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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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21/84

第三章 会議室の扉(前編・Ⅰ)

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


真鍮製の案内板は、まるで何年も前からそこに取り付けられていたかのように壁へ馴染んでいた。


 古びた金属の表面には細かな傷が刻まれ、長い年月を地下施設で過ごしてきたことを物語っている。


 その中央には、簡潔な文字だけが彫られていた。


 **地下第四会議室 →**


 クレイン博士は、その文字をしばらく見つめていた。


 数秒前まで、そこには何もなかった。


 見落とすような大きさではない。


 研究者として培ってきた観察眼が、その事実だけは断言していた。


 それでも、案内板は確かに存在している。


 壁へ触れてみる。


 冷たい。


 金属特有の感触もある。


 幻覚ではない。


 博士は胸ポケットから小型の記録端末を取り出し、写真を撮影した。


 シャッター音。


 液晶画面を確認する。


 そこには、案内板が鮮明に映っていた。


「……興味深い。」


 独り言を漏らし、博士はもう一枚撮影する。


 三枚。


 四枚。


 角度を変えながら記録を残していく。


 異常は、まず記録する。


 それが研究者としての基本だった。


 撮影を終えたあと、博士は配線図へ目を落とす。


 図面には、やはり通路は存在していない。


 しかし現実には、案内板の矢印が示す方向へ、細い通路が続いていた。


 照明は薄暗く、天井へ等間隔に並ぶ蛍光灯の半分ほどが寿命を迎えている。


 白い光が一定の間隔で明滅し、静かな地下通路へ長い影を落としていた。


 コーヒーの香りが、再び鼻先をくすぐる。


 淹れたてだ。


 酸味よりも苦味が際立つ深煎り。


 誰かがほんの数分前にドリップしたばかりのような香りだった。


 博士は周囲へ視線を巡らせる。


 人の気配はない。


 空調設備も通常運転。


 非常灯にも異常は表示されていなかった。


 記録端末へ音声入力を始める。


「調査記録、開始。」


「対象地点、地下第四層東側通路。」


「新たな案内板を確認。写真記録済み。」


「図面との不一致を確認。」


「現在、単独で進入を開始する。」


 淡々とした声だけが通路へ響き、再び静寂が戻る。


     ◇


 通路は驚くほど整備されていた。


 床には埃一つ落ちていない。


 壁面も白く塗装され、ひび割れすら見当たらない。


 地下施設の中でも、むしろ新しい区画のように見える。


 それが逆に不自然だった。


「……管理記録には存在しない区画。」


 博士は壁へ手を添える。


 塗装は新しい。


 しかし触れた感触は、何十年も使い込まれた建材の硬さだった。


 時間の感覚が一致しない。


 さらに数歩進む。


 右側の壁へ、小さなプレートが取り付けられていた。


 **会議資料保管庫**


 扉は閉じられている。


 ノブを回す。


 開かない。


 施錠されているようだった。


 博士は無理に開けようとはしない。


 その代わり、鍵穴を観察する。


 古いシリンダー錠。


 現在のSite-83では使われていない旧式だった。


「少なくとも、この区画は現行設備ではない。」


 そう記録へ残す。


 さらに奥へ進む。


 今度は壁へ、小さな掲示板が現れた。


 色褪せた紙が一枚だけ貼られている。


 近づいて読む。


> 定例会議

>

> 毎週月曜日

>

> 午前九時開始


 その下には、小さな手書き文字。


> コーヒーの補充を忘れないこと。


 思わず博士は微笑んだ。


「実に人間らしい。」


 異常の中にも、日常が残されている。


 それが404-JPという存在を、より理解し難いものへ変えていた。


     ◇


 通路は静かだった。


 静かすぎるほどに。


 自分の足音だけが規則正しく響く。


 コン。


 コン。


 コン。


 やがて博士は違和感を覚えた。


 自分の足音の後ろに、もう一つ。


 ほんの僅かに遅れて聞こえる音がある。


 コツ。


 コン。


 コツ。


 コン。


 博士は立ち止まる。


 音も止まる。


 ゆっくり振り返る。


 誰もいない。


 長い通路が伸びるだけだった。


 もう一度歩き始める。


 コン。


 コツ。


 コン。


 コツ。


 一定の距離を保ちながら、誰かが後ろを歩いているようだった。


 博士は記録端末を確認する。


 録音は続いている。


 この音も記録されているはずだ。


「帰還後、波形を解析しよう。」


 恐怖ではなく、分析が先に浮かぶ。


 それがクレイン博士だった。


     ◇


 通路の終端が見えてきた。


 そこだけ照明が暖色だった。


 白い蛍光灯ではない。


 少し古い電球色。


 その柔らかな光に照らされ、一枚の木製扉が静かに佇んでいる。


 飾り気のない、重厚な扉。


 黒い金属製の取っ手。


 中央には真鍮の銘板。


 年月を重ねた木目は艶を失っていたが、不思議なほど丁寧に手入れされている。


 まるで今朝も誰かが磨いたばかりのようだった。


 博士はゆっくり近づく。


 銘板へ刻まれた文字を見た瞬間、その場で足を止めた。


 そこには、静かにこう記されていた。


 **第四会議室**


 余計な説明はない。


 部屋番号もない。


 ただ、それだけ。


 扉の向こうから、ほのかなコーヒーの香りが流れてくる。


 そして。


 かすかに。


 本当にかすかに。


 紙をめくる音が聞こえた。


 ――パラリ。


 続いて。


 万年筆が紙の上を滑るような、小さな音。


 ――さら、さら。


 誰かが、議事録を書いている。


 博士は無意識に息を潜めた。


 部屋の中に、人がいる。


 その確信だけが、静かに胸の内へ落ちていく。


 しかし、この区画へ入ってから、誰一人として人影は見ていない。


 博士は右手を伸ばし、ゆっくりと黒い取っ手へ触れた。


 冷たい金属の感触。


 深く息を吸う。


 そして、静かにノブを回した。


 ――カチャリ。


 鍵は、掛かっていなかった。


次回予告


第三章 会議室の扉(後編・Ⅱ)


9月13日18時投稿予定

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