Tale-01 『竜田博士は唐揚げがお嫌い』
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――サイト83・午前7時42分
竜田博士が、自分の人生について真剣に考え直す必要があると感じたのは、サイト83中央棟へ続く連絡通路を歩いていた時だった。
理由は単純である。
フライドチキンが飛んでいた。
「…………」
竜田博士は足を止めた。
ガラス張りの連絡通路。
その向こう側。
朝のサイト83敷地内を、一羽のハトが横切っていく。
少なくとも記録上は、ハトだった。
カワラバト。
学名Columba livia。
ハト目ハト科。
全長およそ30センチ。
都市部でも珍しくない鳥類であり、サイト83の敷地内でも頻繁に確認されている。
竜田博士も知っている。
知識としては。
だが。
「…………フライドチキンなんだよなぁ」
窓の外では、衣をまとった骨付きフライドチキンが翼もないのに羽ばたいていた。
いや。
羽ばたいているように見えているわけではない。
実際には羽がある。
竜田博士には、それが分かる。
羽毛が存在する。
翼が存在する。
脚がある。
嘴がある。
それらの情報を脳は認識している。
なのに。
見えるものだけが、どうしようもなくフライドチキンだった。
茶褐色の衣。
カリカリに揚がった表面。
しかも飛んでいる。
「…………」
バサバサバサッ。
「やめろ」
バサバサッ。
「飛ぶな」
フライドチキン――もといハトは当然ながら博士の命令を無視し、中央棟屋上へ飛んでいった。
「お前が飛ぶと世界観がおかしくなるんだよ……」
竜田博士は額を押さえた。
その背後から声がした。
「おはようございます、博士」
「おう」
振り返る。
若い研究員が立っていた。
彼は竜田博士を見る。
一秒。
二秒。
三秒。
研究員の表情が固まった。
「…………」
竜田博士も黙った。
最近、この沈黙には慣れてきた。
「何に見えてる?」
「え?」
「いいから言え」
「いや、その」
「怒らないから」
研究員は非常に言いづらそうに答えた。
「……唐揚げです」
「部位は?」
「え?」
「もも? むね?」
「そこまで聞くんですか?」
「研究者だからな」
研究員は困惑しながら竜田博士を眺めた。
「……もも肉、ですかね」
「そうか」
竜田博士は端末を取り出した。
メモを開く。
『07:43 研究員██。視認約3秒で認識置換。唐揚げ/もも肉』
入力。
「ありがとうございます」
「博士」
「なんだ」
「慣れてません?」
「慣れたくて慣れたわけじゃねえよ」
研究員はまだ何とも言えない顔で博士を見ている。
「ちなみに今、どう見えてる?」
「白衣を着た巨大な唐揚げです」
「白衣は残るんだな」
「はい」
「職員証は?」
研究員は博士の胸元を見る。
「レモンに見えます」
「なんでだよ」
「僕に聞かないでくださいよ!」
もっともである。
竜田博士はため息をつき、再び端末へ記録した。
『職員証→レモン。理由不明』
そのまま歩き出す。
研究員が慌てて後ろから声をかけた。
「あ、博士!」
「今度はなんだ」
「その……」
研究員は笑いを堪えながら言った。
「歩くと、衣が擦れる音します」
竜田博士は振り返らなかった。
「報告書に書いとけ」
「はい」
「あと笑ったら実験協力者にするぞ」
「すみません」
「鳥小屋担当な」
「本当にすみませんでした」
その日。
サイト83における竜田博士の通常勤務復帰初日は、こうして始まった。
*
午前9時13分。
情報災害研究部門、第3研究室。
「では、定例会議を始めます」
竜田博士はホワイトボードの前に立っていた。
参加者は研究員6名。
全員が博士を見ている。
正確には。
全員がそれぞれ違う料理を見ている。
「まずNCO-28-JPについてだが――」
