第16話
――二十年前、とある町、集合住宅の一室。
半端に開いたカーテンの隙間から差し込む光が、時間帯を朝だと知らせてくれる。
調理台の下にある竈に薪をくべたことで増した熱を、均等に届けるために料理鍋を振るった。
芋の焦げた香りが、食欲を唆る。
「母さん! そろそろ出来そうだ」
「…………ん」
少年、と呼ぶには青臭さが薄れつつある頃合い。
今年で齢十七となったスティレオ・ブラウンは、同居者である母へと声を飛ばしつつ、完成した料理を鍋から皿へと移した。
小麦粉と茹でた芋を混ぜて練ったものを、火にかけることで味わいと食感に深みをもたせた”芋練り”という一品だ。
小さい頃から、何度も母に作ってもらった料理であり、今ではスティレオの得意料理となった。材料費があまり掛からない上に、腹に溜まりやすく、費用対効果に優れている。工夫次第では、味の方はなんとかなる。
今日も完璧か――と皿に載せた一品を眺めていると、横手から伸びてきた手が芋練りの一部を掻っ攫っていった。
「ちょっと味薄いわね」
「……意地汚いって、母さん」
芋練りを口内へと入れ、口をモゴモゴと動かしながら話す母――バールブ・ブラウンへとスティレオは呆れた視線を向けた。
料理の出来を指摘してくるバールブは、まるで姑のようであったが、寝間着の上に毛布を一枚羽織った姿に威厳性は感じられない。
だらし無ささえ覚える親の姿に、スティレオは片眉を上げた。
「今日、調子良さそうだな」
「ちょっとね。食べたらまた寝る――」
欠伸をしながら皿を持っていくバールブに、心配そうなスティレオの声が掛かる。
寝込むことも珍しくなく、普段から体調の優れないバールブであるが、どうやら今日は落ち着いているらしい。ここのところ、数日間床に伏せていたのが嘘だったかのように、座椅子に腰を降ろして芋練りを元気そうに食べている。
バールブの様子に安心していたスティレオだったが、壁に掛かった時計を見て今度は焦りを抱いた。
「やばっ。遅刻するわ」
「忙しない子ねぇ。落ち着いて食べなさい」
「忙しい中、朝食を作ってくれた息子に感謝の一言があってもいいのでは?」
「息子よ、よくやった」
「なんだそれ」
出立の準備を進めていたスティレオは、バールブの終始上からの態度に苦笑した。
スティレオの服装は作業着であり、納屋から軒家の建築まで担う職人である親方の元で、仕事に従事している。仕事の主な内容は雑務であり、今朝も親方から呼び出しが掛かっていた。
彼には、言いたいことが1つあった。それは給料が限りなく安いということだ。
学を積んでこなかった人生であるから仕方ないとしても、多忙な毎日に少しは弾んでくれてもいいのではないか、とスティレオは思う。
そんな不満が顔に表れていたのだろう、バールブがスティレオの表情を話題に上げた。
「不満ありありって顔に書いてるわね。何、なんかあったの? 若い時からそんな顔してちゃ、将来ハゲるわよ」
「煩いな……まぁ、賃金がね」
「あら! いつから働けることに文句を言うようになったのかしらこの子は!」
「だって、そうだろ」
「貰えるだけいいじゃない。ありがたいことよ、働かせてくれるって」
「いいように使われてるだけの気がするんだよなぁ」
ああ言えばこう言う――スティレオの強気な態度に、バールブは眉間を揉み解しながら溜め息を吐いた。
働くことができる環境を、当然と思ってもらっては困る。働きたくても働けない者がいるのだから。
「ハァ……ちょっと座んなさいそこに」
「遅刻するって」
「いいから!」
「……分かったよ」
怒気さえ孕んだバールブの声に、スティレオはしぶしぶ従った。
机を挟んで正面に座った息子へと、バールブは思いの丈を語る。
「いい? 働いて給金を貰えることを当たり前と思っちゃダメ。いつかその姿勢は貴方に不幸を招くわ」
「でも、働いてる分はしっかり欲しいってのは、当然だと思うけどな」
