荒木はその背中を見送った。
「……追います?」
黒岡は即答した。
「放っとけ」
「ええんです?」
「そのうち戻る」
荒木が感心したように言う。
「黒岡さん、慣れてますね」
「長くいるとな」
黒岡は端末を取り出した。
荒木が覗く。
「何してるんです?」
「今日の記録」
画面には新しい文書。
**『対思考読取能力保持者に対する認知飽和手法・予備試験』**
荒木が顔をしかめる。
「黒岡さん」
「何だ」
「報告書にする気です?」
「ああ」
「博士に怒られますよ」
「構わん」
「なんで?」
黒岡は入力を続けながら言った。
「結果が出た」
荒木が呆れる。
「いや、そういう問題ちゃうでしょう」
「使えるもんは使う」
「現場主義やなあ……」
黒岡は少しだけ笑った。
「それと」
「はい?」
「お前のラーメン」
「はい」
「一番邪魔だった」
「まだ言う!?」
数日後。
サイト83の掲示板に新しい内部通達が掲示された。
**職員各位**
**業務上の必要性なく、特定職員の認知能力を妨害する目的で、多人数が同時に特定の思考を意図的に反復する行為を禁止します。**
その下。
誰かの手書き。
『ラーメンも?』
赤ペン。
『ラーメンもです。』
別の筆跡。
『素数は?』
『駄目です。』
『般若心経』
『駄目です。』
『カレー』
『駄目です。』
さらに。
黒岡の字。
『現場運用は?』
しばらくして。
赤ペン。
『申請してください。』
その下。
黒岡。
『了解。』
荒木。
『通ったんや……』
赤ペン。
『荒木』
荒木。
『はい』
『ラーメン禁止』
荒木。
『なんで俺だけ!?』
その横。
零奈の字。
『つまり、効いたんですね』
赤ペン。
『紅林、あとで研究室に来なさい』
零奈。
『嫌です』
『業務です』
『何の?』
『話し合い』
『思考読まないなら行きます』
少し時間が経って。
博士。
『努力します』
零奈。
『信用できません』
さらに。
黒岡。
『諦めろ。話が進まん。』
零奈。
『黒岡はどっちの味方なの?』
黒岡。
『仕事の味方だ。』
荒木。
『かっこええこと言うてますけど、最初にノイズ方式言い出したん黒岡さんですよね』
しばらく返事はなかった。
その後。
黒岡。
『荒木』
『はい』
『あとで来い』
『なんで俺まで!?』
翌日。
掲示板の隣に、さらに新しい通達が追加された。
**『内部通達への私的な書き込みを禁止します。』**
その下。
すでに黒岡の字。
『了解。』
荒木。
『書いてますやん。』
零奈。
『書いてるね。』
博士。
『君たち全員、私の研究室に来なさい。』
黒岡。
『面倒だな。』
荒木。
『逃げます?』
零奈。
『逃げよう。』
博士。
『聞こえてる。』
三人の書き込みは。
そこで止まっていた。
――Tale「紅林零奈は考えない」
次回予告
NCO-318-JP
「おかえりなさいの小鳥箱」
9月26日21時投稿予定




