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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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41/85

Tale「紅林零奈は考えない」

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます


紅林零奈には、最近一つの悩みがあった。


仕事ではない。部下でもない。異常存在でもない。ましてや、東雲重工業でもない。


もっと身近で、もっと面倒で、ほぼ毎日のように顔を合わせる人物。


クレイン博士である。


正確には、クレイン博士本人ではない――と零奈は思いたかった。


問題なのは、博士が持つ思考読取能力だった。


クレイン博士本人はいつも言う。


「別に、常に読んでるわけじゃないよ。聞こえてくることがあるだけだし、必要がなければ拾わないようにはしてる」


しかし零奈からすれば、「読まれる」も「聞こえる」も大して変わらない。


誰だって、頭の中くらい自由でいたい。


昼食を何にするか。仕事が終わったら何をするか。今日の会議が面倒だとか、書類を増やした上司への文句だとか、誰にも言うつもりのない愚痴だとか。


あるいは。


本人には絶対言いたくないことだとか。


そういうものが、クレイン博士の近くでは時々漏れる。


そして事件は三日前に起きた。


昼休み。サイト83の食堂。


零奈は唐揚げ定食を食べていた。


向かいにはクレイン博士が座り、カレーを食べている。


特に会話はなかった。


平和な昼休みだった。


零奈は唐揚げを一つ口に運び、何気なく博士を見た。


そして思った。


『……今日、髪すごい跳ねてるな』


博士のスプーンが止まった。


零奈の箸も止まった。


数秒の沈黙。


博士が自分の髪へ手を伸ばした。


「どこ?」


零奈は目を細める。


「何がです?」


「髪」


「……」


「右?」


「博士」


「何?」


「今、読みました?」


「いや」


「読みましたよね」


「聞こえた」


「同じです!」


零奈の声が食堂に響いた。


周囲の職員が振り返る。


博士は少し身を縮めた。


「紅林、声」


「誰のせいですか!」


「だから、わざとじゃないって」


「じゃあ忘れてください」


「分かった」


「絶対ですよ」


「分かったって」


零奈は再び唐揚げを食べる。


博士もカレーへ戻った。


数秒。


『……でも本当にすごい跳ねてる』


博士が今度は反対側の髪を触った。


「こっち?」


「読むな!!」


三日前。


その出来事を境に、零奈は決意した。


読まれるなら。


読ませなければいい。


その結論が、なぜあんな騒ぎに発展することになったのか。


本人にもよく分かっていなかった。


午前八時四十分。


サイト83、第四訓練室。


荒木慎介は椅子に座り、目の前のホワイトボードを眺めていた。


隣には黒岡。


二人の前には紅林零奈。


そしてホワイトボードの中央には、一文字だけが大きく書かれている。


**『無』**


荒木はホワイトボードを見た。


零奈を見る。


もう一度、ホワイトボードを見る。


「紅林さん」


「何?」


「これ、何の訓練なんです?」


零奈は腕を組んだ。


「見れば分かるでしょ」


荒木は再び『無』を見る。


「いや、分からへんから聞いてるんですけど」


隣で腕を組んでいた黒岡が、低い声で口を開いた。


「要するに、博士に頭ん中を読ませたくねえんだろ」


零奈が黒岡を見る。


「そう」


荒木も黒岡を見る。


「それだけで分かったんです?」


「最近ずっと博士に噛みついてるからな」


「噛みついてない!」


黒岡は零奈を見たまま言う。


「今の反応を見る限り、相当気にしてるな」


「黒岡まで!」


「事実だ」


荒木が笑った。


「黒岡さん、容赦ないなあ」


「お前も笑ってねえで付き合え」


「いや、俺、完全に巻き込まれただけなんですけど」


黒岡は荒木を見る。


「俺もだ」


「ほな帰りません?」


「無理だろ」


「なんでです?」


黒岡は零奈を顎で示した。


荒木も見る。


零奈は笑っていない。


「……無理そうですね」


「だろ」


零奈が机を叩いた。


「真面目にやって!」


黒岡はため息をつきながら姿勢を直した。


