表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

206/254

第206話 大博打の序曲

徳川家茂。

徳川幕府第十四代将軍。

「はぁ……」

また一つ、大きなため息をつく。

江戸城内にある小さな小部屋。そこに座る将軍・家茂の正面には、紀州時代からの乳兄弟であり、現在は将軍小姓頭を務める那須小太郎が座っていた。

「小太郎よ」

「何でございましょう?」

「……ダメであろうな?」

「何が……でございますか、上様」

「もう一度、会って話がしたいのだ」


今度は小太郎が、これ見よがしに大きくため息をついた。

「なあ、菊千代。しばしの間であれば、影武者で何としても誤魔化してみせると言ったが……既に和宮様の降嫁が決まっておる。影武者ではもはや、どうにもならんわ」

攘夷か開国か。

二つの嵐の間で割れる国論。

孝明天皇の妹・和宮の降嫁は、公武合体によって国を再び一つにまとめるための、苦肉の妥協案であった。

「どうにもならんか……」

「わしは言うたはずじゃ。これが今生最後の自由な時間、悔いのないように過ごせとな。しかるになんじゃ、この体たらくは!」

「無理か?」

「無理じゃ! わしとて命懸けじゃ。二度とこんなことは御免こうむる。万一発覚したら、これもんじゃぞ」

小太郎は手刀で己の腹を切ってみせる。

家茂はいじいじと、手の中で何かを弄っていた。

「それより、なんじゃ。さっきから弄っておるものは。……かんざしか?」

家茂の手のひらには、木彫りの粗末なかんざしがあった。

「私の手作りのかんざしじゃ」

「また、器用なことを……」

小太郎は皮肉っぽい口調で突き放したが、それが春のために夜通し細工したものだということは察していた。

家茂は悲しげな顔で小太郎を見つめる。

「それほど大事なものであれば、なぜ渡してこなんだ。無理にでも……」

「渡そうとしたのだ。だが、急に私の顔を知っておる幕臣が現れた。逃げるしかなかったのだ」

「勝殿か……。」

春と二人、食事を摂っていた。

夕日が柔らかく差し込む座敷に、心地よく江戸の喧騒が響いていた。

そんな夢のような風景の中、不意に現れたのが、将軍御目見の幕臣、勝海舟であった。

勝は最初、驚いたように目を瞬かせていたが、やがてその顔は青黒く変わった。

それもそうだろう。

こともあろうに、親王降嫁を目前とした将軍が、町場の若い女と楽しげに夕餉を囲んでいたなど、あってはならない事態であった。

勝は何かを言いかけたが、それを飲み込み、慌てて顔を逸らした。

聡い男だ。

見なかったことにするつもりなのだろう。

その後のことは知らない。

家茂は逃げるように走り去ったからだ。

驚いたように「源さん!」と呼ぶ春の声が耳に残っている。

切なさで胸が締め付けられそうになった。

よりにもよって、あのような別れになろうとは。

悔やまれるのは、心を込めて作ったこのかんざしだ。

「せめて、これを春殿に渡すことができればなあ……」

情けなくも、家茂の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「菊千代……お主、泣いておるのか?」

小太郎は呆れたように再びため息をついた。

「分かった。そのかんざしを、春殿に渡せればよいのだな?」

「お主、届けてくれるのか?」

「いや、わしは行かんぞ。立場というものがある」

「では、どうするのだ?」

「勝殿にお頼みすればよかろう。一度、ここへ呼びつけるのがよろしかろう」

「大丈夫なのか?」

「もはや勝殿も共犯だ。言えば、嫌とは言えまいよ」


深夜の赤坂氷川下。勝の屋敷。

薄暗い部屋の中で、坂本龍馬とオリバー、そして春が、勝とひそひそと話し合っていた。

「いいかい。和宮様の降嫁で、幕府は攘夷を孝明天皇に約束するんだろう。だが、そいつは時間稼ぎのための方便だ」

「やはり、大政奉還ですか?」

