↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/85

第三章 新学期

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は10分ぐらいで読めます

よかったらコメントください!

三月三十一日、██村立██小学校は正式に閉校した。


閉校式は午前十時から始まった。体育館には在校児童、教職員、保護者、村役場の職員、卒業生、そして近隣住民が集まっている。普段の学校行事では見かけない顔も多く、壁際には折り畳み椅子が何列も追加されていた。


校長は壇上から、その光景を静かに見下ろしていた。


これほど多くの人が集まったのは、いつ以来だろう。昔の運動会なら、もっと多かった。入学式も卒業式も、かつてのこの学校には人が溢れていた。子供がいて、声があって、校庭にはいつも誰かがいた。


今は違う。最後だから、人が集まっている。


教育委員会の担当者が挨拶を終え、続いて村長が前へ出た。


「長きにわたり、本村の教育を支えていただきましたことに――」


校長は、その言葉を半分も聞いていなかった。視線は児童席に向いていた。


四十三人。今日で、この学校に通う児童ではなくなる子供たち。


六年生はすでに卒業していたが、この日は全員が最後の式に参加している。その中で、一年生の女児と目が合った。以前、桜は四月になれば咲くと教えた子だった。


女児は少しだけ笑った。


校長も笑い返した。


桜は、まだ咲いていなかった。


閉校式の最後には校歌を歌った。四十三人の児童、九人の教職員、村人、卒業生。皆の声が体育館いっぱいに響き、校長も一緒に歌った。


途中で声が震えた。


隣にいた教頭も、眼鏡を外して目元を拭っていた。


最後の音が消えたあと、長い拍手が起こった。校長は深く頭を下げ、顔を上げたときには、体育館全体が少し滲んで見えた。


午後になると、児童たちは一人ずつ帰っていった。


「校長先生、またね!」


「先生、元気でね!」


「中学校行ってくる!」


「遊びに来るから!」


校長は校門に立ち、全員を見送った。


最後に残ったのは、あの一年生の女児だった。母親と手を繋いでいる。


「先生」


「どうした?」


「四月になったら、桜見るんでしょ?」


母親が少し困ったような顔をした。校長は一瞬、何と答えるべきか迷ったが、やがて笑った。


「ああ」


「ほんと?」


「本当だ」


女児は満足そうに頷き、「じゃあね!」と小さな手を振った。


校長も手を振り返し、その姿が見えなくなっても、しばらく校門の前に立っていた。


校庭には誰もいない。風が吹き、校門の横に取り付けられた金属板が鈍く光った。


**教育施設恒久保存工事**


**鬼灯産業株式会社**


**――末永くご利用ください。**


校長は、その文字を見つめた。


あれから二日が経っていた。


一年生教室に現れた五つ目の机について、校長は誰にも話していない。翌朝確認したときには机は四つに戻り、黄色い帽子も消えていた。


夢だったのかもしれない。


疲れていたのかもしれない。


そう思おうとした。


鬼灯産業へ電話することも考えたが、契約違反があったわけではない。少なくとも、三月三十一日までは学校は普通に動いていた。


だから様子を見ることにした。


そして今、学校は終わった。


少なくとも、行政上は。


午後五時。


校長は職員室の鍵を閉めた。教頭や教師たちはすでに帰っている。最後に校舎を出るのは、校長だった。


何度も振り返った。


職員室。廊下。階段。児童昇降口。図書室。体育館。そして校長室。


全部、今日まで学校だった場所。


「……長い間、ありがとう」


誰に言うでもなく呟き、玄関の鍵を閉める。


校門まで歩き、そこでまた振り返った。


木造校舎。夕焼け。静かな校庭。


明日からは、誰も来ない。


そのはずだった。


校長は深く頭を下げ、学校を後にした。


四月一日。


朝六時四十分。


校長は自宅で目を覚ました。


長年の習慣で、目覚ましが鳴る前に目が覚める。布団の中で少しの間ぼんやりしてから、今日から学校へ行かなくていいのだと気づいた。


不思議な感覚だった。


四十年以上教師として働き、その大半をあの学校で過ごしてきた。朝になれば学校へ行く。それが当然だった。


それが、今日からない。


校長は天井を見つめた。