「確かに対価として労働力は払ってるわ。でもね、いつだって利益を貪るのは先駆者の特権よ。労働者は、そのおこぼれに預かってるだけに過ぎないわ」
「理不尽だろ、そんなの」
「そう! 世の中は理不尽なの。理不尽を中心に世界が回ってるわ。だから、立ち回りが大事。いつも言ってるでしょ」
バールブの瞳が息子の顔を映す。
スティレオの視線も母の顔を捉えた。窪んだ目元に、痩せこけた頬。病人然とした様子に目を背けたくなるが、彼女の黙した視線がそれを許さない。
バールブに求められている言葉を、スティレオは口にした。
「”誠実”に生きろ、だろ」
「その通り、仕事も一緒よ。”誠実”に働きなさい。たとえ、どんな理不尽を浴びせられようとも誠実に仕事をこなしなさい。そうすれば、貴方に対する周りの見方も変わってくるし、より良い環境が勝手に形成されていくわ」
「じゃあ、なんで今こんなに苦しいんだよ」
「それは――」
スティレオが指した苦しいというのは、金銭的状況だ。
バールブが床に伏せて働けない今、一家を支える働き手はスティレオしかいない。
いかに食費やその他雑費を抑えているといえど、今の給金額では現状維持が手一杯だった。バールブの病状が悪化してからは、薬代に回す余裕さえない。
誠実に、というのは母の格言であるが、その格言通りに生きているにもかかわらず、何故こうも生活が苦しいのか。
スティレオの訴えに、バールブは自嘲めいた笑いを浮かべた。
「それは、私が失敗したから」
「違う、母さんは――」
続く言葉に詰まるスティレオ。
物心ついたときには、父親なんていなかった。もともと身体の弱かったバールブが、更に身体を酷使して女手1つでここまで育て上げてくれたのだ。
その代償が、今のバールブの状況である。
母と子を捨てた父が悪いのであって、バールブは何1つ非がない。
だが、スティレオは時々考えるのだ。
もし、子供が生まれていなければ、母にはならなかったバールブは、もっと幸せな人生を送れたのではないか。
そんな考えを見抜いたのか、いつの間にか隣に座っていたバールブがスティレオの手を両手で包み込んだ。
「違うくないわ。でもね、レオ。貴方がいなかったら、私なんてとっくの昔に折れた――貴方がいたからここまで頑張ってこれたの」
愛称で息子の名を呼び、赤裸々に想いを紡ぐバールブの姿は、正真正銘母親そのものである。
気恥ずかしそうにするスティレオを他所に、バールブは言葉を続けた。
「だから、貴方には二の轍を踏んでほしくないの」
「……分かったよ」
「ホントに?」
「分かったって! でもな、母さん。次は手を洗ってから触ってな」
「え? ……あ、ごめん」
一度焼いているとはいえ、芋練りの表面には幾ばくかの油が付いている。バールブは、それを素手で触って食べていたのだ。
スティレオが落とした視線の先には、油がべっとりと付いた手の甲があった。
調理場へと移動し、水を溜めた桶にスティレオが手を突っ込んでいると、背後でバールブが咳き込む音が聞こえてきた。
止まることなく次第に酷くなっていく咳嗽に、スティレオが手を拭いて駆け付けるが、バールブは片手でそれを制した。
「――ゴホッ! ダメ……ホントに遅れちゃう。早く行って」
「でも!」
「母さんの夢はレオより先に死なないこと。だから大丈夫! さ、いってらっしゃい。今日も誠実に、よ」
「……いってきます。すぐ帰るから」
支度を終えたスティレオは、後ろ髪を引かれながらも扉を開けて職場へと向かった。
その姿を見送ったバールブは、扉が完全に閉まった途端に咳の我慢を止める。
再び繰り返す咳嗽。
幾ばくかして落ち着いたバールブは、口元を抑えていた手の平を見た。
「……そうね。手を洗わないとね」
べったりと、赤黒く染まった血液が手の平に付着していた。
弱々しく立ち上がったバールブは、調理場へと向かい、水の張った桶に手を入れた。




