第18話
普段であれば、まだ太陽が沈みゆく夕刻の時間帯。
だが今日は――曇天の空が、夜の如く辺りを薄暗く覆っている。
薬舗で手に入れた気付けの小瓶を握り締めたまま、降りしきる雨中を駆けていくスティレオは駆けていく。
「……ハァッ……ハァッ」
――間に合え。
全力疾走で荒く息を吐く最中、スティレオの心中はバールブへの懸念でいっぱいだった。
床に伏せていた彼女は、呼び掛けにも反応できないほど苦しそうであった。医学に詳しくないスティレオでも、あの状態が続けば命に関わるであろうことは分かる。
もし、間に合わなければ――。
間に合ったとして、病状の根本的治癒には繋がらない気付けの小瓶で改善するのか。
間欠泉のようにどんどんと湧き上がる不安に押し潰されそうになった時――気付けばスティレオはアパート前まで辿り着いていた。
一、二拍、間を置いていたスティレオだったが、堰を切ったように二階にある自宅へと走った。
アパートの入口から自宅まで、なんてことのない距離が今は遠く感じる。
階段を上りきった勢いのまま扉前まで着くと、逸る気持ちを解き放つかのごとくドアノブを捻って扉を開けた。
「母さんッ!」
雨に濡れたぐちゃぐちゃな衣服も気にせず、家へ入った途端にスティレオはバールブがいる寝室へと向かった。
ベッドに横たわる彼女からは、先程とは異なり辛そうな呼吸音は聞こえない。
病状が落ち着いたのか、と安心したスティレオは、ベッド横の床へと腰を降ろし、体温の下がった母の手を握る。
「薬、持ってきた。って言ってもあんまり良いのじゃないけどな」
気付けの小瓶を渡そうとしたが、握力が弱っているからか、バールブは小瓶を上手く握れないでいた。
それを支えるように、スティレオの両手が彼女の手を包み込む。
「飲めるか? 手伝うよ」
力なく横たわるバールブの口元へと、小瓶を持っていく。
目と鼻の先に小瓶があるというのに、それでも彼女は気付けの作用がある液体を飲もうとはしない。
「好き嫌いはするなって、普段から自分で言ってるくせに」
スティレオの幼少期にも何度か飲んだ覚えがあるほど、気付け薬の味は強烈だ。
苦みの極地とも呼べる味わいに、バールブも恐れをなしているのだろうとスティレオは思った。
普段の言動と矛盾した行動に、スティレオは苦笑を浮かべつつ、再び母の口元へと小瓶をあてがう。
「飲めって……なぁ」
蓋の空いた小瓶から、黄褐色の液体がゆっくりと流れ落ちていく。
小瓶と触れ合った唇に液体が達するが、そのまま口内へと導かれることはなく、上下の口唇が体内への侵入を許さなかった。
拒絶された液体が、口端から溢れ落ちる。
「いい加減に飲めよ!」
何があっても絶対に飲まない――そんな頑なな態度に、スティレオはついに声を荒げた。
小瓶を傾けて無理矢理飲ませようと試みるが、無意味に流れ落ちた液体が、ベッドのシーツに染みを作っていく。
何をされようとバールブは、否定の意思を崩さなかった。
――いや。
最初から意思などないことを、スティレオは分かっていた。
「頼むから、飲んでくれよ……!」
懇願混じりの声が、周囲へと響く。
小瓶に入っていた液状の気付け薬が全てなくなると、スティレオはバールブの手を包んでいた両手の力を緩めた。
支えをなくしたバールブの手が、力なく落ちていく。手中にあった空の小瓶が、からん――と音を立てて床へと転がった。
「息子より先に…………死んでんじゃねぇよ……」
既にバールブは、息絶えていた。
瞳孔が散大した生気のない瞳が天を見上げており、血の循環が止まったことで肌は青白い。
あれだけ辛そうに吐いていた呼吸音も、今や静寂そのものだ。
――間に合わなかった。
覆しようのない事実が、ただただスティレオの心中に残る。
哀しみよりも、怒りよりも、理不尽感よりも――その事実を否定したくて。
バールブを一人残して、スティレオは家を飛び出した。
「ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ァ゙ァ゙あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
雨が吹き荒ぶ中、無念に塗れたスティレオの慟哭が響く。
防雨をした通行人の奇異な視線が浴びせられるが、そんなことを気に留める余裕などない。
仕事に行く前に異変を感じ取っていれば、近所の女性から薬をもらえていれば、薬舗ですぐに薬を受け取れていれば――。
