第三章 新学期
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三月三十一日、██村立██小学校は正式に閉校した。
閉校式は午前十時から始まった。体育館には在校児童、教職員、保護者、村役場の職員、卒業生、そして近隣住民が集まっている。普段の学校行事では見かけない顔も多く、壁際には折り畳み椅子が何列も追加されていた。
校長は壇上から、その光景を静かに見下ろしていた。
これほど多くの人が集まったのは、いつ以来だろう。昔の運動会なら、もっと多かった。入学式も卒業式も、かつてのこの学校には人が溢れていた。子供がいて、声があって、校庭にはいつも誰かがいた。
今は違う。最後だから、人が集まっている。
教育委員会の担当者が挨拶を終え、続いて村長が前へ出た。
「長きにわたり、本村の教育を支えていただきましたことに――」
校長は、その言葉を半分も聞いていなかった。視線は児童席に向いていた。
四十三人。今日で、この学校に通う児童ではなくなる子供たち。
六年生はすでに卒業していたが、この日は全員が最後の式に参加している。その中で、一年生の女児と目が合った。以前、桜は四月になれば咲くと教えた子だった。
女児は少しだけ笑った。
校長も笑い返した。
桜は、まだ咲いていなかった。
閉校式の最後には校歌を歌った。四十三人の児童、九人の教職員、村人、卒業生。皆の声が体育館いっぱいに響き、校長も一緒に歌った。
途中で声が震えた。
隣にいた教頭も、眼鏡を外して目元を拭っていた。
最後の音が消えたあと、長い拍手が起こった。校長は深く頭を下げ、顔を上げたときには、体育館全体が少し滲んで見えた。
午後になると、児童たちは一人ずつ帰っていった。
「校長先生、またね!」
「先生、元気でね!」
「中学校行ってくる!」
「遊びに来るから!」
校長は校門に立ち、全員を見送った。
最後に残ったのは、あの一年生の女児だった。母親と手を繋いでいる。
「先生」
「どうした?」
「四月になったら、桜見るんでしょ?」
母親が少し困ったような顔をした。校長は一瞬、何と答えるべきか迷ったが、やがて笑った。
「ああ」
「ほんと?」
「本当だ」
女児は満足そうに頷き、「じゃあね!」と小さな手を振った。
校長も手を振り返し、その姿が見えなくなっても、しばらく校門の前に立っていた。
校庭には誰もいない。風が吹き、校門の横に取り付けられた金属板が鈍く光った。
**教育施設恒久保存工事**
**鬼灯産業株式会社**
**――末永くご利用ください。**
校長は、その文字を見つめた。
あれから二日が経っていた。
一年生教室に現れた五つ目の机について、校長は誰にも話していない。翌朝確認したときには机は四つに戻り、黄色い帽子も消えていた。
夢だったのかもしれない。
疲れていたのかもしれない。
そう思おうとした。
鬼灯産業へ電話することも考えたが、契約違反があったわけではない。少なくとも、三月三十一日までは学校は普通に動いていた。
だから様子を見ることにした。
そして今、学校は終わった。
少なくとも、行政上は。
午後五時。
校長は職員室の鍵を閉めた。教頭や教師たちはすでに帰っている。最後に校舎を出るのは、校長だった。
何度も振り返った。
職員室。廊下。階段。児童昇降口。図書室。体育館。そして校長室。
全部、今日まで学校だった場所。
「……長い間、ありがとう」
誰に言うでもなく呟き、玄関の鍵を閉める。
校門まで歩き、そこでまた振り返った。
木造校舎。夕焼け。静かな校庭。
明日からは、誰も来ない。
そのはずだった。
校長は深く頭を下げ、学校を後にした。
四月一日。
朝六時四十分。
校長は自宅で目を覚ました。
長年の習慣で、目覚ましが鳴る前に目が覚める。布団の中で少しの間ぼんやりしてから、今日から学校へ行かなくていいのだと気づいた。
不思議な感覚だった。
四十年以上教師として働き、その大半をあの学校で過ごしてきた。朝になれば学校へ行く。それが当然だった。
それが、今日からない。
校長は天井を見つめた。