静かだった。


妻はまだ寝ている。外では鳥が鳴いていた。


七時。七時十五分。七時三十分。


校長は起き上がり、台所へ行って湯を沸かした。新聞を広げるが、文字は目に入っても頭に残らない。


七時四十分。


いつもなら、最初の児童が校門を入るころだ。


校長は新聞から目を上げた。


何も聞こえない。


当然だった。


もう学校ではないのだから。


七時五十分。


八時。


そのとき、遠くから音が聞こえた。


キーン、コーン、カーン、コーン。


校長は動きを止めた。


新聞が手から落ちる。


寝室から妻が顔を出した。


「どうしたの?」


校長はすぐには答えず、窓を開けて耳を澄ませた。


音は、もう止んでいる。


「……今」


「何?」


「チャイムが」


妻は不思議そうな顔をした。


「学校の?」


校長は頷いた。


妻は少し笑った。


「聞き間違いじゃない? 昨日で終わったんでしょう」


「……そうだ」


そのはずだった。


校長は窓の外を見た。


山の向こうにある学校は、ここからは見えない。


それでも胸騒ぎがした。


「ちょっと行ってくる」


「どこへ?」


「学校だ」


「今日から休みでしょう?」


「忘れ物をした」


嘘だった。


校長は上着を羽織り、車へ乗り込んだ。


山道を走る。村の朝はいつもと変わらず静かだった。


だが、学校へ近づくにつれて、ハンドルを握る手に力が入っていった。


やがて校門が見えた。


そして、校長は思わずブレーキを踏んだ。


子供がいる。


一人、二人、三人。


ランドセルを背負った児童たちが、校門へ向かって歩いている。


「……何を」


車を路肩へ停め、外へ出る。


一人の児童が校長に気づいた。


「あ、校長先生!」


元気よく手を振ってくる。


その顔には見覚えがあった。三年生だった児童だ。


「おはようございます!」


「……おはよう」


反射的に返事をしてから、校長は尋ねた。


「何をしてるんだ?」


児童は首を傾げた。


「学校」


「学校は昨日で――」


そこまで言って、言葉が止まる。


後ろから別の子供たちがやってきた。ランドセル、黄色い帽子、体操着袋。


昨日までと何も変わらない。


「急げー!」


「遅刻するぞ!」


子供たちは校門を抜けていく。


門は開いていた。


昨日、校長自身が閉めたはずだった。


校長は急いで後を追った。


昇降口も開いている。


下駄箱には上履きが並び、廊下には子供たちの声が響いている。


職員室を覗くと、教師たちがいた。


「おはようございます、校長先生」


教頭が言った。


校長は入口で立ち止まった。


「……何をしてる」


「何をって」


教頭は笑った。


「仕事ですよ」


「昨日で閉校しただろう」


職員室が静かになった。


教師たちが一斉に校長を見る。


教頭は困ったように眉を寄せた。


「校長先生?」


「閉校式をした。昨日。皆で校歌を歌っただろう」


「閉校式?」


教頭は周囲の教師たちを見た。


誰も分からないという顔をしている。


「何の話です?」


校長は言葉を失った。


「今日は四月一日ですよ」


教頭は壁のカレンダーを指した。


「新年度初日です」


校長も見る。


昭和五十四年四月一日。


「……そんな」


「具合でも悪いんですか?」


校長は返事もせず、職員室を飛び出した。


向かったのは一年生教室だった。


扉を開ける。


子供たちがいる。


教師が出席簿を開いている。


「おはようございます、校長先生」


校長は返事をせず、机を数えた。


一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。


五人。


昨日までの一年生は四人だった。


いや、昨日で全員、学校を離れたはずだった。


そして窓際の一番後ろ。


五つ目の机。


校長はそこに座る子供の顔を見た。


黄色い帽子。短い髪。左の頬に小さな傷。


四年前に死んだ男児だった。


「……君」


児童は校長を見ると、笑った。


「校長先生、おはようございます」


声まで同じだった。


校長は壁へ手をついた。


「名前は」


児童が自分を指差す。


「僕?」


「名前を言ってくれ」


児童は答えた。


四年前、葬儀で何度も呼ばれた名前。


