第17話
雨降りの天候となったことで、スティレオの仕事はいつもよりも早く切り上げることとなった。
早々に帰り支度を済ませたスティレオは、白い傘をさしながら雨風の強まった町中を小走りに駆けていく。
「母さん、また怒るかもな」
帰路についたスティレオの脳裏には、烈火のごとく怒りを露わにしたバールブの姿が浮かぶ。
普段の夜遅い帰宅時間とは異なり、夕方にも差し掛からない時間帯にスティレオが帰宅すれば、すわ首になったと一騒ぎ起きるに違いない。
弁明が大変だ、と苦笑していたスティレオは、多少年季の入ったアパートの前で足を止めると、傘を何度か開閉して雨粒を振り払う。
二階建てである建物の扉を開けて、上階に位置した自宅へ帰宅しようと階段に一歩を踏み出したその時、スティレオへと待ったの声が掛かった。
壮年期半ばに差し掛かった女性の姿が、振り返ったスティレオの目に留まった。
「レオや、良いところに!」
「……あぁ、おばさん。こんばんは」
愛称で呼び掛けてきたのは、階下に住む中年女性であった。
バールブが元気だった頃に近所付き合いがあったが、体調が悪化したここ数年はさっぱりであり、スティレオも月に数回会うかどうかだ。
その数回が今日だったようで、スティレオの姿を目敏く見つけた女性が近付いてきた。
名前を覚えないくらいには、スティレオはこの女性が苦手だった。
「ちょっとアンタに頼みたいことがあるんだけどもさ」
「あー、先荷物置いてきてからでいい?」
「なぁに! すぐ終わるわよ」
スティレオの背中をバシバシと叩いた女性は、これから物事を頼むというのに、相手の事情を一切慮る様子は見せない。それどころか、付いてくるのが当然といわんばかりに、振り返りもせず自身の家へと歩みを進めた。
この粗野さが、スティレオにとっては醜悪そのものであった。
体裁を保つため、ひいてはバールブが不利益を被らないようにするためには、ぞんざいな扱いはできない。
スティレオは大きく溜め息を吐くと、疲労を伴った足を階段から降ろしたのだった。
階下の女性が依頼してきた内容は、扉の立て付けが悪いという、なんとも日常に溢れたものであった。
扉と壁を繋ぐ金具に歪みがあることが原因だったようで、持ち前の工具で矯正すれば、ものの三十分ほどで元通りの扉となった。
そして、現在。
スティレオは廊下にて、再び大きな溜め息を吐いていた。
依頼を完遂した報酬など何もなかった。「ありがとう」の言葉を寄越しただけで、終わった瞬間に女性が指し示した手は出口へと向いていた。
報酬目当てに依頼を引き受けたわけではないが、せめてお茶くらい出してくれるのが筋ではないのか。
近所付き合いに対する女性との認識の齟齬に、頭をガシガシと掻きむしると、スティレオは自宅へと帰るために今度こそ階段を上りきる。
二階に上がり、自身の家である号室の前まで辿り着くと、スティレオはドアノブを捻って扉を開けた。
「ただいま」
帰宅の合図を告げるが、返事はない。
しん、と静まり返った空間に、「寝てるのか」とスティレオは違和を抱かなかった。だが、居間に荷物を置いてから台所に視線を向けると、その考えが間違いであると覚った。
バールブが、床へと倒れ伏していたからだ。
「母さん!?」
急いで駆け寄ったスティレオがバールブを介抱すると、最初に感じたのは異常までの体熱だった。
平熱とは程遠い熱感が彼女の肌から伝わり、身を起こせば、口元からは血が溢れ落ちてきた。
吐血するほど容体が悪化している状況に、スティレオの心臓が早鐘を打つ。
「くそッ――朝はあんなに元気だったじゃないか!」
一貫性のない体調に悪態をつきつつ、バールブを腕に抱いたスティレオは寝室へと向かう。
ベッドへと寝かせた彼女の呼吸は荒く、スティレオの声掛けにも反応しないほどである。
スティレオは焦る足取りで、薬が入った戸棚を開けると――空だ。
薬の管理は母自らがしていたが、連日続いた容体の悪化に、薬は全て使い切っていた。
「なんでッ……クソックソッ……こんな時に!」
振り返ったスティレオの目には、息苦しそうに呼吸を繰り返す母の姿。
