第206話 大博打の序曲
徳川家茂。
徳川幕府第十四代将軍。
「はぁ……」
また一つ、大きなため息をつく。
江戸城内にある小さな小部屋。そこに座る将軍・家茂の正面には、紀州時代からの乳兄弟であり、現在は将軍小姓頭を務める那須小太郎が座っていた。
「小太郎よ」
「何でございましょう?」
「……ダメであろうな?」
「何が……でございますか、上様」
「もう一度、会って話がしたいのだ」
今度は小太郎が、これ見よがしに大きくため息をついた。
「なあ、菊千代。しばしの間であれば、影武者で何としても誤魔化してみせると言ったが……既に和宮様の降嫁が決まっておる。影武者ではもはや、どうにもならんわ」
攘夷か開国か。
二つの嵐の間で割れる国論。
孝明天皇の妹・和宮の降嫁は、公武合体によって国を再び一つにまとめるための、苦肉の妥協案であった。
「どうにもならんか……」
「わしは言うたはずじゃ。これが今生最後の自由な時間、悔いのないように過ごせとな。しかるになんじゃ、この体たらくは!」
「無理か?」
「無理じゃ! わしとて命懸けじゃ。二度とこんなことは御免こうむる。万一発覚したら、これもんじゃぞ」
小太郎は手刀で己の腹を切ってみせる。
家茂はいじいじと、手の中で何かを弄っていた。
「それより、なんじゃ。さっきから弄っておるものは。……かんざしか?」
家茂の手のひらには、木彫りの粗末なかんざしがあった。
「私の手作りのかんざしじゃ」
「また、器用なことを……」
小太郎は皮肉っぽい口調で突き放したが、それが春のために夜通し細工したものだということは察していた。
家茂は悲しげな顔で小太郎を見つめる。
「それほど大事なものであれば、なぜ渡してこなんだ。無理にでも……」
「渡そうとしたのだ。だが、急に私の顔を知っておる幕臣が現れた。逃げるしかなかったのだ」
「勝殿か……。」
春と二人、食事を摂っていた。
夕日が柔らかく差し込む座敷に、心地よく江戸の喧騒が響いていた。
そんな夢のような風景の中、不意に現れたのが、将軍御目見の幕臣、勝海舟であった。
勝は最初、驚いたように目を瞬かせていたが、やがてその顔は青黒く変わった。
それもそうだろう。
こともあろうに、親王降嫁を目前とした将軍が、町場の若い女と楽しげに夕餉を囲んでいたなど、あってはならない事態であった。
勝は何かを言いかけたが、それを飲み込み、慌てて顔を逸らした。
聡い男だ。
見なかったことにするつもりなのだろう。
その後のことは知らない。
家茂は逃げるように走り去ったからだ。
驚いたように「源さん!」と呼ぶ春の声が耳に残っている。
切なさで胸が締め付けられそうになった。
よりにもよって、あのような別れになろうとは。
悔やまれるのは、心を込めて作ったこのかんざしだ。
「せめて、これを春殿に渡すことができればなあ……」
情けなくも、家茂の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「菊千代……お主、泣いておるのか?」
小太郎は呆れたように再びため息をついた。
「分かった。そのかんざしを、春殿に渡せればよいのだな?」
「お主、届けてくれるのか?」
「いや、わしは行かんぞ。立場というものがある」
「では、どうするのだ?」
「勝殿にお頼みすればよかろう。一度、ここへ呼びつけるのがよろしかろう」
「大丈夫なのか?」
「もはや勝殿も共犯だ。言えば、嫌とは言えまいよ」
深夜の赤坂氷川下。勝の屋敷。
薄暗い部屋の中で、坂本龍馬とオリバー、そして春が、勝とひそひそと話し合っていた。
「いいかい。和宮様の降嫁で、幕府は攘夷を孝明天皇に約束するんだろう。だが、そいつは時間稼ぎのための方便だ」
「やはり、大政奉還ですか?」
「グズグズしちょる場合ではないぜよ、勝先生。幕府の攘夷が嘘やとバレれば、一気に火がつく」