校長の足から力が抜けそうになる。


「……どうして」


「どうしたの?」


「君は……」


死んでいる。


その言葉だけは言えなかった。


教師が近づいてきた。


「校長先生、本当に大丈夫ですか?」


「この子は……」


「一年生の████君ですよ」


「違う」


「違う?」


「この子は昭和五十年に事故で――」


教師は明らかに困惑した顔をした。


「昭和五十年?」


校長はその顔を見た。


本当に知らない。


演技ではなかった。


そのとき、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。


校長は振り向いた。


低学年の子供たち。


その中に、見覚えのある顔がいくつもあった。


「……六年生」


先月卒業した十二人。


校長は廊下へ出た。


「おい!」


子供たちが振り返る。


だが、体が小さい。


先月まで十二歳だった子供たちが、六歳か七歳ほどの姿になっている。


ランドセルを背負い、黄色い帽子を被っていた。


「校長先生!」


一人が笑う。


「おはようございます!」


校長はその子へ近づいた。


「お前……████か?」


「うん」


「何年生だ」


「一年生!」


満面の笑顔だった。


校長は息を呑んだ。


「違うだろ」


「え?」


「お前は先月、卒業した」


児童は首を傾げた。


「卒業?」


「卒業式をやっただろう。体育館で証書を渡した。中学校へ行くって」


児童は友達を見る。


皆、分からないという顔をしている。


「僕、ずっと一年生だよ?」


校長は何も言えなかった。


そのとき廊下の奥から教師の声がした。


「ほら、一年生。朝の会が始まるぞ」


子供たちは一斉に教室へ向かって走る。


「走るな!」


「はーい!」


いつもの光景だった。


あまりにも、いつも通りだった。


だからこそ、恐ろしかった。


校長は校長室へ駆け込んだ。


机の引き出しを開け、鬼灯産業から渡された封筒を取り出す。


震える手で契約書を広げた。


**施工目的:教育施設としての恒久的存続。**


**保証期間:永久。**


目を走らせる。


児童。教職員。教育活動。学校行事。入学。卒業。学校として必要な人数を維持。


そして、新規児童の条件。


**弊社判断に委任。**


校長は、その文字の上で指を止めた。


「……違う」


小さく呟いた。


「こんなのは……違う」


自分が望んだものではない。


だが、契約書のどこにも嘘は書かれていなかった。


子供はいる。


教師もいる。


授業もある。


新年度が始まっている。


学校は残っている。


校長は電話へ飛びつき、鬼灯産業の番号を回した。


呼び出し音が三回鳴り、女の声が出た。


『はい。鬼灯産業株式会社でございます』


校長は受話器を強く握りしめた。


「昨日の担当者を出してください!」


『お名前を頂戴してもよろしいでしょうか』


「████だ! ██小学校の!」


短い保留音のあと、すぐに声が変わった。


聞き覚えのある男の声だった。


『お電話代わりました』


「どういうことだ!」


『████様。おはようございます』


「何が、おはようございますだ!」


校長室の外から子供たちの声が聞こえる。


『何か不具合がございましたでしょうか』


「不具合?」


校長は思わず笑った。


「子供だ!」


『はい』


「死んだ子供がいる!」


電話の向こうの男は、驚かなかった。


『はい』


その返答が、校長の怒りをさらに煽った。


「はい、じゃない!」


『児童の在籍についてでしょうか』


「四年前に死んだ子だぞ!」


『確認しております』


「確認?」


「お前たちが連れてきたのか!」


『その表現は正確ではございません』


「じゃあ何だ!」


『在籍履歴に基づく補充です』


校長は受話器を落としかけた。


「補充……」


『現在、教育施設運営に必要な児童数を維持しております』


契約書の文字が目に入った。


**教育施設として必要な人数を維持。**


校長は震える声で言った。


「そんな意味じゃない」


『申し訳ございません』


男は、あくまで丁寧だった。


『どの部分でしょうか』


「何?」


『発注内容との相違箇所をご指定ください』


校長は言葉を失った。


