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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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17/85

第十章 閉会できず

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


万年筆の先が紙を滑る。


 静まり返った通路に、その小さな音だけが静かに響いていた。


 さらり。


 さらり。


 崩落の轟音さえ、どこか遠く感じるほど穏やかな時間だった。


 議長は議事録へ、一行ずつ丁寧に文字を書き記していく。


 **緊急対策会議へ移行。**


 **避難開始。**


 **職員の安全確保を最優先とする。**


 その筆跡は乱れない。


 揺れる床の上でも、いつもの会議と変わらぬ几帳面さだった。


 瓦礫の向こうから浅倉が小さく笑う。


『……本当に書いてるんですね。』


「議事録は会議の記憶です。」


 議長は穏やかに答える。


「誰が何を考え、どんな判断をしたのか。」


「後に残すことも、私の仕事です。」


『きっと……後輩が読むんですね。』


「ええ。」


「読んでくれる人がいると信じています。」


 その言葉に、浅倉は静かに息を吐いた。


『その時には……』


『こんな事故が起きない施設になってるといいですね。』


「そうですね。」


 議長は微笑んだ。


「きっと、皆さんならできます。」


 その声には、不思議な確信があった。


 後に続く者たちへの信頼。


 それは希望だった。


 その時、施設全体が大きく軋んだ。


 ゴゴゴゴ……。


 天井の照明が完全に消える。


 非常灯も一つ、また一つと光を失っていく。


 通路は急速に闇へ沈み始めた。


 議長は懐中電灯を机代わりにした瓦礫へ向け、手元だけを照らす。


 白い紙だけが、暗闇の中で浮かび上がっていた。


『議長。』


「はい。」


『お願いがあります。』


「何でしょう。」


 少しだけ間があった。


 浅倉は覚悟を決めたように言った。


『皆さんに伝えてください。』


『最後まで、一人じゃなかったって。』


 議長は静かに頷く。


「必ず伝えます。」


『……ありがとうございます。』


 その一言は、とても穏やかだった。


 もう恐怖はなかった。


 ただ、静かな安堵だけがあった。


 議長は議事録へ新しい一行を書き加える。


 **未確認職員と合流。**


 万年筆が止まる。


 そして、その下へ、ゆっくりと続けた。


 **職員一名、救助継続。**


 その時だった。


 これまでで最も激しい衝撃が施設を襲った。


 轟音とともに床が大きく傾く。


 懐中電灯が転がり、光がぐるりと壁を照らした。


 議長は咄嗟に議事録だけを胸へ抱き寄せる。


 巨大な鉄骨が目の前へ落下した。


 激しい砂塵。


 呼吸もできないほどの粉塵が通路を埋め尽くす。


 やがて揺れが収まり、再び静寂が訪れた。


 議長は咳き込みながら身を起こす。


 懐中電灯は壊れていた。


 残る光は、遠くで明滅する非常灯だけ。


「浅倉君。」


 返事はない。


「浅倉君。」


 沈黙。


 議長は瓦礫へ手を置いた。


 冷たい。


 そして、静かだった。


 長い時間が流れたようにも、一瞬だったようにも感じられた。


 その時。


 瓦礫の向こうから、かすかな声が届く。


『……議長。』


 ほとんど聞き取れないほど小さな声。


 それでも議長はすぐに答える。


「ここにいます。」


『……よかった。』


 それが最後の言葉だった。


 それ以上、返事はなかった。


 議長は目を閉じる。


 瓦礫へ添えた手を、そのまま動かさない。


 何分経ったのか分からない。


 時計を見ることもなかった。


 やがて静かに議事録を開き、最後の空欄へ万年筆を走らせる。


 インクは少しだけ滲んでいた。


 それでも文字ははっきりと残る。


 **出席者 十二名。**


 少し考え、次の行を書く。


 **欠席者 一名。**


 万年筆が止まる。


 議長は静かに天井を見上げた。


 崩れたコンクリートの隙間から、細い埃がゆっくりと舞い落ちてくる。


 まるで雪のようだった。


 議長は小さく息を吸い、誰に聞かせるでもなく、いつもの会議を締めくくる穏やかな口調で告げる。


「議題は、まだ残っています。」


 そして、議事録の最後の一行へ、ゆっくりと書き記した。


 **閉会できず。**


 万年筆を閉じる。


 議長は議事録を胸に抱え、静かに椅子へ腰掛けるように瓦礫へ背を預けた。


 そして、いつもの会議と何ひとつ変わらない穏やかな声で、最後の宣言を口にした。


「――それでは。」


 一拍の静寂。


 暗闇の奥で、誰かが椅子を引くような、小さな音が響いた気がした。


 議長は微笑み、前を見つめたまま続ける。


「会議を、継続します。」


次回予告


第十一章 閉会まで、あと一人


9月11日18時投稿予定

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