第二章 永久保証
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「永久保存が可能です」
男は、確かにそう言った。
校長はその言葉を聞いてから、しばらく何も答えることができなかった。夕暮れの校庭には三月の冷たい風が吹き、山の向こうへ沈みかけた太陽が、古びた木造校舎を赤く染めている。昨日までと何一つ変わらない光景のはずなのに、目の前に立つ灰色の背広の男と、その男が口にした「永久」という言葉だけが、この場所から妙に浮いて聞こえた。
「……永久?」
「はい」
鬼灯産業の男は、ごく当たり前のことを確認するように頷いた。
「どれくらいです? 永久と言っても、五十年とか、百年とか、そういう意味でしょう」
「いいえ。弊社では期間を指定する場合、その期間を明記いたします。五十年であれば五十年、百年であれば百年です。発注者様が世代単位での保存をご希望の場合には、そうした契約方式もございます」
「じゃあ、永久というのは」
「文字通りでございます」
校長は男の顔を見た。冗談を言っている様子はなかった。そもそもこの男は、最初から一度も冗談らしい冗談を口にしていない。
「そんなこと、本当にできるんですか」
「可能です」
「どうやって」
「施工方法につきましては、弊社独自の技術が含まれますので詳細をご説明することはできません。ただし、完成後の状態については、契約前に可能な限りご説明いたします」
そこで初めて、男は明確に説明を拒んだ。校長は少し眉を寄せた。
「完成後の状態?」
「はい。████様が、何をもって『学校が残っている』と定義されるかによります」
「どういう意味です」
「例えば、あの建物だけが百年後も残っていれば、それを学校が残ったとお考えになりますか?」
校長は校舎を見上げた。
「……いや」
「では、校舎内部に机、椅子、黒板その他教育設備が保存されていれば?」
「それでも違う」
「児童はいない。教職員もいない。しかし施設は当時の状態で保存され、一般公開されている」
「それは博物館でしょう」
「はい。弊社も同様に判断いたします」
妙な会話だった。しかし校長は、その受け答えにわずかな安心を覚えていた。少なくともこの男は、自分の言っている「学校」の意味を、単なる建物の保存とは考えていないらしい。
「ですので、ご依頼内容について詳細な確認が必要となります」
「……分かりました」
「本日はまだ正式契約を行いません」
「え?」
「現地調査のみと伺っております」
男は腕時計に目を落とした。
「お時間が許しましたら、明日改めて契約内容についてお話をさせていただければと思います」
「今日じゃ駄目なんですか」
自分でも驚くほど早く言葉が出た。
男は校長を見た。
「お急ぎですか?」
「三十一日まで、もう時間がない」
「承知しております」
「なら――」
「だからこそです」
男の声は穏やかだった。
「████様。弊社では長期保存契約について、即日契約を推奨しておりません」
「なぜです」
「契約期間が長くなるほど、発注時の曖昧な表現が将来的な問題となる可能性が高くなるためです」
「問題?」
「はい。今夜一晩、お考えください」
「何を?」
「何を残したいのかを」
校長は黙った。
「校舎なのか、学校なのか。あるいは、学校に存在する時間そのものなのか」
「……時間?」
「例え話でございます」
男はそう付け加えると、校長へ軽く頭を下げた。
「明日までに、できるだけ具体的にお考えください。それと、もう一点だけ」
「なんです?」
「████様ご本人の希望をお聞かせください」
「私の?」
「はい」
「村の希望じゃなく?」
「はい」
「教育委員会でもなく?」
「はい。今回の発注者は、████様個人となる予定です」
校長は何も答えなかった。
男はそれ以上追及せず、丁寧に一礼すると校門へ向かって歩き始めた。黒い車が夕暮れの山道へ消えていったあとも、校長はしばらく校庭に立ち尽くしていた。
「……何を残したいのか、か」
その答えは簡単なようで、簡単ではなかった。
その夜、校長はほとんど眠れなかった。
布団に入って目を閉じても、鬼灯産業の男が口にした言葉が何度も頭の中へ戻ってきた。
