第207話 奇縁
ひとまず、魚雷の発射訓練を十日間みっちりと行った。
航海術、測量術、天文学の知識がある人材は希少であったが、ここでも龍馬の人脈は恐るべきと言うほかなかった。
外洋航海をなんとかこなせるだけの人材を、短期間でこれほど集めてしまったのは驚くべきことである。
それに加え、勝の師匠筋にあたる佐久間象山が、極めて好意的に門下生を融通してくれたことが大きかった。
中には蒸気機関の構造を驚くほど熟知した人材までおり、久坂配下の長州藩士も相当数が参加。一応は海戦の経験者が選抜されていた。
その他、廻船問屋や北前船の乗組員、中には漁民なども混じっている。
危険な仕事であることは皆承知の上で、破格の給金に釣られて来た者も多かった。
ミッションの本筋をすべて理解しているとは言い難かったが、オリバーの立てた作戦には皆が理解を示し、士気は極めて高い。
「イギリスの戦艦を海戦で打ち破る」
この無謀とも思える試みに異を唱える者がいないことは、オリバーにとっても意外であった。
この極めて危険な任務を、幕末の日本人は驚くほど自然に受け入れている。
それほどまでに、死と日常が隣り合わせであったのだろう。
国全体が、生き残りをかけた熱狂の中にあった。
十六隻の艦隊は、この時代においては最大規模と言っていい。
まずは神戸に寄港し、そこからマニラ、サイゴン、マラッカを経由して、目的地であるビルマ・ラングーン沖を目指す。
艦隊は順調に出航を果たした。
「海はええのう!」
「ほんまじゃな!」
坂本と久坂は、明るい太陽と広大な海原を前に、上機嫌で声を弾ませていた。
オリバーはそんな二人を横目に船倉の小部屋にこもり、『天眼智』で意識体を江戸へと向ける。
そこでは、勝海舟が江戸城へと登城していた。
「勝殿、しばしよろしいかな?」
勝に声をかけてきた人物がいた。
(誰だ……?)
【照合します。照合完了――福井藩主、松平春嶽と一致】
(この人が……)
南紀派の推す家茂の将軍就任により、一橋派であった春嶽は権力の中枢から外れていたが、その影響力はいまだに強い。
「ん? 何かございましたか?」
思い詰めたような春嶽の表情に、勝は顔をしかめる。
「ここでは、ちと……」
人目を憚る話のようだった。二人は城下にある勝の屋敷へと向かった。
「絶対に他へは漏らさぬように……」
深刻な面持ちで春嶽が話を切り出した。
「実は、我が妹の春のことでございます」
「ああ、春さんですね。ちょくちょくここへも顔を出してますよ。もっとも、おいらには春嶽殿の妹だなんてことは、おくびにも出しちゃいませんがね」
勝は苦笑する。
「やはり、春がどこにいるかご存じでしたか。実は懇意の商人から、勝殿の御用で物資調達の指揮を執っている娘が春にそっくりだと聞きましてな」
「新橋の長屋に住んでおられますぜ。女だてらに蘭方医になりたいとかで、西洋医学所の緒方先生のところで助手をするっていってましたが」
「お恥ずかしい話です。『自由に生きてよい』と私が許してしまったもので……。春が何か、ご迷惑をかけておりませんか?」
「とんでもねぇ。いい娘さんじゃないですか。……で、その春さんがどうかしたんでしょうか?」
春嶽の額には、早春の肌寒い時節にもかかわらず、うっすらと汗がにじんでいた。
「この話は、ぜひに内密にお願いいたします」
「分かりました。お約束いたしましょう」
「……先程、朝廷から使いが参りましてな」
春嶽は一度言葉を切った。
「朝廷から、ですか」
「はい。このことを知るのは、ごく限られた者のみであること、重々ご承知おきください」
勝は無言で頷く。
「春の父親は……先帝陛下(仁孝天皇)であらせられるのです」
「なっ……!」
さすがの勝も絶句した。そんな重大な秘密を、なぜ今になって自分に漏らすのか。
「驚かれるのはごもっともです。……今、京の朝廷で、あってはならぬ事態が起こっております」
将軍家茂への降嫁を目前に控えた和宮内親王に、不慮の事態が起こったという。
「それは……?」
「お労しいことに、和宮様は頬から胸にかけて、大火傷を負われました。誤魔化しようがないほどに……」
「そ、それは……。ですが、なぜその話を春殿と繋げておいらに?」
「申し上げた通り、春は先帝陛下の娘。……和宮親王殿下とは、双子の姉妹なのでございます」
「なんだって!」
「勝殿、ぜひご協力願いたい。これは……勅命も同然なのです。これで降嫁の話が立ち消えになれば、幕府も朝廷もどうなるか……貴殿とてお分かりのはず」
勝はがっくりと肩を落とした。
春はまだ十八の小娘に過ぎない。
希望に満ちた顔で医学所へ通う姿を知っているだけに、その運命の過酷さに哀れを感じずにはいられなかった。
(だが……)
勝は、家茂(源之助)と春が長屋で過ごしたあの日々を思い返していた。
これほどの奇縁、あるいは神の采配としか言いようのない運命が、他にあるだろうか。
「……承知いたしました」
勝は静かに、だが重い決断を下した。