静かだった。
妻はまだ寝ている。外では鳥が鳴いていた。
七時。七時十五分。七時三十分。
校長は起き上がり、台所へ行って湯を沸かした。新聞を広げるが、文字は目に入っても頭に残らない。
七時四十分。
いつもなら、最初の児童が校門を入るころだ。
校長は新聞から目を上げた。
何も聞こえない。
当然だった。
もう学校ではないのだから。
七時五十分。
八時。
そのとき、遠くから音が聞こえた。
キーン、コーン、カーン、コーン。
校長は動きを止めた。
新聞が手から落ちる。
寝室から妻が顔を出した。
「どうしたの?」
校長はすぐには答えず、窓を開けて耳を澄ませた。
音は、もう止んでいる。
「……今」
「何?」
「チャイムが」
妻は不思議そうな顔をした。
「学校の?」
校長は頷いた。
妻は少し笑った。
「聞き間違いじゃない? 昨日で終わったんでしょう」
「……そうだ」
そのはずだった。
校長は窓の外を見た。
山の向こうにある学校は、ここからは見えない。
それでも胸騒ぎがした。
「ちょっと行ってくる」
「どこへ?」
「学校だ」
「今日から休みでしょう?」
「忘れ物をした」
嘘だった。
校長は上着を羽織り、車へ乗り込んだ。
山道を走る。村の朝はいつもと変わらず静かだった。
だが、学校へ近づくにつれて、ハンドルを握る手に力が入っていった。
やがて校門が見えた。
そして、校長は思わずブレーキを踏んだ。
子供がいる。
一人、二人、三人。
ランドセルを背負った児童たちが、校門へ向かって歩いている。
「……何を」
車を路肩へ停め、外へ出る。
一人の児童が校長に気づいた。
「あ、校長先生!」
元気よく手を振ってくる。
その顔には見覚えがあった。三年生だった児童だ。
「おはようございます!」
「……おはよう」
反射的に返事をしてから、校長は尋ねた。
「何をしてるんだ?」
児童は首を傾げた。
「学校」
「学校は昨日で――」
そこまで言って、言葉が止まる。
後ろから別の子供たちがやってきた。ランドセル、黄色い帽子、体操着袋。
昨日までと何も変わらない。
「急げー!」
「遅刻するぞ!」
子供たちは校門を抜けていく。
門は開いていた。
昨日、校長自身が閉めたはずだった。
校長は急いで後を追った。
昇降口も開いている。
下駄箱には上履きが並び、廊下には子供たちの声が響いている。
職員室を覗くと、教師たちがいた。
「おはようございます、校長先生」
教頭が言った。
校長は入口で立ち止まった。
「……何をしてる」
「何をって」
教頭は笑った。
「仕事ですよ」
「昨日で閉校しただろう」
職員室が静かになった。
教師たちが一斉に校長を見る。
教頭は困ったように眉を寄せた。
「校長先生?」
「閉校式をした。昨日。皆で校歌を歌っただろう」
「閉校式?」
教頭は周囲の教師たちを見た。
誰も分からないという顔をしている。
「何の話です?」
校長は言葉を失った。
「今日は四月一日ですよ」
教頭は壁のカレンダーを指した。
「新年度初日です」
校長も見る。
昭和五十四年四月一日。
「……そんな」
「具合でも悪いんですか?」
校長は返事もせず、職員室を飛び出した。
向かったのは一年生教室だった。
扉を開ける。
子供たちがいる。
教師が出席簿を開いている。
「おはようございます、校長先生」
校長は返事をせず、机を数えた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
五人。
昨日までの一年生は四人だった。
いや、昨日で全員、学校を離れたはずだった。
そして窓際の一番後ろ。
五つ目の机。
校長はそこに座る子供の顔を見た。
黄色い帽子。短い髪。左の頬に小さな傷。
四年前に死んだ男児だった。
「……君」
児童は校長を見ると、笑った。
「校長先生、おはようございます」
声まで同じだった。
校長は壁へ手をついた。
「名前は」
児童が自分を指差す。
「僕?」
「名前を言ってくれ」
児童は答えた。
四年前、葬儀で何度も呼ばれた名前。
校長の足から力が抜けそうになる。
「……どうして」
「どうしたの?」
