第1話
「や、やめて……」
「うるさいなぁ。被写体が口を開かないでよ」
一室。
服を全て脱ぎ捨てた女が、怯えた表情のまま凍りついていた。
両手を交差させ、頭上へ掲げる――日常では決して取ることのない不自然な姿勢。
それは、女自身の意思によるものではない。
女の正面には、藁のような特徴的な髪形をした男が一人。
丸椅子に腰掛け、逃げ場を失った獲物を眺めるように、じっと女を見据えている。
レースカーテン越しの淡い光が差し込む薄暗い室内で、男は満足げに口元を歪めた。
「胸部の丸みがちょっとだらしないけど……こっちで整えればいいよね」
「んっ……」
無造作に伸ばされた男の指が、女の肌に触れた。その瞬間、女の身体がビクッと大きく跳ねる。
それは、ただの反射だ。
そこに艶めいた感情など、微塵も存在しない。
あるのは――純粋な恐怖だけ。
女の視線が、ゆっくりと部屋の片隅へ流れた。
そこには、深く頭を垂れた姿勢のまま固まった石像がある。精巧さは大したものだが、その静けさは不気味そのもの。
恐怖に染まった女を見下ろしながら、男は水の入った木製の器を静かに差し出した。
「飲め」
「い、いやっ」
「なんで? 若さは、美しさで芸術なんだよ。一秒、一分も無駄にはできないってわけ。そんなことにも気付かないの?」
「何を言って――」
「あ、待ってそっか。姿勢が崩れるよね、うっかりうっかり」
差し出した容器を、男はふと引き戻した。
思い直してくれたのか――淡い希望が、女の胸に灯る。
その瞬間。
首元を、掴まれた。
指が喉に食い込み、息が止まる。
容赦なく締め上げられ、女の身体がびくりと跳ねた。
狭められた気道をわずかでも広げようと、口が勝手に開く。
「直々に飲ませてあげよう。ほら、口をしっかり開けて」
「あ゛っ……あ゛ぁ゛」
飲みたくない――あれは、ただの水なんかじゃない。
店番をしていた父に、男が水を振りかけた瞬間。
父は何も言わぬまま、その場で石像へと変わったのだ。
飲めば最後。父と同じ末路を辿ることなど、疑う余地もない。
涙で滲んだ視界いっぱいに、木製の器が迫ってくる。
傾けられた縁から、雫がこぼれ落ちる寸前――来客を告げるドア鈴が、鳴った。
「……チッ。動くな、逃げるな、声を出すな。いいね? さもないと、石像を壊す」
舌打ち一つ。
女が抵抗しないよう、男は片隅の石像へと指を向けた。
荒い呼吸を繰り返しながら、女が何度も頷く。
それを横目に、男は『魔道具』と書かれた暖簾をくぐり、店内へと躍り出た。
店に入ってきたのは、銀灰色の長髪に黒眼鏡をかけた青年だった。
商品棚に並ぶ数々の魔道具や素材へ、興味深げに視線を滑らせている。
男は机の上に置かれていた帽子を素早く被り、顔に笑顔を貼り付けた。まるで元から働いていた店主のように。
「いやー申し訳ない、今は都合が悪く店を閉めてまして――」
「【イカした革手袋】入荷したんだ。使用年数によって性能が上がるっていう、珍しい魔道具だよね?」
「……そ、そうなんですよ。先日、仕入れまして」
「ふーん、廃版ってケインから聞いてたけど……やるじゃん」
男の主張など、まるで耳に入っていない。
不遜な態度の客だった。
木製の手袋掛けを弄びながら、青年の興味は、既に別の品へ移っている。
——これは、退店を促しても素直に聞いてくれないだろう。
諦念を抱いた男は、素直に店員を演じることにした。
「何かご入用で?」
「あぁ、うん大丈夫。ほら、店に入ってすぐ声掛けしてくる店員いるじゃん? 俺、嫌いなんだよね、ああいうの」
ゆっくり見たい派だからさー、と間延びした声を響かせながら、青年は店内を歩き回る。
その様子に、男の眉がわずかに歪んだ。
そもそも、店員ではない。客として訪れたこの青年も、店の利益も、どうでもいい。
騒ぎを起こさぬよう、店員を演じ続けてきた。だが、こうも神経を逆撫でされては、我慢する理由など、どこにもない。
男は懐から、液体の入った小瓶を取り出した。
そして、背を向けたままの青年へ、静かに距離を詰めていく。
その時だった。
「魔匠って、知ってる?」
青年は振り返らない。
それでも、その一言だけで――男の歩みは、ぴたりと止まった。
「魔法や魔術を生業としている者なら、知らない方が恥ずかしい――伝説的な魔道具制作者の呼称ですね。それが何か?」
「魔匠が作ってる魔道具が欲しいんだよね。取り扱ってないの? 何て言うんだっけ、ほら――」
思い出しかけては霧散するように、青年は言葉を探す。
その様子に、男は先回りするように口を開いた。
「【魔匠連番】を? ハッ――扱っているわけがない、こんな小さな店で」
思わず、嘲笑が漏れる。
青年の求めるそれは、荒唐無稽としか言いようのない代物だった。
魔匠連番。
それらはすべて、破格の性能を誇る魔道具群。使い方次第では――国すら滅ぼし得る、とさえ囁かれている。
だからこそ、魔匠の存在そのものが秘匿されている。
彼が作った魔道具が市場に流れることなど、ほとんどない。
仮に流れたとしても、人生を遊んで暮らせるほどの金額が付く。
街中の一魔道具店が扱えるような代物では、到底ない。
