プロローグ
男は、舌打ちした。
――最悪だ。
何かを握っていたらきっと拉げていた――それほどまでの力を握り拳に注ぐ、そんな不快感に男は見舞われた。
濃霧の立ち込める山中、一軒の山小屋の前で、眼前に広がる異様な光景に彼は鋭い視線を送る。
視界の至るところに石像が散乱していた。獣、魔物、人影に至るまで、彫刻のような姿で固められ、どれも制作途中で放棄されたかのように不完全だ。
不気味さを携えた景色は、さながら彫刻家の悪夢のようでもあった。
その中でも、一際異彩を放っているのが、人間を模した3体の石像である。何かから逃げるような姿勢で、表情には恐怖がこびり付いている。本当に人間であるかのような精悍さ――。
それら石像を前にして、男の視線には芸術的賛美の色はなく、むしろ怒りの色が宿っていた。
感情を波立たせる男へと、しゃがれた――それでいて凛とした声がかかった。
「……道理で、泉に派遣したものが一人も帰らんわけじゃな」
憤りが拭えない男の背後で、木製の軋んだ音が聞こえた。開かれた小屋の扉から、一人の人物が姿を現す。
数十年は共にしているであろう立派な白髭をたくわえた老人だ。深緑のローブの胸に、剣と盾が交差した紋章が光り、年齢に似合わぬ背筋の伸びと足取りの確かさを誇っていた。
ケインの背にも同様のものが刺繍されているが、老人のものは一段と豪華であった。
小屋の階段を降りた老人は、男を通り過ぎ、並んだ3体の石像すらも通り過ぎていく。
老人へと、男は後悔の念を吐露した。
「無念です――」
彫刻として刻まれた服装や武装には、どれも見覚えがあった。
冒険者ギルドの支部長として、自ら依頼を告げたのだ。見紛えるはずもない。
彫像である3体――3人は、間違いなく元人間であり、異変の糸口を探るために派遣した冒険者たちであった。
知己とは言わずとも、面識のある人物がその存在を石化させられたのだ。面白いはずがない。
だが、昂る感情とは裏腹に、男の思考は至って冷静だ。彼らがどのようにして犠牲となったのか、その背景を探らなければならない。
男の視線が、畔を目前にして立つ老人へと向く。
「ふむ」
霧の向こうに泉が口を開けていた。
短く呟いた老人は、近くの草葉を千切り取ると、水面へと近付き投げ入れた。
質量の伴わないそれらは、水面にただ浮かぶだけ――事実は、そう簡単にはいかなかった。
「……石化する泉、のぅ」
老人の低い声が、霧に溶ける。
草葉は水面に触れた瞬間に硬直し、瞬く間に灰色の石片へと変わり果てて沈んでいった。
全ての生命を石像へと変貌させる“魔の泉”。報告にあった災厄が真実かどうか確かめに来たのだが――どうやら、疑う余地はなさそうだ。
目の前で繰り広げられた奇妙な現象に、老人は片眉をわずかに吊り上げると、懐から小瓶を取り出す。
至って普通のガラス製瓶であり、中に入っている液体は極少量しかない。
それは先ほど、小屋の床に投げ出されるように転がっていたのを拾ったものだった。夜逃げしたかのように荒れ果てた室内で、割れもせず無事であったのはまさに僥倖にすぎない。
泉の前で、老人が小瓶を光に透かして見入っていると、隣に立ったケインが低い声を投げた。
「――首謀者は、ペルニットに向かったと報告があがっています」
「ええのか? ケイン・ニールデン支部長、お主の担当じゃろ、その街は」
ペルニット街冒険者ギルド支部支部長、それが壮年の男――ケイン・ニールデンの肩書きであった。
街の治安も兼ねる支部の長が、拠点から離れてもいいのかと、至極当然のことを口にした老人であったが、どの口が言っているのだとケインは思わず溜息を吐いた。
掛けている眼鏡の接続部を指の腹で調節すると、彼は老人の心配が無用であることを説明する。
「危険な場所に、ギルド長だけを放り込むわけにはいかないでしょう? それにペルニットには、ランク4の彼がいます」
「……あぁ休暇を取ると言っとったの、あのバカタレは」
「バンギッシュ・テルヲ長、話は通してあります。一任を」
バンギッシュ・テルヲ――この老人こそが、冒険者ギルドのギルド長その人である。
組織の頭を、こんな危険地帯に一人で置き去りにできるわけもない。それに、街の被害が甚大なものにまで膨れ上がることはないと、ケインは確信している。
冒険者きっての問題児――されど、その実力は確か。
後は便宜上、ギルド長の許可を得るだけであった。
「よかろ……アヤツなら解決するじゃろ」
そして、その認識はテルヲも同様であった。
既に事件は解決したと言わんばかりに、彼の興味は首謀者から辺り一体の異常な景色へと移っている。
「〈巨人殺し〉――ディライト・ノヴァライトならの」