男は続けた。


『学校には児童が必要だとおっしゃいました』


「言った」


『児童数が不足した場合、新規児童を受け入れることについてご了承いただきました』


「言った」


『選定条件につきましては、弊社判断へ委任いただいております』


「……」


『したがいまして――』


「死者を入学させるなんて聞いてない!」


初めて、電話の向こうで少し間があった。


『はい』


「なら!」


『ご指定いただいておりませんでしたので』


校長は椅子へ崩れるように座った。


『発注時に、居住地域、年齢、保護者の有無その他について確認しております』


思い出した。


男は、確かに聞いていた。


自分は「普通の小学校と同じでいい」と答えた。


男は「普通の定義が将来的に変化する可能性があります」と言った。


そのとき自分は、「任せますよ」と答えた。


校長の手が震えた。


「じゃあ、卒業した子供は何だ」


『卒業生についてでしょうか』


「昨日まで六年生だった子が、一年生になっている!」


『確認しております』


「卒業させたんじゃないのか!」


『卒業式は正常に実施されております』


「だから、また一年生になってるだろう!」


『はい』


「それを卒業とは言わない!」


電話の向こうで男は、少しも声を荒らげなかった。


『恐れ入りますが、卒業後の再入学を禁止する旨のご指定はございません』


校長は何も言えなかった。


『発注時、卒業後の進路について確認させていただきました』


その会話まで、はっきりと思い出した。


卒業後の進路等です。


そこまでは学校の仕事じゃないでしょう。


承知いたしました。


校長は目を閉じた。


「……こんなものを」


声がかすれた。


「こんなものを頼んだ覚えはない」


男は、すぐには答えなかった。


『████様』


「……なんだ」


『弊社がお預かりしたご依頼を確認いたします』


紙をめくる音がした。


『「この学校を、これからもずっと子供たちが通う学校として残してほしい」』


校長は息を止めた。


『児童がいること。教職員がいること。教育活動が実施されること。入学式、運動会、遠足、卒業式その他学校行事が継続されること。発注者様死亡後も契約を継続すること』


男は一つずつ読み上げていく。


『現在、児童は在籍しております。教職員も勤務しております。教育活動も本日より新年度分を開始しております。設備についても異常は確認されておりません』


校長の耳には、廊下を走る子供たちの音、教師の叱る声、笑い声が聞こえていた。


学校だった。


確かに学校だった。


「……やめてくれ」


校長は言った。


『はい?』


「もういい」


『何がでしょうか』


「学校を……元に戻してくれ」


電話の向こうで、少し間があった。


『契約解除をご希望でしょうか』


校長は顔を上げた。


「できるんだな?」


『はい』


あまりにも簡単な返答だった。


「本当に?」


『契約終了条件を満たしていただければ』


施工翌朝に聞いた言葉を思い出す。


契約終了条件を満たしていただければ。


「どうすればいい」


『発注者様ご本人による終了手続きが必要となります』


「書類を送れ」


『申し訳ございません』


「なぜだ!」


『永久契約の解除につきましては、ご本人確認を含む対面手続きが必要となります』


「どこへ行けばいい」


男は支店名を告げた。


聞いたことのない地名だった。


校長は机にあったメモへ急いで道順を書き込んだ。


██峠。県道。旧道。██集落。


そこから先は、地図に載っていない道だった。


「今日行く」


『承知いたしました』


「今日解除すれば、元に戻るんだな」


そこでまた、わずかな間があった。


校長は眉を寄せた。


「……なんだ」


『終了後の状態につきましては、契約解除時にご説明いたします』


「今言え」


『申し訳ございません。現在の運用状態を確認する必要がございます』


「何が起きる」


『現時点では確定的な回答ができません』


校長は受話器を握りしめた。


「お前たちは――」


騙した。


そう言いたかった。


だが、その言葉は続かなかった。


本当に、そうなのだろうか。


男は何度も確認した。


具体的に、と。


卒業後はどうするか。


児童不足時はどうするか。