「博士」
研究員Aが手を挙げた。
「なんだ」
「集中できません」
「開始十三秒だぞ」
「いや、その」
「何に見えてる」
「フライドチキンです」
「次」
研究員B。
「チキンカツ」
研究員C。
「唐揚げ」
研究員D。
「ローストチキン」
研究員E。
「ナゲット」
竜田博士の眉が動いた。
「ナゲット?」
「はい」
「俺一人だぞ」
「分かってます」
「どう見えてる?」
「大量のナゲットが人型に積み重なってます」
「最悪だな」
研究員Fが吹き出した。
「笑うな」
「す、すみません」
「お前は?」
「…………」
「言え」
「竜田揚げです」
沈黙。
研究室が静まり返った。
竜田博士はゆっくり研究員Fを見た。
「お前」
「はい」
「それ絶対名前に引っ張られてるだろ」
「異常現象に言ってくださいよ!」
「俺だって好きで竜田って名字じゃねえんだよ!」
「そこ怒るところですか!?」
会議開始から三分。
議題はまだ一つも進んでいなかった。
竜田博士は大きく息を吐いた。
「いいか。もう俺が何に見えるかはどうでもいい」
「いいんですか?」
「よくない。でも仕事にならん」
ホワイトボードを叩く。
「重要なのはNCO-28-JPの影響範囲だ。俺を見た人間に発生する認識置換は、現在のところ平均三秒から四十秒で発現している」
研究員たちの表情が仕事のものへ戻る。
「直接視認だけですか?」
「監視カメラ越しでも出る」
「写真は?」
「出る。ただし発現率は低い」
「録画映像は?」
「同じだ。リアルタイムより弱い」
「音声だけでは?」
「今のところ異常なし」
研究員Aが端末へ記録する。
「つまり視覚情報依存?」
「その可能性が高い」
竜田博士はホワイトボードへ図を書いた。
「問題は、俺自身が鳥類を見る場合の認識置換と、他人が俺を見る場合の認識置換。この二つが鏡写しみたいな構造になってることだ」
鳥。
矢印。
竜田博士。
矢印。
人間。
簡単な図だった。
「俺から見ると鳥が料理になる」
矢印を指す。
「他人から見ると俺が料理になる」
別の矢印。
「つまり――」
研究員Cが言った。
「博士が鳥ってことですか?」
「違う」
即答だった。
「でも構造上は」
「違う」
「NCO-28-JP側からすると――」
「違うって言ってんだろ」
研究員たちは黙った。
竜田博士は咳払いする。
「……少なくとも現段階では、俺自身に鳥類的な身体変化は確認されていない」
「DNA検査は?」
「人間」
「骨格は?」
「人間」
「羽毛は?」
「生えてない」
「卵は?」
「産まねえよ」
研究員Fがまた吹き出した。
「お前、鳥小屋な」
「まだ何も言ってません!」
「顔が言ってた」
会議は続いた。
不思議なことに、しばらくすると全員が状況に慣れた。
人間というものは恐ろしい。
ホワイトボードの前で巨大なフライドチキンがミーム災害について説明していても、十五分もすれば普通に議論できるようになるらしい。
もっとも。
竜田博士自身から見れば。
六人の研究員の向こう。
研究室の窓辺に。
一口サイズの唐揚げが一羽、止まっていた。
スズメだった。
「…………」
竜田博士は無視した。
唐揚げが首を傾げる。
「…………」
唐揚げが窓をつつく。
コン。
コン。
「…………」
コン。
「博士?」
「なんでもない」
コン。
コン。
「…………」
竜田博士はカーテンを閉めた。
研究員Aが尋ねた。
「鳥いました?」
「唐揚げがいた」
「ああ」
誰も笑わなかった。
そのことが逆に竜田博士を悲しくさせた。
*
午後0時06分。
問題は食堂で起きた。
サイト83職員食堂。
竜田博士はトレーを持って入口に立った。
今日のメニュー。
A定食。
豚の生姜焼き。
B定食。
サバ味噌。
C定食。
チキンカツ。
「…………」
竜田博士はメニュー表を見た。
文字は正常に読める。