「で、俺たちは何すりゃいい」


「無心になるための訓練に付き合って」


「無心?」


荒木が首を傾げる。


「何も考えなければ、博士にも何も読まれない」


「何も考えへんって、できるんです?」


「やるの」


「精神論やん」


黒岡がすぐに言った。


「無茶だな」


「黒岡なら何か考えて」


「買いかぶるな」


即答だった。


零奈が睨む。


黒岡はまったく気にしない。


「そもそも『何も考えないようにしよう』って考えた時点で、もう考えてんだろ」


荒木が「あ」と声を漏らした。


零奈は黙った。


黒岡が続ける。


「終わりじゃねえか」


「終わらせない!」


「面倒だな」


「荒木」


「はい」


「笑わない!」


「いや、笑ってませんって」


「笑ってる!」


「顔だけですやん!」


「それ笑ってるっていうの!」


訓練開始から十分後。


零奈は椅子に座り、目を閉じていた。


呼吸を整える。


『無』


『無』


『何も考えない』


『無』


『何も』


『無』


静かだった。


十秒。


二十秒。


三十秒。


荒木が小声で黒岡へ聞く。


「これ、どうやって成功したか判断するんです?」


「知らん」


「ですよね」


黒岡は零奈を見る。


微動だにしない。


「何か考えさせりゃいい」


「それ、訓練の目的と逆ちゃいます?」


「反応しなきゃ成功だろ」


「なるほど」


荒木は少し考えた。


そして零奈へ声をかける。


「紅林さん」


返事はない。


「後ろに博士いますよ」


零奈の目が開いた。


勢いよく振り返る。


誰もいない。


沈黙。


荒木は口元を押さえた。


「……」


零奈がゆっくり振り返る。


「荒木」


「いや」


「荒木」


「今、めっちゃ反応しましたやん」


「荒木」


「はい」


「あとで覚えてなさい」


黒岡が淡々と言った。


「それも思考だ」


零奈が黒岡を見る。


「黒岡!」


「俺に怒るな。反応したのお前だろ」


「もう一回!」


黒岡はため息をついた。


「完全に意地になってんじゃねえか」


「なってない!」


荒木が笑う。


「なってますやん」


「荒木!」


「なんで俺ばっかり!?」


二回目の訓練。


再び零奈は目を閉じた。


黒岡は椅子に座り、荒木はすでに飽き始めていた。


しばらくして、荒木が言う。


「紅林さん」


零奈は動かない。


「クレイン博士について考えんといてください」


その瞬間。


『博士』


『博士』


『博士』


『博士博士博士博士博士』


零奈は目を開けた。


「荒木!」


荒木が椅子ごと少し後ろへ下がる。


「いや、なんで俺に怒るんです!?」


黒岡が頷いた。


「なるほどな」


「何が?」


「考えるなと言われると、余計に考える」


荒木が黒岡を見る。


「そらそうでしょう」


黒岡は零奈を見る。


「向いてねえな」


「まだ始めたばっかり!」


「諦めも肝心だぞ」


「諦めない!」


荒木が黒岡へ小声で言った。


「黒岡さん」


「何だ」


「これ、今日一日かかるんちゃいます?」


「だろうな」


「俺、帰りたいんですけど」


「諦めろ」


「なんで黒岡さんはそんな腹くくってるんです?」


「抵抗するだけ疲れる」


「経験者の言葉や……」


午前九時十五分。


今度は黒岡が立ち上がった。


「やり方変えるぞ」


零奈が顔を上げる。


「何するの?」


「刺激を与える」


「刺激?」


荒木が聞く。


「単語を適当に言う。それに引っ張られず、無心を保て」


零奈は少し考えた。


「分かった」


「いくぞ」


零奈が目を閉じる。


黒岡が低い声で単語を並べる。


「犬」


『犬』


「猫」


『猫』


「海」


『海』


「カレー」


『カレー』


「クレイン博士」


『博士』


零奈の目が開いた。


「混ぜたでしょ!」


黒岡は表情を変えない。


「引っかかったな」


「わざとでしょ!」


「訓練だからな」


荒木が笑う。


「黒岡さん、なんやかんや楽しんでません?」


黒岡は荒木を見る。


「次、お前な」


「なんで!?」


「言い出した奴がやる。基本だ」


「横暴や!」


数分後。


今度は荒木が椅子に座っていた。


目を閉じる。


黒岡が言う。


「無心」


「はい」


十秒。


二十秒。


三十秒。


黒岡が聞いた。


