第210話 都
「オリバー! おめえ、一体……」
「勝さんこそ、どうしたんですか?」
『天眼智』ですべてを察知していた。
わざとらしくて気が引けるが、ここはしらばっくれるしかない。
機材調達のために居残ったことを話し、沖に停泊中の清国の商船を指し示した。
「俺はあの船でサイゴンまで行き、そこで合流する手筈ですよ」
「そ、そうだったのかい……」
勝は天を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「……で、あの船はいつの出発だい?」
「明後日と聞いていますが」
「オリバー、危険なことは百も承知で、おいらと共に京へ行っちゃもらえねえかい?」
「京ですか?」
「事情は道々話す」
春嶽から身代わりの話を聞かされた時の、春の顔が浮かぶ……。
いつも希望に満ちた輝くようなオーラを放っていた。
最初に会った時から感じていた、あの人を強く引き付ける魅力。
その春が、十も歳を老いたかのように萎んでいた。
もし春に会う機会があったなら、なんと声をかけて良いか分からない。
医師になることを純粋に願う、まだ、十八歳の希望に満ちていた春の未来。
それが、政略結婚の贄となる。
そんな理不尽な未来が待っていようとは……。
「オリバー、おめえエリオットという英国人の医師を知ってるんだって?」
「エリオットさんですか? 英国王室侍従医師団の中にいた人でしょうか」
「ああ、恐らくそうだろうぜ。英国の王女殿下の手術に立ち会ったってんだから、違いねぇ」
「エリオットさんが……」
「京であんたを待ってるぜ」
手術自体はオリバーの技量であれば難しいものではなかった。
問題は術後の感染症だ。
ペニシリンは少量ならある。
有効ではあるが、せいぜい二日分といったところだ。
それには誰かが付きっきりで手当てを継続する必要がある。
医療用蜂蜜と銀イオンがその主役となる。
それでも、感染症が起こる可能性は否定できない。
結局、五分五分に過ぎないのだ。
オリバーの感覚強化による最大限の手術速度と正確性、そして状態の緻密な分析。
それらをもって初期の消毒を徹底し、『天眼智』でそれを確認する。
初期の感染菌を限りなくゼロに近づける。
これで成功率は大きく上がるはずだ。
ヨーダの見積もりでは、八十%まで跳ね上がる。それでも二十%は失敗の可能性が残るのだ。
医療用蜂蜜と銀イオンによる術後のケアが極めて重要になる。
だが、その責任を誰が担うのか。
もし感染症が起こったら……相手は相手である。和宮内親王。
彼女がどんな人物か。
また、その兄である孝明天皇の怒りはどこへ向かうのか。
オリバーはどうしてもビルマに向かわなければならない。
仮に朝廷が引き留めるのなら、強行突破も辞さない覚悟を決めていた。
エリオットにはそのことを伝えておくべきだろう。
どんな火の粉が彼に及ぶか分かったものではない。
「ちょっと、寄るところがあります」
「どこへ行くんだい?」
「純銀と硝酸、それに蜂蜜が必要なんです。場所は分かっていますので」
「勝さん、俺を信じて先に行ってもらえませんか? すぐに追いつきます」
京都御所の前で待ち合わせた。
勝を引き離したのには理由がある。
イギリス人のオリバーと一緒の旅は危険すぎるからだ。
かつて、春と旅を共にした。
案の定、天狗党の志士たちに襲われた。
その二の舞にならないためだ。
オリバー一人なら例え攘夷の志士二十人に囲まれても、突破は容易であったからだ。
そして、一人で走った方が早い。
消毒用の蜂蜜と純銀、硝酸を手に入れたオリバーは、結局、勝よりも先に到着していた。
御所でエリオットの居場所を確認すると、御所からほど近い宿で物々しい護衛と共に待機していた。
どうやら、京都見回組の武士たちに拉致同然に連れて来られたようであった。
「オリバー……」
緊張で蒼ざめたエリオットが顔を上げる。
本当にオリバーが現れるとは信じていなかったようだ。
彼はトーマス、アミラとともにビルマまでやって来たという。
二人がビルマに来たこと自体、初耳だった。
かねてから東洋医学に興味を持っていたエリオットは、香港、上海を巡って日本へ来ていた。
そして、まさかこのようなトラブルに巻き込まれるとは思いも寄らなかったようである。
そして、これほど京都が危険であることも……。
「診察の結果は?」
「命に別条はない。だが、残念ながら俺の技術では確実にケロイド状の痕が残る。これを消せと言われてもな……」
オリバーが幽体で診察した結果と一致していた。
「それで俺の名を……」
「すまん。だが、お前こそなぜやって来た。俺はお前の名前を出したが、お前が日本を離れたと聞けば、せめて探す時間は稼げると思った。……そのつもりだったんだ」
全く、エリオットの言う通りであった。
だが、元日本人のオリバーには、この幕末の日本を近代国家に生まれ変わらせようとする勝や坂本の情熱を見捨てられない。
まさに、のこのことここまで来てしまったのだ。
しかし、エリオットの認識は少し甘いようだ。
今の京の現状を理解していない。
エリオットを呼びつけた、孝明天皇自身が思想的には攘夷なのだ。
朝廷でイギリス人が拉致・拘束されたなどとイギリス公館に知られたがそれこそ、公武合体など朝露のごとく消え去るであろう。
和宮のことも重要ではあったが、エリオットをここから脱出させることはもっとであった。
「ともかく、一度見てみましょう」
「すぐに行くか?」
「いえ、ちょっとやることがあります」
蜂蜜と純銀、そして硝酸から硝酸銀を作る作業に取り掛かる。
準備は整った。
(江戸時代の御所、そして天皇陛下……そんな存在に俺が会うことになるとはな)
【よかったじゃないですか。なかなか経験できませんよ】
(ちぇっ! また他人事かよ)
だが、その前にエリオットに話しておかなければならない。
事後処理で最低二週間は誰かがケアを継続する必要があること。
そして、二割程度の失敗の可能性があることを。
さらに、この京都はイギリス人にとって死地に等しい。
御所を一歩出た途端に何が起こるか分からない。
できれば彼もオリバーと共に神戸からビルマへ向かうべきだった。
だが、術後のケアを任せられる医師はエリオット以外にいなかった。
御典医では、消毒の必要性と有効性を理解させるのに時間がかかる。
せめて、江戸の西洋医学所の誰かがいてくれたら……
悔やんでも遅い。
……となれば、術後のトラブルは避けられない。
二重三重に襲いかかるクエスト。
どうする……。
(それにしても、なぜこんなに忙しい)
梅の花が微かに風に香りる。
オリバーは、その先に広がる晴天の京の空を仰いだ。