『チキンカツ定食』
問題ない。
文字なら分かる。
写真も、場合によっては正常に認識できる。
だから博士は油断していた。
食堂へ入った。
右。
職員。
左。
職員。
正面。
職員。
そして。
入口付近のテーブル。
「…………」
竜田博士の足が止まった。
六羽。
いた。
黄色っぽい小さな鳥が六羽、紙箱の中に座っていた。
丸々としている。
じっとしている。
羽毛らしきものは油で濡れている。
「…………ヒヨコ?」
竜田博士は呟いた。
実際にはフライドチキンだった。
六ピース。
昼食を買った職員が、同僚を待つため一時的に置いていただけである。
しかし竜田博士には。
どう見ても。
六羽のヒヨコが箱の中で身を寄せ合っているように見えた。
「なんで食堂にヒヨコが……」
博士は近づいた。
ヒヨコは動かない。
「死んでる?」
さらに近づく。
衣。
いや羽毛。
肉。
いや身体。
骨。
いや。
「…………」
混乱してきた。
竜田博士は目を擦った。
もう一度見る。
ヒヨコ。
しかし頭では分かっている。
匂い。
油。
香辛料。
食品。
これは。
「フライドチキン……?」
その時だった。
カァー。
窓の外から鳴き声がした。
竜田博士は振り向いた。
窓の向こう。
植え込みの近くに。
真っ黒に焦げた唐揚げが立っていた。
「…………」
カラスだった。
唐揚げが歩く。
ピョン。
ピョン。
箱の中のヒヨコは動かない。
窓の外の唐揚げは動いている。
「…………」
竜田博士は箱を見る。
ヒヨコ。
窓を見る。
唐揚げ。
ヒヨコ。
唐揚げ。
ヒヨコ。
唐揚げ。
十四秒。
後に監視映像から正確に測定された。
竜田博士は、非常に真剣な顔で言った。
「ちょっと待て」
周囲の職員が振り向く。
「どっちが生きてる?」
沈黙。
近くにいた研究員が答えた。
「はい?」
「こっち」
箱を指す。
「と」
窓を指す。
「こっち」
研究員は箱を見る。
フライドチキン。
窓を見る。
カラス。
竜田博士を見る。
巨大な唐揚げ。
「…………」
研究員の脳が処理を諦めた。
「博士」
「なんだ」
「質問いいですか?」
「早くしろ。俺は今かなり混乱してる」
「博士自身は生きてます?」
「ぶん殴るぞ」
別の職員がやってきた。
「どうしたんです?」
「竜田博士が」
その職員も博士を見る。
三秒。
認識置換。
「うわ」
「何に見えた」
「チキンカツ」
「今それどうでもいい!」
竜田博士が箱を指差す。
「これは!?」
「フライドチキンです!」
「生きてる!?」
「死んでます!」
「じゃあ外は!?」
「カラスです!」
「生きてる!?」
「生きてます!」
「間違いないな!?」
「間違いありません!」
ようやく整理できた。
竜田博士は深く息を吐く。
「最初からそう言え……」
その時。
最初の研究員が呟いた。
「すごいな……」
「何がだ」
「唐揚げがフライドチキンに怯えてる……」
食堂が静まり返った。
竜田博士がゆっくり振り向いた。
「誰が唐揚げだ」
「博士です」
「即答すんな!」
誰かが笑った。
それがまずかった。
一人が笑う。
別の職員も吹き出す。
さらに一人。
「やめろ!」
竜田博士が叫ぶ。
「こっちは真剣なんだぞ!」
しかし。
人間というものは、一度笑ってはいけない状況で笑い始めると止まらない。
「だって博士が……!」
「笑うな!」
「唐揚げが……!」
「俺は人間だ!」
「分かってます!」
「じゃあ笑うな!」
「見た目が!」
「言うな!」
五分後。
サイト83食堂は完全に機能を停止していた。
*
午後1時32分。
管理部門会議室。
竜田博士は椅子に座っていた。
向かいにはサイト83管理部門職員三名。
机の上には一枚の文書。
『サイト83食堂利用規定・改訂案』
「…………」
竜田博士は読んだ。
もう一度読んだ。
「本気?」
管理職員が頷く。