店とは無関係の男でさえ、それくらいの知識は持っていた。
「随分、卑下するね。自分の店なのに」
「分別ってわけですよ。じゃなきゃ、商売なんてやってられないでしょう?」
「いいや、情熱だよ」
青年が、ゆっくりと言葉を重ねる。
「いずれは思い描いた目的地に辿り着く――その願いは商人も冒険者も変わらない」
そこで、僅かに口元が歪んだ。
「アンタの発言は、軽いね。本当にここの店主?」
振り向いた青年が疑いの目を男へと向ける。
慌てて懐へと手を戻した男は、その疑いを晴らそうと慌てて言葉を発する。
「い、いや、僕は――」
「ていうか、本当は取り扱ってるでしょ。だってさぁ――」
青年の声が低く響き、その指が男の胸元を指した。
「――握ってる小瓶、魔匠連番じゃん」
「チッ、冒険者か!」
存在が露呈した以上、注視されている状況では、小瓶の水は使えない。
男は帽子を脱ぎ捨てた。
特徴的な髪型の中へと納入していた彫刻刀を引き抜き、一気に青年との距離を詰める。
追跡者を名乗ったわりに、両手はがら空き――隙だらけだ。
彼の脳裏には、首元へ彫刻刀を突き立て、鮮血が舞う光景が鮮明に浮かんでいた。
——獲った。
男の確信した光景が、しかし現実になることはなかった。
「がッ――なんで!?」
青年の首に突き刺したはずの彫刻刀が、男の手中に突き刺さった感触があった。
突如として走った激痛に驚いた男は、飛び退って距離を離すと、自身の手元を注視した。
負傷した右手と、血に塗れた彫刻刀。自傷行為の結果が残るのみで、刃が折れた様子も、曲がった様子もない。
まるで――攻撃が、そのまま跳ね返されたかのようだった。
思考が乱れる。だが、それでも彼には、この現象に覚えがあった。
「鏡面の如き現象を起こす魔術……銃器のペンダントを下げた黒眼鏡の男――」
男の口元が、苦々しげに歪む。
「お前、〈巨神殺し〉ディライト・ノヴァライトだろッ!」
ディライトは、わずかに肩を竦めた。
そして胸元のペンダントを、指先で軽く弾く。
「正解」
小さく鳴った金属音が、店内に乾いた余韻を残した。
彫刻家として山に籠っていた男にも、その武勇の名は届いている。
有名人物だ。冒険者ギルドから差し向けられた追手がディライトであるならば、己に起きた不可解な現象にも説明がつく。
男は、嗤った。
二つ名を持つということは、それ相応の実力を有しているということだ。捕縛される可能性は高い。客観的に見れば、逆境以外の何ものでもない。
——だが。
男の主観は違う。寧ろ、これは絶好の機会だ。有名人を石像へと変え、己の作品として世に知らしめることができれば――その名は、一気に広まる。
街中でせこせこ作品を作り続ける必要も、もうなくなる。
「追い詰めた気ってわけ? 残念、僥倖だよ。今ここで、お前を僕の作品に――あれっ⁉」
出し惜しむ必要はない――男の手が懐へ伸びる。
……だが、何も掴めない。
慌てて服の中を探る男。視線を上げた瞬間、小瓶をぶらぶらと掲げるディライトの姿が映った。
「じゃあ、小瓶購入で。代金は、ウサナ・スティミュレイト――アンタの身代ね」
「いつの間にッ……返せ!」
「いいぜ。一瞬やるよ――」
そう言うや否や、ディライトは小瓶を上空へ放り投げた。
乱回転しながら、天井すれすれまで舞い上がる瓶に、ウサナの視線が追っていく。
それが致命的だった。
「しまっ――」
気付いた時には、既にディライトが懐へと潜り込んでいる。
「遅い」
寸鉄が、無防備な胴へとめり込んだ。
「ぐっ……!」
くの字に折れたウサナの身体の背後へ回り込み、追撃――頸部へ、意識を刈り取る一撃。
日常を戦闘に置いてきたわけではないウサナが、その連撃に耐えられるはずもなかった。
鈍い音を立て、身体が床へと崩れ落ちる。
「任務完了、っと」
倒れたウサナへ一瞥もくれず、ディライトは両手をパンパンと払い、埃を落とす。支部長直々の依頼をこれで達成したわけだが、本来は休暇中の身。冒険や事件といった類には、無関係を貫いているところだったのだ。
そんな一貫性を崩したケインに、どう借りを返させようか考えていた時、部屋の奥から視線を感じた。
暖簾の陰から、女が顔だけを覗かせていた。
心配そうな表情を浮かべる彼女へ、ディライトは軽く手を上げる。
「あ、あの……」
「大丈夫大丈夫。もう終わったから」
「……良かった。でも、父が石像に……」
「それも大丈夫。すぐギルド職員が来るから、石化解除の液体瓶頼みな」
短く言い残すと、ディライトは既に用は済んだと言わんばかりに、出口へ向かう。
だが店主の娘にとっては、まだ終わってはいなかった。
地に伏せた男が、いつ目を覚ますか分からない。
一人残される恐怖に耐えきれず、彼女は思わず問いかける。
「どちらへ?」
「今、昼時だよ? 決まってるでしょ」
扉の取手に手を掛けたまま、ディライトは振り返った。
「飯だよ」
ドア鈴の音とともに、救世主は店を後にした。
残された娘は、しばらくその出口を見つめたあと、壁の時計へと視線を移す。
針は――3と4の間を指していた。
「昼……?」