「君は……」
死んでいる。
その言葉だけは言えなかった。
教師が近づいてきた。
「校長先生、本当に大丈夫ですか?」
「この子は……」
「一年生の████君ですよ」
「違う」
「違う?」
「この子は昭和五十年に事故で――」
教師は明らかに困惑した顔をした。
「昭和五十年?」
校長はその顔を見た。
本当に知らない。
演技ではなかった。
そのとき、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。
校長は振り向いた。
低学年の子供たち。
その中に、見覚えのある顔がいくつもあった。
「……六年生」
先月卒業した十二人。
校長は廊下へ出た。
「おい!」
子供たちが振り返る。
だが、体が小さい。
先月まで十二歳だった子供たちが、六歳か七歳ほどの姿になっている。
ランドセルを背負い、黄色い帽子を被っていた。
「校長先生!」
一人が笑う。
「おはようございます!」
校長はその子へ近づいた。
「お前……████か?」
「うん」
「何年生だ」
「一年生!」
満面の笑顔だった。
校長は息を呑んだ。
「違うだろ」
「え?」
「お前は先月、卒業した」
児童は首を傾げた。
「卒業?」
「卒業式をやっただろう。体育館で証書を渡した。中学校へ行くって」
児童は友達を見る。
皆、分からないという顔をしている。
「僕、ずっと一年生だよ?」
校長は何も言えなかった。
そのとき廊下の奥から教師の声がした。
「ほら、一年生。朝の会が始まるぞ」
子供たちは一斉に教室へ向かって走る。
「走るな!」
「はーい!」
いつもの光景だった。
あまりにも、いつも通りだった。
だからこそ、恐ろしかった。
校長は校長室へ駆け込んだ。
机の引き出しを開け、鬼灯産業から渡された封筒を取り出す。
震える手で契約書を広げた。
**施工目的:教育施設としての恒久的存続。**
**保証期間:永久。**
目を走らせる。
児童。教職員。教育活動。学校行事。入学。卒業。学校として必要な人数を維持。
そして、新規児童の条件。
**弊社判断に委任。**
校長は、その文字の上で指を止めた。
「……違う」
小さく呟いた。
「こんなのは……違う」
自分が望んだものではない。
だが、契約書のどこにも嘘は書かれていなかった。
子供はいる。
教師もいる。
授業もある。
新年度が始まっている。
学校は残っている。
校長は電話へ飛びつき、鬼灯産業の番号を回した。
呼び出し音が三回鳴り、女の声が出た。
『はい。鬼灯産業株式会社でございます』
校長は受話器を強く握りしめた。
「昨日の担当者を出してください!」
『お名前を頂戴してもよろしいでしょうか』
「████だ! ██小学校の!」
短い保留音のあと、すぐに声が変わった。
聞き覚えのある男の声だった。
『お電話代わりました』
「どういうことだ!」
『████様。おはようございます』
「何が、おはようございますだ!」
校長室の外から子供たちの声が聞こえる。
『何か不具合がございましたでしょうか』
「不具合?」
校長は思わず笑った。
「子供だ!」
『はい』
「死んだ子供がいる!」
電話の向こうの男は、驚かなかった。
『はい』
その返答が、校長の怒りをさらに煽った。
「はい、じゃない!」
『児童の在籍についてでしょうか』
「四年前に死んだ子だぞ!」
『確認しております』
「確認?」
「お前たちが連れてきたのか!」
『その表現は正確ではございません』
「じゃあ何だ!」
『在籍履歴に基づく補充です』
校長は受話器を落としかけた。
「補充……」
『現在、教育施設運営に必要な児童数を維持しております』
契約書の文字が目に入った。
**教育施設として必要な人数を維持。**
校長は震える声で言った。
「そんな意味じゃない」
『申し訳ございません』
男は、あくまで丁寧だった。
『どの部分でしょうか』
「何?」
『発注内容との相違箇所をご指定ください』
校長は言葉を失った。
男は続けた。
『学校には児童が必要だとおっしゃいました』
「言った」
『児童数が不足した場合、新規児童を受け入れることについてご了承いただきました』