「何考えてる」


荒木は目を閉じたまま答える。


「ラーメン」


零奈が声を上げた。


「考えてるじゃない!」


「腹減ってもうて」


黒岡。


「何味だ」


「味噌」


「具は」


「チャーシューとネギとメンマ。それから――」


「なんで話を広げるの!?」


零奈が叫ぶ。


黒岡は腕を組む。


「腹減った」


荒木が目を開けた。


「黒岡さんまで!?」


そのとき。


廊下から足音が聞こえた。


黒岡が最初に気づいた。


「誰か来るぞ」


荒木が扉の小窓を覗く。


顔色が変わる。


「博士です」


零奈が立ち上がった。


「全員無心!」


「いや、無理ですって!」


「いいから!」


黒岡も立ち上がる。


「諦めろ。やるぞ」


荒木が振り返る。


「黒岡さんまで乗るん!?」


三人は何事もなかったように座った。


扉が開く。


クレイン博士が入ってきた。


博士は三人を見る。


零奈。


荒木。


黒岡。


そしてホワイトボード。


**『無』**


博士は少し黙った。


「何してるの?」


零奈が答える。


「何も」


「三人で?」


「偶然です」


「訓練室で?」


「偶然です」


博士は黒岡を見る。


黒岡は無表情。


頭の中も静かだった。


次に荒木。


『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』


博士の眉が動く。


最後に零奈。


『気づくな気づくな気づくな気づくな気づくな気づくな』


博士が顔をしかめた。


「紅林」


「何です?」


「うるさい」


「喋ってませんけど!?」


「頭の中が」


零奈が立ち上がる。


「読んだな!」


「勝手に聞こえたんだよ!」


その横。


荒木。


『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』


博士が荒木を見る。


「荒木」


「はい?」


「ラーメンやめて」


荒木の目が輝いた。


「効いてますやん!」


博士が固まる。


「何が?」


黒岡が低く呟いた。


「なるほど」


「黒岡?」


黒岡は腕を組んだ。


「こいつは使えるな」


博士の顔が引きつる。


「何の話?」


零奈が言う。


「これだ!」


「だから何!?」


黒岡はホワイトボードへ歩いた。


『無』


その下に新しい文字を書く。


**『ノイズ』**


博士がそれを読む。


「嫌な予感しかしない」


黒岡は振り返った。


「博士」


「何」


「悪いが、少し付き合え」


「嫌だ」


「まだ何も言ってねえぞ」


「顔見れば分かる」


黒岡が少し笑う。


「思考読まなくても分かるじゃねえか」


「今それ言う?」


黒岡の考えは単純だった。


一人の思考を隠せないのなら、周囲をうるさくすればいい。


「博士の近くで全員が別々のことを考える」


黒岡はそう説明した。


「その中に紅林を混ぜる。聞き分けられなきゃ成功だ」


博士は即答した。


「やめろ」


荒木が感心する。


「めちゃくちゃ力技ですね」


「現場じゃ、単純な手が一番効くこともある」


零奈が頷く。


「やりましょう」


博士が零奈を見る。


「紅林?」


荒木も少し楽しそうだ。


「ちょっと面白そうやな」


「荒木まで!?」


黒岡が無線を取った。


博士が止める。


「待て」


「何だ」


「誰呼ぶつもり?」


「人」


「何人」


黒岡は零奈を見る。


零奈も黒岡を見る。


「多い方がいいな」


博士が頭を抱えた。


「黒岡、君こういう人だった?」


黒岡は少しだけ笑った。


「面白そうだからな」


荒木が指をさす。


「やっぱ楽しんでますやん!」


午前十時。


第四訓練室には二十三名の職員が集まっていた。


研究員、事務職員、警備員、金井、槇原。


さらには、たまたま近くにいた機動部隊員まで二名混ざっている。


その中央。


クレイン博士が椅子に座っていた。


腕を組み、不機嫌そうな顔をしている。


「何で機動部隊までいるの?」


黒岡が答える。


「人数合わせ」


機動部隊員の一人が言う。


「ちょっと興味がありまして」


「君たち暇なの?」


「今日は待機です」


「だからって来なくていいよ」


黒岡が前へ出る。


「説明するぞ」


博士が口を挟む。


「私は参加するなんて言ってない」


「もう二十三人集まってんだ。今さら帰す方が面倒だろ」