ただ「おかえり」という言葉が欲しかっただけなのに、何故こんな最悪な光景に出迎えられなければならないのか。
手の平に爪が食い込むほど握り込んだ拳を戸棚へと叩きつけると、スティレオは鞄から財布を引っ張り出して、一目散に家を飛び出した。
目指す先は階下、先程無償で手助けをした女性の元だ。
何かしらの薬を所持していることは、家にあがったタイミングで把握している。
気付薬でも痛み止めでも何でもいい、だから――そんな切迫した思いを胸に、スティレオは女性がいる号室の戸を叩いた。
「おばさん! 頼む開けてくれ! 聞いてほしいことがあるんだ!」
思いの丈をぶつけるがままに、何度も扉を叩くが室内から応答はない。
女性の居室を出てから経った時間は数分だ。その短い時間で外出したという可能性は、限りなく低い。
もし手が離せない状況であったとしても、何かしらの返事はあってもいいはずである。
「いるんだろ!? 今の一瞬で、いないってことはないだろ!」
焦りに満ちたスティレオは、感情のままに声を荒げるが、一向に声が返ってくることはない。
居留守という邪な考えが浮かぶが、無理に扉を開けるわけにはいかない。
スティレオにできることは、ただ縋り付くのみであった。
「なぁ、頼むよ……」
悲痛な面持ちでスティレオは項垂れるが、それでも扉が開かれることはない。
顔を上げたスティレオの目には、諦念の色が浮かんでいた。
「なんでだよ。さっき助けたじゃないか……クソッ!」
バンッ、と扉を最後に叩いたスティレオは、アパートの外へと駆け出していった。
再び静けさが戻った、一枚の扉。
付属した覗き穴――その奥に映る瞳が、一連の出来事を観察していた。
魔道具が普及し始めた昨今、生活の利便性が著しく向上しただけでなく、生産供給数も飛躍的に増加している。
薬品関係も、その影響の波を例外なく受けており、医療薬品は高価である――そんな昔ながらの旧態依然とした物価を崩すとはいかずとも、ある程度の価格低下には繋がっていた。
それでも――ある程度、である。市民にとって、日用品のごとく気軽に購入するには、依然敷居は高い。
そんな市民と薬品を繋ぐ橋渡し的場所である薬舗に、スティレオは駆け込んでいた。
多少値は張れど薬を必要としている数人が店内に待つ中、入店して早々に窓口となる受付へと彼は走り寄った。
そこまで広くない店内に、焦りに満ちた声が響く。
「薬ッ……ハァッハァッ……薬をくだ、さいッ」
「うぉっ……濡れたまま入ってくるなって」
全身雨に濡れて荒く息を吐くスティレオを出迎えたのは、眼鏡をかけた中年太りの男だ。
唐突な出来事に、男は少々面食らったが、新しく入ってきた客の出で立ちを見て非難の声をあげる。
邪険な扱いだが、スティレオにとってはそれどころではない。自身の自尊心は捨て置き、火急の要件を再び告げた。
「床が濡れたのは、申し訳ない! でも、どうか薬を……!」
「はいはい、じゃあそこ座っといてね。順番で呼ぶから」
スティレオの切実な頼みに、男はいつも通りの接客で応える――二人の間には、絶対に交わることのない温度差があった。
忙しない様子を見せるが、薬を欲しているだけの青年。
男の目には、スティレオが日常的に訪れる他と何ら変わりない客の一人に映っていた。
だが、スティレオとて、危篤状態の母を待たせている。はいそうですか――と男の言う通りに従うわけにはいかない。
「母が重篤なんだ! だから薬が欲しい、今すぐにでも!」
「待ってる人たち全員重篤だから。そこに優劣つけられないでしょーが」
男が視線を周囲へと向ける。
待合室で座しているのは、二人だ。一人は船を漕ぎながら待っており、もう一人は新聞紙を広げて記事を読み耽っていた。
どちらも重篤の状態には見えず、男の論はただの詭弁だ。
鬱陶しそうに手を払う仕草を見せる男に、スティレオが苛立ちを募らせ始めたとき、店の奥から声が掛かった。
「局長、先に渡したら? 可愛そうですよその子」
奥の部屋から、妙齢の女性が姿を現した。
薬舗に勤める者の一人であるが、その女性の姿を視界に収めた途端、局長と呼ばれた男の頬が緩んだ。