「言った」
『選定条件につきましては、弊社判断へ委任いただいております』
「……」
『したがいまして――』
「死者を入学させるなんて聞いてない!」
初めて、電話の向こうで少し間があった。
『はい』
「なら!」
『ご指定いただいておりませんでしたので』
校長は椅子へ崩れるように座った。
『発注時に、居住地域、年齢、保護者の有無その他について確認しております』
思い出した。
男は、確かに聞いていた。
自分は「普通の小学校と同じでいい」と答えた。
男は「普通の定義が将来的に変化する可能性があります」と言った。
そのとき自分は、「任せますよ」と答えた。
校長の手が震えた。
「じゃあ、卒業した子供は何だ」
『卒業生についてでしょうか』
「昨日まで六年生だった子が、一年生になっている!」
『確認しております』
「卒業させたんじゃないのか!」
『卒業式は正常に実施されております』
「だから、また一年生になってるだろう!」
『はい』
「それを卒業とは言わない!」
電話の向こうで男は、少しも声を荒らげなかった。
『恐れ入りますが、卒業後の再入学を禁止する旨のご指定はございません』
校長は何も言えなかった。
『発注時、卒業後の進路について確認させていただきました』
その会話まで、はっきりと思い出した。
卒業後の進路等です。
そこまでは学校の仕事じゃないでしょう。
承知いたしました。
校長は目を閉じた。
「……こんなものを」
声がかすれた。
「こんなものを頼んだ覚えはない」
男は、すぐには答えなかった。
『████様』
「……なんだ」
『弊社がお預かりしたご依頼を確認いたします』
紙をめくる音がした。
『「この学校を、これからもずっと子供たちが通う学校として残してほしい」』
校長は息を止めた。
『児童がいること。教職員がいること。教育活動が実施されること。入学式、運動会、遠足、卒業式その他学校行事が継続されること。発注者様死亡後も契約を継続すること』
男は一つずつ読み上げていく。
『現在、児童は在籍しております。教職員も勤務しております。教育活動も本日より新年度分を開始しております。設備についても異常は確認されておりません』
校長の耳には、廊下を走る子供たちの音、教師の叱る声、笑い声が聞こえていた。
学校だった。
確かに学校だった。
「……やめてくれ」
校長は言った。
『はい?』
「もういい」
『何がでしょうか』
「学校を……元に戻してくれ」
電話の向こうで、少し間があった。
『契約解除をご希望でしょうか』
校長は顔を上げた。
「できるんだな?」
『はい』
あまりにも簡単な返答だった。
「本当に?」
『契約終了条件を満たしていただければ』
施工翌朝に聞いた言葉を思い出す。
契約終了条件を満たしていただければ。
「どうすればいい」
『発注者様ご本人による終了手続きが必要となります』
「書類を送れ」
『申し訳ございません』
「なぜだ!」
『永久契約の解除につきましては、ご本人確認を含む対面手続きが必要となります』
「どこへ行けばいい」
男は支店名を告げた。
聞いたことのない地名だった。
校長は机にあったメモへ急いで道順を書き込んだ。
██峠。県道。旧道。██集落。
そこから先は、地図に載っていない道だった。
「今日行く」
『承知いたしました』
「今日解除すれば、元に戻るんだな」
そこでまた、わずかな間があった。
校長は眉を寄せた。
「……なんだ」
『終了後の状態につきましては、契約解除時にご説明いたします』
「今言え」
『申し訳ございません。現在の運用状態を確認する必要がございます』
「何が起きる」
『現時点では確定的な回答ができません』
校長は受話器を握りしめた。
「お前たちは――」
騙した。
そう言いたかった。
だが、その言葉は続かなかった。
本当に、そうなのだろうか。
男は何度も確認した。
具体的に、と。
卒業後はどうするか。
児童不足時はどうするか。
契約期間はどうするか。
発注者死亡後はどうするか。
校長自身が答えた。
「……今日、行く」