龍馬が鋭い視線で言った。
「その通りだ。だがよ、オリバーさんの話だと、イギリスも一枚岩じゃねえ」
「はい。そこで、このビルマでの海戦です。一年以内にイギリスで新政府が発足するはずです。その結果、イギリスの対日方針も大きく変わります」
オリバーの言葉に、勝は頷く。
「わかった。オリバーさん、あんたはビルマからイギリスへ帰るのかい?」
「それはまだ分かりません。新政府が私の処遇をどう考えるか次第です」
「そうかい。行くところがないんだったら、日本に来たっていいんだぜ」
「……それもいいですね。ですが、まだイギリスでやることがあるんです。それが終わったら、考えてみますよ」
オリバーの脳裏に、ルナのことが浮かぶ。彼女は幼い頃、長崎で育った。
いつか必ず、日本へ連れてきてやりたいと思っていた。
その時、「お頼み申します」と、屋敷の表を訪ねる声がした。
「こんな夜更けに、どこのどいつだい。もう九つもとうに過ぎて、子の刻も回ってやがるってのに」
勝は顔をしかめる。
「それじゃあ、わしとオリバーは春さんを長屋へ送ってから、今晩の宿へ戻るきに……」
「ああ、そうしな。明日は早いんだ。大博打の始まりだ。頼んだぜ」
勝と三人の男女は不敵に笑い合い、別れた。
訪ねてきたのは、将軍小姓頭、那須小太郎であった。
(なるほど、口封じに来やがったか)
勝はそう直感した。
「那須殿、ご心配には及びませんよ。例の件は……」
「あ、いや。そのようなことではございません」
「……では?」
小太郎は、布に包まれた何かを差し出した。
「これは?」
「勝殿は、春というお女中とご懇意であると伺っておりますが」
「ええ。確かに、些かの縁がございますが」
「これは……『源之助』という男からの贈り物です。これをお渡しいただくことは叶いませんか?」
「春の助手をしておった、あの男からの……ということで、よろしいのですね?」
「そのように、お伝えいただければ幸いです」
「……承知いたしました」
勝が引き受けようとした矢先、小太郎が少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「それと……まことに身勝手ながら、先刻お借りした手ぬぐいを、もしよろしければ、この品を包みました布と交換とさせていただけないか……と、源之助が申しておりましてな。如何でありましょうか?」
勝は、簪を包んでいる布に目を落とした。
それは一目見て、市井の浪人が持てるはずのない、極上の縮緬か、さもなくば御用達の織物と知れる、豪華な袱紗であった。
長屋の娘が使い古した手ぬぐい一本との交換にしては、あまりに過分、あまりに不釣り合いな代物だ。
(……ほう。よっぽど、あのお転婆娘の手触りを手放したくねぇってわけかい)
勝は、布の重みから源之助の、春に対する「一端の男としての未練」を嗅ぎ取った。
「ご意向はお伝えいたしましょう。あいつも、あの手ぬぐいには『梅に鴬』をあつらえていたほどのお気に入りでしたからね。……ま、この立派な布を見せられちゃあ、悪いようにはしねぇでしょうよ」
「ありがとうございます。……で、実は……」
「はい、まだ何か?」
「実は上様が、勝様から一度『ご講義』を賜りたいと仰せなのです」
「……ほう」
「できれば……水野様や板倉様には、ご内密に」
水野和宣、板倉勝静。幕府中枢を握る老中たちの名を出し、小太郎は念を押した。
勝は微かに首を傾げる。
将軍・家茂には実権などないに等しい。
だが、決して無能ではない。
その権力を行使する場を与えられていないだけなのだ。
危険は極大。
だが、これは賭けてみる価値が大いにある。
「……謹んでお受けいたします」
今度は、将軍の特使としての那須小太郎に対し、勝は静かに深く、頭を下げた。




