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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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19/83

Tale-02 # 議長席 ## 第一章 存在しない会議室

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


 Site-83の朝は、いつもコーヒーの香りから始まる。


 地下施設である以上、窓から差し込む朝日など存在しない。それでも、廊下を歩く研究員たちは、それぞれの紙コップやマグカップを片手に、まるで地上のオフィスへ出勤するような足取りで実験室へ向かう。


 異常を扱う場所だからこそ、日常は意図して守られている。


 クレイン博士は、その光景を嫌いではなかった。


 朝の巡回を終え、第三研究棟へ続く連絡通路を歩く。


 白い照明。


 磨き上げられた床。


 壁一面に並ぶ非常用設備。


 そして、職員同士が交わす何気ない挨拶。


「おはようございます、博士。」


「おはよう。」


「昨日のNCO-218、結局どうなったんです?」


「眠らせてある。起きたらまた報告を聞かせてもらうさ。」


 そんな他愛ない会話が、この施設の日常だった。


 クレイン博士は異常を研究対象として見ていた。


 恐れるべきものではある。


 だが、未知である以上、理解しようとする姿勢を失ってはならない。


 それが彼の信条だった。


     ◇


 その日の午前九時過ぎ。


 管理部門から一通の電子通知が届いた。


 件名。


 **NCO-404-JP 担当研究員変更通知**


 博士は眉をわずかに動かす。


「404……?」


 端末を開く。


 しかし表示されたのは数行だけだった。


 **対象:NCO-404-JP**


 **管理権限:レベル3以上**


 **詳細閲覧には追加認証が必要です。**


「珍しいな。」


 博士は独り言を漏らした。


 通常、担当研究員へ任命される時点で最低限の概要は閲覧できる。


 ここまで情報が伏せられている案件は多くない。


 さらに気になったのは、末尾に添えられた一文だった。


 **現地調査を優先すること。**


「報告書より先に現場を見ろ、か。」


 研究部門らしからぬ指示だった。


     ◇


 昼休憩。


 食堂では職員たちが思い思いに昼食を取っていた。


 クレイン博士がトレーを持って席に着くと、向かいへ槇原が腰を下ろした。


 書類仕事を一手に引き受けることの多い槇原は、研究員たちの間では「Site-83で最も忙しい男」と半ば冗談交じりに呼ばれている。


「博士、珍しく難しい顔ですね。」


 そう言って味噌汁をすすりながら笑う。


 博士も苦笑した。


「そんなに分かりやすいか。」


「長年見てますから。」


「新しい案件です?」


「ああ。」


 博士は端末を槇原へ向ける。


「404-JPだ。」


 その瞬間だった。


 槇原の笑みが、ぴたりと止まった。


 周囲で談笑していた職員たちも、なぜか一瞬だけ口数が少なくなる。


 食堂の空気が、ほんの数秒だけ静まり返った。


「……担当ですか。」


「ああ。」


「何か知っているか?」


 槇原は少し考え込み、静かに頷いた。


「知っていると言えば知っています。」


「でも説明はできません。」


「妙な言い方だな。」


「自分でも妙だと思います。」


 槇原は苦笑した。


「存在しない会議室。」


「職員の間では、そう呼ばれています。」


「地下にあるのか?」


「そう聞きます。」


「場所は?」


「分かりません。」


「図面にも載っていません。」


「だが見た者はいる?」


「います。」


「ただし全員、同じことを言います。」


 槇原は少しだけ声を落とした。


「『見た覚えはある。でも、どこにあったか説明できない。』」


 博士は腕を組む。


「記憶改変か。」


「私もそう考えました。」


「ですが、それだけじゃ説明がつかない。」


「というと?」


 槇原は遠くを見るような目をした。


「私も一度だけ……あの部屋の夢を見たことがあります。」


「夢?」


「ええ。」


「長い机と、十三脚の椅子。」


「誰かがコーヒーを淹れていて。」


「誰も話していないのに、不思議と会議が始まるのを待っている空気だけがあった。」


「顔は思い出せません。」


「でも、議長席だけは、なぜかずっと見ていた気がするんです。」


 博士は黙って耳を傾けていた。


「目が覚めると全部忘れる。」


「なのに、コーヒーの香りだけは一日中残っていました。」


「それ以来、404-JPの話だけは深追いしないことにしています。」


「……博士。」


 槇原は真剣な表情になる。


「調査するなとは言いません。」


「でも、もし本当に第四会議室へ辿り着いたら。」


「空いている椅子には、絶対に座らないでください。」


「理由は?」


「分かりません。」


「ただ……それだけは、なぜか確信があるんです。」


     ◇


 午後。


 博士は正式な閲覧権限を受け取り、404-JPの資料室へ入った。


 厚い防火扉。


 指紋認証。


 虹彩認証。


 二重の電子錠。


 異常そのものより、資料の方が厳重に保管されている。


 棚には十数冊のファイルが並んでいた。


 しかし、そのほとんどが薄い。


 ページ数は少なく、内容も断片的だった。


 共通しているのは最後の一文。


 **調査は中断。**


 **理由:対象の位置を再確認できず。**


 ある報告書には、こう書かれていた。


> 地下第四会議室を確認した。

>

> 帰還後、場所を説明できなくなった。


 別の報告書には。


> 室内に十三脚の椅子を確認。

>

> 写真撮影を試みたが、保存データには十二脚しか写っていなかった。


 さらに別の報告書。


> 室内でコーヒーを確認。

>

> 採取した液体は分析不能。

>

> 帰還後、試料は空のカップへ変化していた。


 博士は無意識にページをめくる速度を落とした。


 そして最も古い報告書の末尾には、他とは異なる筆跡で、たった四文字だけが静かに書き添えられていた。


 **会議継続。**


 その瞬間、資料室のどこからともなく、淹れたてのブラックコーヒーの香りがふわりと漂ってきた。


 博士は静かにファイルを閉じる。


 胸に芽生えたのは恐怖ではない。


 未知を前にした研究者としての、抑えきれない探究心だった。


「なるほど。」


 誰もいない資料室で、博士は静かに呟く。


「君は、ここから始めろと言いたいわけか。」


 返事はない。


 だが部屋を出ようとした、その瞬間。


 止まっていたはずの壁掛け時計が、一度だけ――


 **カチリ。**


 と、小さな音を立てた気がした。



次回予告


第二章 地図にない部屋


9月12日18時投稿予定

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