何を残したいのか。
校舎だろうか。違う。建物だけ残っていても意味がない。机も黒板も体育館も同じだ。児童がいない校舎は、ただの箱にすぎない。
では、人なのか。児童か。教師か。
それも違うように思えた。
教師は異動する。子供は卒業する。校長だっていつか変わる。それでも学校は続いていく。人が入れ替わりながら、一つの場所として残り続けてきた。
校長は暗い天井を見つめながら、昔のことを思い出していた。
自分がまだこの学校の児童だったころ、冬になると石炭ストーブの周りに濡れた手袋を並べた。友達と廊下を走り回って教師に叱られ、運動会の徒競走で転び、卒業式では恥ずかしいほど泣いた。
教師としてこの学校へ戻ったとき、初めて担任を持った教室には二十八人の児童がいた。算数が苦手だった子。絵が上手だった子。いつも喧嘩をしていた子。卒業式の日、その子供たちは順番に頭を下げて、「先生、ありがとう」と言った。
それから何年も経った。
送り出した子供の子供を、自分がまた教えるようになった。
そのとき、ふと思った。
学校というものは、建物でも、人でもないのではないか。
朝になれば子供が来る。授業をする。昼になれば給食を食べ、午後には掃除をする。春には入学式があり、夏には水泳があり、秋には運動会があり、冬には雪が積もる。そして春になれば、六年生が卒業していく。
その繰り返し。
学校とは、続いていくことそのものなのかもしれない。
その考えに辿り着いた瞬間、校長はなぜか奇妙なほど安心した。
翌日、午後五時。
鬼灯産業の男は、前日とほとんど同じ姿で校長室へ現れた。灰色の背広、黒い革鞄、磨かれた革靴。机の上へ契約書、見積書、施工内容確認書、説明事項、保証規定を順番に並べる。そのどれも、ごく普通の企業が使う書類に見えた。
「まず昨日申し上げました通り、ご希望内容を確認させていただきます」
校長は頷いた。
「考えました」
「ありがとうございます」
「校舎だけを残してほしいわけじゃない。学校として残したいんです」
男は手元の書類へ記入し始めた。
「具体的には?」
「昨日話した通りです」
「念のため、もう一度お願いいたします」
校長は少し考え、それから一つずつ言葉にした。
「子供がいること。先生がいること。授業があること。給食もある。学校行事も必要です」
男は一つずつ確認した。
「入学式」
「必要です」
「運動会」
「必要です」
「遠足」
「必要です」
「卒業式」
「必要です」
そのときだけ、男のペンがほんの一瞬止まった。
「卒業式も、ですね」
「はい」
男は再び書き始めた。
「児童の卒業について、条件のご希望はございますか?」
校長は首を傾げた。
「条件?」
「例えば、卒業後の進路等です」
「そこまでは学校の仕事じゃないでしょう」
「承知いたしました」
男は淡々と書き込む。
「教職員については?」
「必要な人数がいればいい」
「人員の指定は?」
「ありません」
「児童については?」
「どういう意味です?」
「特定の児童を在籍させ続ける必要はございますか?」
校長は少し笑った。
「いや。子供は卒業するものですから」
「承知いたしました。では在籍児童は固定しない」
「はい」
「必要な児童数については?」
校長は少し考えた。
「学校として成り立つくらい」
「具体的な人数をご指定いただいた方が確実ですが」
「四十人くらい……いや、今と同じくらいで」
「最低人数でしょうか。標準人数でしょうか」
「そこまで細かく決める必要があるんですか」
「可能な限り」
男の口調は変わらなかった。
「弊社といたしましては、発注内容を具体化していただくことを推奨しております」
校長は腕を組んだ。
「でも、昔は三百人いたんですよ。将来また増えるかもしれない」
「その可能性を残されますか?」
「できるなら」
「承知いたしました。では児童数は固定せず、教育施設として必要な人数を維持する形で」
「それでお願いします」
男のペンが紙を走った。
教育施設として必要な人数を維持。
その文言は隠されていなかった。校長にも読める向きで書かれていたし、校長自身も確かにそれを見た。ただ、その意味を深く考えなかった。
