第四章 避難開始
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何十館内放送が途切れたあと、地下第四会議室は重苦しい静寂に包まれていた。
誰も口を開かない。
誰も机を叩かない。
ただ非常灯だけが赤く点滅し、その淡い光が一人ひとりの表情を照らしている。
青年は自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
議長は議事録を閉じることなく、静かに立ち上がる。
「状況を整理します。」
その落ち着いた声は、不思議なほどよく通った。
「現在、地下第二収容区画を起点として大規模な異常反応が発生。通信障害により詳細は不明。」
短く区切りながら、事実だけを並べていく。
「主電源は停止。非常電源は稼働中。」
「避難経路の一部が使用可能である可能性が高い。」
誰かが手を挙げた。
「議長、このまま全員で地上へ向かうべきでは?」
「その通りです。」
議長は即座に頷いた。
「会議は終了します。」
青年は少しだけ安堵した。
終わる。
ここから避難すればいい。
そう思った、その時だった。
議長は続ける。
「ただし、終了する前に確認があります。」
室内の全員が議長へ視線を向ける。
「各自、自分の部署の所在を確認してください。」
研究員たちは携帯端末や無線機を取り出し、慌ただしく通信を始めた。
「第一研究棟、応答あり。」
「医療班、避難開始。」
「保全部門、第四隔壁を放棄。」
「資料管理室、連絡取れません。」
「収容班、三名確認。」
次々と情報が集まる。
青年には半分も理解できなかったが、それでも皆が懸命に状況を繋ぎ合わせようとしていることだけは分かった。
議長はホワイトボードへ手早く状況を書き込んでいく。
誰がどこにいるのか。
どの経路が生きているのか。
危険区域はどこか。
混乱の中でも、その文字だけは驚くほど整っていた。
突然、無線機から大きなノイズが走る。
『……こちら……搬送班。』
途切れ途切れの声。
『負傷者……二名……』
『搬送……開始……』
ノイズ。
『……あと一人……』
通信が途切れる。
部屋の空気が変わった。
「もう一度。」
議長が無線へ呼び掛ける。
「搬送班、応答してください。」
返事はない。
何度呼び掛けても、雑音しか返ってこなかった。
青年は議長の横顔を見る。
その表情は依然として冷静だった。
しかし、その瞳だけが鋭く細められている。
「議長。」
一人の研究員が恐る恐る口を開く。
「避難経路が閉じる前に移動すべきです。」
「残った人員は救助班へ任せましょう。」
別の研究員も続ける。
「私たちまで閉じ込められたら意味がありません。」
議長はしばらく黙っていた。
返事を急がない。
全員の意見を聞き終えるまで、決して結論を出さない。
それが、この人のやり方だった。
やがて静かに口を開く。
「その判断は正しい。」
誰もが少しだけ安心した。
議長も避難を選ぶ。
そう思ったからだ。
しかし次の言葉は違った。
「だからこそ。」
議長はホワイトボードへ視線を向ける。
「誰が残っているのかを確認しなければならない。」
部屋の空気が凍り付く。
「名前も分からないまま避難はできません。」
青年は思わず息を呑んだ。
誰か一人ではない。
"誰なのか"が分からないことを、議長は問題にしているのだ。
高齢の研究員が静かに言う。
「名簿です。」
「本日の出席名簿があります。」
議長は頷き、机の上の書類を開いた。
紙を一枚ずつ確認していく。
青年も隣から覗き込む。
そこには部署ごとに職員の名前が並んでいた。
一人ずつ。
一人ずつ。
確認が進む。
「第一研究棟、全員確認。」
「医療班、確認。」
「保全部門、確認。」
「資料管理室……」
議長の指先が止まる。
ほんの一瞬だった。
それだけで室内の全員が息を潜める。
「一名、未確認。」
誰かが小さく息を呑んだ。
「連絡は。」
「ありません。」
「最後の確認位置は。」
「地下第二区画へ向かう途中です。」
沈黙。
誰も何も言えなかった。
青年は名簿の一番下を見る。
未確認となった職員の名前。
その人がどんな人なのか、青年はまだ知らない。
今日、この施設で顔を合わせるはずだった人なのかもしれない。
食堂ですれ違った人かもしれない。
もう会うことはない人なのかもしれない。
議長は静かに名簿を閉じた。
「避難を開始します。」
その言葉に全員が動き出す。
机の上の資料をまとめ、非常灯だけが照らす廊下へ向かう。
青年も立ち上がった。
だが部屋を出る直前、ふと振り返る。
十三脚並ぶ椅子。
そのうち一脚だけが、最初から誰も座ることなく静かに残されていた。
議長もまた、その椅子へ一瞬だけ視線を向ける。
何かを確かめるように。
何かを思い出すように。
しかし何も言わず、部屋の照明を見上げた。
非常灯が赤く瞬く。
壁時計は、今も規則正しく時を刻んでいる。
その音だけが、静かな会議室に小さく響いていた。
やがて議長は扉へ手を掛ける。
「行きましょう。」
「必ず、全員で帰ります。」
その言葉に、誰も異論を唱えなかった。
この時、部屋にいた全員が信じていた。
議長の言葉どおり、自分たちは必ず全員で地上へ帰れるのだと。
――まだ誰も知らない。
その「全員」という言葉が、この日から年もの間、地下第四会議室を縛り続けることになるとは。
次回予告
第五章 届かない応答
9月8日18時投稿予定




