第二章 地図にない部屋
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クレイン博士は、異常現象を前にしても、最初から「異常」であるとは考えない。
それは若い研究員たちにもよく知られた彼の癖だった。
機器の故障ではないか。
記録の誤記ではないか。
人為的な改ざんではないか。
可能性を一つずつ潰し、それでも説明がつかなかったときに初めて、「異常」という結論を受け入れる。
だからこそ、博士は長年にわたり数多くのNCOを担当しながらも、生還し続けてきた。
404-JPも例外ではなかった。
資料室を出た翌朝、博士は管理部門へ向かっていた。
◇
管理資料保管室。
Site-83が建設された当時の青写真から、最新の増築図面まで、膨大な資料が保管されている部屋だ。
受付で認証を済ませると、槇原が分厚いファイルを抱えて現れた。
「本当に調べるんですね。」
「担当だからね。」
「止めても無駄そうだ。」
「もちろん。」
博士は苦笑した。
槇原も肩をすくめる。
「では、こちらです。」
二人は長い書架の間を歩く。
棚には年代ごとに整理された図面がびっしりと並び、紙独特の匂いが漂っている。
「Site-83は何度も増築されています。」
槇原が説明する。
「研究棟だけでも八回。収容区画は十三回。地下設備は大小合わせて三十回以上改修されています。」
「かなり複雑だな。」
「ええ。」
「だから昔の図面と今の図面では、廊下そのものが消えている場所もあります。」
博士は一冊目の青写真を机へ広げた。
建設当初の地下構造。
廊下。
収容室。
会議室。
倉庫。
一つひとつを確認していく。
だが、第四会議室は存在しない。
「こちらは十五年前。」
槇原が別の図面を広げる。
やはり無い。
二十年前。
三十年前。
施設創設時。
どの図面を見ても、第四会議室という名称は現れなかった。
「やっぱり記録には無いか。」
博士は顎へ手を当てる。
「ですが。」
槇原は古びた段ボール箱を机へ載せた。
「これは正式資料ではありません。」
「退職した管理職員が残していった私物です。」
「私物?」
「廃棄予定だったものですが、一応保管していました。」
箱の中には古いメモ帳やコピー用紙、手書きの配線図が無造作に詰め込まれていた。
博士は慎重に一枚ずつ目を通していく。
設備点検。
空調更新。
配電盤交換。
何気ない業務記録ばかりだ。
その中の一枚で、博士の手が止まった。
黄ばんだ配線図。
地下第四層。
廊下の突き当たり。
鉛筆で小さく書かれた文字。
**「第四会議室」**
正式な製図ではない。
誰かがあとから書き加えた走り書きだった。
「……これだ。」
博士は思わず呟く。
槇原も身を乗り出す。
「そんな物が……。」
「書いた人物は?」
「分かりません。」
「署名もありません。」
博士は紙を光へ透かした。
鉛筆はかなり古い。
消しゴムで消そうとした跡まで残っている。
まるで、一度は消された記録が再び浮かび上がってきたようだった。
◇
その日の午後。
博士は聞き取り調査を始めた。
対象はSite-83に十年以上勤務している職員。
管理部門。
保全部門。
医療班。
研究員。
部署を問わず、二十名以上へ同じ質問を投げかける。
「第四会議室をご存じですか。」
返答は驚くほど似通っていた。
「聞いたことはあります。」
「場所は?」
「……分かりません。」
「見たことは?」
「ある、ような気がします。」
「中は?」
そこで全員が考え込む。
長い沈黙。
やがて一人目が口を開く。
「長机。」
二人目。
「椅子。」
三人目。
「コーヒー。」
四人目。
「壁時計。」
五人目。
「……空いている席。」
博士は手を止めた。
「空いている席?」
保全部門の男性は、自分でも驚いたような顔をする。
「あれ。」
「どうして分かるんだろう。」
「誰かが来ていない。」
「そんな感じがするんです。」
「誰が?」
「分かりません。」
「顔も名前も。」
「でも。」
男性は困ったように笑った。
「会議は始められないって、そんな気がして。」
博士は黙ってメモを書き続けた。
二十名中、十八名。
ほぼ同じ証言。
しかも全員が、自分の発言に確信を持てていない。
記憶改変だけでは説明できない。
これはもっと別の何かだ。
◇
夕方。
調査結果をまとめ終えた博士は、一人でSite-83の地下区画を歩いていた。
古い配線図を片手に、何度も廊下を往復する。
図面ではここに壁がある。
実際にも壁がある。
図面ではここに倉庫がある。
実際にも倉庫がある。
すべて一致する。
ただ一か所を除いて。
地下第四層、東側通路。
配線図では、行き止まりになっている場所。
博士はその壁の前で足を止めた。
「ここか。」
灰色のコンクリート壁。
消火器。
非常灯。
何の変哲もない行き止まり。
博士は壁を軽く叩く。
鈍い音が返ってくる。
中空ではない。
完全な壁だ。
「気のせいか。」
そう呟き、踵を返そうとした、その時だった。
どこからともなく、ふわりとコーヒーの香りが漂った。
昨日、資料室で嗅いだものと同じ香り。
博士はゆっくりと振り返る。
そこには、さっきまで無かったはずのものがあった。
壁に取り付けられた、小さな真鍮製の案内板。
古びた文字で、静かにこう刻まれている。
**地下第四会議室 →**
博士は目を見開く。
つい数秒前まで、確かに何も無かった。
見間違えるはずがない。
だが今、その案内板は何年も前からそこにあったかのような顔で壁に掛かっている。
矢印の先には、薄暗い通路が一本だけ、静かに伸びていた。
その先からは、誰も淹れていないはずのコーヒーの香りが、ゆっくりと流れてきていた。
次回予告
第三章 会議室の扉(前編・Ⅰ)
9月12日21時投稿予定




