第3話
陽光が降り注ぐ街中に、それでも日の当たらない場所はある。
建物の影に隠れ、できる限り人目のつかない路地裏を、ウサナは駆けていた。
早鐘のように響く心音が体中を巡り疲労感を誘うが、辛さを享受している暇はない。移送中に〈冒極〉の拘束から抜け出し、逃走したのだ。捜索の包囲網はすぐそこまで迫っているだろう。
物陰に身を預けながら、先の通路を伺うが、人気は見られない。進んでも良さそうだ。
手枷を付けたまま路地を走り抜けるウサナの手中には、小瓶が握られていた。少量の水が、振動で水面を揺らしている。
「髪の中まで調べないから逃げられるってわけ、バーカッ」
【変幻自在の雫】は液体の魔道具である。ウサナの手から魔道具が失ってしまう可能性を考慮して、原液を薄めた希釈液を2本作っていた。1本は拠点から逃げる際に置き忘れてしまったが、それでも所有していたもう1本のおかげで脱走できたのであった。
藁のように絡まる特徴的な髪型の中へと小瓶を仕舞うが、鉄製の手枷のせいで上手く可動域が取れないことに、ウサナは舌打ちをした。
「……チッ……どっちに行けばいいかな」
他に仕込んでいる道具で、手枷を外したいところだが、まずは安全な状況を確保する方が先であり、ここまでがむしゃらに走り続けてきたのだ。
「こっちだ」
分岐路で立ち止まっていたウサナの耳元に、男の低い声が落ちた。
振り向いた先にいたのは、背広――巷でスーツと呼ばれる衣服に身を包んだ男。
整髪料で固められたオールバックが、不自然なほどきっちりと撫でつけられている。
街中に紛れれば、新進気鋭の商人にしか見えないだろう。
だが――周囲に人影などなかったはずだ。
いつの間に現れたのか。
歳は三十代か、四十代。若商人を装ったその男へ、ウサナは訝しげな視線を向けた。
「……怪しすぎるって」
「その言葉、そっくりそのまま返そう。どうする? このままでは、時間の問題だと思うが」
何を指しているのか――そんなこと、わざわざ聞くまでもない。
街中で逃走を図ったとはいえ、〈冒極〉が総出で捜索に当たっているはずだ。
見つかるのも、時間の問題。
小鬼の手でも借りたくなる状況で、四の五の言っている余裕などなかった。
「くっ……裏切ったら、絶対壊す!」
「安心しろ。私の誠意にかけて」
苦渋の選択だった。
お尋ね者となった以上、捕まれば最後――何十年もの間、牢に繋がれるのは目に見えている。
【変幻自在の雫】を手にしたあの日から、人命を踏みにじってでも最高の作品を作ると決めた。
ここで捕まるわけにはいかない。
得体の知れない男の背を追い、ウサナは早足で路地を進んだ。
しばらくして、古びた民家の前で男の足が止まる。
「ここだ」
「アンタの家なわけ?」
「いいや? だが、家主は協力的な男だ」
「家主……?」
案内してきた男が家主だと思っていたが、どうやら違うらしい。
別の協力者がいる――その事実に、ウサナは警戒心をさらに強めた。
それでも促されるまま、建物の奥へと足を踏み入れる。
歩くたび、廊下がギシギシと不快な音を立てた。
やがて辿り着いたのは、大部屋だった。
4つの椅子と、中央に丸いテーブル。それだけの、殺風景な空間。
男が椅子を引いて座る。ウサナも続こうとした――その時だった。
部屋の片隅に、人が立っていた。何も語らず、ただ黙って。
色彩のない瞳が、ウサナをじっと見つめている。
「うわっ――」
「気にしなくていい。彼は寡黙でね――少し、繊細なんだ」
若商人風の男は、何でもないことのように手を振った。
だが――その男の姿は、どう見ても異様だった。
頬は痩せこけ、窪んだ目は生気を失っている。外套の下には、枝のように細い肢体が隠れているのだろう。
人間というより――彫刻像。
そんな無機質さを感じさせる存在だった。
敵意は感じない。
だからウサナは、ひとまず放っておくことにした。
それよりも、聞かなければならないことがある。
「何で僕を助けてくれたわけ? 作品のファンか何か?」
「すまないが、君の作品は一切存じ上げない。視覚芸術なら、どちらかと言えば建築の方が好みでね」
「残念。じゃあ、なおのこと何で?」
「それに答える前に、聞きたいことがある」
両肘を卓上につき、男は両手を組んだ。
鋭い視線が、ウサナを射抜く。
「――魔匠連番は、誰が持っている?」
その言葉が発せられた瞬間、ウサナは椅子を蹴飛ばし、勢いよく距離を取った。
――やはり、そうか。
薄々勘付いてはいた。
手枷を嵌めた逃亡者を助けるような物好きなど、そうはいない。