『お待ちしております』
「絶対に終わらせる」
『承知いたしました』
電話を切った。
校長はしばらく動かなかった。
机の上には契約書が広がっている。
その一番下には、自分自身の署名があった。
████ ███。
逃げることはできない。
自分が書いた。
自分が頼んだ。
そして子供たちに約束した。
学校はなくならない、と。
「……馬鹿が」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、校長室の扉が叩かれた。
「校長先生」
教頭だった。
「朝礼ですが」
校長は顔を上げる。
「今日は……」
「新年度最初の朝礼ですよ」
教頭は笑った。
「校長先生から一言お願いします」
校長はしばらく動かなかったが、やがてゆっくり立ち上がった。
体育館へ向かう。
廊下には子供たちがいる。
四十三人ではない。
もっと多い。
見覚えのある顔。知らない顔。そして忘れたかった顔。
体育館には児童たちが整列していた。
一年生の列には、先月まで六年生だった子供たちがいる。四年前に死亡した男児もいる。
さらに、校長にはどこかで見たような気がする子供たちまでいた。
昔の卒業アルバム。
そんな考えが頭をよぎった。
校長は壇上に上がり、マイクの前へ立った。
「校長先生、おはようございます!」
大きな声が返ってきた。
校長は答えられなかった。
教頭が隣で小声で促す。
「校長先生」
校長はようやくマイクを握った。
「……おはようございます」
「おはようございまーす!」
体育館に声が響いた。
こんなに大きな声を聞いたのは、何十年ぶりだろう。
児童が三百人いた、昔の学校。
校長は壇上から体育館を見た。
学校は戻っていた。
自分が望んだ姿に。
いや。
自分が「望んだと言った」姿に。
胸に痛みが走った。
校長は思わず手を当てる。
「校長先生?」
教頭が気づいた。
「大丈夫だ」
「顔色が悪いですよ」
「少し……家へ戻る」
鬼灯産業へ行かなければならない。
今日。
今すぐ。
契約を終わらせる。
子供たちを、学校を、終わらせなければならない。
校長は自宅へ戻った。
午前八時十分。
妻は戻ってきた夫の姿を見て驚いた。
「どうしたの?」
「少し出かける」
「どこへ?」
校長は答えず、机に地図を広げた。
鬼灯産業の男から聞いた支店までの道順を書き込む。
██峠。県道。旧道。██集落。
そして、地図には載っていない道。
「あなた」
妻が声をかけた。
「顔色が悪いわよ」
「大丈夫だ」
「病院へ行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫だと言ってるだろう!」
思わず強い声が出た。
妻が黙る。
校長はすぐに後悔した。
「……すまん」
「何があったの?」
校長は答えられなかった。
学校を残した。
死んだ子供が戻った。
卒業した子供が一年生になった。
そんな話を、誰が信じるだろう。
「ちょっと、やり残したことがある」
「学校の?」
校長は頷いた。
「今日中に終わらせないといけない」
「一人で?」
「ああ」
地図を畳む。
契約書、保証書、印鑑、財布。
全部を鞄へ入れる。
そのとき、胸が痛んだ。
校長は机へ手をついた。
「あなた?」
「……大丈夫」
締め付けられるような痛みだった。
少し待つと、いったん治まった。
「やっぱり病院へ行った方が」
「時間がない」
「何の時間がないのよ!」
校長は妻を見る。
何か説明しようとした。
そのときだった。
遠くから、学校のチャイムが鳴った。
キーン、コーン、カーン、コーン。
校長は時計を見る。
午前八時二十三分。
あと二分。
八時二十五分になれば、学校では朝の会が始まる。
そう思った。
長年の習慣だった。
「行かないと」
校長は一歩踏み出した。
その瞬間、胸に激痛が走った。
「――っ」
鞄が床へ落ちる。
契約書が散らばった。
妻の叫び声が聞こえる。
校長は膝をつき、床へ手を伸ばした。
視界に入ったのは、一枚の紙。
**教育施設恒久保存工事。**
「あなた!」
妻が駆け寄る。
校長は契約書へ手を伸ばした。
