第三章 会議室の扉(後編・Ⅱ)
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静かな音を立てながら、木製の扉が内側へ開いていく。
蝶番は驚くほど滑らかだった。
長年使われていない部屋なら、もっと軋むはずだ。
しかしその扉は、まるで数分前にも誰かが出入りしたかのように、抵抗なく開いていく。
コーヒーの香りが、一気に廊下へ流れ出した。
深煎りの豆を丁寧に抽出した香り。
わずかに湯気を含んだ温かな空気が、地下の冷たい通路と混じり合う。
クレイン博士は静かに部屋へ足を踏み入れた。
視界へ最初に飛び込んできたのは、大きな楕円形の会議机だった。
濃い色の木材で作られた重厚な机。
表面は丁寧に磨き込まれ、照明の光を柔らかく反射している。
その周囲には、等間隔で椅子が並んでいた。
博士は自然と数を数える。
「一、二、三……。」
研究者としての癖だった。
「十一、十二……十三。」
十三脚。
報告書に記されていた数と一致する。
そして、そのうち十二脚には、それぞれ資料が置かれていた。
古びた革表紙のファイル。
湯気の立つコーヒーカップ。
万年筆。
名札だけが置かれた席もある。
だが、そのどれにも人はいない。
誰も座っていないはずなのに、今にも会議が始まりそうな空気だけが部屋を満たしていた。
博士はゆっくりと部屋を見渡す。
壁には時計。
白い文字盤。
黒い針。
時刻は午前九時十五分を指したまま止まっている。
秒針も動かない。
しかし耳を澄ませると、どこからか規則正しい時を刻む音だけが聞こえてきた。
――カチ。
――カチ。
博士は時計へ近付く。
秒針は止まったままだ。
それなのに音だけが鳴っている。
「……音源は別か。」
独り言を漏らしながら、壁へ耳を寄せる。
違う。
天井でもない。
床でもない。
音は部屋全体から響いていた。
まるで、この空間そのものが時間を刻んでいるようだった。
◇
会議机の中央には、小さな花瓶が置かれていた。
花はない。
水だけが新しく入れ替えられている。
透明な水面には埃一つ浮かんでいなかった。
誰が替えたのか。
誰もいない部屋で。
博士は机の縁を指でなぞる。
埃は付かない。
木目には細かな傷が残っている。
長年使われてきた家具であることは間違いない。
しかし、その手入れだけは完璧だった。
まるで今朝、誰かが布で磨き上げたかのように。
壁際には古いコーヒーメーカーが置かれている。
電源ランプは消えていた。
博士は手をかざす。
保温板は温かい。
「あり得ない。」
電源は入っていない。
それでも金属は、人肌ほどの温度を保っていた。
ポットの蓋を開ける。
中には、淹れたばかりのブラックコーヒー。
静かな湯気が立ち上り、部屋いっぱいへ香りを広げていた。
博士は試料採取用の小瓶を取り出す。
スポイトで少量を採取する。
液体は、ごく普通のコーヒーにしか見えない。
色も。
粘度も。
香りも。
すべて正常だった。
小瓶へ封入し、ラベルを書く。
**採取試料404-JP-03**
その時だった。
背後で小さく椅子が軋んだ。
ギィ……。
博士はすぐに振り返る。
誰もいない。
十三脚の椅子は、先ほどと同じ位置に並んでいる。
だが、一脚だけ。
机へ少しだけ近付いていた。
気のせいか。
それとも、本当に動いたのか。
博士は写真を撮影する。
記録を確認する。
違いは判別できない。
「錯覚……では説明したくないな。」
その言葉だけを音声記録へ残した。
◇
部屋の最奥。
他の席より少しだけ大きな椅子が置かれていた。
背もたれは高く、木製の肘掛けには長年使い込まれた跡が残っている。
議長席。
そう呼ぶ以外に適切な言葉は思い浮かばなかった。
その席だけが、不思議な存在感を放っていた。
博士は近付く。
机の上には、一冊の革張りの議事録。
閉じられたまま置かれている。
その隣には万年筆。
インク瓶。
そして、まだ湯気の立つコーヒーカップ。
誰かが席を外している。
そんな錯覚を覚えるほど自然な光景だった。
博士は議事録へ手を伸ばす。
革の表紙は柔らかく、手へ吸い付くような感触があった。
ゆっくりと開く。
整った筆跡。
定例会議。
議題。
報告事項。
決議事項。
一ページずつ、几帳面な文字が並んでいる。
どのページにも署名はない。
ただ、同じ筆跡だけが延々と続いていた。
博士は最後のページまでめくる。
そこには見覚えのある文章が残されていた。
**出席者 十二名。**
**欠席者 一名。**
**閉会できず。**
その下は白紙。
何も書かれていない。
博士は静かに息を吐く。
「これで終わりか。」
そう呟いた、その瞬間。
机の上に置かれていた万年筆が、わずかに震えた。
コトリ。
乾いた音を立て、ゆっくりと転がる。
博士は息を呑んだ。
誰も触れていない。
空調も動いていない。
それでも万年筆は、自ら議事録の上へ滑るように移動した。
そして。
紙へ触れたペン先が、静かに動き始める。
さらり。
さらり。
インクが白紙へ染み込み、整った文字が一画ずつ浮かび上がっていく。
博士は声も出せず、その光景を見つめていた。
やがて万年筆は動きを止める。
白紙だったページには、たった一行だけ、新しい文字が記されていた。
**議題 新規出席者について**
部屋の空気が、ゆっくりと変わる。
誰もいないはずの会議室で、不意に椅子が一脚だけ静かに鳴った。
まるで。
誰かが、席に着くことを待っているかのように。
次回予告
第四章 欠席者
9月13日21時投稿予定