「最後に、保存期間です」
男が言った。
校長は一度窓の外を見た。
「昨日、永久と言いましたね」
「可能です」
「百年でも?」
「はい」
「二百年?」
「はい」
「その先も?」
「永久契約の場合は、契約終了条件が成立するまで継続いたします」
「終了条件?」
「設定されますか?」
「例えば?」
「発注者様が解除を希望された場合、施設の存続が社会的に不要となった場合、一定期間経過後、その他ご指定いただけます」
校長は少し考えた。
「私が死んだら?」
男のペンが止まった。
「契約を終了されますか?」
校長は答えなかった。
自分はもう六十を超えている。あと何年生きられるか分からない。自分が死んだ瞬間に学校も終わるのなら、それでは意味がない。
「いや。私が死んでも残してください」
「承知いたしました」
男は記入した。
「村がなくなった場合は?」
校長は顔を上げた。
「村が?」
「可能性としてです」
「……それでも、学校は残してください」
「県の行政区画が変更された場合は?」
「残してください」
「現在の土地所有者が変更された場合」
「残してください」
「校舎が自然災害等によって使用不能となった場合」
「直せるんでしょう?」
「契約内容によります」
「なら直してください」
「承知いたしました」
男は一切笑わずに書き続けた。
やがて質問は、校長にとって少し奇妙なものになっていった。
「現在の教育制度が変更された場合」
「対応してください」
「学校という制度そのものが変更された場合」
校長は苦笑した。
「そんなことまで考えるんですか」
「永久契約ですので」
その返答に、校長の笑いは少しだけ引っ込んだ。
「……できる範囲で、学校として残してください」
「承知いたしました」
「人類社会において現在の教育制度が維持不能となった場合」
今度こそ、校長は眉をひそめた。
「何を言ってるんです?」
「永久契約における標準確認事項です」
「そんな先のことまで分かるわけがないでしょう」
「おっしゃる通りです」
「なら……任せますよ」
「弊社判断に委任されますか?」
「学校として続くなら」
男は一秒ほど黙った。
「承知いたしました」
その言葉だけが、なぜか妙に重く聞こえた。
契約書が完成したのは、午後六時四十七分だった。
男は書類を校長の前へ置いた。
「内容をご確認ください」
校長は目を通した。
難しい法律用語もあったが、大筋は理解できた。
施工名称、教育施設恒久保存工事。
施工対象、██村立██小学校。
施工目的、教育施設としての恒久的存続。
児童、教職員、教育活動、学校行事、施設維持。どれも自分が話した内容が、ほぼそのまま書かれている。
そして保証期間。
永久。
「本当に?」
「はい」
「追加料金は?」
「原則としてございません」
「保守は?」
「弊社にて実施いたします」
「私が死んでも?」
「契約は継続されます」
「誰が金を払うんです」
「初回契約金に含まれております」
見積金額は高額だった。しかし、払えない金額ではない。退職金と貯金を使えば、何とかなる。
妻には怒られるだろう。
それでも。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なぜ、こんなことができるんです」
男は少しだけ考えた。
「████様。世の中には、残したいと願う方が多くいらっしゃいます。家を残したい。店を残したい。土地を残したい。家系を残したい。祭りを残したい。名前を残したい」
男は契約書へ手を置いた。
「弊社は、そうしたご要望に応える会社でございます」
「それだけ?」
「それだけでございます」
男は万年筆を差し出した。
しかし、校長はすぐには受け取らなかった。
男も急かさなかった。
時計の音だけが校長室に響く。
やがて男が静かに口を開いた。
「████様。署名前に、もう一度だけ確認いたします」
校長は顔を上げる。
「ご依頼内容は、可能な限り具体的にお願いいたします。『残してほしい』ではなく、何を、どのような状態で、いつまで残すのか。ご希望がございましたら、今からでも修正いたします」
「……はい」