「本気です」
「食堂に鶏肉料理がある場合、俺に一声かける?」
「はい」
「『博士、唐揚げあります』って?」
「はい」
「毎回?」
「毎回です」
竜田博士は天井を見上げた。
「俺の研究者人生、どこで間違えたんだろうな」
誰も答えなかった。
管理職員が続ける。
「なお、生体の鳥類が侵入した場合は――」
「まだあるの?」
「『博士、生きている方の鳥です』と告知します」
竜田博士は両手で顔を覆った。
「もう好きにしてくれ……」
「それから一案」
「何」
「食堂から鶏肉料理を全面撤去するという案が」
竜田博士は顔を上げた。
「却下」
「即答ですね」
「なんで俺一人のせいで全職員が唐揚げ食えなくなるんだ」
「しかし安全上――」
「俺に声かければ済むだろ」
「博士自身は?」
「食うよ」
管理職員三名が黙った。
「何だよ」
「食べられるんですか?」
「……たぶん」
「生きた鳥に見えるんですよね?」
「…………」
「博士?」
「最近は目閉じて食ってる」
三人のうち一人が下を向いた。
肩が震えている。
竜田博士は指を差した。
「今笑っただろ」
「笑ってません」
「こっち見ろ」
「業務中ですので」
「おい」
こうして。
サイト83史上、おそらく初めてとなる、
『特定の博士がいる場合、鶏肉料理の存在を口頭で申告すること』
という食堂規定が正式に制定された。
*
午後7時18分。
大半の職員が退勤したあと。
竜田博士は一人、第3研究室に残っていた。
端末にはNCO-28-JPの解析結果。
画面の端には、例の番組の静止画像が表示されている。
白衣姿の「わくわく博士」。
笑顔。
大きく開いた両腕。
周囲を飛び回る漫画風の鳥たち。
竜田博士はその画像を眺めていた。
「……俺を鳥扱い、ね」
今日の会議を思い出す。
自分から見ると、鳥が料理になる。
他人から見ると、自分が料理になる。
単なる後遺症なら。
なぜ双方向なのか。
「…………」
竜田博士は画像を拡大した。
わくわく博士。
その白衣。
胸元。
名札らしきものがある。
これまで文字は潰れていて読めなかった。
画像補正。
コントラスト調整。
輪郭強調。
ノイズ除去。
「…………?」
竜田博士の手が止まった。
名札。
何か書いてある。
まだ読めない。
さらに補正。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
文字が浮かび上がったように見えた。
――たつ。
そこまでだった。
画像が崩れた。
「……気のせいか」
竜田博士は椅子にもたれた。
疲れている。
今日は色々ありすぎた。
端末を閉じる。
研究室を出る。
照明を消す。
扉が閉まった。
誰もいなくなった研究室。
暗闇。
数秒後。
閉じたはずの端末が勝手に起動した。
黒い画面。
ノイズ。
そして。
例の番組。
白衣姿のわくわく博士が立っている。
いつもの笑顔。
その周囲を、漫画の鳥たちが飛び回っている。
音声は出ていない。
博士がこちらを見る。
笑う。
画面下部に字幕が表示された。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
『きょうも たのしかったね!』
一拍。
『つぎは――』
ノイズ。
画面が乱れる。
そして最後に。
『はかせの ばんだよ』
映像は消えた。
翌朝。
端末のログには、午後7時18分以降の起動記録は存在しなかった。
ただし。
研究室へ最初に入った職員は、
「部屋の中から、揚げ物みたいな匂いがした」
と報告している。
そしてその職員は。
机の上に置かれた竜田博士の写真を見て、
一瞬だけ。
「美味しそうだ」
と思ったという。
――Tale-01『竜田博士は唐揚げがお嫌い』
次回予告
Tale-02『博士、お返事をどうぞ』
9月17日21時投稿予定