博士は周囲を見る。


確かに全員、妙に期待した目をしている。


「……一回だけ」


零奈が小さく拳を握る。


「よし」


「何でそんな嬉しそうなの」


黒岡が説明する。


「全員、それぞれ違うことを頭ん中で強く考えろ」


職員が手を上げる。


「何でもいいんですか?」


「ああ。ただし業務上問題のある内容はやめとけ」


博士が言う。


「そういう問題じゃない」


荒木が手を上げる。


「ラーメンは?」


「好きにしろ」


「よっしゃ」


「よっしゃじゃない」


黒岡は時計を見る。


「始めるぞ」


博士。


「待って」


「三」


「黒岡」


「二」


「人の話を――」


「一」


「開始」


二十三人が一斉に考え始める。


『カレー』


『犬』


『猫』


『リンゴリンゴリンゴリンゴ』


『焼肉』


『眠い』


『帰りたい』


『明日の会議嫌だ』


『有給取りたい』


『般若心経』


『円周率』


『給料日』


『筋トレ』


『味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン味噌ラーメン』


『二、三、五、七、十一、十三』


『昨日の野球』


『今日の夕飯』


『博士困ってるな』


『黒岡さん楽しそう』


『紅林さん絶対私怨だよな』


『これ研究になるの?』


クレイン博士が頭を抱えた。


「――やめろ!」


一瞬で静かになった。


博士は両手でこめかみを押さえている。


荒木が目を丸くする。


「うわ」


零奈。


「効いた」


黒岡。


「効いたな」


博士が顔を上げた。


「感心するな!」


黒岡は腕を組んだ。


「いや、効果はあった」


「だから何!?」


「使えるかもしれん」


「何に!?」


荒木が答える。


「対クレイン博士戦?」


「戦うな!」


黒岡は荒木を見る。


「それにしても」


「はい?」


「お前のラーメンが一番うるさかった」


荒木の顔が引きつる。


「なんで!?」


博士も頷いた。


「私もそう思う」


「博士まで!?」


零奈が聞く。


「何味?」


荒木。


「味噌です」


黒岡。


「さっきからずっと味噌だな」


「好きなんですよ!」


博士が疲れた顔をする。


「もうラーメンの話やめない?」


その日の実験は、午前十一時。


クレイン博士の逃走によって終了した。


午後二時。


今度は本来の仕事だった。


ブリーフィングルーム。


零奈、荒木、黒岡、クレイン博士。


午前中の騒ぎが嘘のように、全員真面目な顔でモニターを見ていた。


博士が説明する。


「サイト83から約二十キロ離れた、現在は使用されていない民間研究施設だ。内部の一部で、距離と実測値が一致しない現象が確認されている」


零奈が聞く。


「危険性は?」


「今のところ低い。ただし原因は不明」


黒岡が腕を組む。


「空間伸長か」


「可能性はある」


荒木が資料を見る。


「目的は調査なんです?」


「そう」


博士は資料を閉じた。


「私も行く」


零奈が即答する。


「駄目です」


「早いな」


「管理者でしょう」


「研究者でもある」


「現場班で対応できます」


博士が説明しようとする。


「今回の現象なら私が見た方が――」


「駄目です」


博士が困った顔をした。


「紅林」


「駄目です」


黒岡が口を開いた。


「博士」


「何?」


「俺も紅林に賛成だ」


零奈が少し意外そうに黒岡を見る。


博士も同じだった。


「黒岡まで?」


「管理者が前線に出る必要はねえ」


「でも」


黒岡は少し間を置いた。


「ただ、専門家がいた方が早いのも事実だ」


零奈。


「黒岡!」


「現場で余計なことしねえなら、同行自体は構わん」


博士が少し得意そうに零奈を見る。


「ほら」


黒岡は博士へ視線を向ける。


「ただし」


「何?」


「現場では紅林の指示に従え」


博士が黙った。


「現場じゃ紅林が指揮官だ。研究者だろうが管理者だろうが、それは変わらん」


空気が少し変わる。


博士は数秒考えた。


「分かった」


零奈が確認する。


「本当に?」


「従うよ」


黒岡は短く頷く。


「ならいい」


荒木が小声で言う。


「黒岡さん、こういう時はちゃんとしてますよね」


黒岡が荒木を見る。


「お前、俺を何だと思ってる」


「ノリのええ兄ちゃん」