「例えば、児童の在籍期間。卒業後の処遇。教職員の交代。児童数が不足した場合の対応」
「児童数が不足した場合?」
男は頷いた。
「はい」
校長は少し考えた。
「普通に、新しい子が入学するんでしょう?」
「そのように指定されますか?」
「そうしてください」
「新規児童の条件は?」
「条件?」
「居住地域、年齢、保護者の有無、その他」
校長は思わず笑った。
「普通の小学校と同じでいいですよ」
「『普通』の定義が、将来的に変化する可能性があります」
「あなたは本当に細かい人だな」
「申し訳ございません」
男は頭を下げた。
校長は少し疲れていた。そして同時に、安心もしていた。ここまで細かく確認してくれる会社なら、大丈夫だろうと思った。
「任せますよ」
男のペンが止まった。
「……よろしいのですか」
「ああ」
「弊社判断に?」
「学校として続くなら」
男は短く頷いた。
「承知いたしました」
最後の追記が行われた。
そしてもう一度、万年筆が差し出された。
校長はそれを受け取った。
署名欄の下には、小さな文字でこう書かれていた。
本契約は発注者死亡後も有効とする。
校長は確かに読んだ。
そのうえで、六年生の子供たちの顔を思い出した。
学校、なくなるんでしょ。
本当。
絶対。
約束。
そして自分は言った。
学校は、なくならない。
校長は署名した。
最後の一文字を書き終えた、その瞬間だった。
校舎のどこかから、チャイムの音が聞こえた。
キーン、コーン、カーン、コーン。
校長は顔を上げた。
時計は午後七時十二分。
こんな時間に鳴るはずがない。
「……今の」
「はい?」
「チャイムが」
男は校長を見る。
「何か問題がございましたか?」
「いや……気のせいです」
「左様ですか」
男は契約書を革鞄へ収めた。
「それでは契約成立となります」
立ち上がり、深く頭を下げる。
「鬼灯産業株式会社をご利用いただき、誠にありがとうございます」
工事は、その翌日の午後十一時から始まった。
校長は知らされていなかった。正確には、契約書に書いてあった。
施工時間、教育活動に支障を来さない時間帯。
それが夜間を意味するとは思っていなかった。
校長が知ったのは、用務員から自宅へ電話が掛かってきたからだった。
「校長先生、学校に人がいるんです!」
「人?」
「トラックが何台も来てます!」
校長はすぐに服を着替え、車で学校へ向かった。
午後十一時三十八分。
校門前には見たことのない車両が何台も並んでいた。黒、灰色、白。どれも会社名以外の表示がほとんどない。
鬼灯産業株式会社。
作業員は二十人ほどいた。全員が濃紺の作業服にヘルメットを着用し、胸元には鬼灯の社章が付いている。
「ちょっと!」
校長が声を上げると、一人の作業員が振り返った。
「こんばんは」
「あんたたち、何をしてる!」
「施工でございます」
「こんな時間に?」
「授業への影響を避けるためです」
「まだ学校は閉校してないんだぞ!」
「承知しております。だから夜間に施工しております」
あまりにも普通に答えられ、校長は言葉に詰まった。
「責任者は?」
「こちらです」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、あの灰色の背広の男がいた。今日は背広の上から白いヘルメットを被っている。
「████様」
「何をするんです」
「保存工事です」
「だから、具体的に何を」
「まず、学校の現状確認を行います」
「現状確認?」
「はい」
作業員たちは校舎へ入っていく。
校長も後を追った。
そこで始まったのは、校長の知っている「工事」とはまるで違うものだった。
一年生教室では机を数えた。
「四」
別の作業員が記録する。
二年生では七。三年生では六。
すべての教室、すべての机、すべての椅子が数えられた。
次に下駄箱へ移り、児童の名前を一人ずつ確認する。職員室では教師の机、出席簿、職員名簿、時間割、学校日誌を調べ、保健室では児童健康記録、給食室では献立表、図書室では貸出記録を確認した。
そして最後に、卒業アルバム。
昭和二十年代から現在までのものが机に並べられ、作業員たちは一冊ずつページをめくり、写真と名前、卒業年度を記録していった。