逃走幇助の罪を負う危険を冒してまで手を差し伸べる理由など、限られている。
純粋な作品のファンか、あるいは――魔匠連番の1つ、【変幻自在の雫】が目的か。
ウサナの瞳に、敵意が灯った。
「その言葉が、もう答えなわけ。お前みたいなやつに渡すものはない!」
「……驚いたな」
男は僅かに目を細める。
「その反応だと、まだ回収されていないのか。〈冒極〉の奴ら、よほどの無能らしい」
手枷を嵌めたまま、ウサナは頭髪の中から彫刻刀を抜き取った。
鈍い光を放つ刃先が、男へと向けられる。
本来、彫刻刀を武器と考える者は少ない。
だが、人命を歯牙にもかけない凶悪犯が握っているとなれば、話は別だ。
その一挙手一投足が、命を奪いかねない。
だというのに。
男は微動だにせず、悠然と椅子に腰掛けたままだった。
その余裕が、ウサナの胸に僅かな後悔を生む。
――あの時、差し伸べられた手を掴むべきではなかったか。
「待て待て、そう焦るな」
男は軽く両手を上げる。
「魔匠連番を持っているというなら、話は早い。先程の質問の答えを――返そう」
なんとも芝居がかった仕草で、男は両手を頭の横へ掲げた。
そして――、
「――同志にならないか?」
突拍子もない提案を、申し出てきた。
「そうだ、それがいい」
「……は?」
ウサナの思考が、一瞬止まった。
目前で諸手を挙げる男は、今、何と言った?
魔匠連番を狙う身でありながら、その意図とは真逆の言葉を口にしたのだ。
喉元へ狙い定めた彫刻刀の切先が、揺れる。
「我々は、魔匠連番を集めている」
一拍、置く。
「奪うのが手っ取り早い……だが、人手も不足している」
そこで、男は口元を歪めた。
「だからだ。我々の同志にならないか?」
「……同志、ねぇ」
次第に理解が追いついてきた。この男は、勧誘のために自分を窮地から救ったのだ。
だが、まだ納得できないことがある。
そして――この男が、盛大な勘違いをしていることも。
ウサナは慎重に言葉を選ぶ。優位を失わないために。
「同志なら、手枷外してくれない?」
彫刻刀を頭髪の中へ仕舞い、ウサナは拘束された手首を差し出した。
応戦という選択肢が取れないのも、この拘束具のせいだ。
両手が自由でなければ、勝てる算段すら立たない。
仲間になると安易に信じるよりも、不明点を問い詰めるよりも――まず必要なのは、身体の自由だった。
「同志、ということでいいんだな?」
「アンタの行動次第ってわけ」
「ふむ――いいだろう」
腰の小さな鞄から、男は一振りのナイフを取り出した。
そして、ゆっくりと近付いてくる。
一歩。また一歩。
距離が縮まるたび、ウサナの緊張が高まっていく。
次の瞬間――鈍色の軌跡が走った。
金属音と共に、手枷が断ち切られる。
緊張は、杞憂に終わった。
解放された手首を確かめるように、ウサナは何度か握っては開いた。
そして、鉄製の手枷をまるで粘土のように裂いたナイフの切れ味に目を見張る。
「良いナイフだね」
「だろう――」
安堵したのも束の間。
男は、ナイフの切先をウサナへ向けた。
――やられた。
解放したのは、この隙を作るためか。
緊張が、再び全身を貫く。
だが――。
男は、その表情を見てふっと笑った。
切先を摘み、柄を差し出す。
「餞別だ。彫刻刀よりは、いいだろう?」
「……後悔するところだったんだけど」
「冗談だ」
男は席へ戻りながら言う。
「さて――誠意の交換だ。今度はそちらの番だ」
卓上へ差し出された手――その意味は、明白だった。
求めているのは――【変幻自在の雫】の情報だ。
隠すよりも、正確に伝えた方が信頼は得られる。
そう判断したウサナは、頭髪の中から小瓶を引き抜いた。
そして、その効能を語り始める。
創作にどう役立つのか。どれほどの可能性を秘めているのか。
熱を帯びた言葉が続く。
だが――男の胸に、1つの疑問が浮かんでいた。
膝を組み、背もたれに身を預ける。
その視線は、小瓶の中にある僅かな水へと向けられていた。
「熱の割には――計画性がないようだが?」
感情の露出から見て、ウサナの語った内容に偽りはない。
液体そのものが魔匠連番――それは理解できた。しかし、残りの容量が、数回で底を尽きそうなのは気に掛かる。
計画性の欠如か、あるいは――。
疑念を帯びた眼差しを向けた、その時。
ウサナは、それ以上の追及を許さなかった。
「誠意の交換――今度はアンタの番ってわけ」
小瓶を軽く掲げながら言う。
「魔匠連番ってのは、そう何個も集まるもんじゃないと思うんだけど?」
