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異常世界の歩き方 MDE(国際異常研究機構)  作者: 神代千早


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第六章 議長の決断

毎日21時投稿

金土日18時、21時、2本投稿予定

この章は5分ぐらいで読めます


地下通路を震わせる轟音は、徐々に近づいていた。


 壁のひび割れはさらに広がり、天井から落ちる砂塵が視界を白く霞ませる。


 非常灯だけが赤く点滅し、職員たちの影を長く床へ落としていた。


 誰も声を上げない。


 誰も泣かない。


 ただ、自分たちに残された時間が少ないことだけは、全員が理解していた。


 議長は無線機を静かに胸元へ収めると、保全部門の職員へ向き直る。


「隔壁閉鎖まで、正確な時間は。」


「最短で七分です。」


 返事は苦しそうだった。


「途中で電源が落ちれば、もっと早まる可能性があります。」


 議長は小さく頷く。


「ありがとう。」


 それだけ言うと、壁に掛けられた避難経路図へ視線を向けた。


 一本だけ残された第一避難路。


 そして、通信が途絶えた資料保管区画。


 その二つは、大きく離れている。


 地図を見れば、誰の目にも分かる。


 両方を選ぶことはできない。


 沈黙を破ったのは、先ほど無線を受け取っていた女性研究員だった。


「議長……。」


 声が震えている。


「浅倉君の場所まで行けば、戻れません。」


 議長は否定しなかった。


「ええ。」


「その可能性は高いでしょう。」


 淡々とした返事だった。


 事実を否定しない。


 希望だけを口にしない。


 それが、この人の誠実さだった。


「ですが。」


 議長は穏やかに続ける。


「可能性があるなら、見捨てる理由にはなりません。」


 青年は思わず議長を見る。


 その横顔には迷いが見えなかった。


 保全部門の職員が一歩前へ出る。


「私が行きます。」


「議長は避難してください。」


「指揮官を失うわけにはいきません。」


 続いて別の研究員も口を開く。


「二人で向かいます。」


「救助は私たちが。」


「議長は全員を連れて地上へ。」


 一人、また一人と声が重なる。


 誰も議長を見捨てようとしているのではない。


 むしろ逆だった。


 誰も、この人を失いたくなかった。


 議長は皆の顔をゆっくりと見渡した。


 一人ずつ。


 まるで会議で意見を聞く時と同じように。


 そして、小さく笑った。


「ありがとう。」


 その笑顔は、これまでと何一つ変わらなかった。


「ですが、この判断は私が行います。」


 静かな口調。


 それだけで、誰も言葉を返せなくなる。


「責任者とは、最後に判断する者です。」


「そして、その結果も引き受ける者です。」


 青年は胸が苦しくなった。


 初めて会ったばかりの人だった。


 それなのに、この人がどれだけ信頼されているのか、今なら分かる。


 議長は責任を人へ押し付けない。


 だから皆も、この人を支えようとする。


 その時、青年は思わず前へ出ていた。


「自分も行きます!」


 全員の視線が集まる。


 青年は拳を握り締めた。


「浅倉さんを助けるなら、自分も――」


「ありがとう。」


 議長は青年の言葉を遮ることなく受け止めた。


 そして、ゆっくりと首を横へ振る。


「君には別の役目があります。」


「え……。」


「生きて帰ることです。」


 その言葉はあまりにも静かで、あまりにも重かった。


「今日見たことを忘れないでください。」


「これから入ってくる人たちへ伝えてください。」


「私たちが、何を守ろうとしていたのかを。」


 青年は何も言えなかった。


 返事をしようとしても、喉が詰まる。


 議長は再び全員へ向き直る。


「これより避難を開始します。」


「保全部門は先導を。」


「医療班は負傷者を優先。」


「研究員は最後尾を確認しながら移動してください。」


 全員が反射的に頷く。


 それでも、その場を動けない者がいた。


 女性研究員が震える声で尋ねる。


「議長……あなたは。」


 議長は少しだけ目を伏せた。


 そして、誰もが一生忘れられなくなる言葉を、静かに口にした。


「会議には、まだ欠席者がいます。」


 誰も息をすることすら忘れていた。


 議長は議事録を胸に抱え、穏やかに微笑む。


「一人でも欠席者がいる限り。」


 一拍置いて、まっすぐ仲間たちを見つめる。


「私は、閉会することはできません。」


 その言葉に、廊下は深い静寂に包まれた。


 轟音だけが遠くで鳴り響いている。


 青年の目には涙が滲んでいた。


 誰も、その言葉を否定できない。


 議長が今まで、ずっとその信念で皆を守ってきたことを知っているからだ。


 やがて議長は静かに背を向ける。


 進む先は避難路ではない。


 暗く崩れ始めた資料保管区画へ続く通路だった。


 赤い非常灯の中、その背中は少しずつ遠ざかっていく。


 青年は思わず叫んだ。


「議長!」


 その声に、議長は足を止める。


 振り返ることはしない。


 ただ右手を軽く上げ、それだけで十分だと言うように、小さく手を振った。


 それが、青年にとって議長を見た最後の姿となった。



次回予告


第七章 約束の先へ


9月9日18時投稿予定

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