第五章 議長席
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静寂が、会議室を満たしていた。
クレイン博士は、議事録に新たに書き加えられた文字を見つめたまま立ち尽くしていた。
> **議題継続。**
> **欠席者の帰還を待つ。**
万年筆は机の上へ静かに戻されている。
誰も持っていない。
誰も座っていない。
それでも、部屋には確かな気配があった。
十二人。
そして、議長席に座る「誰か」。
目を凝らしても、その姿だけは見えない。
視線を逸らした瞬間なら見えてしまうのではないか――そんな錯覚すら覚える。
博士は深く息を吸い、記録端末へ向かって静かに話し始めた。
「調査記録、継続。」
「現在時刻、不明。」
「室内の時計は停止したまま。しかし時間経過は確認できる。」
「室内には複数の存在反応を感知するが、視認不能。」
「敵対性は現時点で確認されず。」
言葉を選びながら、一つずつ事実だけを積み重ねていく。
それが研究者としての務めだった。
しかし、最後の一文だけは、どう記録すべきか迷った。
「……議長席。」
その言葉を口にした瞬間。
机の上のコーヒーカップから、小さく湯気が立ちのぼった。
誰も触れていない。
それでも、まるで今、誰かが一口飲んだばかりのようだった。
◇
博士は議長席へゆっくりと歩み寄る。
一歩。
また一歩。
床板は静かに軋み、その音だけが部屋へ響く。
議長席の前で立ち止まり、木製の椅子を見下ろす。
背もたれには、長い年月を物語る細かな傷。
肘掛けは滑らかに磨かれ、人の手に馴染むよう丸みを帯びている。
この椅子には、確かに長い間、誰かが座り続けてきた。
博士は手を伸ばしかける。
だが、その寸前で止めた。
触れてはいけない。
理由は説明できない。
それでも、その直感だけは疑えなかった。
代わりに静かに一礼する。
研究者としてではない。
一人の人間として。
「……初めまして。」
返事はない。
それでも部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。
◇
博士は会議机をゆっくりと見渡した。
十三脚の椅子。
十二冊の資料。
十二個のカップ。
そして、一冊の議事録。
ふと、あることに気付く。
入口に最も近い椅子だけ、机へわずかに引かれたままだった。
まるで、誰かが立ち上がったあと、そのまま戻ってきていないように。
博士はその椅子を見つめる。
座ろうとは思わない。
ただ、その席が「誰か」のために空けられていることだけは理解できた。
「……欠席者。」
自然と、その言葉が漏れる。
その瞬間だった。
部屋のどこからともなく、穏やかな声が聞こえた。
「ええ。」
博士は息を呑む。
姿はない。
それでも声だけは、すぐそばから聞こえた。
「まだ、お一人。」
穏やかで、落ち着いた声。
焦りも怒りもない。
ただ、長い年月を待ち続けた者だけが持つ静かな響き。
博士はゆっくりと問いかける。
「あなたは……。」
声は最後まで続かなかった。
その名前を呼ぼうとしても、思い出せない。
頭の中に霧がかかったように、その存在だけが曖昧になっていく。
だが、胸の奥では確かに理解していた。
この席を守り続けてきた人物。
会議を終わらせることなく、誰かの帰りを待ち続ける人物。
それが、この部屋の「議長」なのだと。
◇
やがて、部屋の空気がゆっくりと変化し始める。
時計の音が遠ざかる。
コーヒーの香りが薄れていく。
椅子を引く音も、紙をめくる音も、一つずつ静寂へ溶けていく。
博士は振り返った。
いつの間にか、開けたままだった扉の向こうに地下通路が見えている。
来た時と同じはずの廊下。
しかし、どこか現実へ戻る境界のようにも感じられた。
議事録へ最後に視線を落とす。
白紙だった最終ページへ、また一行だけ文字が増えていた。
> **本日の議事 終了。**
その下へ。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと、新しい文字が浮かび上がる。
> **次回会議まで、散会とする。**
博士は目を見開いた。
散会。
その言葉が、この部屋で初めて記された。
だが、それは終わりを意味してはいなかった。
そのさらに下へ、まるで念を押すように、最後の一文が添えられる。
> **ただし、会議は継続中。**
◇
気が付くと、博士は地下第四層の東側通路に立っていた。
目の前には灰色のコンクリート壁。
真鍮の案内板は消えている。
木製の扉もない。
細い通路も存在しない。
まるで最初から何もなかったかのように、そこはただの行き止まりだった。
博士は静かに記録端末を確認する。
映像ファイル。
音声ログ。
写真。
すべて正常に保存されている。
そう思った次の瞬間、画面に一行の警告が表示された。
> **記録対象を確認できません。**
写真を開く。
コンクリートの壁しか写っていない。
動画を再生する。
誰もいない行き止まりを映した映像が続くだけだった。
会議室は、どこにも存在していない。
博士はしばらく無言で画面を見つめ、やがて静かに端末を閉じた。
◇
数日後。
クレイン博士は404-JPの調査報告書を完成させた。
事実だけを記した、いつもどおりの報告書。
しかし最後の補遺だけは、規定の書式から外れていた。
> **補遺404-JP-01**
> 本異常は現時点で積極的な敵対性を示さない。
> 対象は空間異常であると同時に、極めて強固な記憶保持現象である可能性が高い。
> 室内には十三脚の椅子が存在する。
> 調査時、最後の一脚は終始空席であった。
> 私は、この空席には理由があると考える。
> その理由を証明することはできない。
> しかし、あの部屋は誰かを閉じ込めているのではない。
> **誰かの帰りを、静かに待ち続けている。**
報告書へ署名を終えた博士は、万年筆を置く。
窓のないSite-83の廊下へ出ると、どこからともなく、淹れたてのコーヒーの香りが漂ってきた。
博士は足を止め、誰もいない廊下へ向かって小さく会釈をする。
「……また、お会いしましょう。」
返事はない。
それでも、その香りだけは、まるで見送るようにしばらく博士の傍らに漂い続けていた。
地下のどこか、存在しないはずの第四会議室では、今日も一冊の議事録が静かに開かれている。
ページをめくる音。
万年筆が紙を滑る音。
そして、穏やかな声が、誰にも聞かれることなく響く。
「それでは――」
「定刻となりました。」
「会議を始めましょう。」
次回予告
NCO-28-JP「わくわく博士のびっくりドッキリ鳥っキー」
9月 15日21時投稿予定