「それ、何するんです」
校長が尋ねる。
「記録します」
「何のために」
「保存対象確認です」
「卒業生まで関係あるんですか」
作業員は答えなかった。
代わりに、後ろにいた男が言った。
「学校の構成要素を確認しております」
「卒業した子供は、もう学校の構成員じゃないでしょう」
「おっしゃる通りです」
「ならなぜ」
「履歴です」
男は卒業アルバムを見る。
「学校には履歴が必要ですので」
意味はよく分からなかった。
午前一時を過ぎると、作業員たちは校庭へ出た。四つの班に分かれ、校庭の四隅に穴を掘る。深さは一メートルほどだった。
そこへ何かを埋めようとしている。
校長は近づいた。
「何を埋めてるんです」
「基礎材です」
「見せてください」
「申し訳ございません。施工区域ですので」
「危険なものじゃないでしょうね」
「通常使用時に危険性はございません」
通常使用時に。
その言い方が少し引っかかった。
しかし作業員たちはすぐに土を戻し、地面を平らにしてしまった。ほんの数分前まで穴があったとは思えないほど綺麗だった。
午前二時十三分。
今度は校舎中の時計が確認された。
職員室。各教室。体育館。保健室。校長室。
すべての時計が同じ時刻へ合わせられる。
午前二時十三分。
その瞬間、一度だけ学校中の時計が止まった。
秒針が十二の位置で止まり、音が消える。
校長は、妙な感覚を覚えた。
校舎全体が息を止めたような感覚だった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、カチ、と音がして、すべての時計が同時に再び動き始めた。
作業員が記録用紙へ書き込む。
時刻同期、完了。
午前三時。
作業員たちは体育館へ移った。
壇上へ上がり、卒業式用の台や卒業証書の授与位置を確認する。
「そこまで必要なのか?」
校長が尋ねる。
「はい」
「毎年同じ場所でやる必要なんてない」
「位置ではございません」
「じゃあ何だ」
男は答えた。
「行為を確認しております」
「行為?」
「卒業が成立するために必要な手順です」
校長はその言葉を聞いた。
しかし、そこで立ち止まって意味を考えることはしなかった。
午前三時四十分。
最後の作業が始まった。
校門の横。
作業員が、小さな金属板を取り付ける。
校長は懐中電灯を向けた。
そこにはこう刻まれていた。
**██村立██小学校**
**教育施設恒久保存工事**
**昭和五十四年三月施工**
**鬼灯産業株式会社**
**――末永くご利用ください。**
「……これで?」
校長が尋ねる。
男は書類を確認した。
「はい」
「終わり?」
「施工工程は完了しました」
校長は校舎を見た。
何も変わっていない。
壁も窓も屋根も、校庭も遊具も、全部昨日までと同じだった。
「何をしたんです?」
「保存処理です」
「だから、具体的に」
「████様」
男は静かに言った。
「明日からも、これまで通り学校をご利用ください」
「三十一日まで?」
男は校長を見る。
「それ以降も」
校長は黙った。
「本当に」
自分の声がわずかに震えた。
「本当に残るんですね」
「はい」
「子供たちが来る?」
「はい」
「先生も?」
「はい」
「授業も?」
「はい」
「来年も?」
「はい」
「再来年も?」
「はい」
校長は少し笑った。
「十年後も?」
「はい」
「百年後も?」
「契約が有効である限り、はい」
校長は目頭を押さえた。
「……ありがとう」
男は何も言わなかった。
「ありがとう、ございます」
校長は深く頭を下げた。
男は少し遅れて同じように頭を下げた。
「ご満足いただければ幸いです」
午前四時を過ぎるころには、作業員たちはすべて撤収していた。
最後に灰色の背広の男が残り、車へ乗り込む前に校長へ一枚の封筒を差し出した。
「こちらを」
「何です?」
「契約書控え、および保証書です」
校長は受け取った。
「紛失されても契約自体には影響ございません。ただし、契約内容について疑問が生じた場合には必ずご確認ください」
「分かりました」
「それと、施工後の状態について発注内容との相違を確認された場合には、速やかに弊社へご連絡ください」