「グズグズしちょる場合ではないぜよ、勝先生。幕府の攘夷が嘘やとバレれば、一気に火がつく」

龍馬が鋭い視線で言った。

「その通りだ。だがよ、オリバーさんの話だと、イギリスも一枚岩じゃねえ」

「はい。そこで、このビルマでの海戦です。一年以内にイギリスで新政府が発足するはずです。その結果、イギリスの対日方針も大きく変わります」

オリバーの言葉に、勝は頷く。

「わかった。オリバーさん、あんたはビルマからイギリスへ帰るのかい?」

「それはまだ分かりません。新政府が私の処遇をどう考えるか次第です」

「そうかい。行くところがないんだったら、日本に来たっていいんだぜ」

「……それもいいですね。ですが、まだイギリスでやることがあるんです。それが終わったら、考えてみますよ」

オリバーの脳裏に、ルナのことが浮かぶ。彼女は幼い頃、長崎で育った。

いつか必ず、日本へ連れてきてやりたいと思っていた。


その時、「お頼み申します」と、屋敷の表を訪ねる声がした。

「こんな夜更けに、どこのどいつだい。もう九つもとうに過ぎて、子の刻も回ってやがるってのに」

勝は顔をしかめる。

「それじゃあ、わしとオリバーは春さんを長屋へ送ってから、今晩の宿へ戻るきに……」

「ああ、そうしな。明日は早いんだ。大博打の始まりだ。頼んだぜ」

勝と三人の男女は不敵に笑い合い、別れた。


訪ねてきたのは、将軍小姓頭、那須小太郎であった。

(なるほど、口封じに来やがったか)

勝はそう直感した。

「那須殿、ご心配には及びませんよ。例の件は……」

「あ、いや。そのようなことではございません」

「……では?」

小太郎は、布に包まれた何かを差し出した。

「これは?」

「勝殿は、春というお女中とご懇意であると伺っておりますが」

「ええ。確かに、些かの縁がございますが」

「これは……『源之助』という男からの贈り物です。これをお渡しいただくことは叶いませんか?」

「春の助手をしておった、あの男からの……ということで、よろしいのですね?」

「そのように、お伝えいただければ幸いです」

「……承知いたしました」


勝が引き受けようとした矢先、小太郎が少し言いにくそうに言葉を継いだ。

「それと……まことに身勝手ながら、先刻お借りした手ぬぐいを、もしよろしければ、この品を包みました布と交換とさせていただけないか……と、源之助が申しておりましてな。如何でありましょうか?」

勝は、簪を包んでいる布に目を落とした。

それは一目見て、市井の浪人が持てるはずのない、極上の縮緬ちりめんか、さもなくば御用達の織物と知れる、豪華な袱紗ふくさであった。

長屋の娘が使い古した手ぬぐい一本との交換にしては、あまりに過分、あまりに不釣り合いな代物だ。

(……ほう。よっぽど、あのお転婆娘の手触りを手放したくねぇってわけかい)

勝は、布の重みから源之助の、春に対する「一端の男としての未練」を嗅ぎ取った。

「ご意向はお伝えいたしましょう。あいつも、あの手ぬぐいには『梅に鴬』をあつらえていたほどのお気に入りでしたからね。……ま、この立派な布を見せられちゃあ、悪いようにはしねぇでしょうよ」

「ありがとうございます。……で、実は……」

「はい、まだ何か?」

「実は上様が、勝様から一度『ご講義』を賜りたいと仰せなのです」

「……ほう」

「できれば……水野様や板倉様には、ご内密に」

水野和宣みずのかずのぶ板倉勝静いたくらかつきよ。幕府中枢を握る老中たちの名を出し、小太郎は念を押した。

勝は微かに首を傾げる。

将軍・家茂には実権などないに等しい。

だが、決して無能ではない。

その権力を行使する場を与えられていないだけなのだ。

危険は極大。

だが、これは賭けてみる価値が大いにある。


「……謹んでお受けいたします」

今度は、将軍の特使としての那須小太郎に対し、勝は静かに深く、頭を下げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