第十章 閉会できず
毎日21時投稿
金土日18時、21時、2本投稿予定
この章は5分ぐらいで読めます
万年筆の先が紙を滑る。
静まり返った通路に、その小さな音だけが静かに響いていた。
さらり。
さらり。
崩落の轟音さえ、どこか遠く感じるほど穏やかな時間だった。
議長は議事録へ、一行ずつ丁寧に文字を書き記していく。
**緊急対策会議へ移行。**
**避難開始。**
**職員の安全確保を最優先とする。**
その筆跡は乱れない。
揺れる床の上でも、いつもの会議と変わらぬ几帳面さだった。
瓦礫の向こうから浅倉が小さく笑う。
『……本当に書いてるんですね。』
「議事録は会議の記憶です。」
議長は穏やかに答える。
「誰が何を考え、どんな判断をしたのか。」
「後に残すことも、私の仕事です。」
『きっと……後輩が読むんですね。』
「ええ。」
「読んでくれる人がいると信じています。」
その言葉に、浅倉は静かに息を吐いた。
『その時には……』
『こんな事故が起きない施設になってるといいですね。』
「そうですね。」
議長は微笑んだ。
「きっと、皆さんならできます。」
その声には、不思議な確信があった。
後に続く者たちへの信頼。
それは希望だった。
その時、施設全体が大きく軋んだ。
ゴゴゴゴ……。
天井の照明が完全に消える。
非常灯も一つ、また一つと光を失っていく。
通路は急速に闇へ沈み始めた。
議長は懐中電灯を机代わりにした瓦礫へ向け、手元だけを照らす。
白い紙だけが、暗闇の中で浮かび上がっていた。
『議長。』
「はい。」
『お願いがあります。』
「何でしょう。」
少しだけ間があった。
浅倉は覚悟を決めたように言った。
『皆さんに伝えてください。』
『最後まで、一人じゃなかったって。』
議長は静かに頷く。
「必ず伝えます。」
『……ありがとうございます。』
その一言は、とても穏やかだった。
もう恐怖はなかった。
ただ、静かな安堵だけがあった。
議長は議事録へ新しい一行を書き加える。
**未確認職員と合流。**
万年筆が止まる。
そして、その下へ、ゆっくりと続けた。
**職員一名、救助継続。**
その時だった。
これまでで最も激しい衝撃が施設を襲った。
轟音とともに床が大きく傾く。
懐中電灯が転がり、光がぐるりと壁を照らした。
議長は咄嗟に議事録だけを胸へ抱き寄せる。
巨大な鉄骨が目の前へ落下した。
激しい砂塵。
呼吸もできないほどの粉塵が通路を埋め尽くす。
やがて揺れが収まり、再び静寂が訪れた。
議長は咳き込みながら身を起こす。
懐中電灯は壊れていた。
残る光は、遠くで明滅する非常灯だけ。
「浅倉君。」
返事はない。
「浅倉君。」
沈黙。
議長は瓦礫へ手を置いた。
冷たい。
そして、静かだった。
長い時間が流れたようにも、一瞬だったようにも感じられた。
その時。
瓦礫の向こうから、かすかな声が届く。
『……議長。』
ほとんど聞き取れないほど小さな声。
それでも議長はすぐに答える。
「ここにいます。」
『……よかった。』
それが最後の言葉だった。
それ以上、返事はなかった。
議長は目を閉じる。
瓦礫へ添えた手を、そのまま動かさない。
何分経ったのか分からない。
時計を見ることもなかった。
やがて静かに議事録を開き、最後の空欄へ万年筆を走らせる。
インクは少しだけ滲んでいた。
それでも文字ははっきりと残る。
**出席者 十二名。**
少し考え、次の行を書く。
**欠席者 一名。**
万年筆が止まる。
議長は静かに天井を見上げた。
崩れたコンクリートの隙間から、細い埃がゆっくりと舞い落ちてくる。
まるで雪のようだった。
議長は小さく息を吸い、誰に聞かせるでもなく、いつもの会議を締めくくる穏やかな口調で告げる。
「議題は、まだ残っています。」
そして、議事録の最後の一行へ、ゆっくりと書き記した。
**閉会できず。**
万年筆を閉じる。
議長は議事録を胸に抱え、静かに椅子へ腰掛けるように瓦礫へ背を預けた。
そして、いつもの会議と何ひとつ変わらない穏やかな声で、最後の宣言を口にした。
「――それでは。」
一拍の静寂。
暗闇の奥で、誰かが椅子を引くような、小さな音が響いた気がした。
議長は微笑み、前を見つめたまま続ける。
「会議を、継続します。」
次回予告
第十一章 閉会まで、あと一人
9月11日18時投稿予定