「殴るぞ」


「すんません」


午後三時。


廃研究施設。


先頭は零奈。


その後ろに荒木。


博士。


最後尾を黒岡が歩く。


黒岡は時折、後方を確認していた。


荒木は測定機器を見ながら言う。


「今んところ異常なしです」


「油断すんな」


黒岡が答える。


「はい」


零奈が博士を見る。


「博士」


「何?」


「思考、読まないでくださいね」


「読まないよ」


「本当に?」


「本当に」


零奈は前を向く。


そして思う。


『絶対読んでる』


博士が言った。


「読んでない」


零奈が勢いよく振り返る。


「今読んだ!」


博士も驚く。


「声に出てた」


荒木も頷く。


「出てましたよ」


黒岡も言う。


「はっきりな」


零奈は黙った。


博士が肩をすくめる。


「ほら」


黒岡は呆れたように言う。


「紅林、お前、博士を意識しすぎだ」


「してない!」


「してる奴の反応だぞ」


「黒岡!」


荒木が小さく呟く。


「また始まった」


黒岡。


「放っとけ」


さらに進む。


やがて荒木が足を止めた。


「待ってください」


黒岡も止まる。


「どうした」


荒木が測定器を見る。


「距離、おかしいです」


目の前の通路は、どう見ても十メートルほどしかない。


しかしレーザー測距では、三十メートルを超えている。


零奈が黒岡を見る。


「後ろは?」


黒岡が確認する。


「後ろも伸びてる」


博士が壁を見る。


「空間伸長だな」


零奈はすぐ指示を出した。


「荒木、測定継続。黒岡は後方警戒」


「了解です」


「ああ」


博士が壁へ近づく。


零奈が気づく。


「博士」


「見るだけ」


黒岡も言う。


「触るなよ」


「分かってる」


博士がさらに一歩。


その瞬間。


床から小さな音がした。


黒岡の顔が変わった。


「博士、下がれ!」


同時だった。


床が歪んだ。


博士の足元の空間が、突然沈み込む。


「博士!」


零奈が飛び出した。


博士の腕を掴む。


強く引く。


二人が床へ倒れた。


荒木が叫ぶ。


「紅林さん!」


黒岡は周囲を確認しながら低い声を出した。


「動くな!」


全員が止まる。


歪んでいた床。


数秒。


ゆっくり元へ戻る。


黒岡が確認する。


「……戻った」


荒木が二人へ駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」


博士が起き上がる。


「大丈夫」


零奈も起きる。


そしてすぐに博士を睨んだ。


「だから言ったでしょう!」


「ごめん」


「管理者が勝手に前に出ないでください!」


「はい」


「あなたに何かあったらサイト83どうするんですか!」


「はい」


「本当に!」


零奈は、まだ博士の腕を強く掴んでいた。


『この人が死んだらサイト83がめちゃくちゃになる』


博士は黙った。


零奈の思考は続く。


『……それに』


『普通に嫌だし』


博士の表情が、ほんの少しだけ変わった。


零奈が気づいた。


「……何です?」


「何でもない」


「博士」


「何?」


「読みました?」


「読んでない」


「本当に?」


「本当に」


零奈は目を細める。


博士は少し笑った。


「顔見れば分かるから」


零奈は黙った。


「何でも、思考を読まないと分からないわけじゃないよ」


少しだけ。


静かな空気になった。


荒木も何も言わない。


黒岡は二人を一度見た。


そして荒木の肩を軽く叩く。


「行くぞ」


荒木が顔を上げる。


「え?」


「計測だ」


「あ、はい」


二人は少し離れた。


荒木が小声で言う。


「黒岡さん」


「何だ」


「今、気ぃ遣いました?」


「黙って仕事しろ」


「はい」


少し間。


「でも絶対そうですやん」


黒岡が荒木を見る。


「荒木」


「はい」


「黙れ」


「はい」


零奈は博士の腕を離した。


「……なら」


「うん」


「普段からそうしてください」


博士が頷く。


「努力します」


「絶対ですよ」


「善処します」


零奈の眉が動く。


「努力から下がってる!」


遠くから黒岡の声。


「元気なら仕事しろ!」


零奈と博士。


同時。


「はい!」


調査は無事に終了した。


夕方。


サイト83。


四人が廊下を歩いている。