「んん? でもなぁ」
「だから、ケチ眼鏡って裏で呼ばれるんですよ?」
「え……まさか君は言ってないよね?」
「どうでしょ。それは局長次第かなぁ」
先程の気怠げな表情が嘘のように、スティレオへと再び顔を戻した男の表情は、凛としたものに変わっていた。
「で? 君の母親はどんな症状なんだい?」
「……肌を触ると火傷するくらい熱くて。息も荒いし、呼びかけてもずっと苦しそうなんだ」
「となると、一般的な疼痛抑制剤と抗生剤かな。1週間分くらいでいいか? ごめーん、持ってきて」
「はーい。流石局長、できる男ですね」
「でしょ」
女性に褒められた男は、頬をにやけさせながら勘定用の受け皿をカウンターへと置いた。
緊急を要する母の状態に、果たして挙げられた薬で治るのか――スティレオには判断がつかない。
白けた視線を送っていたスティレオだったが、置かれた受け皿に、意識をハッとさせた。
所持金額が少ないスティレオにとって、薬の支払いが最大の難所であるのだ。
懐から財布を取り出し、持ち得る貨幣全てを受け皿へと乗せて、スティレオは懇願にも近しい声をあげた。
「これでなんとか買えませんか……!」
「――は!? あのね、こんなんで足りるわけないでしょ」
カウンターにじゃらじゃらと置かれた貨幣を目算で把握した男は、余りの総額の低さに驚きの声をあげた。
1週間分の薬を処方しようと考えていたが、これでは1日分も満たせていない。
医療薬品を扱っているといっても、結局は商売だ。提示した価格をもらう代わりに、薬という商品を渡す。その道理に反した客に、これ以上時間を割くつもりは男にはなかった。
眼鏡を拭きながら、男はスティレオから視線を外した。
「もう帰ってくれないか? 何だこの無駄骨は」
「一週間もいらない! 1日分だけで、いや1回分だけでいいんだ! 残りの金額は今度絶対に払うから!」
「貧乏人の今度ほど、信用に値しない言葉はないね」
全く聞く耳を持ってくれない男に、スティレオは奥歯を噛み締める。
後払いという選択肢を拒絶する男の態度は、至極当然のことである。それでも、スティレオは引くことができない。ここで引いてしまえば、バールブを助けることができない。
自尊心をかなぐり捨てて、カウンターに擦り付ける勢いで頭を下げた。
「何でもしますから! どうか薬をください!」
「何でもねぇ……」
チラリ、と男が視線をスティレオへと向ける。
雨でズブ濡れとなった髪に衣服。みすぼらしい格好に、男の嗜虐心がムクムクと刺激されていく。
男としては、ほんの冗談のつもりだった。
しかし、今まで沈黙を貫いていたスティレオの自尊心は、今度こそ許すことができなかった。
「――」
「…………!」
自身の足元へと指をさして、男は声を出さずに口を開けた。
言葉にならずとも、男が何を発音したかは、口の形から理解できる。
侮辱を認識した瞬間に、スティレオは薬の取引が不可能であることを覚った。
あらん限りの怒りと憎悪を視線に込めて、スティレオは数秒間男を睨んだ。そして、出していた貨幣を戻そうとしたとき、男が思い出したかのように声をあげると、1つの提案を口にした。
「ああ、そうだ。壁のところに置いてある気付けの小瓶、あれ一本なら持っていっていいよ」
男が指をさしたのは、壁に取り付けられた棚に並べられている小瓶だ。
金銭をそのままに、男に言われるがまま棚から小瓶を一本取ると、振り返ることなくスティレオは店を飛び出した。
「お大事にー」
スティレオのいなくなった店内に、全く感情が籠もっていない男の声が響く。
用意した薬を盆に載せて戻ってきた女性が、スティレオのいない状況に疑念を抱いた。
「あれ、お客さんは?」
「ちゃんと購入して帰ったよ。僕の接客が良かったよね」
乱雑に置かれた貨幣をまとめている男に、女性は未だ疑問符を浮かべたままであった。
嵐のように過ぎ去った出来事であるが、薬舗側にとっては一人の客を対応したに過ぎない。
何事もなかったかのように、次の方どうぞ――と店内に声が響き渡った。