指先が届かない。
「救急車!」
妻が電話へ走る。
校長は床へ倒れた。
視界が暗くなっていく。
息ができない。
それでも耳には、学校の音が聞こえているような気がした。
椅子を引く音。
子供たちの声。
教師の声。
「それでは朝の会を始めます」
幻聴なのか、本当に聞こえているのか分からない。
校長は最後の力で、もう一度契約書へ手を伸ばした。
届かない。
あと少し。
そして、その手が止まった。
昭和五十四年四月二日、午前八時二十三分。
第十七代校長、████ ███は、自宅で死亡した。
死因は急性心筋梗塞。
鬼灯産業██支店へ向かうための地図、契約書、印鑑は、玄関近くに落ちた鞄の中から発見された。
契約解除手続きは行われなかった。
午前八時二十五分。
██村立██小学校。
一年生教室。
教師が黒板の前に立っていた。
黒板には白いチョークで、
**昭和五十四年四月二日(月)**
と書かれている。
「それでは、朝の会を始めます」
児童たちが椅子を引く。
その中には、先月まで六年生だった児童がいる。
四年前に死亡した男児もいる。
公的な在籍記録には存在しない子供たちもいた。
「起立」
椅子を引く音が揃う。
「礼」
児童たちが頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございまーす!」
声が校舎いっぱいに響いた。
窓の外では、校庭の桜がその朝初めて花を咲かせていた。
一輪。
二輪。
春の風に揺れている。
以前、校長へ「四月になったら一緒に見よう」と言った女児が、窓の外を見て小さく声を上げた。
「あ」
隣の児童が聞いた。
「どうしたの?」
「桜」
「咲いたね」
女児は嬉しそうに笑った。
それから何かを思い出したように教室の入口を見る。
そこには誰もいない。
「……校長先生」
「何?」
女児は少し考えた。
そして首を横に振る。
「ううん。なんでもない」
教師が出席簿を開いた。
名前を呼ぶ。
一人ずつ返事が返る。
欠席者はいなかった。
校門の横には、三日前に取り付けられたばかりの金属板があった。
朝日を受け、文字が鈍く光っている。
**██村立██小学校**
**教育施設恒久保存工事**
**昭和五十四年三月施工**
**鬼灯産業株式会社**
**保証期間:永久**
その一番下には、小さな文字でこう刻まれていた。
**――末永くご利用ください。**
その日の午後。
鬼灯産業株式会社██支店。
灰色の背広の男は、一本の電話を受けていた。
「……そうですか。発注者様がお亡くなりに」
受話器の向こうの声を聞きながら、男は机の上にある書類へ目を落とした。
**██村立██小学校 教育施設恒久保存工事**
発注者、████ ███。
状態、契約中。
「はい。解除申請は受領しておりません」
電話の向こうが何かを尋ねる。
男はペンを取り、書類の一箇所へ印を押した。
**継続。**
「発注時の指定通りです」
電話を切る。
机の端には、別の書類が置かれていた。
**定期保守予定表。**
対象施設、██村立██小学校。
次回実施日、昭和五十五年三月██日。
男は予定表を閉じ、窓の外へ目を向けた。
春の日差しが差し込んでいる。
どこか遠くで、学校のチャイムが鳴っているような気がした。
だが男は気にする様子もなく、次の書類を手に取った。
新しい依頼書だった。
そこには、こう書かれていた。
**「亡くなった主人との思い出が残るこの家を、いつまでも家族の帰ってくる場所として残してほしい。」**
男は静かに受話器を取った。
依頼書に記された番号を確認し、電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、相手が出た。
男は、いつもと変わらない丁寧な声で言った。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、鬼灯産業株式会社の者でございます」
次回予告
Tale「ようこそ、東雲重工業へ」 第一章 入社式
9月20日18時投稿予定