契約期間はどうするか。


発注者死亡後はどうするか。


校長自身が答えた。


「……今日、行く」


『お待ちしております』


「絶対に終わらせる」


『承知いたしました』


電話を切った。


校長はしばらく動かなかった。


机の上には契約書が広がっている。


その一番下には、自分自身の署名があった。


████ ███。


逃げることはできない。


自分が書いた。


自分が頼んだ。


そして子供たちに約束した。


学校はなくならない、と。


「……馬鹿が」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


そのとき、校長室の扉が叩かれた。


「校長先生」


教頭だった。


「朝礼ですが」


校長は顔を上げる。


「今日は……」


「新年度最初の朝礼ですよ」


教頭は笑った。


「校長先生から一言お願いします」


校長はしばらく動かなかったが、やがてゆっくり立ち上がった。


体育館へ向かう。


廊下には子供たちがいる。


四十三人ではない。


もっと多い。


見覚えのある顔。知らない顔。そして忘れたかった顔。


体育館には児童たちが整列していた。


一年生の列には、先月まで六年生だった子供たちがいる。四年前に死亡した男児もいる。


さらに、校長にはどこかで見たような気がする子供たちまでいた。


昔の卒業アルバム。


そんな考えが頭をよぎった。


校長は壇上に上がり、マイクの前へ立った。


「校長先生、おはようございます!」


大きな声が返ってきた。


校長は答えられなかった。


教頭が隣で小声で促す。


「校長先生」


校長はようやくマイクを握った。


「……おはようございます」


「おはようございまーす!」


体育館に声が響いた。


こんなに大きな声を聞いたのは、何十年ぶりだろう。


児童が三百人いた、昔の学校。


校長は壇上から体育館を見た。


学校は戻っていた。


自分が望んだ姿に。


いや。


自分が「望んだと言った」姿に。


胸に痛みが走った。


校長は思わず手を当てる。


「校長先生?」


教頭が気づいた。


「大丈夫だ」


「顔色が悪いですよ」


「少し……家へ戻る」


鬼灯産業へ行かなければならない。


今日。


今すぐ。


契約を終わらせる。


子供たちを、学校を、終わらせなければならない。


校長は自宅へ戻った。


午前八時十分。


妻は戻ってきた夫の姿を見て驚いた。


「どうしたの?」


「少し出かける」


「どこへ?」


校長は答えず、机に地図を広げた。


鬼灯産業の男から聞いた支店までの道順を書き込む。


██峠。県道。旧道。██集落。


そして、地図には載っていない道。


「あなた」


妻が声をかけた。


「顔色が悪いわよ」


「大丈夫だ」


「病院へ行った方がいいんじゃない?」


「大丈夫だと言ってるだろう!」


思わず強い声が出た。


妻が黙る。


校長はすぐに後悔した。


「……すまん」


「何があったの?」


校長は答えられなかった。


学校を残した。


死んだ子供が戻った。


卒業した子供が一年生になった。


そんな話を、誰が信じるだろう。


「ちょっと、やり残したことがある」


「学校の?」


校長は頷いた。


「今日中に終わらせないといけない」


「一人で?」


「ああ」


地図を畳む。


契約書、保証書、印鑑、財布。


全部を鞄へ入れる。


そのとき、胸が痛んだ。


校長は机へ手をついた。


「あなた?」


「……大丈夫」


締め付けられるような痛みだった。


少し待つと、いったん治まった。


「やっぱり病院へ行った方が」


「時間がない」


「何の時間がないのよ!」


校長は妻を見る。


何か説明しようとした。


そのときだった。


遠くから、学校のチャイムが鳴った。


キーン、コーン、カーン、コーン。


校長は時計を見る。


午前八時二十三分。


あと二分。


八時二十五分になれば、学校では朝の会が始まる。


そう思った。


長年の習慣だった。


「行かないと」


校長は一歩踏み出した。


その瞬間、胸に激痛が走った。


「――っ」


鞄が床へ落ちる。


契約書が散らばった。


妻の叫び声が聞こえる。


校長は膝をつき、床へ手を伸ばした。


