第三章 最後の一人
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低く長い警報音が、地下施設全体へ鳴り響いていた。
先ほどまでの短い電子音とは明らかに違う。
壁が震え、天井の照明がかすかに明滅する。
青年は無意識のうちに椅子の肘掛けを握り締めていた。
「……何が起きたんですか。」
誰に聞くでもなく漏れた声。
しかし返事をしたのは議長だった。
「まだ分からない。」
静かな声だった。
焦りも、怒りもない。
ただ事実だけを口にする。
「だからこそ、慌てない。」
その一言で、室内の空気が少しだけ落ち着いた。
議長は机の中央に置かれた内線電話を手に取る。
「管制室、こちら第四会議室。」
数秒。
応答はない。
「……もう一度。」
再び呼びかける。
今度は雑音が混じった。
『……こちら……管制……聞こえ……』
途切れ途切れの音声。
『地下……第二区画……収容……』
ザーッという激しいノイズ。
通信はそこで途切れた。
部屋の誰もが顔を見合わせる。
議長だけは受話器を静かに置き、立ち上がった。
「情報が足りない。」
「現状確認を優先する。」
その時、廊下を激しく走る足音が近付いてきた。
勢いよく扉が開く。
息を切らした保全部門の職員が飛び込んできた。
「議長!」
額には汗が滲み、白衣は煤で汚れている。
「地下第二収容区画で大規模な異常反応が発生しました!」
「現在、自動隔壁を展開中!」
「第三区画にも影響が出始めています!」
部屋が静まり返る。
青年には内容が理解できなかった。
だが、周囲の研究員たちの表情を見れば、それが日常ではないことだけは分かった。
「人的被害は。」
議長が短く尋ねる。
「現在確認中です!」
「通信が不安定で、正確な人数が把握できません!」
「収容対象は。」
「識別不能です!」
「複数反応が重なっています!」
議長は頷いた。
その判断は驚くほど早かった。
「各部署へ連絡。」
「避難経路を確保。」
「医療班は待機。」
「保全部は第三区画を封鎖。」
「収容班は無理に制圧を試みない。」
「情報が揃うまで接触は禁止。」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
誰一人として聞き返さない。
全員がすぐに動き始めた。
青年はその光景を呆然と見つめていた。
誰も取り乱さない。
恐怖を知らないわけではない。
恐怖を抱えたまま、自分の役割を果たしている。
それが、この施設の日常だった。
議長は青年の肩へそっと手を置いた。
「君はここにいていい。」
「え……?」
「初日だ。」
「状況を見ることも、大切な仕事だから。」
その優しい声に、青年は少しだけ肩の力を抜いた。
その時だった。
天井の照明が一瞬だけ消える。
完全な暗闇。
一秒にも満たない時間。
すぐに非常灯が赤く点灯した。
部屋全体が薄暗い赤色に染まる。
青年は思わず息を呑んだ。
壁時計を見る。
秒針は動いている。
だが、どこか遅い。
いや。
気のせいかもしれない。
「非常電源へ切り替わりました。」
高齢の研究員が機械的に報告する。
「主電源系統、遮断。」
「地下全域で停電を確認。」
議長は静かに頷いた。
「予備発電が生きているなら、まだ持ちこたえられる。」
その言葉を聞き、室内にわずかな安堵が広がる。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
会議室の外から、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「隔壁が閉じない!」
「押さえろ!」
「そっちへ行くな!」
続いて、金属が激しく歪むような音。
ギィィィィ……。
青年の背筋に冷たいものが走る。
あの音は、生き物の鳴き声ではない。
機械の故障とも違う。
まるで巨大な何かが、鋼鉄をゆっくりと捻じ曲げているような音だった。
部屋の中にいた誰も、その音の正体を口にしない。
口にできなかった。
議長は壁の時計を見上げる。
そして、ゆっくりと議事録を閉じた。
「定例会議はここまで。」
青年は思わず顔を上げる。
議長は一人ひとりを見回し、穏やかな口調のまま告げた。
「これより、本会議を緊急対策会議へ移行します。」
誰も異論を唱えない。
議長は深く息を吸い、小さく頷いた。
「……全員、席についてください。」
「ここから先は、一つの判断が多くの命を左右します。」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、施設全域へ新たな放送が流れ始めた。
雑音混じりの館内放送。
『緊急警報……』
『収容違反……確認……』
『対象識別……不能……』
『全職員は……』
そこで放送は途切れた。
数秒の沈黙。
そして最後に、女性の声がかすかに響く。
『……逃げて。』
その一言だけを残し、館内放送は完全に沈黙した。
会議室の中にいた全員が、言葉を失った。
議長だけは静かに立ち上がり、ゆっくりと議事録を開き直す。
白紙のページへ万年筆を走らせる。
インクが紙へ染み込む音だけが、静まり返った部屋に響いた。
青年は思わず、その文字を覗き込む。
そこには短く、力強い筆跡でこう記されていた。
> **議題変更。**
> **全職員の生還について。**
青年はその文字から目を離せなかった。
この時はまだ知らなかった。
この一文こそが、後に誰も閉じることのできなくなる「最後の議題」の始まりだったことを。
次回予告
第四章 避難開始
9月7日21時投稿予定