今となっては無意味と化した可能性が、脳内をぐるぐると駆け巡っていく。
どうしようもない思いを吐き出すように叫び続けたスティレオが辿り着いたのは、町中にある小さな公園だった。
魔石を動力源とした街灯の横にあるベンチへと、失意に沈んだスティレオが腰を掛ける。
薄暗い灯りが、力なく項垂れる一人の青年を照らした。
「……誠実に」
か細い声が、漏れ出る。
意図した発言ではない。走馬灯のごとく、今までの場面を振り返っていた内の1つが、ふいに口から飛び出したに過ぎない。
バールブの口癖であった言葉を認識した瞬間に、スティレオの意識が表層へと舞い戻る。
「母さんは……誠実に生きた、と思う」
この世にスティレオを産み落とす前の過去は知らないし、語ってはくれなかった。
それでも、十七年もの月日を共にしたバールブの姿は、スティレオにとって誠実そのものであったといえる。
「誠実に生きた、はずなんだよ……!」
だからこそ、スティレオはこの結末に納得がいかなかった。
誠実にしていれば、誰かが見てくれているのではなかったのか。
――誰も、見ていないではないか。
手すら差し伸べられなかった現実を味わえば、誠実なんてものがいかに曖昧で意味のないものか――嫌でも理解させられる。
無知で蒙昧な自分自身に腹が立ったスティレオは、己の頬を殴った。
口端から、血が伝っていく。
「……俺もだが――何よりアイツらに虫唾が走って仕方がない」
手の甲で血を拭ったスティレオの表情に浮かぶのは、圧倒的な怒りだ。
静かなる激昂が向けられたのは、スティレオの助けを求めた手を振り払った者たち。
誰も彼もが自己中心的な振る舞いを良しとし、他者の苦境を歯牙にもかけない。
野ざらしでどれだけ雨を浴びようと、冷めることのない怒りがスティレオの心中に広がっていく。
誠実という感情さえ覆っていかんとした時、バールブの言葉が頭に浮かんだ。
――今日も誠実に。
「誠実に……今日も――――あぁ、そういうことか」
項垂れたままに、天啓とも呼べる答えを、スティレオは得た。
誠実さを向けるベクトルが、異なっていたのだ。
バールブの論でいけば、誠実さを向ける対象は他者だ。他者へと、見返りを求めずに付き従うことこそが、己の利益に繋がる。だが、その構え方では、余りにも他者頼りだ。
現実を見れば、その考えは甘いと言わざるをえない。他者への誠実という考えこそが、バールブの――母の命を殺したのだ。
誠実さは――重要だ。問題は、誰に向けるか。
独り言ちたスティレオの顔には、昏い笑みが浮かんでいた。
「俺だ。俺自身に誠実を向ければいいんだ」
誠実さを見せるのは、他者ではなく己自身。
つまり、それは自身の欲望に忠実に従うということだ。
階下に住む女性しかり、薬舗の男しかり――行動により良い結果が伴うのは、いつも自己中心性に長ける者たちばかり。
なんてことはない、彼らはいつも自身に対して誠実であったのだ。模範すべき存在は、こんなにも身近にいた。
今までの生き方は、全く誠実的ではなかったのだ、とスティレオは痛感した。
「母さんの言っていたことがやっと……やっと分かった。誠実ってのはこうなんだ……!」
スティレオは、誠実という曖昧さに具体性を見出した。
バールブが教えたかった誠実とは、全く反したものであることをスティレオは理解している。理解しているからこそ、歪曲してでも無理矢理納得しなければ、スティレオは現実に打ちのめされそうだった。
峠を過ぎた怒りの代わりに、哀しみが上ってくる。
俯いたままのスティレオの目から流れる雨垂れが、頬を伝っていった。
悲しみに暮れていたスティレオだったが、ふと、自身の周りだけ雨が降っていないことに気付いた。
一人の女性が、傘をさしてスティレオの傍に立っていたからだ。
「傘さしてるのに、濡れるなんて不思議だね」
スティレオの顔を見た、女性の率直な感想だ。
その言葉に顔をあげたスティレオと、唐突に現れた女性の視線が絡まる。
「や。元気?」
朗らかな微笑みを表情に浮かべた女性。
二十年前、スティレオ・ブラウンとトリニティ・バウマンが邂逅した瞬間だった。
「や。元気?」
どこかで聞いた台詞だな、と懐旧心を刺激されたスティレオは、閉じていた目を開ける。
木々に覆われた背景に、視界いっぱいに映り込んだのは、仮面をつけた女性の顔であった。
若々しくクリアな声以外は正体不明な女性へと、スティレオは親しげに言葉を返した。