「何か起きるんですか?」
「一般的なご案内です」
「……そうですか」
男は車のドアへ手を掛けた。
校長は、ふと思って呼び止めた。
「あの」
男が振り返る。
「何でしょう」
「もし、私が考えていたものと違ったら」
校長は封筒を見た。
「元に戻せますか」
男はすぐには答えなかった。
夜明け前の風が、校庭を抜けていく。
数秒後、男は言った。
「契約終了条件を満たしていただければ」
「解除できるんですね?」
「はい」
校長はほっと息を吐いた。
「よかった」
男は何も言わなかった。
車へ乗り込み、黒い車はゆっくりと校門を出ていった。
赤いテールランプが山道の向こうへ消える。
一人になった校長は、校門の横に取り付けられた金属板へ触れた。
冷たい。
**――末永くご利用ください。**
「……末永く、か」
校長は小さく笑った。
そのとき、校舎の中から音がした。
ガタン。
校長は振り返った。
「……?」
誰もいない。
作業員は全員帰った。
用務員も教師も児童もいない。
もう一度。
ガタン。
一階の方。
一年生教室。
校長は校舎へ入り、暗い廊下を歩いた。
「誰かいるのか?」
返事はない。
一年生教室の扉を開ける。
誰もいない。
机。
椅子。
黒板。
時間割。
窓。
何も変わらない。
校長は扉を閉めようとした。
そこで、足が止まった。
机の数。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして一番後ろ、窓際。
もう一つ。
五つ。
校長は教室の入口に立ったまま動けなかった。
工事中、作業員は確かに数えていた。
一年生教室。
四。
昨日まで四つだった。
校長はゆっくりと新しい机へ近づいた。
新品ではなかった。
長い間使われてきたように天板には鉛筆の傷が残り、角は丸く削れている。
まるで、ずっと前からそこにあったようだった。
「……こんな机」
校長は指先で触れた。
冷たい。
机の横には名札を差し込む場所があった。
白い紙。
児童の名前。
校長は懐中電灯を近づけた。
文字を読む。
そして、息を止めた。
「……嘘だ」
知っている名前だった。
忘れるはずがない。
四年前。
昭和五十年。
当時一年生だった男子児童。
夏休みに父親の車で町へ向かう途中、崖から転落した。
父親とともに死亡。
学校でも全校児童で葬儀に参列した。
机に花を置いた。
母親へ遺品を返したのは、校長自身だった。
その子の名前が、そこにあった。
校長は一歩後ずさった。
「……そんな」
その瞬間だった。
校舎中にチャイムの音が響いた。
キーン。
コーン。
カーン。
コーン。
誰もいない学校の、朝のチャイム。
校長は机を見た。
五つ目の席。
椅子の上に、いつの間にか黄色い帽子が置かれていた。
四年前。
あの子がいつも被っていた帽子だった。
校長は動けなかった。
契約書の入った封筒を握りしめたまま、ただその机を見つめていた。
そのころ、山道を走る黒い車の中で、鬼灯産業の男は助手席に置かれた書類を開いていた。
教育施設恒久保存工事。
施工確認。
設備確認。
記録確認。
境界処理。
時刻同期。
履歴登録。
すべての欄に赤い印が押されている。
最後に、男は「運用準備」の欄へ静かに印を押した。
**完了。**
その下には、もう一つ項目があった。
**不足構成員補充。**
男はそこには印を押さなかった。
まだ必要がなかった。
書類を閉じる。
運転手が前を見たまま尋ねた。
「次回定期保守は?」
「一年後で」
「承知しました」
男は少しだけ後方へ視線を向けた。
もう学校は見えない。
「ただし、発注者様から連絡があった場合は私へ回してください」
「不具合ですか?」
男はしばらく答えなかった。
やがて静かに言った。
「いいえ」
そして、ほんの少し間を置いた。
「仕様確認です」
黒い車は朝靄の中へ消えていった。
学校では、第十七代校長が五つ目の机の前に立ち尽くしていた。
手にした封筒の表面には、小さくこう印刷されていた。
**鬼灯産業株式会社**
**保証期間――永久。**
次回予告
第三章 新学期
9月19日21時投稿予定




