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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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第九章 最後の退避

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


第一避難路を照らす非常灯は、ところどころ消え始めていた。


 赤かった光は弱々しく明滅し、そのたびに長い通路は暗闇へ沈む。


 青年たちは互いの姿を確かめ合いながら、慎重に歩みを進めていた。


 誰も口を開かない。


 誰も議長の名前を呼ばない。


 呼んでしまえば、本当に置いてきたことを認めてしまう気がした。


 先頭を歩く保全部門の職員が、何度も腕時計を確認している。


「急ぎましょう。」


 その声にも、どこか焦りが滲んでいた。


「非常電源も限界です。」


 青年は無線機を強く握りしめる。


 さきほどまで聞こえていた議長の声は、もう届かない。


 何度呼びかけても、返ってくるのは細かな雑音だけだった。


 その沈黙が、胸を締め付ける。


 ふと、女性研究員が立ち止まった。


「……聞こえませんか。」


 全員が足を止める。


 耳を澄ませる。


 遠くから響くのは、崩落の轟音だけ。


 だが、その音の奥に、微かに金属を叩くような音が混じっていた。


 カン。


 カン。


 カン――。


 青年は振り返る。


 暗い通路の向こう。


 議長がいるはずの方向だった。


「議長……。」


 思わず呟いたその声は、誰にも届かない。


 保全部門の職員は静かに首を横へ振る。


「行こう。」


「……議長は、それを望まない。」


 青年は唇を噛み締め、再び前を向いた。


     ◇


 一方、瓦礫の前では。


 議長が崩れたコンクリートへ工具を打ち付けていた。


 施設に備え付けられていた小型の救助用ハンマー。


 一撃ごとに、乾いた音が通路へ響く。


 カン。


 カン。


 しかし、瓦礫はほとんど動かない。


 崩落した床と天井が複雑に噛み合い、一人の力ではどうすることもできなかった。


 議長は工具を下ろし、大きく息を吐く。


「……申し訳ありません。」


 瓦礫へ向かって、小さく呟く。


 向こう側から、すぐに声が返ってきた。


『謝らないでください。』


 浅倉の声は少しだけ弱くなっていた。


『来てくれただけで……十分です。』


「十分ではありません。」


 議長は静かに答える。


「迎えに来ると約束しました。」


『その約束は……もう果たしていますよ。』


 議長は返事をしなかった。


 代わりに、瓦礫へ手を添える。


 冷え切ったコンクリートの感触だけが、現実を伝えていた。


 しばらく沈黙が続く。


 やがて浅倉が、小さな声で尋ねる。


『議長。』


「はい。」


『第四会議室って……好きでした。』


 突然の言葉だった。


「どうしてですか。」


『静かで。』


『コーヒーの匂いがして。』


『窓はないのに、不思議と息苦しくなくて。』


『議長がいつも……』


 浅倉は息を整える。


『笑ってたから。』


 議長は目を閉じた。


 第四会議室。


 長い木の机。


 十三脚の椅子。


 湯気の立つコーヒーカップ。


 新人が緊張して座っていた席。


 誰かの何気ない冗談。


 会議の前に交わされる「おはようございます」。


 そのすべてが、もう戻らない日常になろうとしていた。


「私も。」


 議長は穏やかに答えた。


「好きですよ。」


「皆さんが集まる、あの部屋が。」


 浅倉は少しだけ笑ったようだった。


『また……会議したかったですね。』


「ええ。」


 議長も笑う。


「次は、もっと短く終わる会議にしましょう。」


『賛成です。』


 二人は小さく笑い合った。


 その笑い声は、崩れた通路へ静かに消えていく。


 その時。


 施設全体を揺るがす、これまでで最大の衝撃が走った。


 轟音。


 地鳴り。


 壁のひび割れが一気に広がり、天井から巨大なコンクリート片が落下する。


 議長は反射的に身を伏せた。


 猛烈な砂塵が舞い上がる。


 数秒後。


 静寂。


 議長はゆっくりと立ち上がる。


 懐中電灯を瓦礫へ向ける。


「浅倉君!」


 返事はない。


「浅倉君!」


 数秒後。


 かすかな咳払いが聞こえた。


『……はい。』


 その一言だけで、議長は安堵の息を漏らす。


「無事ですね。」


『なんとか……。』


 しかし、その声は先ほどより明らかに弱い。


 時間が残されていないことは、二人とも理解していた。


 議長はゆっくりと議事録を取り出す。


 角が少し折れた革張りの表紙。


 会議が始まってから、ずっと手放さなかった一冊だった。


 万年筆の蓋を外し、白紙のページを開く。


 インクの匂いが、わずかに漂う。


 浅倉が不思議そうに尋ねた。


『議長……。』


「はい。」


『こんな時に……議事録ですか。』


 議長は穏やかに微笑む。


「ええ。」


「まだ、会議は終わっていませんから。」


 その言葉とともに、万年筆の先が静かに紙へ触れた。


 暗い通路に、さらさらと文字を書く音だけが、小さく響き始めた。



次回予告


第十章 閉会できず


9月10日21時投稿予定

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