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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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第七章 約束の先へ

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


 「行け。」


 議長が最後に残したその一言は、命令というより願いだった。


 青年たちは誰一人として足を動かせず、その場に立ち尽くしていた。


 暗い通路の先では、赤い非常灯が規則的に明滅している。


 その光の中を、議長の背中がゆっくりと遠ざかっていく。


 誰かが追い掛けようと一歩踏み出した。


 しかし保全部門の職員がその腕をつかみ、静かに首を横へ振る。


「……駄目だ。」


 掠れた声だった。


「議長は、もう決めた。」


 誰も反論できなかった。


 それが議長という人間だった。


 一度下した判断は、自分が責任を持って最後まで貫く。


 それを知っているからこそ、誰も無理に止められなかった。


「……避難を続けます。」


 女性研究員が涙を拭いながら前を向く。


「議長の命令です。」


 青年は拳を握り締めた。


 悔しかった。


 助けたい。


 追い掛けたい。


 それでも、自分がここで命令を破れば、議長が守ろうとしたものまで無駄になる気がした。


 一行は重い足取りで第一避難路へ向かう。


 通路の天井には大きな亀裂が走り、ところどころで配管が破裂して白い蒸気を噴き上げている。


 施設そのものが悲鳴を上げているようだった。


 後方では、金属が崩れる轟音が何度も響く。


 そのたびに青年は振り返る。


 だが、もう議長の姿は見えなかった。


 赤い光だけが、暗闇の中で小さく揺れている。


     ◇


 一方、その頃。


 議長は資料保管区画へ続く長い廊下を一人歩いていた。


 照明は完全に失われ、非常灯だけが足元をぼんやりと照らしている。


 瓦礫を越え、倒れた棚を避けながら、一歩ずつ前へ進む。


 無線機からは絶えず雑音が流れていた。


 議長は送信ボタンを押す。


「浅倉君。」


 返事はない。


 数歩進む。


「浅倉君、聞こえていますか。」


 しばらくして、小さなノイズが混じった。


『……はい。』


 その声を聞いた議長は、ほんのわずかに表情を緩めた。


「無事ですね。」


『はい……まだ。』


 息遣いは荒い。


 しかし意識ははっきりしている。


「今、向かっています。」


 短い沈黙。


 そして浅倉は、小さく笑ったようだった。


『議長らしいですね。』


「そうでしょうか。」


『……きっと、来ると思ってました。』


 議長は答えなかった。


 ただ足を止めず、瓦礫を越えて進み続ける。


 やがて無線の向こうから、遠くで何かが崩れる音が響いた。


『……議長。』


「はい。」


『来ないでください。』


 その言葉に、議長の歩みだけが止まった。


『もう、間に合いません。』


『通路も崩れて……。』


『ここまで来たら、議長も戻れなくなります。』


 浅倉の声は不思議なくらい落ち着いていた。


 恐怖を押し殺した声ではない。


 覚悟を決めた人間の声だった。


 議長は静かに目を閉じる。


 そして、穏やかに答えた。


「浅倉君。」


『はい。』


「君は、昨日ここへ異動してきたばかりでしたね。」


『……はい。』


「食堂のカレーがおいしいと話していました。」


 無線の向こうで、小さく笑う気配がした。


『……覚えてくれてたんですか。』


「もちろんです。」


「会議で自己紹介もしてくれました。」


「休日は登山が趣味だと。」


 少しの沈黙。


 その沈黙は、不思議と温かかった。


 議長は再び歩き始める。


「私はね。」


 静かな声が暗い廊下へ響く。


「職員の名前を忘れないようにしています。」


「誰が何を好きで、どんな夢を持っているのか。」


「全部は無理でも、できるだけ覚えていたい。」


 浅倉は何も答えない。


 ただ、微かな呼吸だけが聞こえる。


「だから。」


 議長はゆっくりと言葉を続けた。


「私は、君を置いて帰ることはできません。」


 無線の向こうで、小さく息を呑む音がした。


『……議長。』


「もう少しです。」


 議長は懐中電灯で前方を照らす。


 崩れた棚。


 散乱した資料。


 ひしゃげた鉄骨。


 その向こうに、人影が見えた気がした。


 議長は歩く速度を少しだけ速める。


 その瞬間だった。


 施設全体を揺るがすような激しい衝撃が走る。


 轟音とともに天井のコンクリートが崩れ落ち、通路を巨大な瓦礫が塞いだ。


 激しい土煙が舞い上がる。


 議長は咄嗟に身を伏せ、頭を守る。


 数秒後、静寂が戻る。


 議長はゆっくりと立ち上がった。


 懐中電灯の光を前へ向ける。


 瓦礫の向こう側から、かすかな声が聞こえた。


『……議長。』


 その距離は、ほんの数メートル。


 しかし、その数メートルは、崩れたコンクリートと鋼材によって完全に閉ざされていた。


 議長は瓦礫へ手を掛ける。


 冷たいコンクリートの感触が掌に伝わる。


 そして静かに息を吸い込み、崩れた壁の向こうへ向かって声を掛けた。


「浅倉君。」


「そこにいますね。」


 返ってきたのは、小さく、それでも確かな返事だった。


『……はい。』


 互いの姿は見えない。


 だが、その声だけは、確かに届いていた。



次回予告


第八章 隔てられた声


9月9日21時投稿予定

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