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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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23/85

第四章 欠席者

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


 議事録へ浮かび上がった文字を見つめたまま、クレイン博士は身じろぎ一つしなかった。


 **議題 新規出席者について**


 整った筆跡。


 癖のない文字。


 それでいて、どこか温かみを感じさせる不思議な筆致だった。


 博士はゆっくりと議事録へ手を伸ばす。


 インクはまだ乾いていない。


 指先で触れることは避け、慎重に顔を近づける。


 独特の匂い。


 万年筆のインクと紙、それに淹れたてのコーヒーが混ざり合った、どこか懐かしい香りだった。


「……書き立てだ。」


 誰へ聞かせるでもなく呟く。


 記録端末は動き続けている。


 映像も音声も、すべて保存されているはずだった。


 博士は机へ端末を置き、部屋全体をもう一度見回した。


 十三脚の椅子。


 壁時計。


 掲示板。


 花瓶。


 コーヒーメーカー。


 どれも数分前と変わらない。


 変わったのは、議事録の一行だけ。


 それだけのはずだった。


     ◇


 博士は会議室を一周することにした。


 壁面を確認する。


 壁紙は古く、ところどころ日焼けの跡がある。


 しかし破れは一つもない。


 本棚には古い専門書が整然と並んでいた。


 異常工学。


 収容理論。


 危機管理。


 組織運営。


 どれも現在では絶版となった資料ばかりだった。


 背表紙へ指を滑らせる。


 埃がない。


 毎日のように誰かが掃除をしているような状態だった。


 博士は一冊を取り出す。


 ページを開く。


 中には鉛筆で書き込みが残されていた。


> 「報告書とは、未来の誰かへの手紙である。」


 短い一文。


 署名はない。


 博士はその言葉を手帳へ書き写す。


「報告書は未来への手紙……か。」


 その考え方は嫌いではなかった。


     ◇


 再び机へ戻る。


 今度は一脚ずつ椅子を観察した。


 どの椅子にも使用感がある。


 木製の肘掛けは擦り減り、座面には僅かな沈み込みが見られる。


 長年使われ続けてきた証拠だ。


 だが、その中で一脚だけ。


 入口に最も近い席だけは様子が違った。


 他の椅子より新しい。


 傷も少ない。


 座面も硬い。


 まるで途中から追加されたような印象を受ける。


 博士は椅子の背へ手を添えた。


 その瞬間だった。


 不意に背筋へ冷たいものが走る。


 誰かが。


 すぐ後ろへ立った。


 そんな感覚だった。


 博士は勢いよく振り返る。


 誰もいない。


 会議室は相変わらず静まり返っている。


 聞こえるのは時計の音だけ。


 ――カチ。


 ――カチ。


 止まっているはずの時計が、相変わらず音だけを刻み続けていた。


     ◇


 博士は自分を落ち着かせるように深呼吸をした。


「主観的印象は記録から除外。」


「客観的事実のみ。」


 自分へ言い聞かせる。


 そして椅子へ視線を戻した。


 机の上には名札が置かれている。


 十二枚。


 どれも名前は書かれていない。


 白紙だった。


 博士は一枚を持ち上げる。


 裏返す。


 何もない。


 隣の名札も同じ。


 すべて白紙。


「妙だな。」


 その時。


 部屋のどこからともなく、小さくページをめくる音がした。


 ――パラリ。


 博士は議事録を見る。


 閉じたはずのページが、一枚だけめくられていた。


 誰も触れていない。


 風もない。


 それでもページだけが静かに開いている。


 博士は慎重に近づいた。


 新しく開かれたページ。


 そこには、さきほどまで存在しなかった文章が、一行だけ増えていた。


> **定刻となりました。**


 その下へ。


 さらに一文字ずつ。


 目の前で。


 ゆっくりと文字が浮かび上がっていく。


> **出席確認を開始します。**


 万年筆は動いていない。


 それでも文字だけが現れる。


 まるで見えない誰かが書き続けているようだった。


 博士は息を呑む。


 その瞬間。


 部屋の空気がわずかに揺れた。


 椅子が軋む。


 衣服が擦れる。


 誰かが席へ着くような音。


 一つ。


 また一つ。


 十二脚。


 誰もいないはずなのに、十二人分の気配だけが会議室を満たしていく。


 博士は周囲を見回す。


 視界には誰も映らない。


 しかし、空席だった椅子には、それぞれ「誰か」が座っているような圧迫感があった。


 視線。


 息遣い。


 紙を整える音。


 コーヒーカップを持ち上げる音。


 どれも姿だけが欠けている。


 博士の研究者としての理性が、現実との折り合いをつけようと必死に働く。


 幻覚か。


 集団暗示か。


 認識災害か。


 そのどれも、この状況を説明しきれない。


     ◇


 そして。


 部屋の最奥。


 議長席。


 そこだけ空気が変わった。


 暖かな気配。


 威圧感ではない。


 誰かを安心させるような、不思議な存在感。


 博士は無意識にその席を見つめていた。


 姿は見えない。


 輪郭もない。


 それでも、そこには確かに「誰か」が座っていると理解できた。


 やがて静寂の中、一つの声が聞こえた。


 男性とも女性とも判別できない、穏やかな声。


 年齢すら分からない。


 けれど、その声には長い年月、多くの会議をまとめてきた者だけが持つ落ち着きがあった。


「……人数は、そろいましたか。」


 博士の心臓が大きく脈打つ。


 返事をするつもりはなかった。


 研究者として観察を続けるつもりだった。


 しかし、言葉は自分の意思とは無関係に口をついて出た。


「……あと、一人です。」


 その瞬間だった。


 止まっていた壁時計の長針が、静かに一目盛だけ進む。


 ――カチ。


 会議室に流れる空気が、ほんのわずかに和らいだ。


 まるで、誰かがその答えに満足したかのように。


 そして議事録の最後のページへ、新たな一行が静かに書き加えられる。


> **議題継続。**


> **欠席者の帰還を待つ。**


 クレイン博士は、その文字から目を離すことができなかった。


 気づけば、自分は入口ではなく、十三脚の椅子を囲む円の中に立っていた。


 まるで最初から、この会議の出席者であったかのように。


次回予告


第五章 議長席


9月14日21時投稿予定

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