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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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第八章 隔てられた声

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


瓦礫の山は、まるで一枚の壁のように二人の間へ立ちはだかっていた。


 崩れたコンクリート。


 曲がった鉄骨。


 裂けた配管からは白い蒸気が吹き出し、懐中電灯の光をぼんやりと霞ませている。


 議長は慎重に瓦礫へ手を掛けた。


 動かせるものがないか、一つひとつ確かめる。


 しかし、どれもびくともしなかった。


 無理に動かせば、さらに崩落を招く危険がある。


 議長は一度手を止め、深く息をついた。


「浅倉君。」


『……はい。』


「怪我の具合を教えてください。」


 少し間があった。


『右脚が……棚の下敷きになっています。』


『たぶん、折れています。』


「出血は。」


『止まってる……と思います。』


「意識は。」


『あります。』


 議長は静かに頷いた。


 その返答を一つずつ頭の中で整理していく。


 生存。


 意識あり。


 会話可能。


 だが、自力での脱出は困難。


 救助には時間が必要だ。


 その「時間」が、もう残されていない。


 遠くで再び重い振動が響いた。


 施設全体が低く唸る。


 壁の亀裂はさらに広がり、天井から砂がぱらぱらと降り注ぐ。


 浅倉が小さく笑った。


『……施設、怒ってますね。』


 その冗談に、議長もわずかに笑みを浮かべる。


「そうかもしれません。」


「昔から古い建物ですから。」


『食堂の天井も……きしんでましたし。』


「保全部から何度も直してほしいと言われていました。」


 二人は思わず笑った。


 その笑いは短かったが、不思議と穏やかな時間だった。


 青年たちが見れば、きっと信じられなかっただろう。


 崩壊寸前の施設で、二人はまるで昼休みの雑談でもするように話していた。


 しばらくして、浅倉が静かに口を開く。


『議長。』


「はい。」


『皆さん……避難できましたか。』


「ええ。」


 議長は迷わず答えた。


「今頃は第一避難路へ向かっているはずです。」


『……よかった。』


 その一言に、議長は目を閉じた。


 この青年は最後まで、自分より仲間を心配している。


 だからこそ、ここへ来てよかったと心から思った。


「浅倉君。」


『はい。』


「怖いですか。」


 その問いに、少しだけ沈黙が流れる。


 やがて、かすれた笑い声が返ってきた。


『……怖いです。』


『本当は、すごく。』


『まだ家族にも、ちゃんと就職祝いのお礼を言えてなくて。』


『登山も……今年は一回しか行けてなくて。』


『やりたいこと、いっぱいあったんです。』


 議長は何も言わなかった。


 慰めの言葉を探さない。


 「大丈夫です」と根拠のない希望も口にしない。


 ただ、その言葉を静かに受け止めた。


「そうですね。」


 ようやく返した言葉は、それだけだった。


「まだ、これからでしたね。」


 浅倉は静かに息を吐く。


『議長は。』


「はい。」


『怖くないんですか。』


 議長は少しだけ考えた。


 そして、小さく笑う。


「怖いですよ。」


『えっ。』


「私も人間ですから。」


「危険な場所は苦手ですし、高いところも好きではありません。」


 浅倉がくすりと笑う。


『なんだ……。』


『議長にも苦手なものがあるんですね。』


「もちろんあります。」


「ですが。」


 議長は崩れた瓦礫へそっと手を添える。


「怖いからこそ、一人にはできません。」


 その言葉に、瓦礫の向こうは静かになった。


 長い沈黙。


 やがて浅倉が、小さな声で呟く。


『……ありがとうございます。』


 議長は答えず、懐中電灯で周囲を照らし始めた。


 瓦礫の隙間。


 崩れた梁。


 配管。


 何か方法はないか。


 少しでも道を開けないか。


 諦めるという選択肢は、まだなかった。


 その時だった。


 無線機から突然、微かな雑音が流れる。


『……こちら……避難班。』


 青年の声だった。


『議長……応答してください。』


 議長はすぐに送信ボタンを押す。


「こちら議長。」


『無事ですか!』


「ええ。」


『お願いです……戻ってきてください。』


 青年の声は震えていた。


『隔壁が……もう保ちません。』


『このままだと、本当に戻れなくなります。』


 議長は静かに目を閉じる。


 瓦礫の向こうには浅倉。


 無線の向こうには仲間たち。


 どちらも、自分にとって守るべき職員だった。


 その狭間で、議長は静かに息を吸う。


 そして、穏やかな声で青年へ告げた。


「皆さんに伝えてください。」


『議長……。』


「必ず、生きて施設を出るように。」


 青年は何か言おうとした。


 しかし、その前に無線は激しい雑音へ飲み込まれていく。


『……でも……議長……!』


 声はそこで途切れた。


 静寂が戻る。


 議長はゆっくりと無線機を下ろした。


 そして瓦礫の向こうへ向かって、優しく語り掛ける。


「さて。」


「続きを始めましょうか。」


 その言葉は、まるで本当に会議の続きを始めるかのように、穏やかで落ち着いた声だった。


 誰もまだ気付いていない。


 この時、地下第四会議室ではなく、この崩れた通路こそが――


 **最後の会議室**になろうとしていたことを。


次回予告


第九章 最後の退避


9月10日18時投稿予定

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