「元気に見えるなら、その仮面は外したほうがいい。視野狭窄の元だぞ」
「嫌だよ。ミステリアスな女性で売ってるんだから」
地面に横になったままのスティレオの上へと、女性は腰を下ろす。
うぐっ、と苦しそうな呻き声がスティレオの口から漏れるが、そんなことはお構い無しに女性は話を進めた。
「随分と手痛くやられちゃってまぁ――僕があげたやつ早速使ってるじゃん。アレ、高かったんだよ?」
身体に乗りながら、衣服に穴が空いた箇所を女性は見つめた。
腹部に『水ノ噴流』を受けたスティレオだったが、既にその傷痕は綺麗に塞がっている。
「【回復の小瓶】か? 貴方が送ってくれたのは最高位のモノだろう? 勿体なくて使えんよ、トリニティ」
「きゃー、マメな男だねぇ。生え際が後退さえしていなければ……」
「煩い、どけ」
トリニティと呼んだ女性を雑に退かすと、立ち上がったスティレオは、腰に提げた【互酬匣】から新しい衣服を取り出す。
廃教会でのディライトとの戦闘から離脱したスティレオは、町外れの森の中へと転移していた。
自前の【回復の小瓶】で傷口を回復したとはいえ、削れた気力や体力までは回復できない。
疲労感に倒れたスティレオが意識を手放していた時間は十分にも満たないが、夕時が過ぎようとしている今、自然は暗闇に包まれ始めていた。
広大な森林の中、かつ視野も利かない状況で、スティレオの居場所を見つけた女性。
ぞんざいに扱われたことで怒りをあらわしている彼女が、ディライト同様の実力者であることを、スティレオは改めて実感する。
衣服を脱いだスティレオの背中、その地肌には炎に囲まれた瞳の紋章が刻まれている。女性の左手の甲にも、同様のものが刻印されていた。
新しい服を着用しながら、同じギルドに所属する上司にあたる女性――トリニティ・バウマンへと、スティレオは疑問を投げ掛けた。
「何故、来た?」
「レオだけじゃ勝てないと思って。ま、魔匠連番を推薦した身でありますから〜」
「ということは、やはりあの男は死んでいないか」
「もちのろん。元気いっぱいだったよ」
調子の良い口調で告げられる報告だが、スティレオにとってその内容は期待に沿うものではなかった。
冒険者ギルド〈冒極〉から魔匠連番の奪取を命じられたからこそ、スティレオに【互酬匣】が授けられたのだ。命令完遂の障害となるディライトを排除できなければ、【互酬匣】の没収もあり得た。
そうか、と呟いたスティレオが言葉を続ける。
「不要、と言いたいところだが――正直ありがたい。私の手だけでは負えないことが分かった」
「っても、全力は出せないからね? このタイミングで僕の存在がバレることは避けたいんだよね」
「心得ている。援護だけでも構わない」
再びフォーマルな衣装に身を包んだスティレオへと、今度はトリニティが疑問を呈した。
「勝算は?」
至極当然の質問だ。
相手はギルドランク4の傑物。トリニティでさえ、直接対峙するのは避けたい相手だ。
戦いを継続するのであれば、戦略の主軸はスティレオとなる。二十年の付き合いとなる信頼できる部下とはいえ、トリニティにとって負け戦にのるつもりは毛頭ない。
その疑問に対して、スティレオは鼻で笑って答えを返した。
「ほとんどないな」
「えぇ……」
先の戦闘で、スティレオはディライトの力の一端に触れた。
あらゆる物理を跳ね返す魔術、魔法を吸収して弾丸とする魔銃、他にも魔法を防ぐ何らかの手段を持っている。
予め収集した情報をもとに練った策でさえ、ことごとく突破され、終始余裕な態度を崩さなかった。【互酬匣】を用いていてなお、実力の全てを出し切ってはいないだろう。
強大な力を持つランク4の存在に加えて、脅威的な力を備えた獣人族の子供までいる始末だ。
もはや単騎での勝率は、皆無に等しい。
それでも、スティレオの表情に悲壮感は見受けられず、挑戦的な笑みさえをも浮かべていた。
「さて、原点回帰だ」
夢の中で振り返った過去に、誠実とは何だったか――その原点をスティレオは思い起こした。
ディライトとの勝ち負け以前にまず、自身への誠実さが足りなかった。
「――誠実は、俺自身にのみ向けられるべきだ」
かつて母が語った言葉は、もう別の形をしていた。
襟を整えて気持ちを一新したスティレオは、暗闇と化していく森の中を進んでいく。
「……」
仮面の下に表情を隠したトリニティもまた、スティレオの背へと続いていった。