男の言葉を引き合いに出し、ウサナはさらに情報を引き出そうとする。
魔匠連番は、あまりに希少な代物だ。金で手に入れようとしても、一生を費やして届くかどうか分からない。
しかも――【変幻自在の雫】のように、使用回数に制限のあるものも存在する。
世に出回る全てが、万全な状態とは限らない。入手の難しさも相まって、まるで絶滅危惧種のような存在なのだ。
そんな代物を、複数狙っているというのか。
ウサナは、その無謀さに待ったをかけた。
「……そうか。何も知らないのだな」
「僕はただ、ちっこい女商人からもらっただけだよ」
意外そうに、男の眉が僅かに動く。
ウサナは、小瓶を受け取った経緯を語った。
ある日突然、商人と名乗る女が訪ねてきたのだ。
子供にしか見えない体格。
最初は、不信感しかなかった。
だが――今となっては、天使のような存在だったと思える。
感謝しか抱いていない。
しかし――。
男は、その女こそが事の発端なのだと語り出した。
「その女商人が――」
一語ずつ、噛みしめるように言う。
「無差別に魔匠連番をバラ撒いているのだよ」
男の声が、気色ばむ。
「1つ1つが、国をひっくり返す力を持つ代物だ」
その視線が、小瓶へと落ちる。
「それら全てを、私たちが握ったとなれば――」
「ははんっ。国の転覆が狙い?」
ウサナの核心に、男はまるで肯定するかのように抑揚をつけて両手を広げた。
魔匠連番を集める背景を、ウサナは理解した。ということは、【変幻自在の雫】だけではなく、創作に役立つ魔道具が何個もあるということ。
芸術家の表情に、一瞬だが強欲さが垣間見えたのを男は見逃さなかった。
「いいねいいねっ。何事も大胆でいかなくちゃけない。芸術もね、爆発だって言われるけど、僕もその通りだと思うわけ。でも――」
直後。
ナイフを握った右手が奔った。
鈍色の軌跡が、男の喉元で止まる。
「――細部は繊細に拘らないと。じゃないと、一瞬で台無しになる!」
椅子から卓上へ飛び乗り、ウサナはその命を握ろうとした。
最初から、同志になる気などない。必要な情報さえ引き出せば、それでよかった。
「実を言うと――【変幻自在の雫】は使いづらかったし、取られちゃったからね!」
口角が吊り上がる。
「吐いてもらおうか。他の魔匠連番の在り処を――ッ!」
「私からすれば、君の行動は大雑把に等しいがな」
それでも、男は微動だにしない。
「他人の誠意は、もっと疑った方がいい」
その瞬間。
ウサナの右手に、異変が起きた。
ナイフが――己の身体と融合していた。
肉と刃の境界が、消えている。
「――ァ?」
次の瞬間――激痛が全身を貫いた。
机を倒しながら床へ転げ、痛みから逃れようと暴れ回る。
「痛い痛い゛いだいいダァいいダアァぃッッ」
「とすれば――」
男は転がった小瓶を拾う。
「これは偽物……いや、希釈液か」
興味を失ったように、それを壁へ投げ捨てた。
硝子が砕け、飛び散った液体が、周囲を石へと変えていく。
だが、ウサナにはもう関係ない。
痛みが、意識を削り取っていく。
気付かぬうちに、異変は右手だけでは済まなくなっていた。
全身が――崩れていく。
「〈冒極〉に渡っている現状――地方支部の1つくらい潰せるか? いや……〈巨人殺し〉もいたな」
「グぁッァァああ゛ぁぁ……」
薄れゆく意識の中。
ウサナが最後に耳にしたのは、ギルドへの襲撃を当然のように口にする男の呟きだった。
「準備……潜伏、あるいは――」
男がこの街を訪れた理由は、【変幻自在の雫】を得るためだ。
勧誘は失敗した。それに紛い物だった。
ならば――次の手を打つだけのこと。
脳裏ではすでに、魔匠連番を奪取するための戦略が組み立てられていた。
襲撃か。潜伏か。その結論が固まった頃には――ウサナは、もう息をしていなかった。
肉塊となり、ぐじゅぐじゅと形を失いながら蠢くそれを尻目に、男は部屋の隅に立つ存在へ視線を向けた。
「一時間後。〈冒極〉支部長を襲撃しろ」
かつてウサナを拘束した〈冒極〉が、【変幻自在の雫】を押収していることは明らかだった。
ペルニット街支部を束ねる男――ケイン・ニールデン。その手に渡っている可能性が高い。
「あぁ、それと――これも持っていけ」
男は腰の鞄から、紙と万年筆を取り出した。
さらさらと何かを書き付け、4つ折りにする。
そして、痩身の男の胸ポケットへ滑り込ませた。
一時間後、男のいなくなった家屋。
そして――ようやく動き出す。
部屋の隅に立っていた、痩身の男が。
男と、もう1体。
残されたのは――空っぽの部屋だけだった。