前を零奈。


中央に博士と荒木。


最後尾に黒岡。


荒木は歩きながら、ふと思った。


『でも博士、絶対さっき読んだよな』


博士が言う。


「荒木」


「はい?」


「聞こえてる」


荒木が苦笑する。


「やっぱり」


零奈が足を止める。


ゆっくり振り返った。


「博士」


博士の顔が固まる。


「……何?」


「荒木の思考、読んだんですか?」


「聞こえた」


「私のは?」


「読んでない」


「本当に?」


「本当に」


零奈がじっと見る。


博士もじっと見る。


零奈。


『怪しい』


博士。


「怪しくない」


沈黙。


博士自身が固まった。


「あ」


荒木も言う。


「あ」


黒岡がため息。


「……馬鹿だな」


零奈の顔が変わる。


「読んだァ!!」


「違う!」


「何が違うんですか!」


「今のは!」


「待ちなさい!」


博士が走った。


零奈が追う。


「紅林、落ち着いて!」


「今日という今日は!」


二人が廊下の向こうへ消えていく。


荒木はその背中を見送った。


「……追います?」


黒岡は即答した。


「放っとけ」


「ええんです?」


「そのうち戻る」


荒木が感心したように言う。


「黒岡さん、慣れてますね」


「長くいるとな」


黒岡は端末を取り出した。


荒木が覗く。


「何してるんです?」


「今日の記録」


画面には新しい文書。


**『対思考読取能力保持者に対する認知飽和手法・予備試験』**


荒木が顔をしかめる。


「黒岡さん」


「何だ」


「報告書にする気です?」


「ああ」


「博士に怒られますよ」


「構わん」


「なんで?」


黒岡は入力を続けながら言った。


「結果が出た」


荒木が呆れる。


「いや、そういう問題ちゃうでしょう」


「使えるもんは使う」


「現場主義やなあ……」


黒岡は少しだけ笑った。


「それと」


「はい?」


「お前のラーメン」


「はい」


「一番邪魔だった」


「まだ言う!?」


数日後。


サイト83の掲示板に新しい内部通達が掲示された。


**職員各位**


**業務上の必要性なく、特定職員の認知能力を妨害する目的で、多人数が同時に特定の思考を意図的に反復する行為を禁止します。**


その下。


誰かの手書き。


『ラーメンも?』


赤ペン。


『ラーメンもです。』


別の筆跡。


『素数は?』


『駄目です。』


『般若心経』


『駄目です。』


『カレー』


『駄目です。』


さらに。


黒岡の字。


『現場運用は?』


しばらくして。


赤ペン。


『申請してください。』


その下。


黒岡。


『了解。』


荒木。


『通ったんや……』


赤ペン。


『荒木』


荒木。


『はい』


『ラーメン禁止』


荒木。


『なんで俺だけ!?』


その横。


零奈の字。


『つまり、効いたんですね』


赤ペン。


『紅林、あとで研究室に来なさい』


零奈。


『嫌です』


『業務です』


『何の?』


『話し合い』


『思考読まないなら行きます』


少し時間が経って。


博士。


『努力します』


零奈。


『信用できません』


さらに。


黒岡。


『諦めろ。話が進まん。』


零奈。


『黒岡はどっちの味方なの?』


黒岡。


『仕事の味方だ。』


荒木。


『かっこええこと言うてますけど、最初にノイズ方式言い出したん黒岡さんですよね』


しばらく返事はなかった。


その後。


黒岡。


『荒木』


『はい』


『あとで来い』


『なんで俺まで!?』


翌日。


掲示板の隣に、さらに新しい通達が追加された。


**『内部通達への私的な書き込みを禁止します。』**


その下。


すでに黒岡の字。


『了解。』


荒木。


『書いてますやん。』


零奈。


『書いてるね。』


博士。


『君たち全員、私の研究室に来なさい。』


黒岡。


『面倒だな。』


荒木。


『逃げます?』


零奈。


『逃げよう。』


博士。


『聞こえてる。』


三人の書き込みは。


そこで止まっていた。


――Tale「紅林零奈は考えない」

次回予告


NCO-318-JP

「おかえりなさいの小鳥箱」


9月26日21時投稿予定

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