視界に入ったのは、一枚の紙。


**教育施設恒久保存工事。**


「あなた!」


妻が駆け寄る。


校長は契約書へ手を伸ばした。


指先が届かない。


「救急車!」


妻が電話へ走る。


校長は床へ倒れた。


視界が暗くなっていく。


息ができない。


それでも耳には、学校の音が聞こえているような気がした。


椅子を引く音。


子供たちの声。


教師の声。


「それでは朝の会を始めます」


幻聴なのか、本当に聞こえているのか分からない。


校長は最後の力で、もう一度契約書へ手を伸ばした。


届かない。


あと少し。


そして、その手が止まった。


昭和五十四年四月二日、午前八時二十三分。


第十七代校長、████ ███は、自宅で死亡した。


死因は急性心筋梗塞。


鬼灯産業██支店へ向かうための地図、契約書、印鑑は、玄関近くに落ちた鞄の中から発見された。


契約解除手続きは行われなかった。


午前八時二十五分。


██村立██小学校。


一年生教室。


教師が黒板の前に立っていた。


黒板には白いチョークで、


**昭和五十四年四月二日(月)**


と書かれている。


「それでは、朝の会を始めます」


児童たちが椅子を引く。


その中には、先月まで六年生だった児童がいる。


四年前に死亡した男児もいる。


公的な在籍記録には存在しない子供たちもいた。


「起立」


椅子を引く音が揃う。


「礼」


児童たちが頭を下げた。


「おはようございます」


「おはようございまーす!」


声が校舎いっぱいに響いた。


窓の外では、校庭の桜がその朝初めて花を咲かせていた。


一輪。


二輪。


春の風に揺れている。


以前、校長へ「四月になったら一緒に見よう」と言った女児が、窓の外を見て小さく声を上げた。


「あ」


隣の児童が聞いた。


「どうしたの?」


「桜」


「咲いたね」


女児は嬉しそうに笑った。


それから何かを思い出したように教室の入口を見る。


そこには誰もいない。


「……校長先生」


「何?」


女児は少し考えた。


そして首を横に振る。


「ううん。なんでもない」


教師が出席簿を開いた。


名前を呼ぶ。


一人ずつ返事が返る。


欠席者はいなかった。


校門の横には、三日前に取り付けられたばかりの金属板があった。


朝日を受け、文字が鈍く光っている。


**██村立██小学校**


**教育施設恒久保存工事**


**昭和五十四年三月施工**


**鬼灯産業株式会社**


**保証期間:永久**


その一番下には、小さな文字でこう刻まれていた。


**――末永くご利用ください。**


その日の午後。


鬼灯産業株式会社██支店。


灰色の背広の男は、一本の電話を受けていた。


「……そうですか。発注者様がお亡くなりに」


受話器の向こうの声を聞きながら、男は机の上にある書類へ目を落とした。


**██村立██小学校 教育施設恒久保存工事**


発注者、████ ███。


状態、契約中。


「はい。解除申請は受領しておりません」


電話の向こうが何かを尋ねる。


男はペンを取り、書類の一箇所へ印を押した。


**継続。**


「発注時の指定通りです」


電話を切る。


机の端には、別の書類が置かれていた。


**定期保守予定表。**


対象施設、██村立██小学校。


次回実施日、昭和五十五年三月██日。


男は予定表を閉じ、窓の外へ目を向けた。


春の日差しが差し込んでいる。


どこか遠くで、学校のチャイムが鳴っているような気がした。


だが男は気にする様子もなく、次の書類を手に取った。


新しい依頼書だった。


そこには、こう書かれていた。


**「亡くなった主人との思い出が残るこの家を、いつまでも家族の帰ってくる場所として残してほしい。」**


男は静かに受話器を取った。


依頼書に記された番号を確認し、電話をかける。


数回の呼び出し音のあと、相手が出た。


男は、いつもと変わらない丁寧な声で言った。


「夜分遅くに申し訳ございません。私、鬼灯産業株式会社の者でございます」


次回予告


Tale「ようこそ、東雲重工業へ」 第一章 入社式


9月20日18時投稿予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。